お爺さんは山へ柴刈りに

東鳩会の開催概況

想い出ぎっしりの盃山・・・半世紀ぶり

2013年07月23日 17時05分23秒 | Weblog

 平成25年7月23日(火)晴れ。今日は一年中で最も気温の高い季節にあたる二十四節気の一つ大暑ですが、未だ梅雨が明けません。昨日は土用の丑の日でうなぎを食べ、滋養も十分と盃山へ出掛けました。

 先ずは愛宕神社の地蔵さまに安全をお願いします。小学生の頃、山形市街地は東の端が小白川街道のここの地蔵さま、南の端が産業通りの一貫清水、北の端が馬見ヶ崎に架かるドヤ橋(千歳橋)、西が鉄道線路でした。

 ‘アダマガツズゾウ’と呼んでいましたが、正式には‘頭加智地蔵尊’と言って知恵を授ける神様だったようです。肩に乗っかったり、顔に泥を投げつけたりしたことが、今その報いを受けてるような気がしてなりません。

 馬見ヶ崎川を渡り盃山の入り口にかかると「愛宕神社例大祭」の大きな幟が迎えてくれます。明日7月24日が例大祭なのだそうです。

 それでは参拝しましょうと石段を上りますが、石が不揃いのせいもあってか歩調が崩れ息が上がります。傍の道路では山形南高の陸上部の生徒が事もなげに坂道を駆けて行きます。

 本殿は建て替えられたようです。この杉は昔の私を見てたんでしょうね。「俺、立ちしょんしなかったでしょうね」と問うて見たくなります。

 中間地点に新興宗教の大きな建物ができて、昔の面影は少しもありません。盃山は小学校時代のスキー教室のゲレンデで、ここで集合、班ごとに点呼を受け注意事項を聞いた場所です。ここより上が上級者のゲレンデ、ここから下が中・初級者のゲレンデです。早くこの上から滑りたいと願ったものですが、今はゲレンデの面影はなく雑木林です。

 30分足らずして頂上の‘古峯神社’に到着です。小さかった木造の社は大きくなり鋼鉄製になっています。南を向いていた社も西向きに変っています。

 当時こんな立派な石鳥居や石燈篭はなく時の流れを凄く感じます。中学2年の時です。ここの社のすぐ裏手で木に登り栗を採っていたところ急に強風が吹き、木が折れんばかりに大きく揺れて慌てて木を降りた記憶が鮮明に蘇ります。1954年(昭和29年)9月26日の洞爺湖台風です。この時、青函連絡船の洞爺丸が台風にあおられて沈没し、1,139名の方が犠牲になられたのです。

 頂上からの眺望です。ここから我が母校山形東高を眺めます。トレーニングと称して13号沿いの西側の崖を上り頂上までのコースは結構距離があり、今更ながらびっくりします。古峯神社の神はここから山形市街地を眺め火伏の鎮護をしているようです。

 山を下ります。ここらあたりから、中級・初級コースです。それにソリ滑りがあり、それぞれが思い思いの手製のソリを作り、速さを競うとともにデザインを得意がったものです。ソリに敷いた‘タラバス’の感触を尻がまだ知っているようです。‘タラバス’とは藁で編んだ一俵米俵の上と下を覆う円い蓋です。

  川原がこんなにきれいに整備されています。当時は畑と雑草が同居していて、その畑に収穫後の残り芋を這いずりまわって探し、飯盒で茹て食べたあのジャガイモの旨さは忘れられません。ヘチマのように大きくなった胡瓜を食べたら、偉く怒られました。種胡瓜だったのです。ここから少し上流にゆくと山へ水が吸い込まれて行くような水路があります。今思うと五堰の一つ双月堰の取水口なのかもしれません。また、山形工業高土木科の生徒がよく川原で測量技術実習をやっていましたが、決まって測量器械(トランシット)を盃山に向けています。後で知ったことですが測量器械には望遠機能があり、山の上のアベックを見て楽しんでいたんだそうです。想い出は走馬灯のように次から次と現れますが、暑くなり喉も渇いてきたので帰路に着きます。


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