令和3年6月27日(日)晴れのち曇り。
昨日、ちぎり絵展の観賞を誘われて、白鷹町の‘あゆ~む’へ足を運びました。
作家は元制作デレクターから斬新なちぎり絵を作ったのようですが、詳細は定かでありません。
デジタルちぎり絵というらしいのですが、写真的で素朴さがなく馴染めません。観賞眼の乏しさです。序だからと長井のあやめ公園へ足を伸ばします。
空中に開いたビニール傘が、色とりどりの影を落として歓迎してくれます。昭和52年と平成8年の2年づつ2度お世話になった長井ですが、あやめがこれ程一斉に咲く風景は珍しいものです。
ここの一隅にあった座敷で花見、芋煮会を楽しんだ昔が、記憶の中からポロっと転げ落ちます。池田家の蕎麦が無性に恋しくなります。
池田家の暖簾を数十年ぶりに潜り、「ヨシオちゃ~ん」と呼ぶと「ハ~イ」と顔を出します。怪訝そうなご主人の理解を得るのにそう時間を要しません。「蕎麦頂戴!」というと「蕎麦止めたのよ~」「ウッソー?」「ホンテン(本当)だよ。蕎麦を止めてラーメンの池田家本店になったんだよ」
冷やしラーメンと紅天(べにてん)麦きりをお願いします。お勧めの紅天とは‘紅生姜’の天麩羅です。一口相伴しますがなかなかの乙な味です。
傍らのテーブルを一瞥すると、四角に折り畳まれた紙片が整然と並べられています。刮目するとそれは紛れもないミニコミ紙です。ヨシオちゃんのご子息が編集発行人で、来月一周年を迎えるようです。コロナの籠もり生活の中、地域の小さなことに眼を向けて活性化を図ろうとしている。できないことです。「来月の発行にお待ちしてます!」を背に受けて店を出ます。萎れた脳から想い出ポロポロと零れます。
令和3年6月22日(火)晴れのち曇り、俄か雨。
この年になると、無聊を感じたときは決まって懐古の念に駆られます。
60年前の新任地は村山市楯岡です。東沢公園のバラまつりへ足を運びます。綺麗に咲いたバラが迎えてくれますが、面影など何一つとして手繰ることができません。
遠くに眺めるがんがい溜池だけが、かすかな記憶を呼び起こします。昔日はここまで歩いたのかな~
初夏の風物詩「じゅんさい摘み」ですが、当時は話題にも上りません。明日はどんなことから元気を貰おうか?
令和3年6月21日(月)晴れ。夏至。
朝からの陽射しに今日の暑さを予感します。デジカメに電源が入りません。困ったときのトリセツとマニアルを読み、あっちこっちを撫でたり擦ったりしますがウンともツンと反応しません。
まるでデジタルに弱い身なれば、急ぎプロの診断を受けると「古いカメラで修理できません」と一蹴されます。
こうなると決断は早く、新品を求めます。どうですか?この写り具合。鮮明さに驚きます。
でも、アジサイってこの時季満開だったかな~季節が早く行き過ぎているようです。コロナが自然界も感染したのかな~♪忍び音漏らす夏は来ぬ~
令和3年6月17日(木)曇り。
朝日を浴びて、南瓜の蔓に南瓜の花が咲いている。何事の不思議なけれど、この非日常の時期日常が愛おしい。東鳩会月例会が休会して半年を過ぎようとしています。皆さん元気なのかな~
困ったとき、幼少の頃指笛を吹けば白馬に跨った鞍馬天狗が、大声で呼べばオートバイに乗った月光仮面現れ、近いところでは笛を吹けばマグマ大使がという正義の味方が現れて拍手を浴びたのです。こんな救世主がこの時期現れないのでしょうか?スガさんは笛吹けど踊らず、囃しても御輿に乗らずです。
令和3年6月3日(木)晴れのち曇り。
朝から夏を思わせる陽射しに、ワクチン接種の副反応を感じさせないことをいいことに上山の三吉山へ出かけます。
隘路をクネクネと少し上ると金生熊野神社に到着します。「こんな所に?」と驚きます。
目的はニッコウキスゲ(日光黄萱)の群落を見ることです。見所は今月一杯だそうです。
朝開いて夕方にはしぼむ一日花だそうです。別の名をゼンテイバナ(禅庭花)とも言うんだそうです。
篤志家が育成整備しているそうですが、お金を払ってこれ以上の苦しい思いは遠慮します。ワクチン接種の次の日にこの急峻な登りは酷なことです。
上山市内が一望できます。いつの間にかこんなに高いところまで、夢中で足を運んでいます。
金生熊野神社へ「健康長寿、コロナ収束」をねっづぐお願いして辞去します。「今夜の晩酌は五臓六腑に滲み渡る旨さだろうな~」