日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

為になるかも知れない本(その92)

2007-05-21 10:52:24 | Weblog
○専門4年、3月11日(木)曇。 
 加地先生(カゼ博士)のカゼの講義を聴いた。とても立派な先生だ。いつもニコニコされて、頭が実に低い。「為になるかも知れない本」を(二学年下の)太田君(外科医、現在、大学教授)が読んで、「田原さんに会いたかった」と言ってくれた。生物の岡本先生も、面白い本だと母に言ってくれたとのこと。嬉しい。(お世話になった人、20名余に、差し上げた。手書きしたのを、生協で、コピ一して)
○専門4年、3月18日(木)曇。
 卒業式があった。学長が、「ゆとりが大切、自分を見失わないこと、広い視野に立つこと」などを力説していた。医学部の総代は、○岡(同じアパ一トに住んでいて、隣の部屋にいた)で、次が、2点差で、いつも親しくしていた○だったとのこと。
 
 ○岡○(現役、大分県立舞鶴高校出身)
 彼は、スゴイ秀才であり、努力家でもあった。自分と同じ佐伯の出身で、中学の時は、断トツ県南で一番で、高校に行っても、英数国の三科目で、二番との差が30点近くあったとのこと。専門書は、全て英語でそれもぶ厚い本で(彼に言わせると、日本語の本は嘘を書いている気がして、読む気がしないとのこと)、明日試験と言う時でも、ぶ厚い英語の本を読んでいて、その本では、1ペ一ジ1ペ一ジが丹念に線が彼により最後まで引かれ、それをノ一トにきれいに英語で整理してまとめられていた。専門4年になって、自分の隣に引っ越して来た。私が朝3時過ぎに起きて勉強を始めようとする時、彼はそれまで勉強していることがよくあった。ポリクリでは、教授が考えられる疾患を言ってみたまえと言おうものなら、教授の知らない病名がいつも2~3あった。国試後、皆で答え合わせをしてた時、国試の問題で、適切な解答がない感じの問題があった。○岡に、皆は、聞いた、「○岡、どれにマルした?」で、彼は、言った、「選択枝に正解なかったので、その問題には、どれにもマルしなかった」と。これには、皆、脱帽。
 (彼は、その後、就職先も、私の勤務していた救急病院に就職し、今は、そこの副院長をしている。今でも、彼は、その地方の病院に就職してから、そこで英語の論文を50以上書き、その9割が外国雑誌に採用され、又、洋書の心電図の教科書の引用に、彼の名前がしばしば見出される。私の父の主治医でもあったし、今は、私の母の主治医でもある。)

 ○○佐男(現役、鹿児島県立鶴丸高校出身)
 彼ほどユニ一クな人間を今だかって私は知らない。高校の時は、「暗記の○」とまで言われていた程、その暗記力は有名で、英語の辞書の単語を全て覚えていたとのことで、私の家内も、高校の時に、そんな人が卒業生の中にいたことを知っていた。教養部の時には、親からの仕送りはなく、奨学金と家庭教師で生活し、反対に、お年玉を親にあげていた。生理学実習の時に、彼の脳波を調べた時に、きれいな徐波が出て、皆が納得。暗記のスゴサは、自他共に認めるところで、専門4年の初めに受けたECFMGの試験では、全国2番で、国試も9割以上取っていた(国試が終わって、自己採点の結果を、科別にハガキで私の所まで、わざわざ知らせてきた)。産婦人科の問題を上の学年と一緒にした時に、上の学年の1番よりも出来ていて、産婦人科の教授が絶賛した程。病気に付いて教官が質問すると、その病気の歴史(初めに報告したのは誰かとか)から話し出し、臨床講義の時、多くの人はビックリを通り過ぎて、「又、始まったか」とその超人的な暗記に、ため息をついていた。入学した時、「金儲けの為に医学部に入った」と言って皆から笑われたが、6カ年後、価値観は一変し、一時、医療制度を変えると言って、金とは無縁の厚生省の役人になったが、今は、産婦人科医となって、関東の方で活躍している。


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 定年後の過ごし方 | トップ | 為になるかも知れない本(そ... »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事