江戸時代、蓼科山麓にある田畑は水不足で度々飢饉におそわれていました。
名主の“坂本養川”は蓼科山から流れ出る何本かの川を横断してつなげる堰を作ることで水量の多い川から取水し、水不足の地域に水を流す計画を作成し高島藩に献策しました。
*☆*・*★*・*☆*・*★*・*☆*・*★*・*☆*・*★*・*☆*・*★*・*☆*
これによって、滝の湯川から「芝湛(しばたたえ)」と呼ばれる木と石で築いた堤防で川を堰き止め取水し、開削によって作った延長10.4kmの「滝之湯堰」が1785年に完工、また、延長12.5kmの「大河原堰」も1792年完工し、現在もそのまま使用されています。
これらは「世界かんがい遺産」に登録されています。
取水した川の冷水を温めてから農業用水として流すために、周囲1㎞、面積0.08㎢の「温水溜池」とよばれる「蓼科湖」が標高1250m地点に造られました(1952年)。
横谷渓谷は深い谷です。ここを横断する「大河原堰」は人工の滝を作って水を一旦渓谷に落としました。これが「乙女滝」です。
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「横谷温泉旅館」の手前の崖寄りの空きスペースに路駐して、すぐ近くの階段を下りること50mぐらいで滝のサイトに立つことが出来ました。
落差16mとはいえ、てっぺんから滑るように谷底深く落ち込む様は迫力満点です。
落ち込む滝口まで登ってみましたが、流れ落ちる水流と一緒に谷底に吸い込まれそうで足がすくみました。
無事生還できてよかった・・・
名主の“坂本養川”は蓼科山から流れ出る何本かの川を横断してつなげる堰を作ることで水量の多い川から取水し、水不足の地域に水を流す計画を作成し高島藩に献策しました。
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これによって、滝の湯川から「芝湛(しばたたえ)」と呼ばれる木と石で築いた堤防で川を堰き止め取水し、開削によって作った延長10.4kmの「滝之湯堰」が1785年に完工、また、延長12.5kmの「大河原堰」も1792年完工し、現在もそのまま使用されています。
これらは「世界かんがい遺産」に登録されています。
取水した川の冷水を温めてから農業用水として流すために、周囲1㎞、面積0.08㎢の「温水溜池」とよばれる「蓼科湖」が標高1250m地点に造られました(1952年)。
横谷渓谷は深い谷です。ここを横断する「大河原堰」は人工の滝を作って水を一旦渓谷に落としました。これが「乙女滝」です。
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「横谷温泉旅館」の手前の崖寄りの空きスペースに路駐して、すぐ近くの階段を下りること50mぐらいで滝のサイトに立つことが出来ました。
落差16mとはいえ、てっぺんから滑るように谷底深く落ち込む様は迫力満点です。
落ち込む滝口まで登ってみましたが、流れ落ちる水流と一緒に谷底に吸い込まれそうで足がすくみました。
無事生還できてよかった・・・