【気まま連載】帰ってきたミーハー婆⑥
農園クラブと義母の教え
岩崎邦子
我が家から散歩で歩く範囲にも貸農園が見られ、割と細かく仕切った中で、野菜作りを楽しんでいる様子を見ることが出来る。
もう35年以上も前のことだが、市川市に住んでいた頃に、私も家の近くの貸菜園を経験しているので、興味深く見入ってしまう。手入れも行き届き、見事な作物を作っている所もあるが、草が生えていて、しばらく畑には来ていないらしい所もある。
市川市での私の菜園経験は落第生であった。というか、あまりにも野菜作りに対する知識がなかった。トウモロコシや豆類はカラスに突つかれてしまい、畑の土を柔らかく耕したところは、野良猫の遊び場になる始末である。
大根や葉物野菜は、種を蒔いて芽が出てきて喜んでも、その後の生育が全く芳しくなかった。それは肥料が足りないとかの問題ではなく、「作物を作るには、第一に土を深いところまで、耕すことが大事だ」ということを、肥料売り場のおじさんに言われた。
力のない私には難題であり、まわりの菜園の見事な出来栄えに、心が折れた。同じく菜園仲間の男性は、夏になると毎朝、家からたっぷりの水をポリタンクで運び出している。このことにも、私一人では太刀打ちが出来ないことを思い知らされた。
白井のこの地に来て、約30年にもなる。白井の新参者だった頃、郵便局の2階で体操教室が開かれていた。そこで知り合ったYさんと友達に。貸農園を楽しんでいる彼女は私より7、8歳は若かったと思うが、なぜか気が合ったというか、いろいろと親切にしてもらった。
お米や果物などを作っている農家と親しくされており、我が家の分のお米も、「ついでだから」と、注文してくれたものである。果物(イチゴ・梨・プラム・メロン・葡萄など)作りの農家にも一緒に行ったりもあった。
彼女の農園はご夫婦で楽しまれていたので、そこで出来た野菜を分けて下さったり。ある時、こんなことを聞かれた。
「ほんとに、うちの野菜が要る?」
なぜ、そんなことを言われるのか不思議に思ったので、理由を聞くと、「泥の付いた野菜、持ってこないで!」とか、「虫もついてるし」と、誰かから言われたことがあったんだって。
確かに、スーパーの野菜売り場で買えば、どの野菜も奇麗に洗われている。曲がって形が悪いものもなく、ピカピカのものが、手に入るだろう。でも、人の好意と親切に対して、このような言い方しか出来ない人がいることに、呆れたり驚いたり。
農薬を嫌っていたことからも分かるように、Yさんは健康に留意をしている人だった。しかし、癌の多い家系だったようで、彼女もその呪い?から逃れるは出来なかったようである。もう20年も前の出来事だ。
白井健康元気村には、「農業クラブ」がある。さっそく私もそのメンバーになった。と言っても、当初は、私自身が農作業をすることはなく、ただただ収穫祭のときに参加していただけ。
農業クラブの責任者である「サブちゃん」こと、柳橋三郎さんは、農作物に詳しい人で、熱心に手入れをされる日々だ。草むしりにいそしむK子さんもいる。
いつの間にか、私も作物の植え付けや、蔓もの野菜などの支え棒をすることに参加することが出来るようになった。それらの収穫には、メンバーへの呼びかけがある。泥まみれになり、大汗をかいても、仲間とのおしゃべりをしながらの、その作業は楽しい。
最近では玉ねぎやジャガイモが大量に採れた。会員へ分配されるその数や量もびっくりするほど多い。我が家は2人しかいないので、収穫物の半分ほどを、必ず隣の息子家族に持ってゆく。嫁は喜んでくれる。もちろん、「泥が嫌だ!とか、虫が云々などは言わない。
ジャガイモと一緒に人参とその葉っぱも収穫したときも、嫁にはどう料理するのか説明する必要はなかった。みんな知っていたからである。
若い人に限らず、核家族で暮らしていると、大量に収穫された野菜たちが重宝されるとは限らない。ともすると、邪魔者扱いをされることもあるのだ。
その昔、義母は釜についた米粒を、一粒一粒丁寧に拾い上げていた。どんな作物も、つくるのは大変である。苦労を知れば、自ずと粗末な扱いや、言動は許されない。そんな無言の教えだったのかも。
【岩崎邦子さんのプロフィール】
昭和15(1940)年6月29日、岐阜県大垣市生まれ。県立大垣南高校卒業後、名古屋市でОL生活。2年後、叔父の会社に就職するため上京する。23歳のときに今のご主人と結婚し、1男1女をもうけた。有吉佐和子、田辺聖子、佐藤愛子など女流作家のファン。現在、白井市南山で夫と2人暮らし。白井健康元気村では、パークゴルフの企画・運営を担当。令和元(2018)年春から本ブログにエッセイ「岩崎邦子の『日々悠々』」を毎週水曜日に連載。大好評のうち100回目で終了した。