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なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

劇場版神聖かまってちゃん

2012-01-09 | 授業
『SRサイタマノラッパー』シリーズの入江悠監督が神聖かまってちゃんのドキュメンタリー映画を撮るって聴いたときはちょっと期待してたんですが…



以前『SRサイタマノラッパー』を借りてきて途中で投げ出してしまったので、どうなのかなぁと思っていましたが、結論から言うと入江監督の映画はやっぱり合わないです。


話の骨子は保育園児、その母親、女子高生棋士、神聖かまってちゃんのマネージャーという4人の群像劇。その4人のそれぞれの状況が神聖かまってちゃんのライブの日に収束して行くという形式を取っています。見ている途中に思ったのですが、これって大昔にあったオムニバス映画『バカヤロー』シリーズを一本の映画にまとめたの?という感想。

群像劇の主人公たち4人はそれぞれにストレスにさいなまれている。(それは保育園児も含めて!)保育園児は保育園にノートパソコンを持って行き、ニコニコ動画でかまってちゃんの曲を他の園児に聞かせ保育園から怒られていた。その母親はシングルマザーで昼と夜の仕事を掛け持ちし疲弊し、息子のことで保育園から呼び出しを食らったりしていらだっている。

女子高生棋士はアマチュア将棋大会の準決勝にまで勝ち残っているが、彼氏は彼女が棋士であることを恥ずかしいという。棋士になるために大学には行かないというが、両親は大学に行かねば人にあらずといったような態度。そして彼女の兄は引きこもっている。かまってちゃんのマネージャーは上司たちからかまっちゃんをよりメジャー受けするようにしろと命じられる。


まぁ要はありがちなストレスというか、不幸描写のオンパレード。あんまりありがちなんでイラっとします。特に保育園の保護者の描写とか既視感が目いっぱいです。酷い。女子高生の話にしても酷いステレオタイプ。保育園児に至ってはは保育園にPCを持って行く方が悪いのでは?と思い感情移入できないです。唯一救われるのは女子高生役がひねた役をやらせたら最高の二階堂ふみなところ。「うっせー、ババア!!!」は地なのではと思わずにはいられないほどナチュラル!

前提もありがちなら、結末もありがち。保育園児がかまっちゃちゃんのライブを自宅のipadで他の園児たちと楽しんでいる間に、何故か保育園の園長たちもかまってちゃんのライブ配信を見て感銘を受ける。やさぐれていた母親は控え室にいた若い子のiphoneで偶然に目にしたかまってちゃんのライブで奮起する。女子高生棋士は特に関係無く頑張り、アマチュア大会を優勝。マネージャーは現在のままのかまってちゃんで居て欲しいと上司に告げる。これらが「ロックンロールは鳴り止まない」に乗せて展開される。

かまってちゃん、特にの子っていう圧倒的な現実がそこにあるのにこの能天気なフィクションが屹立すると途端に馬鹿馬鹿しく写ってしまいます。あれだけ逃れがたい、苦しい人生を歌っているのに、それを聞いた人たちの人生はライブで光指す方へと導かれます。保育園児は周囲の理解を、母親は確固たる決意を(その日のショーを頑張る?)、女子高生棋士は棋士としての未来を、そしてマネージャーは今のかまってちゃんへの肯定を。それを安っぽい、そしておそらく本当に安いCGで演出されます。辟易します。


そもそも何で神聖かまってちゃんの映画を作るのに、彼ら自身ではなく、彼らの音楽を聴く人たちの群像劇にしたのか。到底良いとは思えないこのアイデアはおそらくはの子が原因ではないかと思われます。メディアで垣間見るの子であれば、こんな映画は拒否するはずです。いみじくも劇中でマネージャーが拒否していたようなメジャー戦略の一環がこの映画だった思えてしまうのは酷い皮肉です。その妥協点として、の子がクローズアップされる必要の無いファンの群像劇という中途半端なものになったのだろうというぼくの推測はあながち間違っていないと思います。



劇中、女子高生棋士がひきこもりの兄にかまってちゃんのファーストを渡すシーンがあるけれど、死人に鞭打つような行為だと個人的には思うです。ただそのCDが彼氏から借りたCDをコピーしてCDRに焼いたものだったり、ひきこもりの兄を悪じゃなくて被害者であり、彼女の家族内での唯一の理解者として描いていたのには好感が持てました。


ただ色々残念映画だなぁととは思います。

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