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なにも ほしがならなぁい なにも きたいしなぁい

02007年005月003日(木)明け方の読書感想文

2007-05-03 | 休み
真夜中に書いたラブレターは翌朝見直せ。
真夜中に書いた日記は二度と読むな、と云うのが
世間一般の相場であり、僕自身も大抵の場合同意するのですが
真夜中の読書感想文もまた同様の効果を
人にもたらすものであると思います。

平たく言えば、キッショイです。

が、それはそれ。これはこれ。と
熱血漫画家の島本先生も仰っていますことですので
暇に任せて、自分への恥辱の限りを尽くしてみたいと
眠い目をこすり、こすりキーボードを走らせる次第です。









スキマスイッチの楽曲に「藍」というものがあります。
その楽曲の冒頭に
「愛 それは誰が創造したもんなんでしょうか 難解なんだね」
という一節がありますが
この小説も正に愛の多面性を垣間見せてくれるように思います。
そして難解だなぁと思わずにはいられません。


『塩狩峠』の中では様々な形の愛が描かれていますが
神のそれについては、僕の興味の外なので
それ以外の、一番心惹かれた愛の在りようについて
興味深く読みました。

主人公の信夫のふじ子への感情
それはキリスト教的な極めて博愛的な
同情に帰するものだったのか
彼女が足に障害を持っていたからなのか
それとも美しい彼女への情愛だったのか。
いや、信夫が自身で吐露した言葉を
信じるならば
信夫のふじ子への愛情というものの源は
彼女の心なのですね。
そんなこと思えたら、どれだけ幸せだろう。

この中で描かれた信夫のふじ子に対する感情の振れ幅は
自分自身の経験則からひどく納得させられるものがありました。
好意とそれ以上の感情。劣情や同情といった種々の感情の中で
その自分の感情が一体何であるか
ふじ子へのその感情は本当であろうか
そういった部分への信夫の戸惑い
そして疑念はひどく共感させられました。
結局、信夫はある結論を向かい入れるわけですが。


個人的なことですが、僕は恋愛において
それ以上考えないようにしてきました。
つまりは、突き詰めてこなかった。
好きという感情だけでやり過ごしてきました。
突き詰めてしまうと、信夫が抱いたような
相手への感情に対する疑念が沸いてくるから。
何だかそれを見透かされたような、言い当てられたような
言葉にしがたい気分にさいなまれます。


でも信夫のそんな愛も結局は能わない。
少なくとも信夫とふじ子の関係性に絞った場合。
信夫は人への愛を実践するために自らが犠牲となって
ブレーキの故障した列車の速度を緩め
その本懐を達してしまうから。
確かに、それは愛のひとつの形、人類愛というか
極めて宗教的な形の愛ではあるけれど
でも、お前にはふじ子さんが居るじゃないかと
お前さんの体じゃなくて
荷物とか投げ込めば良かったじゃないかと
ちょっと大声で怒鳴りつけてしまいたくなるくらいに
思うのです。


作家に限らず、クリエーターが作品を悲劇に向かわせるのは
一体何故なのでしょうか。
確かに、明確なメッセージなどを込めようと
思う場合、それは幸福な結末よりも
遥かに効用があるかもしれません。
それはそれこそキリストの受難然り。

十字架にかけられたキリストが
神為る者の何らかの力によって救われた
ではあまりにも深みがありません。
十字架の上で死んでこそ
キリストはキリストになれたのです。

やはり知恵を付けた大人を転ばすためには
苦味とコクが必要なのは
大人がしたり顔でコーヒーをさも
美味そうに飲んでいる姿を見れば明白です。
コーヒーが何かの甘いジュースであれば
今のように多くの大人に飲まれなかったはずです。
缶コーヒーが卑下されるのも同じ理由に決まっています。



(全くの余談ですが、私はコーヒーを飲むと
体からコーヒー臭がしてしまうので飲みません。
牛丼も同じ理由であまり食しません。
牛丼を食すと牛丼臭い体になります。)


しかしながら、それを物語に没入しすぎる私のような
粗忽ものにとっては酷く残酷な結末でしかないと思うのです。
昨今のみうら先生曰く、涙強盗のような商業作品と同じく
泣かすためのように思われて仕方が無いのです。
苦労してきた2人がいて、その苦労がようやく報われようかという
刹那にそれが不意に裏切られれば
そりゃ、悲しくなりますよっ。誰だって。
信夫をふじ子の幸せな将来が見たいでよ。
折角ふじ子の病気も良くなったのにっ。
何で列車を事故らせるのですか、三浦先生っ。
もう2人が幸せに暮らす同人誌でも書かなきゃいけないのですか。
というか、この小説の場合、信夫が信仰に目覚める
過程だけで十分です。解ります。お察し申し上げられますっ。


僕が思うのはハッピーかそうでないかの
二元論しかないのかと。
子供の頃に「YesかNoか、半分か?」とか云う
ファジーな選択を迫られたことは無いのかと。
別に悲しくなくても良いじゃないか、そして
殊更に幸福じゃ無くてもいいじゃないか。
そういう作品が見たいのですよ。
中間でも何か伝えることは出来るんじゃないですか。
いや、「inspired by real story」だけども。


信夫もそうだけれど、ふじ子さんが不憫でならないのですよ。
僕みたいな”セカイ系”な世界に生きる人間にとっては
万に一つの、列車事故の中でも奇跡的に助かるみたいな
そんなハリウッドな結末はいらないけれども
何かしら彼女が報われるプロットが見たかったでう。


3年ぶりに読んだ『塩狩峠』はやっぱり悲しいです。
信夫のふじ子をいとおしく思う描写は何なのでしょうか。
胸が締め付けられる思いがします。

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4 コメント

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Unknown (持ち主)
2007-05-04 02:23:38
物語が人工的であると云うことですね。

内集性とか凝集性を説明するには少し言葉が足らないと思いますが、ニュアンスは理解できなくもありません。

あと「物語の行方」は関係ないです。
だから無理にそこに結びつける必要はありません。
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Unknown (fumito)
2007-05-03 20:30:15
過剰に悲劇的であったり、幸福的であったりするのに対して考えるなら、ごく日常的で「自然的」なものかなぁと。
 うーん、ただ単に結末が「悲しい」と分かっている物語を集団が共有すれば、外的な経済活動は活発にはならないかなぁと。ちょい前までは日本人が「悲しい」物語を殊に好んだのは、「内部」に向かう精神性を説明するものでもあるのかなぁと。

 まだ読んでないから、「物語の行方」的な発想かどうかは分からないけど、集団において何が楽しいかとか悲しいかとかそういうものを知りたいし決めたいからこそ、物語が存在するのじゃないかな。言葉と物語自体が、世界を演繹していく為の知の発明なんじゃないかと。
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何回繰り返せば気が済む (持ち主)
2007-05-03 18:28:18
何で悲劇がセーフガードなのか。
よく分かりません。

あと場合、ルソーのそれは文脈にあいません。
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Unknown (fumito)
2007-05-03 14:02:14
弟が明学に通ってんだけど、確か一年の時の夏休みの課題で、『塩狩峠』の読書感想文を書いたと言ってました。あそこの大学は確かプロテスタントだったような…。
 確かに悲劇にこそ人類愛というか宗教的なメッセージを盛り込みやすいというのはあるね。
 一概には言えないけど、『プロテスタンティズムと資本主義の精神』じゃないけど、社会的生産と表裏一体の関係であるとも言える「悲劇」は、やっぱり経済的なものへの“セーフガード”みたいな機能を果たすんじゃないかな。経済は個々人の感情みたいなものを全く反映しない訳でもないけど、少なくとも「待って」はくれないよね。
 
 現代の先進国は物質的には豊かであって、全くオリジナルなものがなくなっていって、新しく「売る」ものがなくなったから、「心の商品化」っていうのが顕著な流行だそうな。心がメッセージになって、それが消費されていくみたい。
 「相対的剥奪感」というのが現代の消費を表象する言葉で、自分の欲するものを喪失しがちで、他人の欲するものを欲するようになるみたい。これも一種の形を変えた、キリスト教的な価値観の賜物の気がするけど…。
 確かに悲しくなくても殊更に幸福じゃない、「普通」の作品がみたいと思う。
ルソーじゃないけど、「自然に帰れ」って感じなのかな…。と勝手に解釈する午後。

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