高橋徹というレーサーがいたことをどれだけの人間が知っているだろう。覚えているだろう。1983年(昭和58年)、キラ星のごとくその当時の国内最高峰のフォーミュラーレースF2にデビューし、その年の開幕戦でマーチ832・BMWを駆り、並みいる強豪・ベテランを押しのけ、予選4位、決勝2位とすばらしい成績を残した。そのレースの1位は、今夜これから決勝が行われるF1イギリスグランプリで予選5位を獲得した中嶋一貴の父親、中嶋悟であった。以降彼は更に速さを身に付け、それまで星野一義、中嶋悟、松本恵二らが牛耳切っていた日本のレース界をいい意味で変えてくれるはずだった。中嶋悟が近いうちに日本初のF1パーマネントドライバーになると言ううわさがまことしやかに流れていたが、中嶋より先にF1に行くのは彼だろうとオイラ自身は確信していたんだ。それだけ速かった。まだシケインのなかった鈴鹿サーキットの最終コーナーを立ち上がってくるのは彼が一番鋭く速かった。
でもオイラの確信は、絶望に変わったんだ。その年の10月23日。彼は富士スピードウェイで行われた別のカテゴリーのレースで富士の最終コーナーにスピンしながら後向きで現れ、車は宙を舞い観客席にまで飛び込み、観客の女性を巻き込み大破して止まったんだ。彼のレーサーとして、人間としての時間はそこで止まった。オイラより3個上の23歳だった。オイラんちの近所の彼のアパートにはその夜、たくさんのファンからの献花が捧げられ、家主のいないアパートの周りでは、嗚咽がいつまでも続いていた。
乗せてやりたかったなーF1。盛りを過ぎた一貴の親父を乗せるよりも(失礼かもしれないがあくまでオイラの感覚として)、徹クンをホンダの完全バックアップのマシンに乗せてやりたかった。必ず、日本のレース界全体の更なる活性化につながったろう。鈴鹿に初めてF1が来た年、スターティンググリッドに彼がいないことが無性に寂しかったのを今でも覚えている。仮に彼がF1に行けてたとしてもいい成績を残せてたかどうかは、今となってはなんともいえないが・・・・ただ、将来性のある有望なレーサーをいとも簡単に失ってしまった悲しさ・寂しさは1ファンとしてこらえきれないものがあったんだな。中嶋悟がスピンオフしてリタイヤなんかすると、徹クンならあそこであんなコーナリング、あんなブレーキングせーへんでーっとついつい愚痴が出てしまったんだわ。
広島出身で、シルバーのマツダファミリアに乗って、鈴鹿の街をビュンビュン走っていた彼、今頃、どこでどんな車に乗ってどんな走りをしているだろうか?墓参りに行くねっと約束してはや26年。一度、会いに行ってこようかな。君の生きた倍もオイラは生きてしまったよってね。
押入れから出てきた追悼アルバムをみつつ、少々センチメンタルになってしまった日曜日の夕刻でありました。
でもオイラの確信は、絶望に変わったんだ。その年の10月23日。彼は富士スピードウェイで行われた別のカテゴリーのレースで富士の最終コーナーにスピンしながら後向きで現れ、車は宙を舞い観客席にまで飛び込み、観客の女性を巻き込み大破して止まったんだ。彼のレーサーとして、人間としての時間はそこで止まった。オイラより3個上の23歳だった。オイラんちの近所の彼のアパートにはその夜、たくさんのファンからの献花が捧げられ、家主のいないアパートの周りでは、嗚咽がいつまでも続いていた。
乗せてやりたかったなーF1。盛りを過ぎた一貴の親父を乗せるよりも(失礼かもしれないがあくまでオイラの感覚として)、徹クンをホンダの完全バックアップのマシンに乗せてやりたかった。必ず、日本のレース界全体の更なる活性化につながったろう。鈴鹿に初めてF1が来た年、スターティンググリッドに彼がいないことが無性に寂しかったのを今でも覚えている。仮に彼がF1に行けてたとしてもいい成績を残せてたかどうかは、今となってはなんともいえないが・・・・ただ、将来性のある有望なレーサーをいとも簡単に失ってしまった悲しさ・寂しさは1ファンとしてこらえきれないものがあったんだな。中嶋悟がスピンオフしてリタイヤなんかすると、徹クンならあそこであんなコーナリング、あんなブレーキングせーへんでーっとついつい愚痴が出てしまったんだわ。
広島出身で、シルバーのマツダファミリアに乗って、鈴鹿の街をビュンビュン走っていた彼、今頃、どこでどんな車に乗ってどんな走りをしているだろうか?墓参りに行くねっと約束してはや26年。一度、会いに行ってこようかな。君の生きた倍もオイラは生きてしまったよってね。
押入れから出てきた追悼アルバムをみつつ、少々センチメンタルになってしまった日曜日の夕刻でありました。