白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

ステレオタイプに抗する天王星のアリゲーター

2019年09月04日 | 日記・エッセイ・コラム
自転軸が赤道面に対して九十八度傾いていることで有名な天王星。種々の事情が絡まりあってそうなっているのだろう。天王星の特殊事情はこれといって別に何ら特殊事情でない。太陽を中心とする太陽系の他の惑星の中で、天王星の自転軸が赤道面に対して九十八度傾いていることがなぜか途轍もない倒錯に見える、太陽系の中で天王星の動きだけが異質な狂気に見えるというのは、それこそまさしく地球〔ロゴス〕中心主義、太陽系〔ロゴス〕中心主義という人類の思い上がりの産物に過ぎない。むしろ他の惑星あるいは衛星が数の上でたまたま多いのでそう見えると手前勝手に捏造されたただ単なる恣意的因果性でしかないかもしれない。しかし人間はそうかもしれないとは考えない。人間は計測の結果だけを手にとって、ただ単に数が多い側をいともたやすく「正常」と見なしてかえりみないほど怠惰で軽率で安直である。要するに自然の失敗作《としての》人間が逆に自然を支配している。この見間違いようのない倒錯について人間はあえて沈黙し自分たちの失敗ならびに失敗作《としての》自分たちのことには少しも触れようとせず、そっとしておくという狂気のうちに依然としてみずから陥って止まない。否認の病。《正常な人間》という名の今や根絶しがたい病。

ところで第二次世界大戦前後、天王星は大気がたいへん重いので羊歯(しだ)類はその圧力のために地面を這(は)って身を引きづりながら生きているに違いないという説があった。だが、生き生きとした植物が実際に生息しているかのように見えるのは、天王星の大気が青緑色に見えることから来ている。なぜ青緑色に見えるのだろう。天王星の大気を構成する物質の中で1.99パーセントを占めるメタンの効果である。メタンは赤色光を強力に吸収する性質を持つ。だから天王星全体がほぼ青緑色に見える。そこでジュネは自分を天王星に生息するらしい羊歯(しだ)類に比較する。今は否定されているけれども当時は正当とされていた知識を大いに活用してこう述べる。

「絶えず這(は)いつくばっている屈辱の生きものたちの中に、わたしは入り混りたいと思う。もし転生によって自分の棲(す)む世界を自由に変えることが許されるのなら、わたしはこの呪(のろ)われた遊星を選び、わたしと同じ種族の徒刑囚たちと一緒にそこへ行って暮すだろう。醜怪きわまる爬虫類(はちゅうるい)に取巻かれ、植物の葉は黒く、泥の水はどろどろして冷たい、その暗闇(くらやみ)の中で、わたしは果てしのない惨(みじ)めな死の生存を続けるのだ。わたしには睡眠は決して与えられないだろう。ところが不幸どころか、わたしはますます曇りない意識をもって、優しく微笑(ほほえ)むアリゲーターたちの淫(みだ)らな愛に自分の仲間を見いだしているだろう」(ジュネ「泥棒日記・P.58」新潮文庫)

言うまでもなく「植物への生成変化」が認められる。プルースト作品ではアルベルチーヌがすでにそれを遂げてみせている。

「私がもどってくると、彼女は眠っていた、そして私がそばに立って見る彼女は、真正面になったとたんにいつもそうなったあのべつの女だった。しかしまたすぐその人が変ってしまったのは、私が彼女とならんでからだをのばし、彼女を横から見なおしたからであった。私は彼女の頭をかかえ、それをもちあげ、それを私の唇におしあて、彼女の両腕を私の首に巻きつけることができた。それでも彼女は眠りをつづけていて、あたかもとまっていない時計のようであり、どんな支柱をあてがってもその枝をのばしつづける蔓草か昼顔のようであった」(プルースト「失われた時を求めて8・P.191」ちくま文庫)

ドゥルーズとガタリはこう述べる。

「アルベルチーヌ自身が分子状植物のゾーンに組み込まれるのは、彼女が眠り、睡眠の微粒子と組み合わさるときにかぎられている。そこにこそ、アルベルチーヌをとらえる植物への生成変化がある」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.239~240」河出文庫)

「獣性《としての》性愛の生成変化」も忘れてはいけない。ジュネは「ますます曇りない意識をもって、優しく微笑(ほほえ)むアリゲーターたちの淫(みだ)らな愛に自分の仲間を見いだしているだろう」と確信する。ドゥルーズとガタリの言葉ではこうなる。

「性愛とは数かぎりない性を産み出すことであり、そのような性はいずれも制御不可能な生成変化となる。《性愛は、男性をとらえる女性への生成変化と、人間一般をとらえる動物への生成変化を経由する》。つまり微粒子の放出である。だからといって獣性の体験が必要なわけではない。性愛に獣性の体験が顔を出すことは否定できないし、精神医学の逸話にも、この点でなかなか興味深い証言が数多く含まれている。だがそれは極度の単純さから、いずれも婉曲で、愚かしいものになりさがっている。絵葉書の老紳士のように犬の『ふりをする』ことが求められているのではない。動物と交わることが求められているわけでもない。動物への生成変化を性格づけるのは何よりもまず異種の力能だ。なぜなら、動物への生成変化は、模倣や照応の対象となる動物にその現実性を見出すのではなく、みずからの内部には、つまり突如われわれをとらえ、われわれに<なること>をうながすものに現実性を見出していくからである。動物への生成変化の現実性は、《近傍の状態》や《識別不可能性》に求められる。それが動物から引き出すものは、馴化や利用や模倣をはるかに超えた、いわくいいがたい共通性だ。つまり『野獣』である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.247~288」河出文庫)

いつも生成変化の過程にあるため捉えどころのない人間というもの。ジュネにとってはジャヴァがその最良の模範だ。というのは、ジャヴァは「最も柔らかなゼラチンでできている」ことによって外見の固定性はシミュラクル(見せかけ)でしかなく、まさしく「最も柔らかなゼラチンでできている」がゆえに「不死身」だからだ。

「ジャヴァはこの点不死身だろう。わたしはすでに彼の固さが外見でしかないと認めているのだ。そしてこの場合、彼の固さが固い外見を被(かぶ)っていると認めるのではなく、それが最も柔らかなゼラチンでできている可能性があると容認(みと)めるのである」(ジュネ「泥棒日記・P.152」新潮文庫)

ジャヴァの変幻自在性は軍隊でも十分に発揮された。ジャヴァは素早くドイツ軍将校の護衛者になる。ちなみに当時のドイツ軍はナチスのドイツだ。

「わたしは警察を尊敬していた。それは殺すという行為をなしうるのだ。距離をへだてて、代理人を使ってではなく、自らの手をもって、その殺人は、たとえ命令されたものであるにしろ、あくまで独自の、個人の意志にかかわるものであり、その決意と共に殺人者としての責任を含んでいるのである。警察官は人を殺す行為を習わされる。わたしはそれら、殺人という最も至難な行為をするための、不吉な、しかし微笑する機械を愛するのだ。S.S隊でもこのようにジャヴァを訓練した」(ジュネ「泥棒日記・P.285」新潮文庫)

ジャヴァに特有の柔軟性あるいは自由自在な生成変化性はまさしく資本主義の諸特性をジャヴァ個人の体質において体現している。ジャヴァのゼラチン性は資本主義に顕著な融通無碍なゼラチン性とパラレルで共演している。ジャヴァは戦前すでにグローバル資本主義の生成変化性、きわめて柔軟な変容性を実際に生きている。ジャヴァは無意識の、そして不死身の資本主義だ。

ところでジュネの関心は、国家がナチスの所有物であろうがスターリンの所有物であろうが関係がない。ジュネ独特の性愛はそこに生息する警察というものへふんだんに注ぎ込まれる。暴力的とおもわれるほど容赦なく厳しい「まなざし《への》意志」を持つ。ジュネが個々の警察官に対して向けるまなざしは、まかり間違えば絞殺に至るほど嫉妬深い愛人に顕著な、たいへん注意深い監督官に《なる》。ジュネのまなざしは警視総監のまなざしだ。しかしジュネが警察を欲望するのは警察がときとして射殺されたり危険な職務に従事して自己犠牲的な「英雄」として見えるからではない。逆である。とにかくジュネは、殺されることで「神格化」される教祖のような人物を愛するということができない。「たくましい警察官たち」が英雄的な事件に立ち向かうことには何らの関心も向かない。警察官を尊敬するのは「殺すという行為をなしうる」「微笑する機械」であるかぎりでジュネの性愛をふるい立たせずにはおかないという理由による。ジュネは自分自身が殺人を犯すことにはほとんどまったく関心がない。むしろ警察官による殺害という倒錯した行為、たとえ上司から命令されたものであるにせよ自主的に他人の殺害をなし得る、殺人を犯す人間-機械という倒錯に対して興奮を隠しきれないのである。そしてジュネの愛する犯罪というのは殺人という派手な言動を含む種々の行為ではまったくない。ジュネが好むのは「その中の最も輝かしい犯罪ではなく、ふつうの人々から卑しいものとされ、およそ光彩のない人物を主人公とする、最も陰鬱(いんうつ)な犯罪なのだ」。ジュネにはおそらく、「卑しい犯罪」、「光彩のない人物を主人公とする、最も陰鬱(いんうつ)な犯罪」のほうがかえって輝かしくまぶしく映って仕方がないのである。そのときジュネは鏡に映るジュネ自身の生成変化にうっとりしているのだ。さらにいえば、「猥雑(わいざつ)な汚賤(おせん)の雰囲気をかもし出している」それら「最も陰鬱(いんうつ)な犯罪」の関する無数の履歴をせわしなく取り寄せ取り囲む警察官の、ただ単にたくましいだけでなく、いつもそれらの渦の中を生きていることで彼ら警察官たちみずから「彼らの精神を蝕(むしば)み、彼らを腐敗させる雰囲気を絶えず吸っていることを知るのが嬉し」くてたまらないに違いない。

「わたしが警察官たちを貴重なものとして愛したのは、彼らの英雄的な活動によってではない、すなわち、危険に充ちた犯罪者の追跡とか、自己犠牲というような、彼らを街の英雄にする姿態においてではなく、彼らが役所の机に向ってカードや記録書類を査(しら)べているところなのだ。壁には捜索通牒(つうちょう)や、逃亡中の殺人犯人の写真、その人相書などが貼(は)りつけられており、そのほか記録簿の内容や、密封された証拠物件などといったものが、一種鈍い怨恨(えんこん)の雰囲気(ふんいき)を、猥雑(わいざつ)な汚賤(おせん)の雰囲気をかもし出している。わたしはそれらの逞しい男たちが、そうして、この、彼らの精神を蝕(むしば)み、彼らを腐敗させる雰囲気を絶えず吸っていることを知るのが嬉しいのだ。わたしの献身の情が向っていたのはこの種の警察だったーーーその場合もわたしはそれのごく美しい代表者を要求することをご注意しておくーーーのだ。彼らのしなやかで逞しい胴体の延長であり、肉体的闘争に絶えず従事している彼らの大きい部厚な手は、微妙な問題に満ちた記録書類をーーー粗暴な、そして感動的な不器用さでーーー勝手にひっかき回すことができるからである。ところで、それらの記録に収められている犯罪の中でわたしが知ることを望むのは、その中の最も輝かしい犯罪ではなく、ふつうの人々から卑しいものとされ、およそ光彩のない人物を主人公とする、最も陰鬱(いんうつ)な犯罪なのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.286~287」新潮文庫)

さて、警察と性倒錯者との関係。警察は世間の中でも最も忌まわしい意識の集中的代表者である。言い換えれば、白昼に突如出現する無意識の部分的露出である。たとえば当時、殺人事件の有力な関係者が水兵であると判明したとしよう。水兵は男性ばかりの集団生活だったこともあり同性愛者が多くいた。だからといって「犯罪=同性愛者」という公式には根拠がない。にもかかわらず警察は「犯罪=水兵=性倒錯」という公式をたちまちのうちに創設してしまうのである。世間の側からすれば、なるほど頭の中では滑稽なほど色鮮やかにあれこれ思い描く想像ではあっても、証拠がない以上けっして口に出さない単なる幻想でしかない。ところが警察はいとも容易にこの幻想を乗り越え現実化してしまう。

「犯罪は城壁の茂みのなかで犯されたのであり、警察は、その犯人がおそらく男色家であろうと想像した。一般社会がいかに怖ろしげに、男色の観念と社会とを結びつけるあらゆる観念を遠ざけようとするかを知っているならば、警察がじつに平然として、この観念にすがりつくことを認めているのは、驚くべきことであろう。ところで、かりに一つの犯罪が犯されて、まず警察が金銭上の利害関係とか、痴情といった動機を公表したとしても、その事件の立役者の一人が水兵であるとか、あるいはかつて水兵であったとかいうことになると、警察はじつに簡単に性倒錯のことを考えるのである。ほとんど苦しそうな性急さで、警察はこの観念に飛びつくのだ」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.110」河出文庫)

ジュネは警察を批判しているわけではない。いつも乙に済まして見せているに過ぎないだけのことで、そのじつ興味津々の「上品な社会」の側と違い、警察の側は「上品な社会」が夢見ている「犯罪=水兵=性倒錯」という下品なワイドショーねたを実際の任務として遂行する。事実であろうがなかろうが、間違っていてもいなくても、このようなケースでは根拠など差し当たり問題ではないのだ。警察には任務がある。「上品な社会」が夢見る夢物語を実現してみせるという任務が。警察には「上品な社会」が騒々しく夢見て止まない「犯罪=水兵=性倒錯」という下品な物語をあたかも手品のようにひょいと現実のものへ変異させる力がある。

「警察と一般社会との関係は、ちょうど夢と日常の活動との関係のようなものである。上品な社会は、みずからに対してはできるだけ禁じているものを、警察に対しては、呼び起す権限をあたえているのである。ひとが警察に対して、嫌悪と魅力の混った感情をいだくのは、たぶん、こうした理由のためであろう。夢を吸収する任務をおびた警察は、濾過器のなかに夢をたくわえるのだ。警官が、警官に追われる者と、あれほどよく似ているのも道理である」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.110~111」河出文庫)

ジュネが「警官が、警官に追われる者と、あれほどよく似ている」というとき、フーコーはいう。

「監獄が工場や学校や兵営や病院に似かよい、こうしたすべてが監獄に似かよっても何にも不思議はないのである」(フーコー「監獄の誕生・P.227」新潮社)

そのような意味でかつてレーニンもこう述べることができた。

「たとえば、われわれがすでにその深遠な意見を知っている新『イスクラ』の例の『一実践家』は、私が党を、中央委員会という支配人をいただく『巨大工場』と考えているといって告発している(第57号、付録)。この『一実践家』は、彼のもちだしたこのおどし文句が、プロレタリア組織の実践にも理論にもつうじていないブルジョア・インテリゲンツィアの心理を一挙にさらけだしていることに、気づいてもいない。ある人にはおどし道具としかみえない工場こそ、まさにプロレタリアートを結合し、訓練し、彼らに組織を教え、彼らをその他すべての勤労・被搾取人民層の先頭にたたせた資本主義的協業の最高形態である。資本主義によって訓練されたプロレタリアートのイデオロギーとしてのマルクス主義こそ、浮動的なインテリゲンチャに、工場がそなえている搾取者としての側面(餓死の恐怖にもとづく規律)と、その組織者としての側面(技術的に高度に発達した生産の諸条件によって結合された共同労働にもとづく規律)との相違を教えたし、いまも教えている。ブルジョア・インテリゲンツィアには服しにくい規律と組織を、プロレタリアートは、ほかならぬ工場というこの『学校』のおかげで、とくにやすやすとわがものにする」(レーニン「一歩前進二歩後退・P.261」国民文庫)

ところがネット社会の出現とその世界化、さらには高度テクノロジーの加速的発展により、フーコーのいう「監視と処罰」は急速に過去形化してきた。同時にレーニンのいう「工場というこの『学校』」論もまた過去形化してきた。大資本が運営する巨大工場で大量の労働者が一斉に働くというタイプの労働様式は、徐々にではあっても確実に形骸化するという事態が生じてきた。いまでは大資本が、というより、大資本とその経営コンサルタントによって、経営コンサル任せという新しいタイプの経営様式で運営される多種多様な労働環境が無数に用意されるようになった。それぞれの労働者は時間的にも地理的にも様々な分野-形態へ分裂配置されている。だから、まとまって団結したり交渉したりするなどほとんど不可能な状況へ追いつめられている。そして労組はそのほとんどがただ単なる御用組合と化してすでに久しい。労働者は再生産過程を反復するために自分で作った商品を自分自身で買い戻さねばならず、したがって休日は種々に連結された一連の消費行動へ変貌した。自分で商品を買い戻さなければ自分の労働力を再生産することはできない以上、休日における連結された一連の消費行動は暗黙の暴力的強制と化した。マスコミもまたそれを煽っている。ミイラ取りのミイラ化が進行している。労働のサービス化、名ばかりの休日を生産的消費に回さなくてはならなくなった。休日は消費行動日に変換され、要するに休日の労働化が実現された。出勤していないにもかかわらず、煽り立てられ与えられた消費行動を通して、休日のサービス労働化が達成された。消費しなければ許されないからである。労働力商品はすっかり袋小路に迷い込んでしまった。フーコーの末路のように。

ところが、ジュネに戻ると面白い記述が目を引く。監獄内の描写なのだが、注目すべきは監獄のひどさではなく、むしろ監獄内においてすら「組織化されない」極めて生き生きとした犯罪者たちの「協働」についてである。

「監獄の中で、犯罪者たちはめいめい巧妙な組織、世間とその道徳に対する避難所であるような、堅固で、固く閉ざされた組織をほしいままに夢想することができる。しかしそれはあくまで夢想にすぎないのだ。監獄こそ、あの、世間のもろもろの力がその障壁まで来ては砕け散る城塞(じょうさい)、理想の巌窟(がんくつ)、盗賊どもの巣窟(そうくつ)なのだ。世間のもろもろの力に触れるやいなや、犯罪者たちはたちまちありきたりの諸法則に従ってしまうのである。そして当今、諸新聞が、アメリカの脱走兵とフランス人の無頼漢から成る強盗団についていろいろと書きたてているが、それらは決して組織とよばれるべきものではなく、せいぜい三人か四人の男たちのあいだの偶発的で短期間の恊働にすぎないのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.138」新潮文庫)

この記述は常に生成変化の過程を生きていて変幻自在この上ない現代的社会の相貌について、またとないほど明瞭に述べられた資料として読み返すことが十分可能だ。こうした傾向はネット社会の世界制覇とともに成立した現代的「管理」の様相を予言的に先取りしたものとして貴重であろう。ドゥルーズはこの変化について次のように述べている。

「規律社会が《司令の言葉》によって調整されていたのにたいし、管理社会の数字は《合い言葉》として機能する(これは同化の見地からも、抵抗の見地からも成り立つことだ)。管理の計数型言語は数字でできており、その数字があらわしているのは情報へのアクセスか、アクセスの拒絶である。いま目の前にあるのは、もはや群れと個人の対比ではない。分割不可能だった個人(individus)は分割によってその性質を変化させる『可分性』(dividuels)となり、群れのほうもサンプルかデータ、あるいはマーケットか『データバンク』に化けてしまう。規律社会と管理社会の区別をもっとも的確にあらわしているのは、たぶん金銭だろう。規律というものは、本位数となる金を含んだ鋳造貨幣と関連づけられるのが常だったのにたいし、管理のほうは変動相場制を参照項としてもち、しかもその変動がさまざまな通貨の比率を数字のかたちで前面に出してくるのだ」(ドゥルーズ「記号と事件・P.361」河出文庫)

いつどこで何をどのように行為したとしてもそれは常に既に「サンプルかデータ、あるいはマーケットか『データバンク』に化けてしまう」。またフーコーが追求した「規律社会」の時代には確固たる「貨幣」が参照されていた。貨幣は信用でもあった。いまは違っている。「管理社会」が参照するのは「変動相場制」なのであって、この種のダイナミックな変動性が資本主義の持ち味をさらに新規更新させつつあるというべきだろう。

天王星のエピソードに戻ろう。太陽系では他の惑星とは異なり天王星の自転軸だけが太陽に対してなぜかほぼ直角に傾いているという事情は、ニーチェにいわせれば、それこそ人間が地球だけでなく太陽とともにだけでもなく、むしろ全宇宙とともに「共演」しているという疑いようのない証拠にほかならない。

「《道徳的》観点は局限されているーーー。各個人は宇宙の全実在と共演しているのだ、ーーー私たちがそのことを知ろうが知るまいが、ーーー私たちがそのことを欲しようが欲しまいが!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一二三一・P.656」ちくま学芸文庫)

さらに科学に従事する《人間という名》の驕りあるいは慢心について。

「科学の発達は、『既知のもの』をますます未知のもののうちへと解消する、ーーーしかるに科学は、まさしく《逆のことを欲し》、未知のものを既知のものへと還元する本能から出発している。要約すれば、科学が準備するのは、《主権的な無知》、すなわち、『認識』は全然あらわれることはないとの、それがあらわれると夢みるのは一種の驕慢であったとの感情、それのみならず、『認識』を一つの《可能性》としてみとめるだけの概念をすら私たちはなんら保有してはいないとの、ーーー『認識』とは一つの矛盾にみちた考えであるとの感情である。私たちは人間の太古の神話や虚栄をきびしい事実のうちへと《翻訳する》が、『物自体』と同じく、『認識自体』もいまだ概念として《許容されて》はいないのである。『数と論理』による誘惑、『法則』による誘惑」(ニーチェ「権力への意志・第三書・六〇八・P.144」ちくま学芸文庫)

☆Dr犬好きさんの訪問がありました。「三宝寺池」「石神井池」。日向と日影のコントラストが良いですね。子どもの頃から池は好きです。水の流れは特に。いつも水の流れの近くで暮らしていたいとおもっています。ちなみに子ども時代に親しんだ池は京都市建仁寺境内にある幾つかの池です。いまは整備されてしまっていますが、子どもが多くて公園が少なかった当時は、ざりがに釣りや蝉取りとかやって遊んでいました。とはいっても寺院なので今でも庭園を鑑賞するときの基本型として知らないうちに身についてしまっているかもしれません。猫からお返事です。三日ほど前に撮った「起こさないで」ポーズです。


BGM