人間と一切の縁を断ち切ろうと苦悶するジュネ。日本でいえば「情が深い」タイプなのだ。しかしジュネの生きる世界で「情が深い」ということはただちに生死の問題へ直結してくる問題でもある。もっとも、生か死かという二者択一にはあまりこだわりを見せないジュネではある。とはいえ、「情が深い」あるいはより端的にいえば「情が移りやすい」とか「情にもろい」といったジュネの性格は、ジュネが生きる汚辱に満ちた世界の中にいると、「倫理的にどうか」という問いにいつもつきまとわれて思案に暮れ果て疲れきってしまうという怠惰に陥る。それなら逆に、この際、思い切って人間関係の中から人間的(ヒューマン)な部分と絶縁してしまいたいと切に願うようになる。
「わたしはわたしがほかの乞食たちに対してした盗みについて話そうと思う。アリカンテでやった罪がそうした罪がどういうものであるかを我々に教えてくれるだろう。ーーーバルセロナでペペは、彼が埃の中から摑(つか)みとった金を、逃げる前にわたしに手渡すだけの時間があったのだった。わたしは、一人の英雄に対する英雄的な忠誠心から、同時にまたペペか彼の仲間の誰かがわたしを見つけることを恐れる気持から、その金をモンジェイフの近くの小さな広場の《きささげ》の根元に埋めておいた。わたしはそのことをスティリターノに喋(しゃべ)らないだけの気骨はあったが、彼と一緒に南部へ行くことに決めたとき、わたしはその金(二、三百ペセタはあった)を掘り出して、それをわたし自身の名宛(なあて)にして局留郵便で、アリカンテの郵便局へ送った」(ジュネ「泥棒日記・P.107~108」新潮文庫)
アンダルシア地方には棕櫚の木が多い。地中海に面した温暖な気候が棕櫚の繁殖に適している。だからアンダルシア地方を放浪しているジュネは見飽きるほどもう何度も棕櫚の木を見てきたにちがいない。ところがある日の朝、あたかも天啓のように改めて「棕櫚の枝」を再発見する。この再発見は、たとえば、まだ十七歳だった頃のモーツァルトが交響曲第二十五番イントロの着想を突然得たときに感じた、或る種の到達点に達した高揚感に似ているといえるかもしれない。
「棕櫚の枝!朝の太陽を浴びてそれらは金色に光っていた。光が顫(ふる)えていた、棕櫚の枝々は微動もしていなかった。わたしはそのとき生れて始めて棕櫚の枝を見たのだった。それらは地中海の縁(ふち)を飾っていた。冬の、窓ガラスの上の氷花はもっと多様ではあったが、棕櫚の木立ちは氷花と同じようにーーーおそらくはよりいっそう深くーーーわたしはクリスマスの一つのイメージの中にーーー逆理的にも、神の死に先行する聖事についての聖書の一節、すなわち、エルサレム入りについての、イエスの足下に投げられた棕櫚の枝についての一節から生じたクリスマスのイメージの中に投げ入れたのだった。子供の頃のわたしは棕櫚の樹をよく夢見ていた。今、わたしはその棕櫚のすぐ近くに立っていた」(ジュネ「泥棒日記・P.106~107」新潮文庫)
「新訳聖書」参照。いまは世界中でそれぞれの宗派によって呼び名が違っている。一般的には、いわゆる「エルサレム入城の日」のことを指す。
「二人が子驢馬をイエスの所に引いてきて、自分たちの着物をその上にかけると、イエスはそれに乗られた。大勢(おおぜい)の者は着物を道に敷(し)いた。野原(のはら)から小枝(こえだ)を切ってきて敷いた者もあった」(「新約聖書・マルコ福音書・第十一章・P.45」岩波文庫)
「弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにして、驢馬と子驢馬とを引いてきた。そして自分たちの着物をその上にひろげると、イエスはそれに乗られた。おびただしい群衆がその着物を道に敷(し)いた。木の枝(えだ)を切ってきて道に敷く者もあった」(「新約聖書・マタイ福音書・第二十一章・P.134~135」岩波文庫)
「あくる日、祭(まつり)に来ていた大勢(おおぜい)の群衆(ぐんしゅう)は、イエスがエルサレムに来られると聞くと、手に手に棗椰子(なつめやし)の枝(えだ)を持って、町から迎(むか)えに出てきた。ーーーイエスは小さな驢馬(ろば)を見つけて、それに乗られた」(「新約聖書・ヨハネ福音書・第十二章・P.324」岩波文庫)
以上、三箇所を踏まえて。
「わたしは昔人々からベツレヘムは雪の降らないところだということを聞いていた。そしてその直前彼方(かなた)に垣間(かいま)見えたアリカンテの町の名(明光の意)はわたしに東方(オリエント)を啓示していたーーー。わたしはわたしの幼年時代の心臓部に、その最も大切に保持されてきた瞬間に立ち返っていた。わたしはただ道を一つ曲れば、あの三本の棕櫚の樹の下に、子供だったわたしがそこに牛と驢馬(ろば)のあいだに《わたしに生誕》を見た、あのキリスト降誕の秣桶(まぐさおけ)を見いだすにちがいないと思った。わたしはこの世でいちばん卑しい貧者であった。惨(みじ)めな姿で埃の中を疲れきって歩いていた、そしてようやくわたしは棕櫚の枝(褒賞)に値する人間に、すでに徒刑場、麦藁(むぎわら)の編笠と棕櫚の樹に適した人間になったのだった」(ジュネ「泥棒日記・P.107」新潮文庫)
ジュネは書く。「わたしは棕櫚の枝(褒賞)に値する人間に、すでに徒刑場、麦藁(むぎわら)の編笠と棕櫚の樹に適した人間になった」と。「徒刑場」と明記されているが、その理由は、いまの南米東北部にあるフランス領ギアナ(ギュイヤーヌ)にフランス革命当時から有名な徒刑場があったことと、フランス領ギアナ(ギュイヤーヌ)が棕櫚の繁殖に適した気候であることとを交えて述べられていると考えられる。だから棕櫚と徒刑場との連想から、古い時代の流刑地を放浪するジュネというイメージが喚起される。かつてはギュイヤーヌを構成する地域のうちの小さな島が徒刑場として使用されており、「呪われた島」「緑の地獄」などと呼ばれ恐れられた。
次に「風景が感情に及ぼす影響」と書かれている。棕櫚から徒刑場、徒刑場から人ジュネへの倫理的移動はこう描かれる。
「風景が感情に及ぼす影響については人がしばしば論じたところだが、それの倫理的態度への影響についてはまだ何も言われていないようだ。わたしはムルシエに入る前にエルチェの上述した棕櫚林を通ってきて、わたしの心が自然によってあまりにも掻(か)き乱されていたので、わたしの人間に対する関係は、すでに普通の人の物象に対する関係と同じものになりはじめていた」(ジュネ「泥棒日記・P.108」新潮文庫)
重要なのは、ジュネが人間との縁を断ち切るにあたって、自然界への参入を熱望しているということであり、むしろ逆に「自然界」《という》「体系の中に参入するのに値するものとなるためには、人間たちときれいに縁を断つ必要、自分を浄(きよ)める必要があるように思われた」点だ。自然界の体系へ参入するための「獣性《への》意志」が不可避的な過程として横たわっており、その実現のためにも人間とジュネとを繋ぎとめている人間的(ヒューマン)な関係を断絶することが必要不可欠とされる。
「わたしがアリカンテに着いたのは夜中だった。わたしは船渠(ドック)の中で眠らなければならなかった。そして明け方、わたしはこの市(まち)とその名称との神秘について啓示を受けた。すなわち、静かな海に臨んで、その中に裾(すそ)を没し去っている白い山々。棕櫚の木立ち、家々、波止場、そして朝陽の中の明るい澄んだ大気があったのだ(わたしはその後ヴェニスでもこれと同じ一刻〔ひととき〕を経験した)。あらゆる物象と物象の間の関係(つながり)は軽やかな喜悦であった。わたしには、このような体系の中に参入するのに値するものとなるためには、人間たちときれいに縁を断つ必要、自分を浄(きよ)める必要があるように思われたのだった。わたしを人間たちに繋ぎ留めていたのは感情の紐帯(じゅうたい)だったから、わたしのなすべきことは大騒ぎをせずに彼らから離れ去ることだった」(ジュネ「泥棒日記・P.108」新潮文庫)
ジュネは、「裏切り者、泥棒、同性愛」を選んでいる点で、不屈の犯罪者と比較してなんだか頼りない。とはいえ、野獣への新生のため、ともかく裏切ることから始めようと考える。手続きは郵便局で済ませる。獄中のペペに送ろうとおもっていた貨幣の流れに注目したい。
「旅の間じゅう、わたしはあの金を郵便局から引出して、それをモンジュイフの監獄にいるペペに送るという苦い歓びを自分に与えようと、途々(みちみち)、心の中で誓ってきたのだった。わたしはちょうど、店をあけたばかりの粗末な飲食店で熱いミルクを飲み、それから郵便局の窓口へ行った。係の男は別にむずかしいことも言わずに、紙幣の詰った封筒を渡してくれた」(ジュネ「泥棒日記・P.108~109」新潮文庫)
次のセンテンスはとりわけ重要だろう。ジュネの裏切りを成功させジュネ自身を新しいジュネへと更新させる役割を担うのはほかでもない貨幣の移動である。
「金はそっくり入っていた。わたしは外に出て、下水孔(マンホール)の中に棄てるつもりで札束をびりびりと破いた、が、人間たちとの絶縁をいっそうはっきりしたものにするために、わたしは公園のベンチの上で札の断片を糊(のり)でつなぎ合せ、それから思いきり豪勢な昼食を自分に奢(おご)ったのだった。ペペは牢獄の中で死ぬほど腹をへらしていたにちがいなかったが、わたしはこの罪によって、わたしが一切の倫理的顧慮から解放されたように思った」(ジュネ「泥棒日記・P.109」新潮文庫)
ここで生じていることは、貨幣が移動するときに不可避的にこうむらざるを得ない、貨幣の「価値=意味」の変化である。それがジュネの変身を可能にした。ジュネの気持ちの変化がどれほど決意満々だったとしてもただ単なる気持ちの変化だけではこのような「一切の倫理的顧慮から」の「解放」はありえない。マルクスはいう。
「独立の産業部門でも、その生産過程の生産物が新たな対象的生産物ではなく商品ではないような産業部門がある。そのなかで経済的に重要なのは交通業だけであるが、それは商品や人間のための本来の運輸業であることもあれば、単に報道や書信や電信などの伝達であることもある」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第一章・P.97~98」国民文庫)
ただ単なる「報道や書信や電信などの伝達」はいまや世界を制覇しつつある。しかし「報道や書信や電信などの伝達」が運輸業として「売るもの」は何だろうか。それは常に「場所を変えること自体である」。「場所移動」じたいが価値生産過程を形成する。ジュネの場合、場所を移動させるのは貨幣そのものである。貨幣はこの「場所を変えること自体」によって価値(剰余価値含む)を獲得する。
「運輸業が売るものは、場所を変えること自体である。生みだされる有用効果は、運輸過程すなわち運輸業の生産過程と不可分に結びつけられている。人や商品は運輸手段といっしょに旅をする。そして、運輸手段の旅、その場所的運動こそは、運輸手段によってひき起こされる生産過程なのである。その有用効果は、生産過程と同時にしか消費されえない。それは、この過程とは別な使用物として存在するのではない。すなわち、生産されてからはじめて取引物品として機能し商品として流通するような使用物として存在するのではない。しかし、この有用効果の交換価値は、他のどの商品の交換価値とも同じに、その有用効果のために消費された生産要素(労働力と生産手段)の価値・プラス・運輸業に従事する労働者の剰余労働がつくりだした剰余価値によって規定されている。この有用労働は、その消費についても、他の商品とまったく同じである。それが個人的に消費されれば、その価値は消費と同時になくなってしまう。それが生産的に消費されて、それ自身が輸送中の商品の一つの生産段階であるならば、その価値は追加価値としてその商品そのものに移される」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第一章・P.98~99」国民文庫)
要するに、ペペのいる獄中へ送金されることになっていた貨幣は「場所を変えること自体」によって、その価値を変容させる。言い換えれば、意味を変える。この意味変化によってのみ、ジュネはペペへの友情を断ち切り、俗世間にはびこる人間的(ヒューマン)な関係を切断することに成功する。このとき「わたしはこの罪によって、わたしが一切の倫理的顧慮から解放されたように思った」とジュネは述べる。けれどもよりいっそう適切にいうとすれば、ジュネはまったく新しい倫理を獲得したということであって、にもかかわらず、その態度は俗世間のあいだでしょっちゅう用いられる平凡な言葉に翻訳することができる。ジュネは「生き方」を手に入れたのだと。
さて、ブレストの乱暴者クレル。ときどき、黄昏(たそがれ)時を選んで人気のない場所へやってくる。クレルは殺人被害者ではなく間違いのない殺人者としての自分自身の確実性を感じる。殺人を犯したことによってクレルは殺人者クレルとしての自分の輪郭を明確化する。確実な意識を得る。自分は殺人被害者ではなく殺人者として、自分が確固たる存在となって世界の中の埋め込まれるべき位置に埋め込まれていると感じる。すると静かにではあるが、自分を取り巻き自分もまた取り巻くものの部分を形成している宇宙というものを全身で感じ取るようになる。そして或る理解に達する。「植物や事物に対していつも無関心でありながら」、こんどは「彼はそれらのものを自然に理解していた」という極限的認識に達する。
「死んだ人間の沈黙の影ともいうべき、一つの世界に身を浸して生きているという確信が、物事の本質を自然に理解することを得さしめる、一種の超然とした態度をクレルに与えていた。植物や事物に対していつも無関心でありながら、ーーーそれらのものを彼は見ていたのだろうか?ーーー現在、彼はそれらのものを自然に理解していた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.228」河出文庫)
だが周囲からみれば、クレルは所詮単なる犯罪者に過ぎない。しかしまたクレルの側にしてみれば、いつも何か悪い噂はないかと目を皿にし耳を壁にしてはばかるところをしらない悪意に満ちた俗世間による白眼視など取るに足らない。クレルの身にひたひたと忍び寄ってくる「危険や恐怖は」《逆に》「彼を生き生きとさせるもの」として活用される。
「徒刑場のなかに足を踏み入れると、クレルは自分が引受けようとしていた責任と恐怖によって、身も心も生き生きとするのをおぼえた。途中、ロジェとならんで黙々と歩きながら、彼は自分のなかに、ある激しい冒険の芽が芽生え、やがて花がひらき、その花が自分の身体中を香ばしくするのに気がついていた。危険な人生によって、彼は花が咲いたように元気になるのだった。危険や恐怖は、彼を生き生きとさせるものだった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.230」河出文庫)
クレルは、いまや「打ち棄てられた」刑場跡地をおとずれ、かつて罪人たちが通過すると同時にその歴史を彩ってきた様々な光景を想像のうちに堪能する。
「打ち棄てられた徒刑場の奥に、いったい何があるというのだ?彼は自分の自由にしがみついていた。ごくわずかのもやもやした気分が、港の徒刑場に対する恐怖心を彼のうちに呼び起していたのだ。胸の締めつけられるような気分とともに、彼は徒刑場の堂々たる壁に、自分が今にも押しつぶされるような感じを味わっていた。城塞の巨大な扉を、両手と全身の重みで閉める守衛の下士官とほとんど同じ努力、同じ腰の運動をもって、彼は壁に対して逆らい、怒りを遠ざけつつ、壁を遠ざけようと足を踏んばっていた。だんだんと進むうちに、彼はぼんやり、すでに死に絶えたある至福の生活に自分が近づきつつあるような気がしてきた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.230」河出文庫)
このときクレルは自分もまた徒刑囚になりたいと考えているわけではない。そうではなく、かつてこの場所で、どれほど過酷な拷問、不幸、憔悴、束縛、苦悩、苦痛が渦を巻いていたか。その閃光のように噴出する暗い光。どす黒すぎるために逆に微細な光の穴からその黒々とした影になって奔出する無数の犯罪。それら遥かなる汚濁の世界を思い描き、クレルは「一種の心地よい満足感、安らぎの予感のようなものを感じていた」のだった。
「それは彼が本気で自分を徒刑囚だと考えていたからではなく、また彼の心が、こんな作り話のような空想のなかで満足を味わっていたからでもなく、この厚い壁の暗い内部に、自分が自由に堂々と入って行くという考えに、彼が一種の心地よい満足感、安らぎの予感のようなものを感じていたからであった。この厚い壁の内部には、何百年というあいだ、拷問によってねじ曲げられ、不幸によって憔悴させられ、唯一の喜びとして犯罪の思い出ーーー影の谷間から光を噴出させる、もしくは光の孔から昔の犯罪の黒い影を奔出させるーーーすばらしい犯罪の思い出だけを心にいだいた、あれほど多くの縛(いまし)められた人間の苦悩が、あれほど多くの肉体的精神的な苦痛が、閉じこめられていたのであった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.230~231」河出文庫)
クレルは独特の犯罪思想を持っている。次の文章で「ひとに知られずに悪事を犯すのではない、こんな殺人犯は彼には興味がなかった」とある。もっと後になって出てくるのだが、わけのわからないうちにブレストの殺人事件の当事者として話題になってしまったジルの名は、もはや消すに消せない現実のものとしてマスコミの第一面を飾ることになる。クレルが思い描く犯罪者像というのはそういうものでなくてはならない。ただ単なる目立ちたがり屋など問題外でなくてはならない。というのも、たとえば事態の成り行きゆえジルの名が新聞に載ったとき、それは錚々たる面々と同等の取り扱いを受けるべくして始めて犯罪者は犯罪者に《なる》ということでなければならないからである。もっと後でもう一度述べるつもりだが少しばかり触れておこう。クレルは毎日注意深く新聞に目を通すタイプだ。ある日、ジルの名を見つけた。それは「ムッソリーニやイーデン氏と並んで、マレーネ・ディートリッヒよりも上段に」掲載されていた。クレルの犯罪思想はそのようなものでなければならなかった。ブレストという町全体を混乱に陥れるような次元のものでなければならなかった。単なる目立ちたがり屋にはとてもではないが、そのようなことで絞首刑になろうという意志など生まれるはずもない。そしてまた、犯罪の重大性を決定するのは犯罪者ではなく、ほかでもないマスコミの言語による犯罪の取り扱い方だということが明らかになる。ところで、一方、弟のロベールがもっと犯罪者ぶりを発揮することを期待すると同時に弟ロベールの犯罪行為が自分の犯罪よりも重罪さにおいて上回ることを「気に病む」性格でもあった。ロベールを心配するあまりではなく、殺人者たるクレル自身の「優越感を失いたくなかったから」だ。
「時たま、孤独が堪えがたいほど大きくなると、彼は新聞に名の出た何人かの殺人犯に獄中で会うために、すすんで逮捕されようかと考えることがあるほどだった。もっとも、そんな考えは思いつくと同時に、たちまち消えた。ひとに知られずに悪事を犯すのではない、こんな殺人犯は彼には興味がなかった。弟と自分とがよく似ているということは、このすばらしい友に対して、ちょっと心配な気持をクレルに抱かせることがあった。ロベールの前で、クレルはときどき、彼もやっぱり犯罪を犯しているのだろうか、と考えることがあった。クレルはそのことを気に病みながら、同時に、そうであってくれればよいと考えていた。彼がそのことを期待していたのは、もしそんな見事な奇蹟がこの世に存在するとすれば、何というすばらしいことだろうと考えたからである。一方、彼がそのことを気に病んでいたのは、ロベールに対する自分の優越感を失いたくなかったからであった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.232」河出文庫)
さて、クレルはこれからジルに会いに行く。クレルからみればジルはまだまだ子どもに過ぎない。「粗忽な少年であり、一文の得にもならぬ殺人を犯した、阿呆のようなちんぴら」としか映っていない。それでも一個のライターが機縁となって、「クレルは自分の殺人の一つを、ジルに貸し与え、ジルに委ねていた」ことになる。「泥棒日記」の中でジュネはスティリターノの切断された右腕の代理を巧妙に果たす。しかしいまのままのジルは「とてもクレルの片腕になれそう」にない。クレルの思考はあちこち奔放に行き来する。それでも「小説」として読めるということはどういうことだろうか。ジュネの文章力、というより、言語の力がそれを可能にしている。
「ところで、打ち棄てられた徒刑場に、クレルはこれから人殺しの若者に会いに行くところであった。そう思うと、彼の心は和らいだ。殺人犯は粗忽な少年であり、一文の得にもならぬ殺人を犯した、阿呆のようなちんぴらであった。しかしクレルのおかげで、少年は真の殺人で身を飾ることになるかもしれなかった。というのは、殺された水兵は金を盗まれていた、と考えられていたからである。クレルはジルに会う前から、ジルに対してほとんど父親のような感情をいだいていた。クレルは自分の殺人の一つを、ジルに貸し与え、ジルに委ねていたのであった。とはいえ、ジルは一人の子供にすぎず、とてもクレルの片腕になれそうな男ではなかった。こんな考えが(作者が述べているような明確な形ではなく、もやもやした雲のような形で)次から次へと重なり合い、一つが消えると次の一つがふたたび生れ出るといった風に、クレルのなかに、クレルの頭のなかというよりもむしろ彼の手脚や身体の内部に、波のように砕け散るのであった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.232~233」河出文庫)
しかしニーチェにいわせれば、人間は身体で考え、身体全体で書くのであり、様々に変化していく思考の流れは、たとえばクレルの場合、「クレルの頭のなかというよりもむしろ彼の手脚や身体の内部に、波のように砕け散る」。
ドゥルーズとガタリはいう。
「波は振動であり、常に抽象として存立平面に刻み込まれる流動的なボーダーである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.189」河出文庫)
クレルの身体に現われては消えることを繰り返す強度の波動。それは或る強度がほんのいっときそこに集まり、すぐさま流れの中へ解体していくような「波」あるいは「震動」のようなものでしかない。
BGM
「わたしはわたしがほかの乞食たちに対してした盗みについて話そうと思う。アリカンテでやった罪がそうした罪がどういうものであるかを我々に教えてくれるだろう。ーーーバルセロナでペペは、彼が埃の中から摑(つか)みとった金を、逃げる前にわたしに手渡すだけの時間があったのだった。わたしは、一人の英雄に対する英雄的な忠誠心から、同時にまたペペか彼の仲間の誰かがわたしを見つけることを恐れる気持から、その金をモンジェイフの近くの小さな広場の《きささげ》の根元に埋めておいた。わたしはそのことをスティリターノに喋(しゃべ)らないだけの気骨はあったが、彼と一緒に南部へ行くことに決めたとき、わたしはその金(二、三百ペセタはあった)を掘り出して、それをわたし自身の名宛(なあて)にして局留郵便で、アリカンテの郵便局へ送った」(ジュネ「泥棒日記・P.107~108」新潮文庫)
アンダルシア地方には棕櫚の木が多い。地中海に面した温暖な気候が棕櫚の繁殖に適している。だからアンダルシア地方を放浪しているジュネは見飽きるほどもう何度も棕櫚の木を見てきたにちがいない。ところがある日の朝、あたかも天啓のように改めて「棕櫚の枝」を再発見する。この再発見は、たとえば、まだ十七歳だった頃のモーツァルトが交響曲第二十五番イントロの着想を突然得たときに感じた、或る種の到達点に達した高揚感に似ているといえるかもしれない。
「棕櫚の枝!朝の太陽を浴びてそれらは金色に光っていた。光が顫(ふる)えていた、棕櫚の枝々は微動もしていなかった。わたしはそのとき生れて始めて棕櫚の枝を見たのだった。それらは地中海の縁(ふち)を飾っていた。冬の、窓ガラスの上の氷花はもっと多様ではあったが、棕櫚の木立ちは氷花と同じようにーーーおそらくはよりいっそう深くーーーわたしはクリスマスの一つのイメージの中にーーー逆理的にも、神の死に先行する聖事についての聖書の一節、すなわち、エルサレム入りについての、イエスの足下に投げられた棕櫚の枝についての一節から生じたクリスマスのイメージの中に投げ入れたのだった。子供の頃のわたしは棕櫚の樹をよく夢見ていた。今、わたしはその棕櫚のすぐ近くに立っていた」(ジュネ「泥棒日記・P.106~107」新潮文庫)
「新訳聖書」参照。いまは世界中でそれぞれの宗派によって呼び名が違っている。一般的には、いわゆる「エルサレム入城の日」のことを指す。
「二人が子驢馬をイエスの所に引いてきて、自分たちの着物をその上にかけると、イエスはそれに乗られた。大勢(おおぜい)の者は着物を道に敷(し)いた。野原(のはら)から小枝(こえだ)を切ってきて敷いた者もあった」(「新約聖書・マルコ福音書・第十一章・P.45」岩波文庫)
「弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにして、驢馬と子驢馬とを引いてきた。そして自分たちの着物をその上にひろげると、イエスはそれに乗られた。おびただしい群衆がその着物を道に敷(し)いた。木の枝(えだ)を切ってきて道に敷く者もあった」(「新約聖書・マタイ福音書・第二十一章・P.134~135」岩波文庫)
「あくる日、祭(まつり)に来ていた大勢(おおぜい)の群衆(ぐんしゅう)は、イエスがエルサレムに来られると聞くと、手に手に棗椰子(なつめやし)の枝(えだ)を持って、町から迎(むか)えに出てきた。ーーーイエスは小さな驢馬(ろば)を見つけて、それに乗られた」(「新約聖書・ヨハネ福音書・第十二章・P.324」岩波文庫)
以上、三箇所を踏まえて。
「わたしは昔人々からベツレヘムは雪の降らないところだということを聞いていた。そしてその直前彼方(かなた)に垣間(かいま)見えたアリカンテの町の名(明光の意)はわたしに東方(オリエント)を啓示していたーーー。わたしはわたしの幼年時代の心臓部に、その最も大切に保持されてきた瞬間に立ち返っていた。わたしはただ道を一つ曲れば、あの三本の棕櫚の樹の下に、子供だったわたしがそこに牛と驢馬(ろば)のあいだに《わたしに生誕》を見た、あのキリスト降誕の秣桶(まぐさおけ)を見いだすにちがいないと思った。わたしはこの世でいちばん卑しい貧者であった。惨(みじ)めな姿で埃の中を疲れきって歩いていた、そしてようやくわたしは棕櫚の枝(褒賞)に値する人間に、すでに徒刑場、麦藁(むぎわら)の編笠と棕櫚の樹に適した人間になったのだった」(ジュネ「泥棒日記・P.107」新潮文庫)
ジュネは書く。「わたしは棕櫚の枝(褒賞)に値する人間に、すでに徒刑場、麦藁(むぎわら)の編笠と棕櫚の樹に適した人間になった」と。「徒刑場」と明記されているが、その理由は、いまの南米東北部にあるフランス領ギアナ(ギュイヤーヌ)にフランス革命当時から有名な徒刑場があったことと、フランス領ギアナ(ギュイヤーヌ)が棕櫚の繁殖に適した気候であることとを交えて述べられていると考えられる。だから棕櫚と徒刑場との連想から、古い時代の流刑地を放浪するジュネというイメージが喚起される。かつてはギュイヤーヌを構成する地域のうちの小さな島が徒刑場として使用されており、「呪われた島」「緑の地獄」などと呼ばれ恐れられた。
次に「風景が感情に及ぼす影響」と書かれている。棕櫚から徒刑場、徒刑場から人ジュネへの倫理的移動はこう描かれる。
「風景が感情に及ぼす影響については人がしばしば論じたところだが、それの倫理的態度への影響についてはまだ何も言われていないようだ。わたしはムルシエに入る前にエルチェの上述した棕櫚林を通ってきて、わたしの心が自然によってあまりにも掻(か)き乱されていたので、わたしの人間に対する関係は、すでに普通の人の物象に対する関係と同じものになりはじめていた」(ジュネ「泥棒日記・P.108」新潮文庫)
重要なのは、ジュネが人間との縁を断ち切るにあたって、自然界への参入を熱望しているということであり、むしろ逆に「自然界」《という》「体系の中に参入するのに値するものとなるためには、人間たちときれいに縁を断つ必要、自分を浄(きよ)める必要があるように思われた」点だ。自然界の体系へ参入するための「獣性《への》意志」が不可避的な過程として横たわっており、その実現のためにも人間とジュネとを繋ぎとめている人間的(ヒューマン)な関係を断絶することが必要不可欠とされる。
「わたしがアリカンテに着いたのは夜中だった。わたしは船渠(ドック)の中で眠らなければならなかった。そして明け方、わたしはこの市(まち)とその名称との神秘について啓示を受けた。すなわち、静かな海に臨んで、その中に裾(すそ)を没し去っている白い山々。棕櫚の木立ち、家々、波止場、そして朝陽の中の明るい澄んだ大気があったのだ(わたしはその後ヴェニスでもこれと同じ一刻〔ひととき〕を経験した)。あらゆる物象と物象の間の関係(つながり)は軽やかな喜悦であった。わたしには、このような体系の中に参入するのに値するものとなるためには、人間たちときれいに縁を断つ必要、自分を浄(きよ)める必要があるように思われたのだった。わたしを人間たちに繋ぎ留めていたのは感情の紐帯(じゅうたい)だったから、わたしのなすべきことは大騒ぎをせずに彼らから離れ去ることだった」(ジュネ「泥棒日記・P.108」新潮文庫)
ジュネは、「裏切り者、泥棒、同性愛」を選んでいる点で、不屈の犯罪者と比較してなんだか頼りない。とはいえ、野獣への新生のため、ともかく裏切ることから始めようと考える。手続きは郵便局で済ませる。獄中のペペに送ろうとおもっていた貨幣の流れに注目したい。
「旅の間じゅう、わたしはあの金を郵便局から引出して、それをモンジュイフの監獄にいるペペに送るという苦い歓びを自分に与えようと、途々(みちみち)、心の中で誓ってきたのだった。わたしはちょうど、店をあけたばかりの粗末な飲食店で熱いミルクを飲み、それから郵便局の窓口へ行った。係の男は別にむずかしいことも言わずに、紙幣の詰った封筒を渡してくれた」(ジュネ「泥棒日記・P.108~109」新潮文庫)
次のセンテンスはとりわけ重要だろう。ジュネの裏切りを成功させジュネ自身を新しいジュネへと更新させる役割を担うのはほかでもない貨幣の移動である。
「金はそっくり入っていた。わたしは外に出て、下水孔(マンホール)の中に棄てるつもりで札束をびりびりと破いた、が、人間たちとの絶縁をいっそうはっきりしたものにするために、わたしは公園のベンチの上で札の断片を糊(のり)でつなぎ合せ、それから思いきり豪勢な昼食を自分に奢(おご)ったのだった。ペペは牢獄の中で死ぬほど腹をへらしていたにちがいなかったが、わたしはこの罪によって、わたしが一切の倫理的顧慮から解放されたように思った」(ジュネ「泥棒日記・P.109」新潮文庫)
ここで生じていることは、貨幣が移動するときに不可避的にこうむらざるを得ない、貨幣の「価値=意味」の変化である。それがジュネの変身を可能にした。ジュネの気持ちの変化がどれほど決意満々だったとしてもただ単なる気持ちの変化だけではこのような「一切の倫理的顧慮から」の「解放」はありえない。マルクスはいう。
「独立の産業部門でも、その生産過程の生産物が新たな対象的生産物ではなく商品ではないような産業部門がある。そのなかで経済的に重要なのは交通業だけであるが、それは商品や人間のための本来の運輸業であることもあれば、単に報道や書信や電信などの伝達であることもある」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第一章・P.97~98」国民文庫)
ただ単なる「報道や書信や電信などの伝達」はいまや世界を制覇しつつある。しかし「報道や書信や電信などの伝達」が運輸業として「売るもの」は何だろうか。それは常に「場所を変えること自体である」。「場所移動」じたいが価値生産過程を形成する。ジュネの場合、場所を移動させるのは貨幣そのものである。貨幣はこの「場所を変えること自体」によって価値(剰余価値含む)を獲得する。
「運輸業が売るものは、場所を変えること自体である。生みだされる有用効果は、運輸過程すなわち運輸業の生産過程と不可分に結びつけられている。人や商品は運輸手段といっしょに旅をする。そして、運輸手段の旅、その場所的運動こそは、運輸手段によってひき起こされる生産過程なのである。その有用効果は、生産過程と同時にしか消費されえない。それは、この過程とは別な使用物として存在するのではない。すなわち、生産されてからはじめて取引物品として機能し商品として流通するような使用物として存在するのではない。しかし、この有用効果の交換価値は、他のどの商品の交換価値とも同じに、その有用効果のために消費された生産要素(労働力と生産手段)の価値・プラス・運輸業に従事する労働者の剰余労働がつくりだした剰余価値によって規定されている。この有用労働は、その消費についても、他の商品とまったく同じである。それが個人的に消費されれば、その価値は消費と同時になくなってしまう。それが生産的に消費されて、それ自身が輸送中の商品の一つの生産段階であるならば、その価値は追加価値としてその商品そのものに移される」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第一章・P.98~99」国民文庫)
要するに、ペペのいる獄中へ送金されることになっていた貨幣は「場所を変えること自体」によって、その価値を変容させる。言い換えれば、意味を変える。この意味変化によってのみ、ジュネはペペへの友情を断ち切り、俗世間にはびこる人間的(ヒューマン)な関係を切断することに成功する。このとき「わたしはこの罪によって、わたしが一切の倫理的顧慮から解放されたように思った」とジュネは述べる。けれどもよりいっそう適切にいうとすれば、ジュネはまったく新しい倫理を獲得したということであって、にもかかわらず、その態度は俗世間のあいだでしょっちゅう用いられる平凡な言葉に翻訳することができる。ジュネは「生き方」を手に入れたのだと。
さて、ブレストの乱暴者クレル。ときどき、黄昏(たそがれ)時を選んで人気のない場所へやってくる。クレルは殺人被害者ではなく間違いのない殺人者としての自分自身の確実性を感じる。殺人を犯したことによってクレルは殺人者クレルとしての自分の輪郭を明確化する。確実な意識を得る。自分は殺人被害者ではなく殺人者として、自分が確固たる存在となって世界の中の埋め込まれるべき位置に埋め込まれていると感じる。すると静かにではあるが、自分を取り巻き自分もまた取り巻くものの部分を形成している宇宙というものを全身で感じ取るようになる。そして或る理解に達する。「植物や事物に対していつも無関心でありながら」、こんどは「彼はそれらのものを自然に理解していた」という極限的認識に達する。
「死んだ人間の沈黙の影ともいうべき、一つの世界に身を浸して生きているという確信が、物事の本質を自然に理解することを得さしめる、一種の超然とした態度をクレルに与えていた。植物や事物に対していつも無関心でありながら、ーーーそれらのものを彼は見ていたのだろうか?ーーー現在、彼はそれらのものを自然に理解していた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.228」河出文庫)
だが周囲からみれば、クレルは所詮単なる犯罪者に過ぎない。しかしまたクレルの側にしてみれば、いつも何か悪い噂はないかと目を皿にし耳を壁にしてはばかるところをしらない悪意に満ちた俗世間による白眼視など取るに足らない。クレルの身にひたひたと忍び寄ってくる「危険や恐怖は」《逆に》「彼を生き生きとさせるもの」として活用される。
「徒刑場のなかに足を踏み入れると、クレルは自分が引受けようとしていた責任と恐怖によって、身も心も生き生きとするのをおぼえた。途中、ロジェとならんで黙々と歩きながら、彼は自分のなかに、ある激しい冒険の芽が芽生え、やがて花がひらき、その花が自分の身体中を香ばしくするのに気がついていた。危険な人生によって、彼は花が咲いたように元気になるのだった。危険や恐怖は、彼を生き生きとさせるものだった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.230」河出文庫)
クレルは、いまや「打ち棄てられた」刑場跡地をおとずれ、かつて罪人たちが通過すると同時にその歴史を彩ってきた様々な光景を想像のうちに堪能する。
「打ち棄てられた徒刑場の奥に、いったい何があるというのだ?彼は自分の自由にしがみついていた。ごくわずかのもやもやした気分が、港の徒刑場に対する恐怖心を彼のうちに呼び起していたのだ。胸の締めつけられるような気分とともに、彼は徒刑場の堂々たる壁に、自分が今にも押しつぶされるような感じを味わっていた。城塞の巨大な扉を、両手と全身の重みで閉める守衛の下士官とほとんど同じ努力、同じ腰の運動をもって、彼は壁に対して逆らい、怒りを遠ざけつつ、壁を遠ざけようと足を踏んばっていた。だんだんと進むうちに、彼はぼんやり、すでに死に絶えたある至福の生活に自分が近づきつつあるような気がしてきた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.230」河出文庫)
このときクレルは自分もまた徒刑囚になりたいと考えているわけではない。そうではなく、かつてこの場所で、どれほど過酷な拷問、不幸、憔悴、束縛、苦悩、苦痛が渦を巻いていたか。その閃光のように噴出する暗い光。どす黒すぎるために逆に微細な光の穴からその黒々とした影になって奔出する無数の犯罪。それら遥かなる汚濁の世界を思い描き、クレルは「一種の心地よい満足感、安らぎの予感のようなものを感じていた」のだった。
「それは彼が本気で自分を徒刑囚だと考えていたからではなく、また彼の心が、こんな作り話のような空想のなかで満足を味わっていたからでもなく、この厚い壁の暗い内部に、自分が自由に堂々と入って行くという考えに、彼が一種の心地よい満足感、安らぎの予感のようなものを感じていたからであった。この厚い壁の内部には、何百年というあいだ、拷問によってねじ曲げられ、不幸によって憔悴させられ、唯一の喜びとして犯罪の思い出ーーー影の谷間から光を噴出させる、もしくは光の孔から昔の犯罪の黒い影を奔出させるーーーすばらしい犯罪の思い出だけを心にいだいた、あれほど多くの縛(いまし)められた人間の苦悩が、あれほど多くの肉体的精神的な苦痛が、閉じこめられていたのであった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.230~231」河出文庫)
クレルは独特の犯罪思想を持っている。次の文章で「ひとに知られずに悪事を犯すのではない、こんな殺人犯は彼には興味がなかった」とある。もっと後になって出てくるのだが、わけのわからないうちにブレストの殺人事件の当事者として話題になってしまったジルの名は、もはや消すに消せない現実のものとしてマスコミの第一面を飾ることになる。クレルが思い描く犯罪者像というのはそういうものでなくてはならない。ただ単なる目立ちたがり屋など問題外でなくてはならない。というのも、たとえば事態の成り行きゆえジルの名が新聞に載ったとき、それは錚々たる面々と同等の取り扱いを受けるべくして始めて犯罪者は犯罪者に《なる》ということでなければならないからである。もっと後でもう一度述べるつもりだが少しばかり触れておこう。クレルは毎日注意深く新聞に目を通すタイプだ。ある日、ジルの名を見つけた。それは「ムッソリーニやイーデン氏と並んで、マレーネ・ディートリッヒよりも上段に」掲載されていた。クレルの犯罪思想はそのようなものでなければならなかった。ブレストという町全体を混乱に陥れるような次元のものでなければならなかった。単なる目立ちたがり屋にはとてもではないが、そのようなことで絞首刑になろうという意志など生まれるはずもない。そしてまた、犯罪の重大性を決定するのは犯罪者ではなく、ほかでもないマスコミの言語による犯罪の取り扱い方だということが明らかになる。ところで、一方、弟のロベールがもっと犯罪者ぶりを発揮することを期待すると同時に弟ロベールの犯罪行為が自分の犯罪よりも重罪さにおいて上回ることを「気に病む」性格でもあった。ロベールを心配するあまりではなく、殺人者たるクレル自身の「優越感を失いたくなかったから」だ。
「時たま、孤独が堪えがたいほど大きくなると、彼は新聞に名の出た何人かの殺人犯に獄中で会うために、すすんで逮捕されようかと考えることがあるほどだった。もっとも、そんな考えは思いつくと同時に、たちまち消えた。ひとに知られずに悪事を犯すのではない、こんな殺人犯は彼には興味がなかった。弟と自分とがよく似ているということは、このすばらしい友に対して、ちょっと心配な気持をクレルに抱かせることがあった。ロベールの前で、クレルはときどき、彼もやっぱり犯罪を犯しているのだろうか、と考えることがあった。クレルはそのことを気に病みながら、同時に、そうであってくれればよいと考えていた。彼がそのことを期待していたのは、もしそんな見事な奇蹟がこの世に存在するとすれば、何というすばらしいことだろうと考えたからである。一方、彼がそのことを気に病んでいたのは、ロベールに対する自分の優越感を失いたくなかったからであった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.232」河出文庫)
さて、クレルはこれからジルに会いに行く。クレルからみればジルはまだまだ子どもに過ぎない。「粗忽な少年であり、一文の得にもならぬ殺人を犯した、阿呆のようなちんぴら」としか映っていない。それでも一個のライターが機縁となって、「クレルは自分の殺人の一つを、ジルに貸し与え、ジルに委ねていた」ことになる。「泥棒日記」の中でジュネはスティリターノの切断された右腕の代理を巧妙に果たす。しかしいまのままのジルは「とてもクレルの片腕になれそう」にない。クレルの思考はあちこち奔放に行き来する。それでも「小説」として読めるということはどういうことだろうか。ジュネの文章力、というより、言語の力がそれを可能にしている。
「ところで、打ち棄てられた徒刑場に、クレルはこれから人殺しの若者に会いに行くところであった。そう思うと、彼の心は和らいだ。殺人犯は粗忽な少年であり、一文の得にもならぬ殺人を犯した、阿呆のようなちんぴらであった。しかしクレルのおかげで、少年は真の殺人で身を飾ることになるかもしれなかった。というのは、殺された水兵は金を盗まれていた、と考えられていたからである。クレルはジルに会う前から、ジルに対してほとんど父親のような感情をいだいていた。クレルは自分の殺人の一つを、ジルに貸し与え、ジルに委ねていたのであった。とはいえ、ジルは一人の子供にすぎず、とてもクレルの片腕になれそうな男ではなかった。こんな考えが(作者が述べているような明確な形ではなく、もやもやした雲のような形で)次から次へと重なり合い、一つが消えると次の一つがふたたび生れ出るといった風に、クレルのなかに、クレルの頭のなかというよりもむしろ彼の手脚や身体の内部に、波のように砕け散るのであった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.232~233」河出文庫)
しかしニーチェにいわせれば、人間は身体で考え、身体全体で書くのであり、様々に変化していく思考の流れは、たとえばクレルの場合、「クレルの頭のなかというよりもむしろ彼の手脚や身体の内部に、波のように砕け散る」。
ドゥルーズとガタリはいう。
「波は振動であり、常に抽象として存立平面に刻み込まれる流動的なボーダーである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.189」河出文庫)
クレルの身体に現われては消えることを繰り返す強度の波動。それは或る強度がほんのいっときそこに集まり、すぐさま流れの中へ解体していくような「波」あるいは「震動」のようなものでしかない。
BGM