タンジェはモロッコ北部の国際的港湾都市だ。ジブラルタル海峡に面している。いまでは世界的観光都市として有名だが。
「わたしは、もしできればタンジェ行きの船に乗り込みたかった。映画と小説がこの都会を恐るべき場所、各人が世界のありとあらゆる軍隊のいろんな秘密をいい値段で売買しようと血眼(ちまなこ)になっている博奕場(ばくちば)ともいうべき場所にしていた。スペイン側から眺めると、タンジェは物語の中の市(いち)のように見えた。それはまさに裏切りの象徴そのものであった」(ジュネ「泥棒日記・P.115」新潮文庫)
しかしなぜ「映画と小説」が関係あるのだろうか。ジュネが放浪していた一九三〇年代半ば、タンジェには、テネシー・ウイリアムズ、バロウズ、ギンズバーグ、ジョージ・オーウェルなどの別荘があった。また、第一次世界大戦以前から第二次世界大戦終結まで、様々な軍事的政治的謀略の舞台となった世界的貿易拠点の一つだった。政治的なものと芸術的なものとの猥雑な融合と奥深い陰影。それが見る者を駆り立てる無限の創造性の宝庫として際立たせていた。
「この都市はわたしにとって『裏切り』という行為を実によく、実に見事に表徴していた」(ジュネ「泥棒日記・P.116」新潮文庫)
しかしなぜ「裏切り」なのだろう。二度にわたる世界大戦の間、およそ九カ国による共同統治下に置かれるという政治的軍事的謀略の象徴ともいうべき国際都市だったからである。
「スパイ行為に対するわたしの欲望はあまりにも熾烈(しれつ)だったので、わたしは自分がそれから啓示を受けた、選ばれた者だと信じていた。わたしの額には、万人の眼に瞭然(りょうぜん)と裏切り者という字が刻印されているはずだった」(ジュネ「泥棒日記・P.115」新潮文庫)
ジュネは冷淡不遜かつ不覊独立の精神の塊にみえるスティリターノらの行動力の中に、「倫理的線の多様、それらの屈曲」が融合しつつ描き出す、裏切りや冒険に満ちた残酷無比な屈折した美を見いだす。
「わたしはそこに、マルク・オーベール、スティリターノ、そのほか、忠誠と廉直(れんちょく)という道徳的規範に対して無頓著(むとんじゃく)である、と断定することはためらいながらも、そうではないかとわたしが思っていた男たちを見いだすことができるはずだった。この連中について『彼らは不実な人間だ』と言うたびに、わたしは優しい感動を覚えた。今でもときどき感動する。彼らこそあらゆる種類の大胆さをなしうるとわたしが考える唯一の連中なのだ。彼らの倫理的線の多様、それらの屈曲こそ、冒険とわたしがよぶところの組紐(くみひも)を形づくっている」(ジュネ「泥棒日記・P.116」新潮文庫)
だがジュネはいつも失敗する。スパイ(諜報員)として生きていこうとしても、スパイへの意志をどれほど意志したとしてもなお、なぜか必ず失敗する。次のように。
「わたしは少しばかり金を貯めて、漁船に乗込ませてもらったが、《しけ》のために船は途中からアルヘシラスに戻らざるをえなかった。また一度は、水夫に頼んである汽船のデッキにひそかに乗込むことができたが、わたしのぼろぼろの衣服や垢(あか)だらけの顔、伸び放題の汚(よご)れた髪の毛などを見て恐れをなした税関の役人に、下船を差止められてしまった。スペインに帰された後、今度はセウタを経由して行くことにしたが、セウタに着くと同時に四日間拘留(こうりゅう)され、わたしはまたもや元の場所に戻らなければならなかった」(ジュネ「泥棒日記・P.115~116」新潮文庫)
だから諦めてもいる。
「もちろん、冷静に考えれば、わたしのような者をスパイの仕事に使ってくれる人間があるとは考えられなかった」(ジュネ「泥棒日記・P.115」新潮文庫)
しかし「スパイへの意志」は懲りることを知らず、何度も繰り返し反復される。ところが奇妙なことに、「スパイへの意志」はひとまず置いてみたとしても、こんどは「逆送への《反復》」を意志しているかのような様相を呈してくる。「わたしのぼろぼろの衣服や垢(あか)だらけの顔、伸び放題の汚(よご)れた髪の毛などを見て恐れをなした税関の役人に、下船を差止められてしま」い、「またもや元の場所に戻らなければならなかった」とあるように。この調子ではもはやスパイ以前の問題だ。ところがジュネは繰り返し「危険への意志」を反復せざるを得ない。なぜ反復なのか。なぜ「元の場所に戻らなければならな」いのか。さしあたりフロイトを見ておきたい。
「反復すること自身、つまり同一性を再発見すること自身が、快感の源になっていることは明白である。他方、分析される者にとっては、その幼児期の出来事を転移の中で反復する強迫が、《どんな場合にも》、快感原則の埒外に出ることは明らかである。患者はそのさい完全に幼児のようにふるまい、その原始期の体験の抑圧された記憶痕跡が、拘束された状態で存在しないこと、さらに二次過程の能力をある程度欠いていることを示すのである。この拘束されない一性質のために、昼の残滓に固執しながら、夢に現われる願望空想を形成する能力をもっているのである。おなじ反復強迫が、治療の終りに完全に医師からはなれようとするとき、実にしばしば治療上の障害として現われるのである。分析に慣れていない人の漠とした不安は、眠ったままにしておくほうがよいものを目覚まさせるのをはばかるためであるが、それは畢竟このデモーニッシュな強迫の登場をおそれるからであると推測される。
しかし、本能的なものは、反復への強迫とどのように関係しているのであろうか?ここでわれわれは、ある一般的な、従来明らかに認識されなかったーーーあるいは少なくとも明確には強調されなかったーーー本能の特性、おそらくはすべての有機的生命一般の特性について、手がかりをつかんだという思いが浮かぶのを禁じえない。要するに、《本能とは生命ある有機体に内在する衝迫であって、以前のある状態を回復しようとするものであろう》。以前の状態とは、生物が外的な妨害力の影響のもとで、放棄せざるをえなかったものである。また本能とは、一種の有機的な弾性であり、あるいは有機的生命における惰性の表明であるとも言えよう」(フロイト「快感原則の彼岸」『フロイト著作集6・P.172』人文書院)
「あらゆる有機的な本能は保守的で、歴史的に獲得されたものであり、退行、つまり以前の状態の復活に向けられているものとすれば、われわれは有機体の発展の成果を、外部から妨害し、偏向させる影響のせいにしなければならない。原始的生物は、そもそもの発端から変化することを欲しなかったであろうし、常に変わることのない事情のもとで、たえず同一の生活経路しか反復しなかったことであろう。究極のところ、有機体の発展に刻印をきざみつけたものは、われわれの地球と、その太陽にたいする関係の発展史にほかなるまい。保守的な有機的本能は、この押しつけられた生活経路の変化をことごとく受けいれ、反復のために保存しているのである。そのため、実はただ、ふるい目標を、新旧の二つながらの方法で追っているのに、何か変化と進歩を求める諸力があるかのような誤った印象を作り出しているのにちがいない。この、あらゆる有機体の努力の究極目標もまた、明らかにすることができよう。もし、生命の目標が未だかつて到達されたことがない状態であるならば、それは衝動の保守的な性質に矛盾するであろうから、むしろそれは、生物が、かつて棄て去った状態であり、しかも発展のあらゆる迂路を経てそれに復帰しようと努める古い出発点の状態であるに相違ない。もし例外なしの経験として、あらゆる生物は《内的な》理由から死んで無機物に還るという仮定がゆるされるなら、われわれはただ、《あらゆる生命の目標は死である》としかいえない。また、ひるがえってみれば、《無生物は生物以前に存在した》としかいえないのである」(フロイト「快感原則の彼岸」『フロイト著作集6・P.173~174』人文書院)
「無意識のうちには、欲動活動から発する《反復強迫》の支配が認められる。これはおそらく諸欲動それ自身のもっとも奥深い性質に依存するものであって、快不快原則を超越してしまうほどに強いもので心的生活の若干の面に魔力的な性格を与えるものであるし、また、幼児の諸行為のうちにはまだきわめて明瞭に現われており、神経症患者の精神分析過程の一段階を支配している。そこで、われわれとしては、以上一切の推論からして、まさにこの内的反復強迫を思い出させうるものこそ無気味なものとして感ぜられると見ていいように思う」(フロイト「無気味なもの」『フロイト著作集3・P.344』人文書院)
死の本能の支配。強迫神経症的反復行為。そう言ってしまえば簡単に過ぎるかもしれない。というのは、人間はただ単に死を欲する、というより、むしろ「死の欲望を生産する」諸機械の部分だからである。だからあえて直接的な死ではなく、間接的な死でもなく、何度も繰り返し反復される「死の欲望」を再生産するのだ。フロイトのいう「エス」(それ)はありとあらゆる欲望を生産し再生産する欲望する諸機械であるほかない。様々な迂路を経て死の欲望さえ再生産過程へ流れ込ませる、きわめて柔軟で精密な社会的公理系を張り巡らせた資本主義は、このような強迫神経症的な反復さえもどんどん再生産する。そして資本主義はどんな精神的身体的疾患ですら、いともたやすく貨幣交換の過程をくぐり抜けさせてそこから利子を獲得する、巧妙精緻な欲望する生産なのだ。「死の本能」はあらかじめ先験的に用意されているというよりは、むしろ資本主義の中で資本のあり方に則った仕方で時宜に応じて生産され生産調整すら施されるのである。
ジュネに戻ろう。「裏切り者と裏切り行為へのこの《追求》は、性愛の追求(エロチスム)の一つの形態以外のものではなかった」、と考えるに至る。ジュネが手を染める「裏切り者と裏切り行為へのこの《追求》」の反復は、「性愛の追求(エロチスム)の一つの形態以外のものではな」いがゆえに、どこまで行っても飽き足りず、限度を知らず、繰り返し追求される。そのエネルギーの源泉は間違いなく「エス」だ。
「裏切り者と裏切り行為へのこの《追求》は、性愛の追求(エロチスム)の一つの形態以外のものではなかったのだ。ある若者がわたしに眩暈(げんうん)的な歓喜を提供することは稀でありーーーそのような経験をしたことはほとんどないーーー、そうした眩暈的な歓喜は、ただ、わたしがある若者と一つに混り合って構成する人生の組紐だけがわたしに与えることができるのだ。わたしのシーツの下に横たわっている肉体、あるいは街路に立ったまま、あるいは夜、林の中で、また砂浜で、愛撫(あいぶ)されている肉体は、わたしに快楽の半ばを与える、すなわち、わたしにはその肉体を愛しつつある自分を見ることがはばかられる、なぜならわたしはかつて、優美さにおいて重要性を持っていたわたしの体がその瞬間の魅力の主要因であった状況を、あまりにも多く経験したからだ。わたしは今後はもうそうした状況をふたたび持つことは決してないだろう。このことにによってわたしは気がつくのだが、わたしはこれまで性愛追求(エロチック)の意図に満ちた状況しか求めなかったのだ。これが、他のいくつかのものと共に、わたしの人生を導いたものなのだ。わたしは、その主人公とそのもろもろの部分(ディテール)が性愛追求(エロチック)である冒険が存在していることを知っている。そうした冒険をこそ、わたしは生きたいと思ったのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.117~118」新潮文庫)
ジュネはスティリターノが留置所へ送られたことを知る。だからか、あまり元気がない。さらにジュネはこれまで「優美さにおいて重要性を持っていたわたしの体がその瞬間の魅力の主要因であった状況を、あまりにも多く経験した」年長者へ変わろうとしている。馴れ親しみ過ぎた。その意味で「裏切り、泥棒、性倒錯」ですらどこか「ステレオタイプ化」してきたことに気づく。しかし「そうした冒険をこそ、わたしは生きたい」という「冒険《への》意志」をけっして忘れてしまったわけではない。またジュネは、「わたしは今後はもうそうした状況をふたたび持つことは決してないだろう」、と述べる。しかしそれは同じことは二度とないという意味だ。ポーのいう“nevermore”の肯定的態度だ。むしろ、かつて「悦ばしき快楽」を味わった何よりの証拠を、こんどは「言語の力」で自分の裡で鋼鉄のごとく固く打ち固めるための、軽快なリズムを大切にする気持ちの準備に過ぎない。ジュネはニーチェによる次の言葉をとうに認識し、さらに承知してもいる。
「君は何かに或る大きな喜びをおぼえたのか?そうだとすれば、別れを告げることだ、そのものはけっして二度と到来しはしない」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・六八七・P.433」ちくま学芸文庫)
ジュネの記憶は欲望する記憶である。記憶はきわめて物質的な切断面として常に新しく切り出される。ベルクソンから。
「じぶんに影響を与える物質と、みずからが影響を与える物質のあいだに置かれていることで、私の身体は行動の一箇の中心である。すなわち、受容された印象が巧みにその経路をえらんで変形され、遂行される運動となるような場所である。私の身体があらわすものは、だからまさしく私の生成の現勢的な状態、じぶんの持続にあって形成の途上にあるものにほかならない。より一般的にいえば、生成のこの連続性ーーーこれがレアリテそのものなのだーーーにおいて、現在の瞬間は、まさに流れさってゆく流れのただなかで私たちの知覚がふるう、ほとんど一瞬の切断によって構成されるものであって、この切断面こそが、ほかならぬ物質的世界と呼ばれるものなのだ。私の身体は、その物質的世界の中心を占めているのである。身体は、この物質的世界の中で、それが流されるのを私たちが直接に感得するものである。かくて身体の現勢的な状態のうちに、私たちの現在の現在性が存している。物質は、それが空間中にひろがっているものであるかぎり、私たちの見るところでは、不断に再開される一箇の現在と定義されなければならない。逆にいえば、私たちの現在は、じぶんの存在にぞくする物質的なありかたそのものなのだ。いいかえれば、現在とは感覚と運動の総体であって、他のなにものでもない。しかもこの総体は、持続の各瞬間に対して決定され、各瞬間にとって唯一のものである」(ベルクソン「物質と記憶・P.276~277」岩波文庫)
「裏切り、泥棒、同性愛」の遂行過程で集中的に顕在化するが、ジュネは「歌」を目指している。それが性愛にもとづいているにせよ、むしろ逆に性愛を力としているがゆえに、「歌」は美しい。そして危険もまたその「歌わせる」という行為が孕む秩序の内部で、カオスへの崩壊傾向として潜んでいる。
「歌それじたいがすでに跳躍なのだ。歌はカオスから飛び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれぬという危険もある」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.317」河出文庫)
子どもたちの歌の輪は速度やリズムを自在に変容させながら、すでに大人になってしまった人々の前にいることも忘れて精一杯の創造力を見せてくれる。しかしときどき歌や踊りのリズムは崩れ、カオスが顔をのぞかせることもある。しかし子どもたちはあまり気にしない。場所を変える。時間を変える。そしてまた新しい歌や踊りを披露してくれてはいないだろうか。子どもは可能性そのものだ。どんな子どもも可能性でない子どもはいない。そして子どもたちもまたカオスを知っている。だが大人たちがカオスを恐れるほど子どもたちはカオスを恐れない。また創造すればいいだけのことだからだ。
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「わたしは、もしできればタンジェ行きの船に乗り込みたかった。映画と小説がこの都会を恐るべき場所、各人が世界のありとあらゆる軍隊のいろんな秘密をいい値段で売買しようと血眼(ちまなこ)になっている博奕場(ばくちば)ともいうべき場所にしていた。スペイン側から眺めると、タンジェは物語の中の市(いち)のように見えた。それはまさに裏切りの象徴そのものであった」(ジュネ「泥棒日記・P.115」新潮文庫)
しかしなぜ「映画と小説」が関係あるのだろうか。ジュネが放浪していた一九三〇年代半ば、タンジェには、テネシー・ウイリアムズ、バロウズ、ギンズバーグ、ジョージ・オーウェルなどの別荘があった。また、第一次世界大戦以前から第二次世界大戦終結まで、様々な軍事的政治的謀略の舞台となった世界的貿易拠点の一つだった。政治的なものと芸術的なものとの猥雑な融合と奥深い陰影。それが見る者を駆り立てる無限の創造性の宝庫として際立たせていた。
「この都市はわたしにとって『裏切り』という行為を実によく、実に見事に表徴していた」(ジュネ「泥棒日記・P.116」新潮文庫)
しかしなぜ「裏切り」なのだろう。二度にわたる世界大戦の間、およそ九カ国による共同統治下に置かれるという政治的軍事的謀略の象徴ともいうべき国際都市だったからである。
「スパイ行為に対するわたしの欲望はあまりにも熾烈(しれつ)だったので、わたしは自分がそれから啓示を受けた、選ばれた者だと信じていた。わたしの額には、万人の眼に瞭然(りょうぜん)と裏切り者という字が刻印されているはずだった」(ジュネ「泥棒日記・P.115」新潮文庫)
ジュネは冷淡不遜かつ不覊独立の精神の塊にみえるスティリターノらの行動力の中に、「倫理的線の多様、それらの屈曲」が融合しつつ描き出す、裏切りや冒険に満ちた残酷無比な屈折した美を見いだす。
「わたしはそこに、マルク・オーベール、スティリターノ、そのほか、忠誠と廉直(れんちょく)という道徳的規範に対して無頓著(むとんじゃく)である、と断定することはためらいながらも、そうではないかとわたしが思っていた男たちを見いだすことができるはずだった。この連中について『彼らは不実な人間だ』と言うたびに、わたしは優しい感動を覚えた。今でもときどき感動する。彼らこそあらゆる種類の大胆さをなしうるとわたしが考える唯一の連中なのだ。彼らの倫理的線の多様、それらの屈曲こそ、冒険とわたしがよぶところの組紐(くみひも)を形づくっている」(ジュネ「泥棒日記・P.116」新潮文庫)
だがジュネはいつも失敗する。スパイ(諜報員)として生きていこうとしても、スパイへの意志をどれほど意志したとしてもなお、なぜか必ず失敗する。次のように。
「わたしは少しばかり金を貯めて、漁船に乗込ませてもらったが、《しけ》のために船は途中からアルヘシラスに戻らざるをえなかった。また一度は、水夫に頼んである汽船のデッキにひそかに乗込むことができたが、わたしのぼろぼろの衣服や垢(あか)だらけの顔、伸び放題の汚(よご)れた髪の毛などを見て恐れをなした税関の役人に、下船を差止められてしまった。スペインに帰された後、今度はセウタを経由して行くことにしたが、セウタに着くと同時に四日間拘留(こうりゅう)され、わたしはまたもや元の場所に戻らなければならなかった」(ジュネ「泥棒日記・P.115~116」新潮文庫)
だから諦めてもいる。
「もちろん、冷静に考えれば、わたしのような者をスパイの仕事に使ってくれる人間があるとは考えられなかった」(ジュネ「泥棒日記・P.115」新潮文庫)
しかし「スパイへの意志」は懲りることを知らず、何度も繰り返し反復される。ところが奇妙なことに、「スパイへの意志」はひとまず置いてみたとしても、こんどは「逆送への《反復》」を意志しているかのような様相を呈してくる。「わたしのぼろぼろの衣服や垢(あか)だらけの顔、伸び放題の汚(よご)れた髪の毛などを見て恐れをなした税関の役人に、下船を差止められてしま」い、「またもや元の場所に戻らなければならなかった」とあるように。この調子ではもはやスパイ以前の問題だ。ところがジュネは繰り返し「危険への意志」を反復せざるを得ない。なぜ反復なのか。なぜ「元の場所に戻らなければならな」いのか。さしあたりフロイトを見ておきたい。
「反復すること自身、つまり同一性を再発見すること自身が、快感の源になっていることは明白である。他方、分析される者にとっては、その幼児期の出来事を転移の中で反復する強迫が、《どんな場合にも》、快感原則の埒外に出ることは明らかである。患者はそのさい完全に幼児のようにふるまい、その原始期の体験の抑圧された記憶痕跡が、拘束された状態で存在しないこと、さらに二次過程の能力をある程度欠いていることを示すのである。この拘束されない一性質のために、昼の残滓に固執しながら、夢に現われる願望空想を形成する能力をもっているのである。おなじ反復強迫が、治療の終りに完全に医師からはなれようとするとき、実にしばしば治療上の障害として現われるのである。分析に慣れていない人の漠とした不安は、眠ったままにしておくほうがよいものを目覚まさせるのをはばかるためであるが、それは畢竟このデモーニッシュな強迫の登場をおそれるからであると推測される。
しかし、本能的なものは、反復への強迫とどのように関係しているのであろうか?ここでわれわれは、ある一般的な、従来明らかに認識されなかったーーーあるいは少なくとも明確には強調されなかったーーー本能の特性、おそらくはすべての有機的生命一般の特性について、手がかりをつかんだという思いが浮かぶのを禁じえない。要するに、《本能とは生命ある有機体に内在する衝迫であって、以前のある状態を回復しようとするものであろう》。以前の状態とは、生物が外的な妨害力の影響のもとで、放棄せざるをえなかったものである。また本能とは、一種の有機的な弾性であり、あるいは有機的生命における惰性の表明であるとも言えよう」(フロイト「快感原則の彼岸」『フロイト著作集6・P.172』人文書院)
「あらゆる有機的な本能は保守的で、歴史的に獲得されたものであり、退行、つまり以前の状態の復活に向けられているものとすれば、われわれは有機体の発展の成果を、外部から妨害し、偏向させる影響のせいにしなければならない。原始的生物は、そもそもの発端から変化することを欲しなかったであろうし、常に変わることのない事情のもとで、たえず同一の生活経路しか反復しなかったことであろう。究極のところ、有機体の発展に刻印をきざみつけたものは、われわれの地球と、その太陽にたいする関係の発展史にほかなるまい。保守的な有機的本能は、この押しつけられた生活経路の変化をことごとく受けいれ、反復のために保存しているのである。そのため、実はただ、ふるい目標を、新旧の二つながらの方法で追っているのに、何か変化と進歩を求める諸力があるかのような誤った印象を作り出しているのにちがいない。この、あらゆる有機体の努力の究極目標もまた、明らかにすることができよう。もし、生命の目標が未だかつて到達されたことがない状態であるならば、それは衝動の保守的な性質に矛盾するであろうから、むしろそれは、生物が、かつて棄て去った状態であり、しかも発展のあらゆる迂路を経てそれに復帰しようと努める古い出発点の状態であるに相違ない。もし例外なしの経験として、あらゆる生物は《内的な》理由から死んで無機物に還るという仮定がゆるされるなら、われわれはただ、《あらゆる生命の目標は死である》としかいえない。また、ひるがえってみれば、《無生物は生物以前に存在した》としかいえないのである」(フロイト「快感原則の彼岸」『フロイト著作集6・P.173~174』人文書院)
「無意識のうちには、欲動活動から発する《反復強迫》の支配が認められる。これはおそらく諸欲動それ自身のもっとも奥深い性質に依存するものであって、快不快原則を超越してしまうほどに強いもので心的生活の若干の面に魔力的な性格を与えるものであるし、また、幼児の諸行為のうちにはまだきわめて明瞭に現われており、神経症患者の精神分析過程の一段階を支配している。そこで、われわれとしては、以上一切の推論からして、まさにこの内的反復強迫を思い出させうるものこそ無気味なものとして感ぜられると見ていいように思う」(フロイト「無気味なもの」『フロイト著作集3・P.344』人文書院)
死の本能の支配。強迫神経症的反復行為。そう言ってしまえば簡単に過ぎるかもしれない。というのは、人間はただ単に死を欲する、というより、むしろ「死の欲望を生産する」諸機械の部分だからである。だからあえて直接的な死ではなく、間接的な死でもなく、何度も繰り返し反復される「死の欲望」を再生産するのだ。フロイトのいう「エス」(それ)はありとあらゆる欲望を生産し再生産する欲望する諸機械であるほかない。様々な迂路を経て死の欲望さえ再生産過程へ流れ込ませる、きわめて柔軟で精密な社会的公理系を張り巡らせた資本主義は、このような強迫神経症的な反復さえもどんどん再生産する。そして資本主義はどんな精神的身体的疾患ですら、いともたやすく貨幣交換の過程をくぐり抜けさせてそこから利子を獲得する、巧妙精緻な欲望する生産なのだ。「死の本能」はあらかじめ先験的に用意されているというよりは、むしろ資本主義の中で資本のあり方に則った仕方で時宜に応じて生産され生産調整すら施されるのである。
ジュネに戻ろう。「裏切り者と裏切り行為へのこの《追求》は、性愛の追求(エロチスム)の一つの形態以外のものではなかった」、と考えるに至る。ジュネが手を染める「裏切り者と裏切り行為へのこの《追求》」の反復は、「性愛の追求(エロチスム)の一つの形態以外のものではな」いがゆえに、どこまで行っても飽き足りず、限度を知らず、繰り返し追求される。そのエネルギーの源泉は間違いなく「エス」だ。
「裏切り者と裏切り行為へのこの《追求》は、性愛の追求(エロチスム)の一つの形態以外のものではなかったのだ。ある若者がわたしに眩暈(げんうん)的な歓喜を提供することは稀でありーーーそのような経験をしたことはほとんどないーーー、そうした眩暈的な歓喜は、ただ、わたしがある若者と一つに混り合って構成する人生の組紐だけがわたしに与えることができるのだ。わたしのシーツの下に横たわっている肉体、あるいは街路に立ったまま、あるいは夜、林の中で、また砂浜で、愛撫(あいぶ)されている肉体は、わたしに快楽の半ばを与える、すなわち、わたしにはその肉体を愛しつつある自分を見ることがはばかられる、なぜならわたしはかつて、優美さにおいて重要性を持っていたわたしの体がその瞬間の魅力の主要因であった状況を、あまりにも多く経験したからだ。わたしは今後はもうそうした状況をふたたび持つことは決してないだろう。このことにによってわたしは気がつくのだが、わたしはこれまで性愛追求(エロチック)の意図に満ちた状況しか求めなかったのだ。これが、他のいくつかのものと共に、わたしの人生を導いたものなのだ。わたしは、その主人公とそのもろもろの部分(ディテール)が性愛追求(エロチック)である冒険が存在していることを知っている。そうした冒険をこそ、わたしは生きたいと思ったのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.117~118」新潮文庫)
ジュネはスティリターノが留置所へ送られたことを知る。だからか、あまり元気がない。さらにジュネはこれまで「優美さにおいて重要性を持っていたわたしの体がその瞬間の魅力の主要因であった状況を、あまりにも多く経験した」年長者へ変わろうとしている。馴れ親しみ過ぎた。その意味で「裏切り、泥棒、性倒錯」ですらどこか「ステレオタイプ化」してきたことに気づく。しかし「そうした冒険をこそ、わたしは生きたい」という「冒険《への》意志」をけっして忘れてしまったわけではない。またジュネは、「わたしは今後はもうそうした状況をふたたび持つことは決してないだろう」、と述べる。しかしそれは同じことは二度とないという意味だ。ポーのいう“nevermore”の肯定的態度だ。むしろ、かつて「悦ばしき快楽」を味わった何よりの証拠を、こんどは「言語の力」で自分の裡で鋼鉄のごとく固く打ち固めるための、軽快なリズムを大切にする気持ちの準備に過ぎない。ジュネはニーチェによる次の言葉をとうに認識し、さらに承知してもいる。
「君は何かに或る大きな喜びをおぼえたのか?そうだとすれば、別れを告げることだ、そのものはけっして二度と到来しはしない」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・六八七・P.433」ちくま学芸文庫)
ジュネの記憶は欲望する記憶である。記憶はきわめて物質的な切断面として常に新しく切り出される。ベルクソンから。
「じぶんに影響を与える物質と、みずからが影響を与える物質のあいだに置かれていることで、私の身体は行動の一箇の中心である。すなわち、受容された印象が巧みにその経路をえらんで変形され、遂行される運動となるような場所である。私の身体があらわすものは、だからまさしく私の生成の現勢的な状態、じぶんの持続にあって形成の途上にあるものにほかならない。より一般的にいえば、生成のこの連続性ーーーこれがレアリテそのものなのだーーーにおいて、現在の瞬間は、まさに流れさってゆく流れのただなかで私たちの知覚がふるう、ほとんど一瞬の切断によって構成されるものであって、この切断面こそが、ほかならぬ物質的世界と呼ばれるものなのだ。私の身体は、その物質的世界の中心を占めているのである。身体は、この物質的世界の中で、それが流されるのを私たちが直接に感得するものである。かくて身体の現勢的な状態のうちに、私たちの現在の現在性が存している。物質は、それが空間中にひろがっているものであるかぎり、私たちの見るところでは、不断に再開される一箇の現在と定義されなければならない。逆にいえば、私たちの現在は、じぶんの存在にぞくする物質的なありかたそのものなのだ。いいかえれば、現在とは感覚と運動の総体であって、他のなにものでもない。しかもこの総体は、持続の各瞬間に対して決定され、各瞬間にとって唯一のものである」(ベルクソン「物質と記憶・P.276~277」岩波文庫)
「裏切り、泥棒、同性愛」の遂行過程で集中的に顕在化するが、ジュネは「歌」を目指している。それが性愛にもとづいているにせよ、むしろ逆に性愛を力としているがゆえに、「歌」は美しい。そして危険もまたその「歌わせる」という行為が孕む秩序の内部で、カオスへの崩壊傾向として潜んでいる。
「歌それじたいがすでに跳躍なのだ。歌はカオスから飛び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれぬという危険もある」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.317」河出文庫)
子どもたちの歌の輪は速度やリズムを自在に変容させながら、すでに大人になってしまった人々の前にいることも忘れて精一杯の創造力を見せてくれる。しかしときどき歌や踊りのリズムは崩れ、カオスが顔をのぞかせることもある。しかし子どもたちはあまり気にしない。場所を変える。時間を変える。そしてまた新しい歌や踊りを披露してくれてはいないだろうか。子どもは可能性そのものだ。どんな子どもも可能性でない子どもはいない。そして子どもたちもまたカオスを知っている。だが大人たちがカオスを恐れるほど子どもたちはカオスを恐れない。また創造すればいいだけのことだからだ。
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