白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

ジュネ固有の聖性/「ナイフ」=「理想的に勃起した男性器」=「専制君主」=「精液」としてのマリオ

2019年09月29日 | 日記・エッセイ・コラム
詩人というものは一般的に俗世間の人間たちと隔絶されていることが多い。が、実際の詩人はあまりにも少ない、というべきだろうか。一般的に詩人は言語とその使用方法に対して過剰なほどの鋭さを有している。言語に対する過剰なほどの鋭さ。だからといって、そのような人間はすべて詩人であるとしても、職業詩人として生活しているかどうかは全然別々の問題だ。むしろ過剰なほど鋭敏な言語感覚を持っている人間が、ただ単なる専業主婦あるいは専業主夫だったり、ただ単なる会社員あるいは学生だったりすることのほうが圧倒的に多いのが実状だろう。ジュネもまたその一人に過ぎない。むしろ泥棒稼業が長かったことはジュネを文学の世界から長いあいだ遠ざけていただけでなく、同時にその詩人としての資質を発揮する機会からもずっと長いあいだ遠ざけるよう作用した。しかしジュネにとっての幸運は、長期間にわたって続けられた泥棒稼業の成果でもある。たまたまの一致に過ぎない。どれほど長く泥棒稼業に専心したとしてもそのすべての人間が詩人になれるわけではない。逆にどれほど泥棒と縁のない日常生活を送ってきたとしても簡単に詩人になってしまえる人間もいる。ところが、犯罪者か犯罪者でないかどうか、あるいはどのような生涯を送ってきたかにはまったく関係なく、むしろ言えるだろうことは、詩人というものは言語としてしか存在しないということであるだろう。そしてまた、言語について過剰なほど鋭敏であるという体質は、その人間にとって或る種の「生きにくさ」を生じさせずにはおかない。そのため、ともすれば詩人は、自分で自分自身を俗世間からかけ離れたところへ、どんどん追いやってしまうという逆説にいつもつきまとわれていなければならない。この種の探究心は、それが熱心であればあるほど、ジュネにいわせれば「汚醜の深さ」となり「徒刑囚の苦役のごとき仕事」ともなる。

「わたしは、その手段の厳粛さによって、彼が人間たちに近づくために用いた材料の壮麗さによって、詩人がそれだけ人間たちから遠く離れていたかを測る。わたしに汚醜の深さが、わたしの裡(うち)なる詩人に、この徒刑囚の苦役のごとき仕事をば強制したのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.300」新潮文庫)

ジュネは「人間たちがある深い作品から遠ざかることはよいことである」という。俗世間の人間は誰でも多少は俗世間の価値観を共有して生きている。ところが俗世間の中で俗世間の価値観にしたがって生きていると息苦しさが昂じてくる。だから気晴らしにでも構わないという条件がごろごろ転がっている俗世間の隙を突いて、しばしば言語を操ることでーーー単なる言葉遊びの範囲を越えないにせよーーーいつもの自分を脱構築(言い換えれば「変身」)して、自分を楽しむことができる。そのときその人間はすでに詩人である。そしてさらにそこから発した言語の系列がまさしく詩に近づけば近づくほど、詩人と化した人間は俗世間からかけ離れたところに自分を移動させているという事情でなくてはならない。俗世間から自分を隔離しようとして詩人になるのではなく、逆に、詩作していたらいつの間にか詩人になり、同時に俗世間とはまったくかけ離れた場所へ移動していたという事情でなくてはならない。詩人であるということは、すでに世俗とは隔たった場所と化した強度のことをいうのだ。だから、世俗とは隔たった場所と化した強度としての自分を自分で見るとき、自分はまぎれもなく詩人になっており、なおかつ同時に俗世間とかけ離れた場所の「中に醜怪にも埋没した人間の叫び」としての自分を発見するのである。もしそのときにできた作品が余りにも「醜怪」なものに映って見えたとすれば、その事実こそ、自分で自分に嘘はついていないという証拠となる。人間への愛というものは、様々な形を取って出現するのが常だ。そしてそれは実にしばしば「醜怪」なものでもある。だからこそ美しいのであり、また人間に対する全身全霊を賭けた愛というものも、一瞬の光芒でしかないにせよ、その「醜怪さ」において始めて目に見えるものとなるのである。

「ところで、わたしの汚醜はわたしの絶望であった。そしてこの絶望は、まさにそれを打破るために必要な力それ自身ーーーであると同時に、そのための材料であったのだ。しかし、もし作品が、最も深い絶望の激しい力を必要とする、最も美しいものであるならば、詩人は、このような努力に着手するには、人間たちを愛していなければならなかったはずだ。そして、彼は成功しなければならなかったのだ。人間たちがある深い作品から遠ざかることはよいことである、ーーーその作品が自己の中に醜怪にも埋没した人間の叫びであるならば」(ジュネ「泥棒日記・P.300~301」新潮文庫)

ニーチェは性愛を例にとって、なおかつユーモアを交えつつ、愛とはどういうものかをこう述べる。

「《愛》。ーーー愛は恋人に欲情さえもゆるす」(ニーチェ「悦ばしき知識・六二・P.137」ちくま学芸文庫)

「あなた方をわたしから遠ざけるためにわたしが必要とする手段の厳粛さによって、わたしのあなた方に寄せる愛情を測っていただきたい。あなた方の吐く息がわたしを腐敗させないようにするために(わたしは極度の腐蝕されやすいのだ)、わたしがわたしの生活とわたしの作品の中に築く障壁によって、わたしがどれほどあなたを愛しているかを推定していただきたい(芸術作品がわたしの聖性の証明以外のものであってはならない以上、この聖性が現実のものであることは、単に作品を生み出すために大切であるだけでなく、それはまた、わたしが未知の目的地へ向ってのさらにいっそう大きな努力をするために、すでに聖性によって強固なこの作品の上に身を支えるためにも、大切なことである)」(ジュネ「泥棒日記・P.301」新潮文庫)

ジュネは「聖性」という。ジュネは「聖性《への》意志」に《なる》。そうすればするほど俗世間からさらに、急速に、こっぴどくかけ離れ、よりいっそう引き裂かれる力を獲得する。ジュネは汚醜を意志している。ジュネにとってはよりいっそう深く暗く救いようのない「汚醜《への》意志」こそまさしく「聖性《への》意志」にほかならない。これまで何度も繰り返し述べられてきたことだ。にもかかわらず、そのような行為がなぜ人間への愛からなされる行為なのか。そこに愛の不思議さがある。ラディゲ「ドルジェル伯の舞踏会」にあるように、愛が演じる行為というのは、ときとして不可解に見える。しかし不可解に見えるのは周囲の眼が転倒しているからに過ぎない。ジュネの場合では、「聖性《への》意志」=よりいっそう深く暗く救いようのない「汚醜《への》意志」=「人間への愛」、という形を取って現われた。それだけのことに過ぎない。とはいえ、ジュネは、何もことさら好んで人間の一般的な言動からかけ離れようとしているわけではない。むしろ人間の内部へ没入しようとする。すると当然、「汚醜《への》意志」の中には「悪の天真爛漫(らんまん)な映像」が混在しているという隠しようのない事実もまた暴露されてこざるをえない。

「わたしの愛情はきわめて脆(もろ)い質料でできているのだ。そして人間たちの息吹(いぶ)きは、新しい天国を求める方式を惑乱させるだろう。わたしは、悪の天真爛漫(らんまん)な映像を人々に否応なく認めさせるだろう、たとえわたしが、わたしの生命を、わたしの名誉と栄光を、その探求の途上に失おうとも」(ジュネ「泥棒日記・P.301~302」新潮文庫)

創造するということ。それは「多少にかかわらず浮薄な遊びではない」。ジュネはジュネが言語化して登場させた様々な人物に対して、その無数の犯罪的言動を「とことんまで自分自身に引受ける」。この「引き受け」。それこそジュネがジュネの言語化によって登場してきた様々な登場人物への愛でありまた責任であり、本来的に「引き受ける」とはどういう態度を指すのかという世間一般の問いに対する明確な答えである。

「創造するということは、決して多少にかかわらず浮薄な遊びではない。創造者は、彼の創造したものたちが冒す危険をとことんまで自分自身に引受けるという恐ろしい冒険に身を投げ入れたのだ。その起源に愛が存在しないような創造は想像することができない。人はいかにして自己の面前に、自己と同じほど強いものとして、軽蔑(けいべつ)あるいは憎悪(ぞうお)すべき者を置くことができるだろうか」(ジュネ「泥棒日記・P.302」新潮文庫)

ジュネ独特の言語的操作のために、キリスト教の聖書が、たいへん重要な役割を果たしたことは以前にも述べた。ジュネはほかでもない「新訳聖書」にとって、実に良き読者であるということができる。ジュネは世間一般の凡庸な聖書解釈の範囲内で満足して凡庸な解釈のうちに引きこもるだけで十分に「浄化された」と思い込んでしまえるほど短絡的にエネルギーを枯渇させていない。どこにでもごろごろ転がっていそうな「神学者の言うことなどかまうまい」と書く。

「しかしそのとき、創造者は彼の人物たちの罪の重みをみずから背負うであろう。イエスは人間と化(な)った。彼は贖罪(しょくざい)する。神と同じく、彼は人間たちを創(つく)った後、彼らをその罪から解放するのである、ーーー彼は鞭(むち)打たれ、顔に唾(つばき)され、嘲弄(ちょうろう)され、釘(くぎ)づけにされる。これが、『彼(主)はその肉身において苦しみたもう』という表現の意味なのだ。神学者たちの言うことなどかまうまい」(ジュネ「泥棒日記・P.302」新潮文庫)

聖書参照。

「だれでも、わたしについて来ようと思う者は、まず己(おの)れをすてて、自分の十字架(じゅうじか)を負(お)い、それからわたしに従(したが)え」(「新約聖書・マルコ福音書・第八章・P.34」岩波文庫)

「だれでも、わたしについて来ようと思う者は、まず己(おの)れをすてて、毎日(まいにち)自分の十字架(じゅうじか)を負(お)い、それからわたしに従(したが)え」(「新約聖書・ルカ福音書・第九章・P.208」岩波文庫)

おそらく今あげた部分を意識しての解釈だろうとおもわれる。

「『この世の罪の重みを担(にな)う』とは正確に次のことを意味するのだ、ーーーすなわち、あらゆる罪を、潜勢としてまた顕勢として、その身に感じること、すなわち、悪を身に引受けたこと、である。すべて創造者は、このように、彼によって与えられ、彼の創造した者たちが自由に選びとるところの悪を背負うーーーこの語は弱すぎるだろうーーーそれを自己のものとする、それが彼を構成する質料であり、彼の血管の中に流れていることを意識するまでにそれを自己のものとすべきである」(ジュネ「泥棒日記・P.302」新潮文庫)

ジュネは、キリストの「創造した者たちが自由に選びとるところの悪を背負う」だけでは表現として「弱すぎる」と考え、こう続ける。「悪を背負う」というよりも「それを自己のものとする」ばかりか、「あらゆる罪」が自分の「血管の中に流れていることを意識するまでにそれを自己のものとすべきである」と。そこまで達して始めて、ジュネのいう「引き受ける」という態度は成就を得るということでなくてはならない。だからそのような態度こそ、ジュネが自分で自分自身に課した倫理である。ジュネのいう「聖性」はイエスの「聖性」とはちがっている。イエスの、あるいはキリスト教の教義にある「聖性」には、経済的富裕ではなく経済的貧困こそ純粋な宗教者であることの証明であるという、何かルサンチマン(復讐感情、劣等感)による逆襲意志が垣間見えるのである。さらにまた、経済的貧困さは信仰の純粋さの現われでありなおかつ「善」であるという教義に従ってしまうと、貧困者層の増大は経済的で社会的な構造的問題であるという世界的規模の現実からあっけなく目をそらせてしまうことになる。同時にいとも安易に経済的富裕層を、とりわけ資本主義の欲望を無際限に認め、資本に対して限度を忘れて無批判的に奉仕する側に回るといった転倒に陥ってしまうのがキリスト教の逆説でもある。一方、ジュネのいう「聖性」は聖書から学んだ一つの方法であって、方法でしかないといえばいえるかもしれないが、キリスト教の教義における「聖性《への》意志」とは比較にならない冷淡さに至ろうとする自分に対する限りないサディズムがある。「聖性《への》意志」が容赦なく与えるであろう過酷なサディズムをいとも淡々と「引き受ける」だけでなく、その過程から自分にとってのありとあらゆる利得を引き出してくる底知れぬマゾヒストとしても生きるジュネがいる。

「この点に、わたしは『創造』と『贖罪』というあの慈愛に満ちた神話の数多い活用の一つを見たいのである。あらゆる創造者は、その人物たちに自由意志を、自己を自由に処理する権能を付与するとしても、心の中ではひそかに、彼らが『善』を選びとることを願っているのである。あらゆる恋人が、相手から、他の顧慮からではなしにただ自分自身として愛されることを願うのは、これと同じことなのである」(ジュネ「泥棒日記・P.302~303」新潮文庫)

ジュネは、自分の作品の登場人物の創造者として、「『創造』、『贖罪』、『善』を選びとること」を希求している。世間一般の価値観における「『創造』、『贖罪』、『善』」では《ない》。だからといって、俗世間の価値観を馬鹿にするつもりはいっこうにないのだ。むしろ自分の作品の登場人物それぞれが、それぞれの倫理において倫理をまっとうすること、それが「裏切り行為」であるとすれば「裏切り行為」においてつきまとって離れない倫理観について誠実かつ忠実であることを願うのだ。たとえばここで述べられているように、その倫理は、「あらゆる恋人が、相手から、他の顧慮からではなしにただ自分自身として愛されることを願う」ことと等価であることを意味する。一般的な人間関係につきまとっている困難は、ジュネのいうこの困難を抜きにしたところでは何一つ考えることができない。或る人を愛するとき、相手を社会的に位置づけているあらゆる条件から解き放ってなお愛することができるか、それとも何らかの躊躇を感じないではいられないか。たとえば、或る人を愛するとき、その人がたいへんな貧困者である場合。逆にたいへんな上流階級に属している場合。さらには地区出身者である場合。身体的精神的障害者である場合。あるいは同性愛者である場合。そしてまた前科者である場合。また過去に「捨て子」であり親が誰だかさっぱりわからないような場合。外国ならインドなどで「アンタッチャブル(不可触民)階級」に属している場合。等々。それらの人々を「力」においても「美」においてもまったく対等の存在として愛し、受け入れ、引き受けるということを実践において証明すること。それがジュネのいう「聖性」であり、貧困者であればあるほど精神的には尊いというようなキリスト教精神とは決定的に異なる部分である。

ちなみに、個人的な知人の中に、ジュネに近い人間がいる。複数いる。さらにそのような人々は、何も特別に珍しいというわけでもない。むしろアルコール依存症や薬物依存症の治療現場ではしばしば見かけることができる。ふだん、ふつうにそこらへんの街路を散歩していたりする。だからといって、あえてこちらから声をかけたりはしない。むやみに声をかけたりしないのは、人間関係の基本として、現在互いが置かれている立場への尊重だと考えるからである。実在するそのような人々は、いまのところ、職業でいえばキリスト教の牧師が多い。だがそのような人々の過去は極悪無残というほかない薬物依存症者だった点に顕著な特徴がある。彼ら彼女らの体験談に注意深く耳を傾けていると、それはもう救いようのない事件簿の頁で埋め尽くされていることが少なくない。家族などとうの昔に失っている。何度か繰り返し体験談を聞いていると、何度目かにふと気づくことがある。「薬物《への》意志」とでもいっておこう。薬物を欲する意志の強固さは言語に絶する。何もかも失っている。あるのは借金ばかりだ。それでもなお増殖する「薬物《への》意志」。その行動力は限りなくエネルギッシュだ。しかし今はとても精力的なキリスト者として全国の刑務所で様々な慈善活動に励んでいる。そのエネルギッシュな姿から目に見える姿形を消去してみることにしよう。すると、全国の刑務所での様々な慈善活動において、これ以上ないほどエネルギッシュに流動する強度だけが残るだろう。それはほぼまちがいなく「薬物《への》意志」としてこの上なくエネルギッシュに行動していた流動する強度としての同一人物の動きとちがわない。もちろん、礼儀作法や日常生活の過ごし方はまるで違う。にもかかわらず、この上なくエネルギッシュに行動する流動する強度としては、異なって見えないのだ。両者はまちがいなく同一人物である。だからここで言いたいのは「見た目」だけではほとんど何も《わからない》という人間本来の創造性、もっといえば人間は「生成変化」するという事実である。

さて、淫売屋の主人と付き合っている警察官マリオ。ひょんなことからクレルと喧嘩することになる。もっとも、喧嘩という言葉は個人的に好きでないのだが、翻訳がそうなっていることと、このシーンで展開される事態がそうとしか言えないので仕方なく喧嘩という語彙を用いることにしよう。マリオはクレルに対して複雑な感情を持っている。とはいえ、マリオが水兵殺人事件に絡んでいるということは直接的な問題ではない。この喧嘩には警察官マリオとしての、勃起する専制君主としての、男性器それ自身であろうとすることへの、自信のなさがあるのだ。クレルは察しのいい若年者ゆえ、苦悶するマリオの警察官としてのプライドが瓦解しかかっていることを素早く見て取る。わざとクレルはマリオをからかって喧嘩に持ち込む。ところが怒ったマリオは警察官の特権的武器であるナイフを取り出してきた。

「マリオはピストルを取出し、職権を利用してクレルを殺してやろうかと思った。できれば彼を逮捕したかった。水兵が自分を脅迫していたのだから。ところで、唇を引きつらせ、胸をはずませ、息を切らせ、ぎこちない鈍重な身ぶりで、みすぼらしっく情けなく、ぶざまに身体を縮めていたマリオの心に、黄金の蜜蜂の舞う天上の香気にみちみちた、すばらしい妙案が生れた。すなわち、彼はナイフを取出したのである。クレルはナイフを眼にしたというよりも、むしろナイフの存在を予感した」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.280」河出文庫)

注目したいのは「ナイフの存在を予感した」とある箇所。「ナイフ」=「理想的に勃起した男性器」=「専制君主」という象徴化の過程はすでに始まっている。なのでこの箇所ではまだ「予感した」だけで十分なのだ。次の文章はジュネのこだわりである細かな描写。単なる遊戯あるいは楽しみとしての喧嘩はたちまち消え去り「地獄の狂暴性」という裂け目が顔をのぞかせる。

「今まで以上に抜け目なく陰険になった、刑事の急に変った身ぶりと、型通りの凄味と険悪さを加えたその態度によって、クレルはマリオの心に、もう取消すべからざる、大きな犠牲をはらって手に入れた一つの決意、殺人の意志ともいうべきものが生じたのを見抜いたのである。クレルには、ここで殺人の必然性をーーー殺人の重大性すらもーーー理解することはできなかったが、その刑事の殺人の意志ともいうべきものがだんだん大きくなると、ーーー刑事がジャックナイフを持っていれば、もちろん六.三五口径のピストルも身につけているにちがいないーーー敵が狂暴な、人間的な存在になりつつあるのを感じ(地獄の狂暴性は、もはや彼ら二人を戦わせていた喧嘩の趣味、復讐や侮辱の趣味とは何の関係もなかった)、にわかに恐怖にとらわれた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.281」河出文庫)

警察官マリオの輪郭が変容する。「朦朧」と《なる》。クレルがマリオの中に「金属の刃の鋭い死の存在を見抜いたのは、この時」だ。

「マリオのもやもや動くような、やや朦朧とした輪郭のなかに、クレルが金属の刃の鋭い死の存在を見抜いたのは、この時であった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.280~281」河出文庫)

とっさに態度を変化させるのはクレルである。慣れたものだ。生死がかかっているにもかかわらず、ではなく、生死がかかっていると感じるやいなや持ち直さなければならない態度については、年上の警察官マリオよりずっと若年のクレルのほうが遥かに上手をいっている。現実の見極め方に誤りがない。この違いは大きい。次の認識のように大きい。

「共産主義というのは、僕らにとって、創出されるべき一つの《状態》、それに則って現実が正されるべき一つの《理想》ではない。僕らが共産主義と呼ぶのは、<実践的な>現在の状態を止揚する《現実的な》運動だ。<僕らは単に次のことを記述するだけにしなければならない>この運動の諸条件は<眼前の現実そのものに従って判定されるべき>今日現存する前提から生じる」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.71(岩波文庫)

ところでナイフだが、ジュネの描写のすぐれた点はこういうところで発揮される。要するに、スローモーション的描写である。次の文章にあるようにナイフを秘めたマリオの動きについて、「軽やかな身ごなしにし、身体をアコーディオンのような、決定的な合図とともに不動のまま伸びるーーー縮むのではないーーー圧縮されたものにし、眼を取返しがつかないほど絶望的な、落着いた重要な影響を及ぼす(二人の死者を出すであろう)という意味で怖ろしいものに」していたのは、ほかでもない「ナイフ」だと感じる。ナイフという鋭利な刃物を所持した警察官マリオは、自分で自分自身の動きに「アコーディオン」のようにふらふらとした余裕を与えてしまう。そのため逆効果的に、マリオがナイフを所持しているとクレルは察することができる。

「目には見えないながら、この金属の刃のみが、撓(たわ)んだ手と曲げた手首を、ほとんど安心してこの刃に頼り切った、軽やかな身ごなしにし、身体をアコーディオンのような、決定的な合図とともに不動のまま伸びるーーー縮むのではないーーー圧縮されたものにし、眼を取返しがつかないほど絶望的な、落着いた重要な影響を及ぼす(二人の死者を出すであろう)という意味で怖ろしいものになっていたナイフのみを、はっきり感じていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.281」河出文庫)

さて、ナイフの「刃」について。「切れるという事実によって危険なのではなく、むしろ夜のなかの死の象徴だった」とある。象徴のほうが有効だという事態はこのような時に起こる。「死の象徴」としてのナイフは、象徴と化していて、実態が何なのかわからないからこそますます「恐怖の原因」として感じられるわけだが、しかし注目すべきことに「その刃は牛乳のように白く、やや流動性の物質でできていた」とある。性愛に人一倍関心を寄せるジュネの文章ゆえに、こう書き加えなければならない。「ナイフ」=「理想的に勃起した男性器」=「専制君主」、そして「精液」と。

「その刃は牛乳のように白く、やや流動性の物質でできていた。というのは、ナイフは切れるという事実によって危険なのではなく、むしろ夜のなかの死の象徴だったのである。この象徴であるということによって、象徴であるという単なる事実から人を殺すナイフは、クレルをおびやかしていた。恐怖の原因となっていたのはナイフの観念である」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.281」河出文庫)

この少し先でクレルは結果的にマリオに降参する。だがこの無益な喧嘩をわざわざ起こすために警察官マリオをそそのかしたのはほかでもないクレルなのだ。この喧嘩の前にクレルはマリオ相手にこんな行為でからかっている。

「警官を相手に戦っているのがクレルには嬉しかった。その若さと柔軟な身のこなしのため、クレルによって有利に運ばれているこの戦いは、相手を誘いながらも容易に身を許さず、ますます相手の渇望の気持を起させる、あの若い娘のコケットリーにも似た行為にほかならないことを、すでにクレル自身が感じていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.279」河出文庫)

「コケットリー」。遊びあるいは冗談で済めばそれにこしたことはない。だが実際はどうであろうか。クレルのコケットリーな態度はマリオを怒らせナイフを持ち出させてしまうところまで行ってしまった。

“coquetry”=「なまめかしさ、媚態、色っぽい、男にこびるような行為」。動詞で“coquet”=「気をひく、いちゃつく」。特に動詞の場合、ただ単に遊んでいるのかそれとも本当にその気があるのか、よりいっそう不明瞭になってしまう。性別に関係なく、もし相手の態度がコケットリーに見えた場合、ただ単なる遊戯で済ませるのがふつうである。ところが単なる戯れとしてあしらわれた場合、相手を無用に傷つけることにもなりかねない。しかしここでの問題はそのような場面に遭遇したときどうすればよいのかということではない。どちらが悪いとか悪くないという低次元の問題ではない。そうではなく、“coquet”=「気をひく、いちゃつく」という言語の両義性である。この種の言語あるいは態度は「パルマコン」(医薬あるいは毒薬)として、常に二重性を帯びてしか出現しないという事情に配慮すべきであるだろう。要するに、おとなはもちろん、少なくとも思春期に達した人々にとって社会的な態度とは何かについて問うたつもりである。

なお、コケットリーに関して、真っ先に述べた詩人との関係に触れておきたい。わかりやすい例として上げるわけだが、たとえば大手と呼ばれる銀行を舞台として。一方に三〇歳の男性行員がいる。まったく詩を理解しないタイプである。他方、まだ入行二年目の女性行員がいる。二十四歳。つねは窓口業務。ある日、たまたま二人が一緒に飲食する機会ができた。女性行員は男性行員の部下にあたる。ところで女性は、自分では意識していないが、詩や文学について実は理解力がある。上司にあたる男性行員はそれが全然ない。しかしそのようなケースは特に珍しいケースではない。逆の場合も多いにあるからだが。さて、酒の席で偶然小説の話題が出た。それがきっかけになったのかもしれない。翌日の昼休み、女性は男性の仕事部屋におもむいて、昨日の続きのつもりで詩を印字したレポート用紙を男性に見せる。男性はなるほど文学を話題にはしたけれども、詩のことなどとんと理解できない。男性は少々いらつく。女性はとっさに男性の気分を害してしまったかもしれないと警戒する。部屋は周囲と仕切られている。詩が理解できないことで何となく憂鬱な気分におちいってしまった男性はいきなり女性を羽交い締めにしてレイプしてしまう。というのも、一片の詩によって、男性の粗雑な知性は女性の繊細な知性によって地面に叩きつけられたからだ。このレイプ。その犯罪的光景。しかしこの光景は、見る側の人間によってはとてつもなく詩的なシーンに映って見えることがある。見る側の人間が男性でなく、もし長く行員をつとめてきた女性行員の場合、そこで行われているレイプはどのように見えるだろうか。侮辱するつもりなどまったくなかった若い女性行員と、侮辱されたと思い込んだ男性中堅行員。しかし行われているのは明らかに犯罪以外の何ものでもない。ところが、あるいはベテラン女性行員から見て、そこに或る種の詩を見てしまいはしないだろうか。そこに詩がある。そう思わないだろうか。もちろん、必ずしもそうとはまったく限らないし、ほとんどの場合、そうとは限らないわけだが。さらに、始めから女性の側にコケットリーな態度があったわけでは何らない。それでもなお発生する犯罪。犯罪とは何なのだろうか。さらにもし、屈辱のあまりこれ以上生きていけないと考えた男性が女性を殺害するに至るような場合。殺されつつある女性の苦悶に歪んだ姿を偶然目撃した人間が、その凄絶さをぎらぎらと照りつける太陽のようで思わず逃げ場がないと感じ、不可能な直視に陥ってしまい、そのまま恍惚となってしまったとしたら、その光景はむしろ壮麗な詩情の発露であり、なおかつ美というものではないだろうか。男女の立場が逆転する場合ももちろんあるにちがいない。だからといって、いずれにせよ、何も殺人を美化したいわけでも何でもない。ただ、俗世間にはそう感じる人々が少なからずいるということを指摘したいだけだ。というのも、特に日本には伝統的芸術として明治近代化以前から「耽美」という芸術様式を愛好する傾向が濃厚に残っているからである。耽美的な芸術はただ単に残酷であればよいというわけではさらさらない。それだけではただ単なる「猟奇趣味」に過ぎない。耽美的なものはそうではない。或る光景に出会う。そしてそこにまぎれもない詩を見るとき、人々はそれを耽美と呼び芸術と呼ぶのではないだろうか。たとえば「英名二十八衆句」が今なお非常に高い芸術的価値を有して、見る人々の足を瞬時に止めさせるほど魅了してやまないのはなぜだろうか。

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