白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

闖入する現実界アルマン/流通貨幣としてのロジェ

2019年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム
スティリターノを凌駕して屹立するアルマン。しかし別れの日はやってくる。別れは必然であろうか。その前にジュネは但書を添えている。

「こうした話の目的は、わたしの過ぎ去った数々の冒険を美しくすること、言いかえれば、それらの冒険から美を獲得すること、それらの中に、この美の唯一の証拠である歌を今日湧(わ)き起させるところのものを発見すること、である」(ジュネ「泥棒日記・P.295」新潮文庫)

何度も述べたが、「泥棒日記」はただ単なるジュネの作り話なのではない。そうではなく、第一に、当時は上手く言語化できなかった様々な経験をいまなら言語化することができるということである。そして第二に、言語化の作業の過程で、自然と歌が湧き起こってくるような部分、すなわち美と呼ぶに値する部分を発見する、ということでなくてはならないとジュネは力説しているわけだが。

「アルマンは最後まで『冷淡さ』の像として立っていた」(ジュネ「泥棒日記・P.295」新潮文庫)

アルマンを冷淡さの象徴として屹立させている条件は、前に述べたようにアルマンをアルマンたらしめている「楯形(たてがた)」であり「紋章」でもあり、堂々と盛り上がった胸の前で不遜にも組み合わされた筋肉隆々の「組紐(くみひも)飾り」と化している「両腕」である。「一つの強大な武器の表徴でもあった彼の両腕」。それはジュネに甘美な夜を思い起こさせる。そのため、主として夜になされる行為、あるいは現代では主にラブホテルの中で思う存分展開される行為、愛人の全身を隈(くま)なく愛撫せずにはいられなくなる。いつも不遜な態度を崩さない筋肉の塊であるアルマンが、劣情の塊である愛撫によって引き起こされる快楽のあまり、あられもない苦悶の喘ぎ声のうちに沈みこませずにはいられなくなるジュネ。アルマンの身体の場合、特徴的部分として「その青い刺青」は、ジュネにとって「一番星」の地位を獲得する。「一番星」というと何か俗っぽい馬鹿げた響きがあるのだが、要するにそれは「金星」である。幾多の恋人たちが貪欲に性生活を謳歌しているまさにそのとき、沈黙の裡(うち)に真っ先に夜空に輝く「金星」のことだ。

「一つの強大な武器の表徴でもあった彼の両腕は、わたしに夜を思い起させていた、ーーーそれらの琥珀(こはく)のような色によって、それらに密生した毛によって、それらの色情的な量感(マッス)によって(ある晩、そのとき彼は終(しま)いまで怒らなかったが、彼が横になっていたとき、わたしは盲人が指先で人の顔を認知するように、わたしのある器官で彼の腕組みをした両腕に隈(くま)なく触れたことがある)ーーーしかし、わけてもその青い刺青が、そのとき、一番星を空に出現させたのだった」(ジュネ「泥棒日記・P.295」新潮文庫)

アルマンとの情交に耽っていたジュネはしばしば他の外人部隊兵士との情交にも身を委ねていた。ところが、こちらの方の情交はアルマンとの情交について割かれている頁に比べて余りにも少ない。淡白過ぎるようにおもう。しかしそれにはそれなりのわけがある。前回、キリスト教との関連で「棕櫚」について述べた。次のシーンにも棕櫚が登場する。ジュネにとってキリスト教ならびに聖書はそれほどにも活用しがいのあるエピソードの宝庫だった。もっとも、まだ幼少時だった頃のジュネにとって始めはジュネの側がキリスト教の教義に奉仕するのであってキリスト教の教義がジュネに奉仕するわけではない。ところが、ジュネが一般的な社会秩序から排除されるやいなや事態は転倒する。こんどはキリスト教の教義がジュネの諸活動を奉仕する側にまわるのである。いずれにしても、一般的な社会秩序から排除された後もなお、キリスト教の教義とその豊富な語彙がジュネとその言語活動を支えていくことに変わりはない。その意味ではジュネは多くをキリスト教に負っている。ジュネを社会秩序から一方的に排除したのはキリスト教国家である。フランスはジュネを国外追放したに等しい。フランスはジュネを排除した。ジュネは祖国から断ち切られた。この断絶。取り返しのつかない決定的切断。だがその瞬間、ジュネはフランス語を話しフランス語で考えフランス人から財産を奪いフランス人を裏切る異邦人に《なる》。

さて、アルマンとはまた別の一人の外人部隊の男。男は「回教寺院の壁のそばで、その傾いた棕櫚の樹に寄りかかって」、アルマンと同じような冷淡な態度で、ときどきジュネを待っていた。ジュネはそういう無口な同性愛者を見つける技術に長けている。異性愛者にとっては姿形による隔たりあるいは服装とか振る舞いによる違いが両性の区別を容易にしている。だが、同性愛者の場合はそうではない。俗世間で信じられているように同性愛者は同性愛者を見分ける技術に長けていると実に長いあいだ言われてきた。が、昨今のLGBT問題の巨大化によって事実はそんな単純なものではないということがようやく知られるようになってはきたけれども。

「その回教寺院の壁のそばで、その傾いた棕櫚の樹に寄りかかって、一人の外人部隊の兵士がよく黄昏(たそがれ)どき、これと同じ冷淡で支配的な態度でわたしを待っていた。その男はある眼に見えない宝を守っているような感じを与えたが、今になってわたしは、彼が我々の情交にもかかわらず、彼の無瑕(むきず)の童貞を守っていたにちがいないと気がついた。彼はわたしより年上だった。我々はメクネスの公園で会うことにしていたが、彼はいつでもわたしより先に来て待っていた。彼は眼を虚(うつ)ろにして、ーーーあるいはそれはある明確な幻像に注がれていたのかもしれないーーーシガレットを吸っていた。そして彼が少しも体を動かさずにいるままで(彼は挨拶の言葉もろくに言わず、決して手は差出さなかった)わたしは彼の望む快楽を彼に与え、それからわたしの衣服をもとどおりに直して、彼のもとを立ち去るのだった。彼は美しい男だった。彼の名前は忘れてしまったが、わたしは彼が自ら『貪婪女』(あばずれ)の子だと主張していたことを憶えている」(ジュネ「泥棒日記・P.295~296」新潮文庫)

ジュネはその無口な外人部隊の男について「我々の情交にもかかわらず、彼の無瑕(むきず)の童貞を守っていた」と感じる。この場合、「情交」は男性と男性との情交を意味する。まちがいなく性愛的交合である。にもかかわらず、「無瑕(むきず)の童貞」とはどういうことだろうか。男が自分だけで自分勝手な主観的見地から「無瑕(むきず)の童貞」だと思い込んでいるのだろうか。そうではない。間違いようのない男性同性愛者として、これまで女性と情交した経験は一度もない、という意味だろう。さらにこのことは男性同性愛者として、あえて「女性という性」を軽蔑しているという意味ではない。逆に、男性同性愛を貫き通してきたという自尊心の現われと見るべきだろう。ところがいまでも、女性と性行為におよんだことは一切ない、ということを逆に自慢の種にしたがる男性同性愛者はいる。もちろん日本にもいる。むしろ日本のほうが他国より多いかもしれない。日本では武士道の一環として男性同性愛に重きが置かれてきた歴史がある。女性はただ単に子孫を残すための手段としてしか見なされていなかった。とりわけ江戸時代を通して二百五十年間、さらに第二次大戦敗北までの近代帝国主義時代、日本では武士道と男性同性愛は特権的地位の証明だったのだから。

なお、ジュネは「彼が自ら『貪婪女』(あばずれ)の子だと主張していたことを憶えている」が、それゆえに「彼は美しい男だった」といっているのであって、逆に「美しい男」は常に「『貪婪女』(あばずれ)の子」だとは限らない。しかし「『貪婪女』(あばずれ)の子」がいわゆる「美男子」であることはまったく取るに足りないほど少ないとも限らない。いまの社会的構造では主に思春期のうちに美少女だとか美女だとか言われちやほやされ、周囲から甘やかされて育つ傾向がある。結局、そのなかの一部の女性が悪質な仲間に惹かれまた悪質な仲間を呼び寄せ、金のかかる遊びを日夜繰り返すようになる。そのうち「『貪婪女』(あばずれ)化」してしまうわけだが、もともとの容姿は美少女あるいは美女に類別される女性だったという過去がある。だから生まれた子どもが途方もない美男子あるいは美少女に育つという傾向は今なおあるわけだ。しかしこの傾向が悪循環を反復させてしまうことは言うまでもない。そしてこの悪循環を断ち切ろうとしてキリスト教が全力を上げて取り組んだとしてもなお、事態はそう簡単に変わるわけではない。奇跡はないのだ。ただ、言えるのは、「『貪婪女』(あばずれ)の子」=「美男子あるいは美少女」という奇妙な循環を維持するとともに、異性に対して差別的意識を持つ同性愛者すら拡大再生産してしまっているのは、けっして女性の側ではないということだ。むしろこの奇妙な循環を悪循環たらしめているのは、今なお形式的にのみ改革されたことにして、現実には何らの変化も起こさない「男根ロゴス〔真理〕中心主義」的な社会構造なのだというほかない。しかし注意したいのは男性ばかりがそんなに悪いのかというもっともな疑問である。構造的観点からいえば、悪いのは男性か女性かという二者択一にはあまり意味がない。そうではなく、「男根ロゴス〔真理〕中心主義」的な社会構造を何度も反復させることでそこから莫大な利益を得ることに愉悦を感じている人々が後を絶たないことにある。では、莫大な利益を得ることに愉悦を感じることはそんなにもいけないことなのか。ところが愉悦を感じること自体は何一ついけないことではない。誰もそれ自体が駄目だとは考えてもいないだろう。しかし莫大な利益を集中させるためには、その過程で莫大な犠牲者をわざわざ続出させる必要性がある。それは果たしてよいことなのだろうかと問うことはできる。とすれば、よくないことなのだろうか。言ってしまえば問題はさらにそういうことでもまたない。むしろ今の日本の社会構造は良い悪いという二者択一的基準すら自分自身でどんどん破滅させていることに気づいていないことにあると言わねばならないだろう。資本主義に特有のこの不可避的事情には、年齢性別国籍のちがいなどほとんど関係がない。あるのは、もはや和解しきれなくなるまでにかけ離れた上層階級と下層階級との格差の、さらなる再生産ならびに拡大再生産という資本の自己目的があるだけだ。そしてこのような資本の自己目的をよりいっそう強化しているのは「男根ロゴス〔真理〕中心主義」的な社会構造を支持しなおかつ積極的に加担しているすべての人々であるというべきだろう。しかし今やそんな資本主義の「いろは」すら口にしなくなった、かび臭く古臭く腐臭を放つ既成政党にはもはやほとんど未来がないと言わねばならない。だから日本の与党はもっと精力的かつ暴力的に振る舞っていたとしても何ら不思議ではない状態だ。にもかかわらずそうしないのは、あるいはできないのには何か理由があると考えられるわけだが。では一体その理由とは何か。他の先進諸国のようにもっと精力的かつ暴力的に振る舞わないのはなぜか。振る舞えない理由がどこかから唐突に明らかにされるその前に、まだ何か言っておくべきことが何かとあるのでは、と考え込まずにはいられない。

さて、堂々たる胸の前で、あたかも胸を締め付けるように重々しく組まれた光り輝くアルマンの両腕。それは「色情的な量感(マッス)」としてジュネを圧倒する。とりわけ「夜」に。この事情はただちに「夜」という言葉の意味を「色情的な量感(マッス)」という意味と等価関係に置いてしまう。筋肉繊維のために微妙な陰影を帯びたアルマンの両腕は、特に「夜」を、「色情的な量感(マッス)」を、「楯形(たてがた)」を、「紋章」を、堂々と盛り上がった胸の前で不遜にも組み合わされた筋肉隆々の「組紐(くみひも)飾り」を、象徴する。観念的なものは消滅する。アルマンの身体の象徴化によって観念的な説明は一切必要なくなる。幾つかの代理表象へと象徴化されたアルマンの両腕はすでに「あらゆる形而上(けいじじょう)的不安への唯一無二の答」に《なる》。だからときどき笑えることが起こってくる。驚異的なアルマンの両腕を持つアルマン自身が自分で組み合わせた両腕をあっけなく解いてしまってごくふつうのアルマンに戻るとき、諸々の象徴も消えてしまう。するとそれまでアルマンを唯一無二たらしめていたアルマンそのものも「破壊され、消え去って」しまうという事態である。ところが、アルマンの掛けがえのない両腕を脈々と流動させていたのはほかでもないアルマンの身体なのだと思い至ることでジュネは気持ちを持ち直すことができる。

「アルマンの両腕の観照は、その晩、あらゆる形而上(けいじじょう)的不安への唯一無二の答だったのだとわたしは固く信じている。これらの両腕の背後に、アルマンは、破壊され、消え去っていた、と同時に一方で、彼は彼の体がそうありうるよりももっと確乎(かっこ)と現存し、そして、そして、より大きな効力を発揮していた、なぜなら彼は紋章に生命を与える者だったのだから」(ジュネ「泥棒日記・P.296」新潮文庫)

ジュネはちっぽけな身体しか持ち合わせていない。けれども自然界への回帰ということにかけては並々ならぬ意欲を示す。ゆえに、意識的にであれ、無意識的にであれ、自然界あるいはその顕著な特徴である獣性をみなぎらせている人間に出会うと慌てふためいて我を忘れ、ジュネは自分の性愛の全力を傾けて愛そうとする。しかし、人間はいつも一体化しているわけでは全然ない。一方の人間に力を見いだす。もう一方の人間に美を見いだす。両者はいつも二つに分裂していて一体化させることができない。どこからどう見ても両者は一人ではなく確実に二人の人間だからだ。ジュネにとって力の象徴はアルマンであり、美の象徴はロベールである。この時点ではまだ両者を融合させる力量を持たないジュネ。自分の至らなさに思い及んだジュネは遂にスペインを離れようと決意する。

「モーブージュ地方の森林地帯を通っていたとき、わたしは初めて理解したのだった、わたしがあれほど去りがたく思った国、この最後の国境を越えたときに突然それへのノスタルジーを感じた、わたしを囲繞(いにょう)していた地帯、それはアルマンの光り輝く優しさにほかならなかったことを、そして、この彼の優しさは、彼の残酷さを構成していたすべての要素の逆から見られたもの、から成り立っていることを理解した」(ジュネ「泥棒日記・P.297」新潮文庫)

ここで「森林地帯」とあるのは重要だろう。アルマンの「残酷さを構成していたすべての要素の逆から見られたもの」。それがアルマンの「光り輝く優しさ」の条件をなしているということ。「自然の優しさ」が「アルマンの残酷さ」を浮き上がらせる条件になっていたわけではない。それは早とちりというものだ。一方の極にあるものが他方の極にあるものをよりいっそう際立たせるというのは人間社会の中でのみ起こりうる出来事に過ぎない。そもそも自然は優しいであろうか。むしろ残酷この上ない循環を形成していないだろうか。動物や植物はそれを知っている。人間のようにではないが知っている。人間の場合、言語が認識を可能にする。だから人間にとっての自然とは言語を通して見た場合の自然でしかない。本当の自然は言語という形式的ヴェールに覆われた形でしか出現しないし見ることもできない。ところがアルマンの残酷さは自然界の優しさの対極に位置するものとして見えるというジュネの見解は誤解を招く恐れがある。事情はそうではない。アルマンの残酷さは、自然界の優しさを逆転させてみると同時に自然界の優しさに支えられて、始めて現われるといった「力」ではない。アルマンの残酷さは、自然界に本来的に備わっている残酷さが、一九三〇年代のヨーロッパの場末に、突如として出現し闖入してきた《現実界》なのだ。そしてまた、ジュネを「囲繞(いにょう)していた地帯」《としての》「アルマンの光り輝く優しさ」もまた自然界からの恩恵であり自然界から突如闖入してきた《現実界》だったと見るべきだろう。ジュネの精神をふと横切るノスタルジーは、だからこそ、自然の「森林地帯」を通過するとき湧き上がってくる。ちなみにプルーストにもそっくりな描写がある。

「私は木々が必死のいきおいでその腕を振りながら遠ざかってゆくのを見た、それはこういっているようだった、ーーーきみがきょう私たちから読みとらなかったことは、いつまでも知らずじまいになるだろう。この道の奥から、努力してきみのところまでのびあがろうとしたのに、そのままここに私たちを振りすてて行くなら、きみにもってきてやったきみ自身の一部分は、永久に虚無に没してしまうだろう、と。いましがた、この場所でまたしても感じた快感と不安、なるほど私はそのような種類の感情を、のちになってふたたび見出したが、そしてある晩、その感情にーーーあまりにもおそく、しかしこんどは永久にーーー私はむすびついたが、それはもっと先の話で、ともかくいまは、それらの木からは、それらが何を私にもたらそうとしたのか、どこでそれらを見たことがあったのか、それを私はどうしても知ることができなかった。そして馬車がわかれ道にはいってから、私はそれらの木に背を向け、それらを見るのをやめた、一方、ヴィルパリジ夫人から、なぜそんなぼんやり夢にふけった顔をしているのかとたずねられた私は、いましがた友人を失ったか、私自身を永久に見すてたかのように、または死んだ誰かに会いながら知らないふりをしたり、ある神の化身をそれと見わけられなかったりした直後のように悲しかった」(プルースト「失われた時を求めて3・P.53」ちくま文庫)

ジュネは認める。「力」の象徴としてのアルマン。「美」の象徴としてのロベール。両者を一つにする力量がいまの自分にないことを。そして、おそらく二度とその機会がやってくることはないと思うけれども、もし仮にそんな機会に恵まれるとすれば、「この両者、力と美がわたしの裡(うち)で結合しうるためには、わたしの慈愛が、自ら進んで、わたしの外で、完全の結び玉ーーー愛の結び玉を作ることに成功する以外に途(みち)がない」、と認める。

「今ではわたしにとって親しいものであり、可能でもある、慈愛の心が、この二人の男の幸福ではなく、彼らがさし示しているところのより完全な二つの存在、すなわち、力と美、の幸福を成就させようと努力しただろう。もし、この両者、力と美がわたしの裡(うち)で結合しうるためには、わたしの慈愛が、自ら進んで、わたしの外で、完全の結び玉ーーー愛の結び玉を作ることに成功する以外に途(みち)がないのだとすれば」(ジュネ「泥棒日記・P.297」新潮文庫)

さて、クレルはジルが隠れ家にしている昔の徒刑場跡地へ向かう。そこはブレストの辺境に位置する。或る共同体が他の共同体と接触する点に位置している。犯罪者同士が接触し合うにふさわしい場。それはいつも両者にとって辺境の地帯でなければならない。もっとも、「辺境」とはいえ、それは都会の真ん中であっても何ら構わない。ただ、そこは社会的なグレーゾーンに位置していることが条件である。

「商品交換は、共同体の果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始まる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・交換過程・P.161」国民文庫)

ロジェは「まるで外交使節のよう」だ。クレルとジルとを繋ぐ外交のためになくてはならない流通する物質でなければならない。

「少年はまるで外交使節のように、彼の主人である一人の皇帝のそばに、大急ぎで帰って行った。外国の君主を引見するための準備がすっかり整っているかどうか、確かめに行く必要があるらしいのだった。クレルの内部で、また何か新しい変化が起っていた。こんな厳重な警戒を彼は期待してはいなかった。悪人の巣窟へ入って行くというような考えは、まったく抱いていなかった。道はただそこで曲って、わずかな斜面のうしろに消えているにすぎなかった。べつに他の場所と変らず、とりわけ樹々が茂っているのでもなかった。それでもロジェの姿が見えなくなると、ロジェはクレルにとって、これまで思っても見なかったような何か大事な役割の存在、一個の《神秘な絆》となっていた。この子供に、これほど並はずれた役割、これほど思いがけない重要性をあたえていたのは、彼の不在であった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.233」河出文庫)

外交使節たるロジェがそばからいなくなると急に不安に襲われるクレル。このときロジェは社会的特権的物質として貨幣に《なる》。「貨幣《としての》ロジェ」にクレルは自分の大事な言葉を託した。したがって「貨幣《としての》ロジェ」の姿が見えなくなるとクレルは大金をなくした単なる一人の人間のような不安に襲われる。「彼の不在」は「貨幣《としての》ロジェ」の「不在」である。不安にならないほうがどうかしている。貨幣化したロジェはクレルにとってもジルにとっても優位な立場に立つ。貨幣形態をとったロジェはクレルをもジルをも曖昧な存在へと「おおい隠す」力を得る。

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)

ロジェは単なる外交使節でしかない。その意味だけでいえばロジェはなるほど、ただ単に「二人の殺人者のあいだの動く連結線」でしかないかのように映って見える。しかし「連結線」でしかないのであれば、クレルが「不安の念をおぼえずにはいられない」という意識のゆらぎは生じてこないはずだ。ところがなぜかクレルは不安をおぼえる。

「クレルは微笑した。しかし彼は、この子供が二人の殺人者のあいだの動く連結線、あの生き生きしたすばやい連結線であるという事実によって、不安の念をおぼえずにはいられなかった。この道を行ったりもどったりする子供は、思いのままに、この道を長くしたり短くしたりすることができる、この道の精神そのものであった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.233~234」河出文庫)

クレルの不安は貨幣が貨幣として与えられた運動を着実にこなすことができるかどうか「わからない」ことから来る。なぜ「わからない」のか。

「一商品は、他の商品が全面的に自分の価値をこの一商品で表わすのではじめて貨幣になるとは見えないで、逆に、この一商品が貨幣であるから、他の諸商品が一般的に自分たちの価値をこの一商品で表わすように見える。媒介する運動は、運動そのものでは消えてしまって、なんの痕跡も残してはいない」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.169」国民文庫)

マルクスのいうように「痕跡」は残らない。商品交換されたにちがいない。にもかかわらず貨幣が「媒介する運動は、運動そのものでは消えてしま」っている。商品交換にはつきものの現象なのだが、かといっていつもそれだけで安心している人間などどこにもいない。だから問題は、貨幣が再び貨幣になって回帰してくるまで気が気でないのはなぜなのか、ということでなければならない。しかしこの不安はふつうは単純に克服される。では一体どのようにして克服されうるのだろう。

「この困難、商品の《命がけの飛躍》は、販売が、この単純流通の分析で想定されているように、実際におこなわれるならば克服される」(マルクス「経済学批判・P.156」岩波文庫)

或るものと他のものとのあいだに横たわる差異を抹消して両者の価値を暴力的に押し貫くためにはこの「《命がけの飛躍》」が必要なのである。要するに、両者は始めから何の媒介もなしに単純に交換可能なのではない。むしろ両者のあいだで行われる「飛躍」が成功するかぎりでようやく始めて成立する裂け目あるいは断絶が存在するのだ。商品流通はこの「《命がけの飛躍》」に失敗するわけにはいかない。ところがしばしば失敗する。立場のちがいによって、この失敗を悔しがる人々がいる一方、この失敗をチャンスと捉えて生きいきしてくる人々もいる。それはそれとして。

「貨幣は、商品の価格を実現しながら、商品を売り手から買い手に移し、同時に自分は買い手から売り手へと遠ざかって、また別の商品と同じ過程を繰り返す。このような貨幣運動の一面的な形態が商品の二面的な形態運動から生ずるということは、おおい隠されている。商品流通そのものの性質が反対の外観を生みだすのである。商品の第一の変態は、ただ貨幣の運動としてだけではなく、商品自身の運動としても目に見えるが、その第二の変態はただ貨幣の運動としてしか見えないのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.205」国民文庫)

という事情でなくてはならない。クレルの不安はこのような事情から不可避的に出現する不安なのだ。ところで。

「ロジェの歩き方はだんだん速くなっていた。クレルから離れていると、ロジェは自分がもっと重くなったような気がするのだった。というのは、彼はクレルのなかの本質的なもの、つまり、クレルのなかにあって、ジルに近づくことを求めていたもの(ロジェは漠然とこんな風に理解していた)を、短い半ズボンをはいた少年にすぎなかったけれども、彼は自分のなかに、あらゆる儀式の礼法が包含されていることを知っていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.234」河出文庫)

外交使節あるいは「流通貨幣《としての》ロジェ」。クレルの意味内容〔価値〕とジルの意味内容〔価値〕とを接続するロジェという流通貨幣。その役割は広域にまたがって可能でなくてはならない。貿易がそうだ。

「貿易によって一方では不変資本の諸要素が安くなり、他方では可変資本が転換される必要生活手段が安くなるかぎりでは、貿易は利潤率を高くする作用をする。というのは、それは剰余価値率を高くし不変資本の価値を低くするからである。貿易は一般にこのような意味で作用する。というのは、それは生産規模の拡張を可能にするからである。こうして、貿易は一方では蓄積を促進するが、他方ではまた不変資本に比べての可変資本の減少、したがってまた利潤率の低下をも促進するのである。同様に、貿易の拡大も、資本主義的生産様式の幼年期にはその基礎だったとはいえ、それが進むにつれて、この生産様式の内的必然性によって、すなわち不断に拡大される市場へのこの生産様式の欲求によってこの生産様式自身の産物になったのである。ここでもまた、前に述べたのと同じような、作用の二重性が現われる(リカードは貿易のこの面をまったく見落としていた)。

もう一つの問題ーーーそれはその特殊性のためにもともとわれわれの研究の限界の外にあるのだがーーーは、貿易にとうぜられた、ことに植民地貿易に投ぜられた資本があげる比較的高い利潤率によって、一般的利潤率は高くされるであろうか?という問題である。

貿易に投ぜられた資本が比較的高い利潤率をあげることができるのは、ここではまず第一に、生産条件の劣っている他の諸国が生産する商品との競争が行なわれ、したがって先進国の方は自国の商品を競争相手の諸国より安く売ってもなおその価値より高く売るのだからである。この場合には先進国の労働が比重の大きい労働として実現されるかぎりでは、利潤率は高くなる。というのは、質的により高級な労働として支払われない労働がそのような労働として売られるからである。同じ関係は、商品がそこに送られまたそこから商品が買われる国にたいしても生ずることがありうる。すなわち、この国は、自分が受け取るよりも多くの対象化された労働を現物で与えるが、それでもなおその商品を自国で生産できるよりも安く手に入れるという関係である。それは、ちょうど、新しい発明が普及する前にそれを利用する工場主が、競争相手よりも安く売っていながらそれでも自分の商品の個別的価値よりも高く売っているようなものである。すなわち、この工場主は自分が充用する労働の特別に高い生産力を剰余価値として実現し、こうして超過利潤を実現するのである。他方、植民地などに投下された資本について言えば、それがより高い利潤率をあげることができるのは、植民地などでは一般に発展度が低いために利潤率が高く、また奴隷や苦力などを使用するので労働の搾取度も高いからである。ところで、このように、ある種の部門に投ぜられた資本が生みだして本国に送り返す高い利潤率は、なぜ本国で、独占に妨げられないかぎり、一般的利潤率の平均化に参加してそれだけ一般的利潤率を高くすることにならないのか、そのわけは分かっていない。ことに、そのような資本充用部門が自由競争の諸法則のもとにある場合にどうしてそうならないのかは、わかっていない。これにたいしてリカードが考えつくのは、なかでも次のようなことである。外国で比較的高い価格が実現され、その代金で外国で商品が買われて帰り荷として本国に送られる。そこでこれらの商品が国内で売られるのだからこのようなことは、せいぜい、この恵まれた生産部面が他の部面以上にあげる一時的な特別利益になりうるだけだ、というのである。このような外観は、貨幣形態から離れて見れば、すぐに消えてしまう。この恵まれた国は、より少ない労働と引き換えにより多くの労働を取り返すのである。といっても、この差額、この剰余は、労働と資本とのあいだの交換では一般にそうであるように、ある階級のふところに取りこまれてしまうのであるが。だから、利潤率がより高いのは一般に植民地では利潤率がより高いからだというかぎりでは、それは植民地の恵まれた自然条件のもとでは低い商品価格と両立できるであろう。平均化は行なわれるが、しかし、リカードの考えるように旧水準への平均化ではないのである。

ところが、この貿易そのものが、国内では資本主義的生産様式を発達させ、したがって不変資本に比べての可変資本の減少を進展させるのであり、また他方では外国との関係で過剰生産を生みだし、したがってまたいくらか長い期間にはやはり反対の作用をするのである。

このようにして一般的に明らかになったように、一般的利潤率の低下をひき起こす同じ諸原因が、この低下を妨げ遅れさせ部分的には麻痺させる反対作用を呼び起こすのである。このような反対作用は、法則を廃棄しないが、しかし法則の作用を弱める。このことなしには不可解なのは、一般的利潤率の低下ではなくて、反対にこの低下の相対的な緩慢さであろう」(マルクス「資本論・第三部・第三篇・第十四章・P.388~391」国民文庫)

「使者というのは、この儀式の受託者なのであった。ーーー主人よりもその使節の方がもっときらびやかな服装をしている理由を、ひとはこの子供の重要性から理解することができる。何千という装飾で重たくなった、繊細な子供の身体に、洞窟のなかにうずくまったジルの凶暴なまでの注意力と、国境でじっと動かずに待っているクレルの注意力とが、さらに重みを加えていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.234」河出文庫)

ジュネはロジェという「使者」を「儀式の受託者」として「主人よりもその使節の方がもっときらびやかな服装をしている理由を、ひとはこの子供の重要性から理解することができる」と述べる。それもそのはず。このときロジェはあたかも光り輝く「金それ自体」だからである。

「一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。だから、それはどの商品にでも付着することができる。他方、ある商品が一般的等価形態(形態3)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりでのことである。そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。言いかえれば、貨幣として機能する。商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。このような特権的な地位を、形態2ではリンネルの特殊的等価物の役を演じ形態3では自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現しているいろいろな商品のなかで、ある一定の商品が歴史的にかちとった。すなわち、金である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.130~131」国民文庫)

さらに。この貨幣協定は全世界共通のものとして破棄不可能な約束事と化している。

「金が実在の貨幣になるのは、諸商品が自分たちの全面的譲渡によって金を自分たちの現実に離脱した、または転化された使用姿態にし、したがって自分たちの現実の価値姿態にしたからである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.196」国民文庫)

そしてまた、クレルとジルとのあいだにある両者の差異について。流通貨幣は両者を等価関係に置くことで、両者に固有な差異を「消し去る」。

「貨幣を見てもなにがそれに転化したのかはわからないのだから、あらゆるものが、商品であろうとなかろうと、貨幣に転化する。すべてのものが売れるものとなり、買えるものとなる。流通は、大きな社会的な坩堝(るつぼ)となり、いっさいのものがそこに投げこまれてはまた貨幣結晶となって出てくる。この錬金術には聖骨でさえ抵抗できないのだから、もっとこわれやすい、人々の取引外にある聖物にいたっては、なおさらである。貨幣では商品のいっさいの質的な相違が消え去っているように、貨幣そのものもまた徹底的な平等派としていっさいの相違を消し去る」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.232」国民文庫)

「クレルは煙草に火をつけ、次いで両手を外套のポケットに入れた。彼は何も考えず、何も想像していなかった。彼の意識は、ただぐにゃぐにゃした形を成さない期待であり、不在の少年の突然の重要性によって、それが幾らか混乱させられているだけだった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.234」河出文庫)

なぜクレルの「意識は、ただぐにゃぐにゃした形を成さない期待で」しかなくなっているのだろう。もし交換が成立しない場合も考えられなくはないからだ。交換に失敗した場合、これまでのクレルの意図的言動の一切は「むだになる」ほかない。

「売りと買いとは、二人の対極的に対立する人物、商品所持者と貨幣所持者との相互関係としては、一つの同じ行為である。それらは、同じ人の行為としては、二つの対極的に対立した行為をなしている。それゆえ、売りと買いとの同一性は、商品が流通という錬金術の坩堝(るつぼ)に投げこまれたのに貨幣として出てこなければ、すなわち商品所持者によって売られず、したがって貨幣所持者によって買われないならば、その商品はむだになる、ということを含んでいる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.202」国民文庫)

商品ジルと貨幣ロジェとが対話したとしたらどうだろう。こんな感じではないだろうか。

「『おれだよ。ロジェだ』ロジェのすぐそばで、ジルの声がささやいた。『来てるのか、彼は?』『うん。待ってろって言ってきた。連れてきてもいいかい?』やや苛立たしげに、ジルは答えた。『いいさ、もちろん。はやく連れてくりゃよかったのに。行ってこいよ』ジルの住んでいる洞窟の前にクレルがやってくると、ロジェは大きな、はっきりした声で、『ほら、彼が来たよ、ジル。そこにいるよ』と言った」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.234~235」河出文庫)

伝達を果たしたことで「貨幣《としての》ロジェ」の役割は終わりを告げる。「雲散霧消」する。ロジェはもはや貨幣ではない。ロジェは貨幣でなくなった自分をかえりみて「人間の空しさというものを、人間がすぐに熔けてしまう鑞でできていることを、知った」のだ。ロジェが貨幣でありえた条件は、ロジェが貨幣に《なる》前のロジェ自身にある。それはロジェが労働力商品として強度を発揮するかぎりでの人間でなくてはならないという条件である。このいっときの貨幣化とその役割を終えたことでロジェはふたたびただ単なる労働力商品からやり直さなくてはならない。

「この言葉とともに、彼のすべての役割が終ってしまったことを、少年は悲痛な思いで感じるのだった。自分の身体が空っぽになり、自分の存在理由が失われてしまったことを彼は感じていた。数分のあいだ彼が身に負っていたすべての宝は、たちまちのうちに雲散霧消してしまった。彼は、人間の空しさというものを、人間がすぐに熔けてしまう鑞でできていることを、知った」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.235」河出文庫)

そして再び労働力商品ロジェからやり直すにしても、ふたたび貨幣として活動できるとしてもなお、資本家にはなれない。貨幣として暴れまわるのはロジェの自由だ。としてもしかし貨幣を自由に支配する側に位置することはできない。労働力商品ロジェは資本に従属するかぎりで自由に《なる》のであり、資本家として自由に《なる》ことはあらかじめ堰き止められている。二種類の「生成変化=《なる》こと」。ロジェは、そしてクレルやジルもまた、一方の「自由」ならいつでも許されている。ただ、けっして許されていないのは、資本家として「自由に《なる》自由」である。この関係は決して複雑でない。けれども次のような事情があることと、この事情は常に既に再生産されつづけていて途中で止めることができないという事実が壁になっている。

「労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現われるのである。夫役では、夫役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現われる。彼のすべての労働が不払労働として現われる。賃労働では、反対に、剰余労働または不払労働でさえも、支払われるものとして現われる。前のほうの場合には奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠すのであり、あとのほうの場合には賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係がおおい隠す」(マルクス「資本論・第一部・第六篇・第十七章・P.61~62」国民文庫)

そして壁はニーチェのいうように、すべてのエネルギーを内側に向かって逆流させる。とめどない自己破壊衝動を発生させる。実際のところ、この現象はアメリカで顕著なように、自殺、他殺、無理心中、鬱病、統合失調症などの形をとって出現する場合が多い。フクシマの原発排水をアメリカに引き受けさせるのではなく、逆に大阪湾に流し込むという逆流的発想はその好例というべきだろう。

「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.99」岩波文庫)

ロジェは自分の役割の終わりを知ると同時に役割を担っていたあいだ、「彼を《ふくらまして》いた誇りにみちた喜び」が確実に存在していたことに気づく。

「二人の人間を近づけるために、彼は盲目的にはたらいていたのだったが、その二人が近づいたと同時に、彼の役割は終ってしまったのである。彼の全生命は、この十分間続いた巨大な職務のなかに含まれていたわけである。そして彼の輝かしさは、たちまち光が薄れ、それまで彼を《ふくらまして》いた誇りにみちた喜びとともに、どこかへ消え去ってしまった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.235」河出文庫)

しかしロジェが貨幣の役割を担っていたときに「彼を《ふくらまして》いた」り、もはや貨幣の役割を終えて「どこかへ消え去ってしまった」りする「彼の輝かしさ」とは一体なんなのか。ところが「その間に起きたこと」もまた「すべて消えてしまっている」という事態を呈するほかない。

「資本の現実の運動では、復帰は流通過程の一契機である。まず貨幣が生産手段に転化させられる。生産過程はそれを商品に転化させる。商品の販売によってそれは貨幣に再転化させられ、この形態で、資本を最初に貨幣形態で前貸しした資本家の手に帰ってくる。ところが、利子生み資本の場合には、復帰も譲渡も、ただ資本の所有者と第二の人とのあいだの法律上の取引の結果でしかない。われわれに見えるのは、ただ譲渡と返済だけである。その間に起きたことは、すべて消えてしまっている」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十一章・P.63」国民文庫)

ジルは直接的にクレルを見ることはできない。クレルもまた直接的にジルを見ることはできない。両者のあいだには両者を媒介するものが必要なのだ。媒介するものとは何か。それは人々がどこにいても、どのような生活様式をとっていても、ほぼ確実に「貨幣、言語、性」に還元できる。流通貨幣として移動したロジェ。ジルからみればロジェの中にクレルが見え、クレルからみればロジェの中にジルが見える。ジュネは次のように書く。

「ジルの眼から見れば、以前は、この少年のなかにクレルが含まれていたのだった。クレルについて語るのも、クレルの言葉を伝えるのも、すべて少年の役目だったのである。逆にクレルの眼から見れば、この少年のなかにジルが含まれていたのだった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.235」河出文庫)

マルクスはこのような関係を次のような文章で述べている。

「価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる(見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、またペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである)。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.102」国民文庫)

そして貨幣循環は流通過程を介して回帰するし回帰しないわけにはいかない。

「価値は、過程を進みつつある価値、過程を進みつつある貨幣になるのであり、そしてこのようなものとして資本になるのである。それは、流通から出てきて、再び流通にはいって行き、流通のなかで自分を維持し自分を何倍にもし、大きくなって流通から帰ってくるのであり、そしてこの同じ循環を絶えず繰り返してまた新しく始める」(マルクス「資本論・第一部・第二篇・第四章・P.272」国民文庫)

人間関係もまたそうである。言語を媒介しつつ新たな人間関係を生産し再生産する。たとえそのうちの幾つかが破綻したとしてもなお「また新しく始める」。

BGM