白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

内在化されたステレオタイプに抗する性愛の線

2019年09月22日 | 日記・エッセイ・コラム
ギーとジュネは馬が合いそうで合わない。以前にも少し触れた。ジュネの泥棒観は、ギーの思い描くような泥棒観とは異なっている。ギーの想像する泥棒像にとって、ジュネは自分で「華(はな)やかな光景(シーン)の主人公となるがらではない」とおもう。

「泥棒の生活というものを、ギーは、すばらしい、輝かしいもの、緋(ひ)と金で織りなされたものとのみ見なしている。ところがわたしにとっては、それは、暗い、地下のものであり、そして冒険的で危険に満ちている点では彼の考えているものと同じだが、しかし、その危険は、屋根から落ちて骨を折るとか、追跡されて自動車もろとも石垣(いしがき)に衝突するとか、また、6.35口径のピストルの弾(たま)に当って死ぬとかいうのとは別種の危険なのだ。わたしは大寺院の宝物を盗み出すために枢機官に変装するとか、競争相手の盗賊団を《まく》ために飛行機に乗るとかいう、華(はな)やかな光景(シーン)の主人公となるがらではないのだ。そうした贅沢(ぜいたく)な遊びなどわたしにとってなんの価値があろう」(ジュネ「泥棒日記・P.332」新潮文庫)

ギーはジュネのことを自分勝手に兄弟分の弟だと決めつけていた。それはあるいは許せる行為かもしれない。ところが兄弟分の弟に当たるからといって、ジュネを警察に売らない、ジュネを裏切るわけにはいかない、というあたかも兄弟仁義のようなことを口にするギーには付いていけないとジュネは感じる。ジュネは裏切りという行為によってのみ生じる美についてよく知っている。世界の誰からも白眼視される行為のみに許される美を実際に生きてきた。密告者の孤独を愛する。だがギーは筋肉隆々な身体に恵まれていたにもかかわらず、裏切りをしない。それではただ単に悪質なごろつきでしかないではないか。ジュネは悪党としてのギーに失望を覚える。そしてますます「自分の影をなくした旅行者の孤独感と絶望とを理解」させられることになる。俗世間からみればなるほどより一層救いようのない「泥沼《への》意志」なのだが、ジュネにすれば自分の生い育った境遇から言語の力を活用しつつ徐々に磨き上げた固有の倫理性には換えがたい。

「いったい、彼自身は、仲間を裏切ったことが、売ったことがあるのだろうか?わたしは、彼が司法警察のある刑事と親しくしていたので、彼が職業的密告者ではないかとおそれーーーそして希望しーーーていたのだった。それをおそれたというのは、わたしが彼に密告される危険があったからであり、さらにまた、彼が裏切りにおいてわたしの先を越す可能性があったからだ。それを希望したというのは、そうすれば、わたしは汚醜の中に一人の道連れと一つの支柱とを持つことだったのだからーーー。そのとき、わたしは、自分の影をなくした旅行者の孤独感と絶望とを理解した」(ジュネ「泥棒日記・P.335~336」新潮文庫)

ギーはジュネを蔑(さげす)んでいた。筋肉隆々のギーの身体とジュネのちっぽけな身体とでは明らかな差がある。しかもギーは派手な冒険的犯罪を好む。目立ちたがり屋でもある。自慢屋でもある。ところがジュネの犯罪観はまるで逆だ。

「殺人は地下の汚醜の世界に到達するための最も効果のある方法ではない。それどころか、それを遂行した犯罪者は、流された血や、いや何時(なんどき)その首を切り落とされるかわからないという彼の肉体が置かれている不断の危険(殺人者は後退する、しかし彼の後退は上昇的なのだ)、そして彼が人に及ぼす魅力ーーーなぜなら人々は彼がこのようにはっきりと生命の法則に対立する人間であるので、一般に最も容易に想像される、最も強大な力の諸属性を備えているものと推定するからーーーなどによって、人々から蔑(さげす)みを受けることがないのだ。他の罪悪のほうがそれを犯した人間を卑(いや)しめ堕(おと)す。たとえば、盗み、物乞い、裏切り、背信、等であり、これらのことを犯すことをわたしは選んだのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.150」新潮文庫)

ジュネはいつも、誰からもどこからも救いようのない汚辱にまみれることを意志していた。だから、ややもすれば俗世間から話題にされることさえある超人的な殺人ではなく、むしろ地味な「盗み、物乞い、裏切り、背信、等であり、これらのことを犯すことをわたしは選んだ」わけである。ジュネはギーと二人で何とはない対話を少し引き延ばしてみる。ギーは自分の豪快さゆえにジュネを蔑んでいたが、豪快さにもかかわらず、何とはない対話の中で、ジュネがもし密告者だとしたら耐えられないと告白する。そのときギーの顔から蔑みの表情がふと消える。大いなる軽蔑に満ちたギーではなくちっぽけなジュネの裏切りを恐れるただ単なるごろつきの表情を洩らしてしまう。ちょっとした対話の中で発揮された言語の力によって両者の関係は微妙に変化する。ジュネは喜びを感じたが、とりわけ重要な一つの喜びを引き出した。

「言葉の練達がわたしに与えてくれた威信によって今度はわたしがギーを支配するようになった喜び」(ジュネ「泥棒日記・P.338」新潮文庫)

ギーが堂々たる大男だったことと関係する部分。それはしかし、ジュネが「大きくて逞(たくま)しい男を選ぶのは、失敗したときに護ってもらいたいためではな」い。

「わたしが大きくて逞(たくま)しい男を選ぶのは、失敗したときに護ってもらいたいためではなく、あまりにも強烈な恐怖を感じたときにわたしが彼の腕や腿(もも)の凹(くぼ)みというすばらしい避難所に駆けこみたいからだと、わたしは思っている。この選択は危険である。というのは、この選択の結果、恐怖があまりにも完全に柔らいで、優情と化してしまったことがしばしばあるからだ。わたしはあまりにもやすやすと、そうした見事な肩に、そうした背中に、腰に、身を任せてしまう」(ジュネ「泥棒日記・P.339」新潮文庫)

ジュネは自分で自分自身に課した倫理には厳しいが、性愛が絡むととてもやさしくなってしまうのだ。

さて、「不細工に修繕された一梃の安っぽいナイフ」とは何だろうか。見せかけのおもちゃのナイフのことだ。このナイフは凶器になりえない。子ども騙しのおもちゃでしかない。ところがロジェは十五歳にもなってなぜ役に立たないこんなナイフを持っていたのだろう。警察にはその意味が見えない。警察は象徴というものについて、その不可解な象徴性が創造する宇宙について、余りにも知っていない。

「実際の役には立たない見かけ倒しの凶器が、象徴となることによって、もっと危険なものになるということを警官は見抜けなかった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.211」河出文庫)

もしこれが本物の包丁だとか、ピストルだとかであったなら、ロジェはたちまち留置所行きだったろう。しかし本物の凶器は実に精密に使用目的を明確化させているため、子どもを怖がらせてしまい、子どもを実際の殺人から遠ざける効果を持つ。

「本物の凶器と、その使用目的と、その所有のなかには、恐怖心をいだく子供を殺人行為から遠ざけるに十分な、殺人行為の実行のための基礎というべきものが宿っている」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.211」河出文庫)

しかし象徴化されたナイフはそうではないのだ。物質の象徴性が表象する宇宙的世界はどこまでも多様で奇妙な合成物として編成、再編成されていくのだ。

「象徴的なナイフは、いかなる実際的な危険をももたらさないが、それが多様な空想的生活のなかで用いられると、犯罪への同意のしるしとなる」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.211」河出文庫)

「ますますジルを愛するようになっていた彼から、警官は何も引出すことができなかった。ロジェはまず、眼が廻るようにすばやい想像力をもった子供として、ジルを愛していた。犯罪は、激情的な一つの世界に彼を入りこませ、悲劇の仕組は、彼をジルに結びつけた。ジルがいなければ悲劇は起らなかったのだ。しかし最も堅固な最も緊密な絆、すなわち愛によって、彼は犯罪者に結びつけられねばならなかったのである。ロジェが警察をごまかすためにしていた努力によって、この愛はますます激しくなっていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.212~213」河出文庫)

なぜジルに対するロジェの「愛はますます激しくなっていた」のか。ニーチェはいう。

「『快』の本質が適切にも権力の《増大感》として(だから比較を前提とする差異の感情として)特徴づけられたとしても、このことではまだ『不快』の本質は定義づけられてはいない。民衆が、《したがって》言語が信じこんでいる誤った対立こそ、つねに、真理の歩みをさまたげる危険な足枷(あしかせ)であった。そのうえ、小さな不快の刺激の或る《律動的連続》が一種の快の条件となっているという、いくつかの場合があり、このことで、権力感情の、快の感情のきわめて急速な増大が達成されるのである。これは、たとえば痒痛(ようつう)において、交接作用のさいの性的痒痛においてもまたみられる場合であり、私たちは、このように不快が快の要素としてはたらいているのをみとめる。小さな阻止が克服されると、ただちにこれにつづいてまた小さな阻止が生じ、これがまた克服されるーーー抵抗と勝利のこのような戯れが、快の本質をなすところの、ありあまり満ちあふれる権力のあの総体的感情を最も強く刺激すると思われる」(ニーチェ「権力への意志・第三書・六九九・P.222~223」ちくま学芸文庫)

ロジェはジルに対して献身的ですらある。そしてこの献身的な愛によって愛が覚える様々な詐術を身につけていく。

「彼には気力を保つためにも愛が必要であった。最初に自分の生活と夢を守るという単純な必要によって警察をごまかしたとしても、警察の敵になることは、必然的にジルの味方になることだということを理解するのに手間取りはしなかった。その堂々たる振舞いが今や最高の段階(殺人と失踪のため)にあったジルに近づくために、ロジェは決然と《しら》を切ることに専念した。ジルの思い出は、今や彼の足もとに犬のように寝そべった影だけであった。ロジェは、この影の上に足をのせたかった。彼はひそかに、この影に逃げないでほしい、そして自分のそばに、かくれた神の使者か証人のように、踏みとどまっていてほしいと祈るのだった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.212~213」河出文庫)

ロジェは可憐だ。恋愛から生じる愛の手法を実に「巧みに」編み上げていく。したがって、ロジェの愛は当然のことながら、「ずるくなり、しかも純粋になった」。

「せめてこの影がためらい、動かなくなり、さらに長く伸びて、ジルのいる場所から自分のところまで届くようになってくれないだろうか。きわめて早く、ロジェは恋の手管を発見したのだった。しかし巧みに恋の手管を用いながら、彼は手管をおぼえさせた恋の剣に突き刺されていたのである。無邪気らしくなればなるほど、彼はずるくなり、しかも純粋になった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.213」河出文庫)

さて話題は変わる。昨今の日本の政治。あまり面白くないというのが正直な意見だ。それは与党とか野党とかいう前にすでに開始されている資本主義について、問われるべき問いがいつまで経っても解消されない現状を見ていて考えさせられてしまうからである。前回カフカ作品に登場する処刑機械について、それがただ単に技術機械であるだけでなく、社会機械であり、欲望の抑制を欲望する機械であるというドゥルーズとガタリによる指摘を引用しておいた。どのように作動するのか、少し確認しておきたい。

「『くわしくご説明いたしましょう。《ベッド》にも《製図屋》にも、それぞれバッテリーがついております。《ベッド》のバッテリーはそれ自体を動かすためのものですが、《製図屋》のバッテリーは、下の《まぐわ》を動かすためのものでしてね。囚人を固定させると、《ベッド》が動き出すのです。ほんのわずかな動きですが上下左右によく動きます。どこかの病院でこんな装置をごらんになったことがありませんか。ただし、この機械は一つの点でちがっております。動きがすべて正確に計量ずみなのです。《ベッド》の動きが《まぐわ》の動きと、ぴったり一致するようになっておりまして、まさしくこの《まぐわ》が判決を執行するのです』」(カフカ「流刑地にて」『カフカ短編集・P.57~58』岩波文庫)

「『つまり、いまごらんになったとおりです。《まぐわ》が書きはじめる。囚人の背中に最初の文字を刻みおわると、綿つきの《ベッド》が動いて囚人を横向きにする。すると《まぐわ》が、そこにまた文字を刻む。では刻みこまれた傷口はどうなるのか。綿には特殊加工がほどこされておりましてね、ギュッとおさえつけると即座に血がとまるのです。血がとまれば、その上からさらにまた文字を刻みこめるというものでして、ほら、ここです、《まぐわ》のふちをごらんください。ギザギザがついておりますね、囚人のからだを反転させる際、これでもって傷口に貼りついた綿をとり除き、穴の中へ落すのです。だから《まぐわ》はすみやかに動きつづけるわけでして、そのようにして十二時間のあいだ、だんだん深々と抉(えぐ)りこんで文字を刻みつけるのです。はじめの六時間は、囚人は痛がってはおりますが、とにかくまだしっかりしています。それから二時間したら口のフェルトをとり去ります。そのころにはもうわめく力もないのです。ここのところ、ちょうど顔がくる位置に電気保湿の容器がついておりますが、あたたかいお粥(かゆ)を入れておくのです。囚人は食べたければ舌ですくって食べることができる。誰だって例外なく食べたがりますね。わたくしの知るかぎり、囚人は食べものに目がないものでありましてね。不肖わたくし、実にもうどっさり囚人をみてきたのです。六時間目、これが境い目でしょう、もう食べようとしなくなります。そのとき、自分は前にしゃがんで、じっくりながめることにしております。最後の一口を呑みこむことができないのです。それでも頑張って口に含んでおりますが、そのうち穴から吐き出します。いそいで首をひっこめなくてはなりません。でないと、ゲロが顔にとんできたりしますからね。六時間たつと、なんとおとなしくなることでしょう!どんなに愚鈍な男にも悟性がにじみ出てくるときなのです。まず目のあたりにあらわれます。それから全身にひろがっていくのです。一緒に手を握りあって《まぐわ》の下で横になっていたいような気持にさそわれたりするほどなのです。あとは別に何もおこりません。囚人は判決を読みとろうとしはじめます。口を突きだしたりしましてね、耳をすましているらしいのです。先ほどおわかりになったでしょうが、判決を目で読みとるのは容易なことではありません。だからして囚人は、からだの傷口で解読するのです。たやすいことではありませんよ。さらに六時間はかかります。それが終わると《まぐわ》が囚人をグサッと刺し貫いて、穴の中へ放りこみます。死体が血まみれの汚水と綿屑の上へ落下いたします。以上でもって裁判は終了したわけでして、自分たち、つまりわたくしは兵士ともども死体を埋めるのであります』」(カフカ「流刑地にて」『カフカ短編集・P.69~71』岩波文庫)

しかし流刑地でこれまで採用されてきたこのような処刑方法は絶滅の危機にある。「将校にとっては命にもかえがたい」処刑方法は「廃止されるせとぎわにある」。大勢の見物人を集める華々しい身体刑などもはや時代遅れだというわけだ。「非人間的」に思われるからである。華々しい身体刑の時代の終焉の兆候に絶望している将校はこれまで司令官の命令に則って忠実に遂行してきた処刑方法への愛惜の念から、もうたぶん使われることのない処刑機械の中に自分で入って殉死することを決意する。こんどは将校が将校自身を処刑する番だと察したのだ。将校は裸になる。処刑機械の中に入る。歯車は動き出す。

「歯車が軋んだのか?そうでもなさそうだった。《製図屋》の蓋がゆっくりともち上がり、つぎには音高く全開した。歯車のギザギザの部分がのぞいて、ゆっくりともち上がり、つづいて歯車全体があらわれた。まるで何かある大きな力が《製図屋》を圧しつぶし、歯車が押し出されたようだった。歯車は廻りながら《製図屋》のはしにきて、落下し、しばらく砂に立っていたが、そのうちパタリと倒れて動かない。とみるまにすでに次の歯車があらわれていた。大きなのや小さなのが次々と数かぎりなくあらわれて、同じように次々と落下し、しばらく砂の上に立っていたかとおもうとパタリと倒れて静止するのだ。一つがあらわれるたびに、それでもって《製図屋》の中がもう空(から)になったと思うのだが、つづいて新しいのがあらわれる。やがていろんな歯車の組み合わされたのがあらわれた。一組が落下し、砂の上で廻って静止したかと思うと、また別の一組があらわれた。囚人はすっかり夢中になっていた。我を忘れ、歯車が顔を出すたびに摑みとろうとして兵士に声をかけ、手助けをたのむのだが、そのつど、あわてて手を引っこめた。別の歯車がニョキリとあらわれるからだ」(カフカ「流刑地にて」『カフカ短編集・P.96~97』岩波文庫)

華々しい身体刑の時代は終わった。しかしそれは非人間的だから終わったわけではない。資本主義がそう欲望したからである。要するに金のかかる処刑方法を廃絶してもっと合理的で「人間的であるかのように見える」処刑方法へ転換される。そして新たに発明された処刑あるいは罰則規定が創設されるだけなのであるが。しかしその仕組みは資本主義を延命させるための新たな公理系の創設として有効に力を発揮する。処刑制度の場合は極めてわかりやすい。《経済策》という合理化なのだ。とはいえ、資本主義機械としての社会機械という見地からみれば、このような動きもまたただ単に経済的だというわけではなく、むしろ器官なき身体の上を流れる大きな流れとしての「無意識的リビドーの仕事である」というほかない。

「資本主義機械においては、ある大きな突然変異する流れが、占有もせず占有もされず、資本の充実身体の上を流れて、ひとつの不条理な権力を形成しているが、われわれは、この資本主義機械が、いかにして、こうした大きな流れによってかこまれた内在体系を構成しているのかということをみてきた。給料収入や企業収入といったものは、種々の目標や利害範囲、種々の採取、離脱、取り分を規定するものであるが、いまふれた大きな流れがこれらの収入⦅給料収入であれ、企業収入であれ⦆に変換される限りにおいて、それぞれの各人は、自分の階級においてまた自分個人において右の不条理な権力から何かを受けとることになるのである。でなければ、各人はこの権力から排除されているというわけなのである。ところが、流れそのものとその公理系との備給は、もとよりポリティカル経済学の正確なる認識を何ら必要とするものではない。こうした備給は、むしろ無意識的リビドーの仕事である。このリビドーは、種々の目標によって予め前提とされているものなのである。最も不利益を受けている人々や最も排除されている人々が、自分たちを圧倒する体系を情熱をこめて備給しているといったことが、よくみられる。そして、かれらは、この体系に常に利益を《見いだしている》のだ。何故なら、かれらは、そこにおいて利益を求め利益を測定しているからである。利益はいつも後から来るというわけなのである。反生産は、この体系の中に伝播〔流出〕している。ひとは、反生産を反生産のために愛するのであろう。これは、まさに資本主義の大きな集合の中で、欲望が自分自身を抑制するのと同じ流儀である。たんに他人に対してだけではなくて、自分自身において欲望を抑制すること。他人たちと自分自身とを見張るデカであること。これこそが、ひとびとを結束させる仕方なのである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.412」河出書房新社)

さて、「たんに他人に対してだけではなくて、自分自身において欲望を抑制すること。他人たちと自分自身とを見張るデカであること」、とある。このシステムの構築はすでにフーコーによって明らかにされた。資本主義はこのシステムを保存するというより、固定的なものとして成立したこのようなシステムを、固定性から解放し、欲望する社会機械としての人々の「無意識的リビドー備給の仕事」へ置き換えたのである。常に可変的なものへ変質させることに成功した。だからそのぶん、目に見える「残酷さ」は消えていくが、より狡猾となって、目に見えにくい「残酷なもの」は残される。ともかく、決定的転換点となった事情をフーコーから引いておきたい。「一望監視装置」(パノプティコン)とは何か。

「<一望監視装置>(パノプティコン)は、見る=見られるという一対の事態を切り離す機械仕掛であって、その円周状の建物の内部では人は完全に見られるが、けっして見るわけにはいかず、中央部の塔のなかからは人はいっさいを見るが、けっして見られはしないのである。これは重要な装置だ、なぜならそれは権力を自動的なものにし、権力を没人格化するからである」(フーコー「監獄の誕生・P.204」新潮社)

被拘禁者の匿名化ではなく権力の匿名化が始まる。そこでは「誰が権力を行使するかは重大ではない」。誰にでも「代理がつとまる」。ところが監視される被拘禁者の側にしてみれば「不意をおそわれる危険と観察される不安意識がなおさら増す」。絶えず見張られている気がする。監視する人々が誰であれ、何人の人間がその間に入れ換わっていたとしても、監視する側の匿名性がもたらす権力の偏在性によって、権力の側にすればパノプティコンは「権力上の同質的な効果を生む絶妙な機械仕掛」となる。

「誰が権力を行使するかは重大ではない。偶然に採用された者でもかまわぬぐらいの、なんらかの個人がこの機械装置を働かすことができる、したがって、その管理責任者が不在であれば、その家族でも側近の人でも友人でも来訪者でも召使でさえも代理がつとまるのだ。まったく同様に、その人を駆り立てる動機が何であってもよく、たとえば、差し出がましい人間の好奇心であれ、子供のいたずらであれ、この人間性博物館を一巡したいとおもう或る哲学者の知的好奇心であれ、見張ったり処罰したりに喜びを見出す人間の意地悪さであれかまわない。こうした無名で一時的な観察者が多数であればあるほど、被拘禁者にしてみれば、不意をおそわれる危険と観察される不安意識がなおさら増すわけである。<一望監視装置>とは、各種各様な欲望をもとにして権力上の同質的な効果を生む絶妙な機械仕掛である」(フーコー「監獄の誕生・P.204」新潮社)

そして絶えず見張られている気がする状況下では、被拘禁者は自分の言動を自分自身で見張るということが起こってくる。

「ある現実的な服従強制が虚構的な(権力)関連から機械的に生じる。したがって、受刑者に善行を、狂人に穏やかさを、労働者に仕事を、生徒に熱心さを、病人に処方の厳守を強制しようとして暴力的手段にうったえる必要はない。ベンサムが驚嘆していたが、一望監視の施設はごく軽やかであってよく、鉄格子も鎖も重い錠前ももはや不要であり、(独房の)区分が明瞭で、戸口の窓がきちんと配置されるだけで充分である。城塞建築にもひとしい古い《安全確保(シュルテ)の施設》(つまり牢獄)にかわって、今や《確実性(セイティチュード)の施設》(新しい一望監視の装置)の簡潔で経済的で幾何学的な配置が現われうるわけである。権力の効果と強制力はいわばもう一方の側へーーー権力の適用面の側へ移ってしまう。つまり可視性の領域を押しつけられ、その事態を承知する者(つまり被拘禁者)は、みずから権力による強制に責任をもち、自発的にその強制を自分自身へ働かせる。しかもそこでは自分が同時に二役を演じる権力的関係を自分に組込んで、自分がみずからの服従強制の本源になる。それゆえ、外側にある権力のほうでさえも自分の物理的な重さ(施設や装置の重々しさ)を軽くでき、身体不関与を目標にする。しかもその権力がこの境界(精神と身体との)へ接近すれば接近するほど、ますますその効果は恒常的で深いもの、最終的に付与され、たえず導入されるものとなる。つまり、あらゆる物理的(身体的、でもある)な対決を避け、つねに前もって仕組まれる、永続的な勝利」(フーコー「監獄の誕生・P.204~205」新潮社)

被拘禁者は自分の言動を自分自身で見張り続けるというきりのない自己点検への疾走を繰り返し反復するようになるのだ。そしてさらに昨今は、パノプティコンという構造は資本主義的で社会的な途絶えることのないリビドー備給を公理系へ適切かつ合理的に配分することによって監獄の外でも機能するようになっている。学生は学生として、社会人は社会人として、日雇い労働者は日雇い労働者として、なされるべきことをなしているか。きりのない点検作業に追われている。「一望監視装置」(パノプティコン)はもはやすでに人々の身体へ内在化されたのだ。「一望監視装置」(パノプティコン)の内在化によって「他人に対してだけではなくて、自分自身において欲望を抑制すること。他人たちと自分自身とを見張るデカであること」が達成されただけではない。人々が同じように「一望監視装置」(パノプティコン)を内在化させたことによって、「一望監視装置」(パノプティコン)は社会的リビドー備給の全力を動員する欲望する機械として「ひとびとを結束させる仕方」となったのである。

BGM