白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

不遜な汚辱/「めちゃめちゃに」ゆがんだ美貌のインパクト

2019年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム
元SS隊員だったジャヴァ。荒くれぶりは相変わらずのようだ。しかし時として、なぐり合う前すでに相手のほうがほぼ確実に強いと感じられるときがある。惨めに敗北し地面に叩きつけられ這いつくばって命乞いする自分の姿が頭の中をよぎる。そんなとき、ジャヴァは「恐怖のために身を縮める」。だがジャヴァにかぎらず、人間の身体は恐怖で一杯になるとふだん身に付けている余計なもの一切を身体から削ぎ落とし、「自然の運動の尊厳さ」そのものに《なる》。それゆえ恐怖で一杯になったジャヴァはかえって美しいものへと変容する。

「ジャヴァが恐怖のために身を縮めるとき、彼は実に美しかった。彼のおかげで恐怖は高貴であった。そのとき、恐怖は、生物体の恐れ、すなわち、死または苦痛を前にした臓器の恐慌以外の意味を持たない、自然の運動の尊厳さに回復されていた」(ジュネ「泥棒日記・P.156」新潮文庫)

ジャヴァは美少年だ。しかも暴力の信奉者だ。そんなジャヴァが恐怖におののいて震えているばかりか、恐怖のあまり小便までちびってしまう。美少年ゆえこれまで無数の「貪婪(どんらん)」な「接吻」を我が物顔に受け入れてきたに違いない「見事な顔」。この「見事な顔」の上を「激しい恐怖が右往左往し、そのもろもろの輪郭をめちゃめちゃにする」。美しい暴力少年ジャヴァの「見事な顔」が、全身をほとばしる恐怖によって、「めちゃめちゃに」溶けてしまう。

「ジャヴァは震えていた。彼の雄大な両腿(りょうもも)を伝わって黄色い液体の便が流れるのが見えた。あのように美しく、また貪婪(どんらん)に接吻された見事な顔の上を、激しい恐怖が右往左往し、そのもろもろの輪郭をめちゃめちゃにするのだった」(ジュネ「泥棒日記・P.156~157」新潮文庫)

美男子あるいは美女とよばれる人々はそれこそ古代からたくさんいた。彼ら彼女らの顔が描く輪郭のはっきりした線はなるほど美しい。けれども、ジュネが「大破綻」というように、いわゆる美男子あるいは美女の顔の「実に調和のとれた数々の比例」が、恐怖からにせよあるいは性的快感からにせよ、その「美しい均勢や比例」を「大破綻」させ「めちゃめちゃに」溶かしてしまうとき、それを眺めているジュネの側にすれば、この光景はあまりにも美しい。なぜなら、そのときこそ人間は余計なものを捨て去り「自然の運動の尊厳さに回復されてい」るからである。

「この大破綻がこのように数々の高貴な均勢を、このように人の心を昂揚(こうよう)させる、それでいて実に調和のとれた数々の比例をあえて乱すということは不遜(ふそん)きわまることに思われたが、しかしそうした均勢、そうした比例は、同時に、この恐慌の原因であり、それに対して責任があったのであって、そのように美しい均勢や比例はそれの表現でさえあった」(ジュネ「泥棒日記・P.157」新潮文庫)

これまでどれほど「貪婪(どんらん)に」無数の性的愛撫を受け入れ自分のものにしてきたかわからない美男子あるいは美女の「見事な顔」は、しかしどうしてあっけなく「めちゃめちゃに」溶かされ、苦悶にゆがみ、「恐慌」を起こすのか。この種の「恐慌」は美男子あるいは美女の顔が、ふだんから常に「実に調和のとれた数々の比例」あるいは「美しい均勢や比例」を保っているかぎりで、始めて起こる「恐慌」である。「恐慌」それじたいは善でもなければ悪でもない。恐怖を目の前にしたときに発生する単なる自然現象でしかない。ところが、この場合はジャヴァなのだが、ジャヴァがあまりにも美少年であったがために、ジャヴァの身体を占領した恐怖は、ジャヴァの「実に調和のとれた数々の比例」あるいは「美しい均勢や比例」を不遜にも蹂躙する。なぜそれが不遜な蹂躙に見えるのか。たとえ同性愛者にせよ異性愛者にせよ、性的快感によってふだんの顔の表情がもろくも苦悶にゆがむとき、さらには全身で快感に耐えつつ眉間に深くしわが刻み込まれているとき、どんな美男子であれ美女であれ、その顔の表情は「恐慌」状態そのものと化している。「大破綻」を起こし「めちゃめちゃに」溶けている。しかし「めちゃめちゃに」溶けるためには条件が必要だ。ジャヴァの端正な顔が「大破綻」を起こすためには、あらかじめジャヴァの端正な顔立ちは例外なしにふだんから「美しい均勢や比例」を保っていなければならない。でなければこの種の不遜な蹂躙としての「大破綻」は始めから発生しようがない。だからジュネは、美男子あるいは美女がふだん堅持している「そうした均勢、そうした比例」に、この「恐慌」の原因を求めるのだ。ジャヴァが持っている野生を、ふだんの単なる気どりではなく、恐怖によって引き起こされた自然な生身の野生へと変えたことで、ジュネはジャヴァを震え上がらせた恐怖を礼賛する。そのときジャヴァの全身を占領した「恐怖は美しい景観」に《なる》。

「なぜなら言うまでもなく、わたしがジャヴァとよぶものは、彼の肉体の主人であると同時に彼の恐怖の責任者でもあったのだから。彼の恐怖は美しい景観だった。あらゆるものがそれの表徴となっていた、ーーーその髪の毛、その筋肉、両眼、歯、性器、そしてこの少年の男らしい優美さ」(ジュネ「泥棒日記・P.157」新潮文庫)

敗北を確信したジャヴァは当然「恥辱」まみれになっている。しかしジャヴァは恥辱を認めるのに、なぜだか、わざわざポーズを忘れない。敗北を認めるにあたって、恥辱をあえて自分のものとして引き受けるために、あたかも「それを重い荷のように、彼の肩に爪(つめ)を立てた一匹(ぴき)の虎(とら)であるかのように担(にな)った」。服従するということ。敗北を受け入れるということ。その際にもジャヴァは尊大な態度をとる。仕方なく恥辱を背負ってやるのだという《しぐさ》を演じることでジャヴァがこうむった脅威を下から認めてやるという不遜な態度を示す。結局のところ、ジャヴァのこの尊大な卑下の姿勢はジャヴァから激しさや粗暴さを奪ってしまう。ところが奪われたことでジャヴァはこんどは「おぼろになる」。絶え間ない変容があるばかりだ。だから、美しいと感じるのは、すでに変化してしまった後の光景ではない。そうではなく、その原因がなんであるにせよ、美男子あるいは美女が「めちゃめちゃに」溶けるとき急速に露わになる恥辱まみれの変容過程こそが美しいのだと言われねばならない。

「さらに彼は恥辱をも高貴なものとした。彼は、わたしの見ている前で、それを重い荷のように、彼の肩に爪(つめ)を立てた一匹(ぴき)の虎(とら)であるかのように担(にな)ったのだった、が、それの脅威は彼の《しぐさ》になんという尊大な服従の色を帯びさせたことだろう!その脅威を感じるやいなや、ある微妙で甘美な卑下が彼の行動に柔らかみを与える。彼の男らしい激しさ、彼の粗暴さは、太陽のギラギラした輝きがヴェールによってそうなるように、おぼろになる」(ジュネ「泥棒日記・P.157」新潮文庫)

さて、いろいろ考えているうちに珍妙なことを思いつくジル。ジルが犯した殺人はどう考えても「無益なお荷物」としか思えない。いわば半透明なままであって、これといった明確な輪郭を得ていない。自分にとって本当に有益な、あるいは必要不可欠な殺人だったかと問われれば考え込んでしまうほかない。認めるに躊躇をともなってしまう。だから「無益なお荷物」と等価関係を構成する何か別の行為で負債を賠償するということは不可能のように思える。「無益なお荷物」はまだ犯罪として明確な輪郭を持っているとはいえないからだ。そこで思いついたのは、もう一度、確固たる犯罪行為を犯すことによって、いまのところはまだ「無益なお荷物」でしかない犯罪を、けっして無益ではない必然的なものへと変形させることだ。第二の犯罪を犯すことで第一の宙吊りになっている犯罪に必然性を付与してやるという発見である。

「すなわち、この無益な犯罪を取りもどすためには、もう一つ、役に立つ(同じ)犯罪を犯さねばならぬ、という考えである。こんどは彼に財産をもたらすような犯罪、第二の犯罪を誘発したということによって、最初の犯罪を(決定的な行為として)有効ならしめるような犯罪を犯さねばならなかった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.217」河出文庫)

しかしジルがこう考えたからといって、ジルの思考が不可解だと決めつけてしまうのはまったくの誤解というべきだろう。たとえばヘーゲルは、歴史上の大事件は二度繰り返されることで始めてそれは必然的なものとして証明される、と述べている。それに対してマルクスが「二度目は茶番」だと言ったのは余りにも有名だ。

それはともかく、ジルは歴史哲学者ではない。ジルの思考は「突然ギリシア」へ移行する。そうしているうちにジルは「世界から遠く隔たった《自分の姿を意識した》」。犯罪者意識というものがどのように変化するかは個々人それぞれであろう。だが俗世間からの隔たりという意識は、ジルを、否応なしに世界と対立した立場へ置く。俗世間から隔絶されたジルは、世界とは逆方向へ突き放されている。世界とジルは両極をなす。ジルは世界と対立していることで世界と同じほど巨大化する自分を感じる。

「絶望はジルの意識を、ーーーあるいはジルの自意識を目ざめさせた。彼の考えごとは、まず最初、こんな形をとって現われた。すなわち、徒刑場で海を眺めながら、彼はあたかも自分が突然ギリシアにいて、ある岩山のてっぺんにうずくまり、エーゲ海に向って物思いに沈んででもいるような、そんな世界から遠く隔たった《自分の姿を意識した》のである。彼の孤絶感は、世界を自分の外にあるもののように、周囲の対象を敵のように考えることを余儀なくせしめたが、やがて彼は、自分と対象とのあいだに関係をつくりはじめていた。相変らず考えごとに耽っているうちに、彼は自分の姿が大きく、とても大きくなっているのに気がついた。世界と対立していたのだから、それも道理であった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.218~219」河出文庫)

一方、淫売屋の主人ノルベールと付き合っている警察官マリオ。警察官であるがゆえ、マリオは公認されたピストルの保持者でもある。その点、ブレストの町では、ノルベールやクレルといったふらふらした汚辱物とはまた違った秩序に属している。少なくともマリオにとってピストルとは何か。公式に携行を許されたピストル保持者として、逆にピストルの側がマリオを秩序づけ、マリオはピストルによって秩序づけられている。マリオは警察官としてピストルを携行することで始めて市民社会の秩序の代表者として公認されるという形式を取っている。そしてピストルはマリオに欠けていてマリオが信頼しなければならない市民社会にもまた欠けている「信頼を補うものだった」。要するに当時のフランス社会は、銃器なしには、市民社会も警察組織も信頼関係が欠けていた。ところが銃器は信頼関係の回復に寄与することもあるが、逆にさらなる不信を招き込むほかないものでもある。

「ピストルは、彼が自分の勇気と名づけていたもの、またピストルがそのしるしである一つの秩序に対する、彼自身の信頼を補うものだった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.220」河出文庫)

ジルの思考は論理的だ。論理的に考えているうちに思考に行き詰まりが見えてくると、もう一度検討を加えるという省察の精神を身につけている。第一の犯罪を輪郭の明確な犯罪へ昇格させるために必要と考えられる論理的必然性を探し出そうと試みる。そして必然性を探しに思考を過去へとさかのぼってみるのだが。

「彼は自分の行為から出発して、自分の行為を正当化せんがため、自分の行為を避けがたいものとせんがため、自分の人生を《さかのぼって》いた。《もしおれがロジェに会っていなかったらーーーもしおれがブレストにきていなかったらーーーもしおれがーーー》こんな風にやって行けば、最後には、たとえ犯罪が彼の腕のなかを流れていたにしても、彼の肉体、彼の生命の流れ、およびその起源は、彼の外にあると結論しなければならなくなるにきまっていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.220」河出文庫)

ジルの犯罪は必然的だと考えてみる。だから過去へさかのぼってみれば必然的な原因の連鎖が見つかるだろうとおもう。ところが考えれば考えるほど犯罪の「起源」はジル自身から途方もなく遠ざかっていくという事態が発生する。これにはわけがある。因果的連関の必然性というステレオタイプ。もとよりそんなものはない。ヒュームが発見しニーチェによって大々的に考え抜かれた人間に特有の遠近法的倒錯に過ぎないという事情だ。裁判においてそれは顕著に現われる。ニーチェは、或る犯罪が犯された場合、そのありとあらゆる原因を探求していけばどうなるか、非常に突きつめて考えている。すべての事情を考慮に入れるとすれば、裁判官もまた例外なく、社会の一員として《何らかの仕方で》犯罪に関わっているではないかと指摘する。なるほどニーチェのいうことにはもっともな根拠がある。

「《刑量の決定における恣意性》。ーーーたいていの犯罪者には、ちょうど女たちに子供が与えられるような仕方で刑が与えられる。彼らは、それが悪い結果を招くなどとは夢おもずに、何十回、何百回と同じ行為をつづけてきたのであり、そして突然露顕のときがやってきて、そのあとに罰がくるというわけだ。しかし習慣性というものは、犯罪者が処罰される原因となる行為の罰を、それが習慣的でなかった場合よりも容赦できるものに思わせるはずのものだろう。そこには、抵抗しがたい性癖というものができてしまっているからである。しかし実際には反対に、犯罪者が常習犯の嫌疑をかけられるときは、そうでないときよりも過酷な刑を科せられ、習慣性は一切の情状酌量に対する反対事由と見なされてしまう。これとは逆に、ふだんは模範的な生活を送っている者が、それだけいっそうこれとおそろしい対照をなす犯罪を行なったときには、彼の有罪性はいっそう顕著に見えるはずであろう!しかし実際には、この場合かえって刑が緩和されるのが普通である。かくして、すべては犯罪者を基準に量られるのではなく、社会と社会のうける危害を基準に計られるのだ。そして、或る人間の過去における有益な行状が彼の一回の有害な行状とひきかえに計算され、過去の有害な行状が現在露顕した有害な行状に加算され、これによって計量は最高に計算されるのである。しかし、こうして或る人間の過去が同時に罰せられたりあるいは同時に報いられ(報いられる、といってもこれは罰せられるときのことで、つまり刑の軽減が報償となる場合である)たりするのであれば、もっとさかのぼって、あれやこれやの過去の原因を罰したり報いたりすべきではなかろうか。わたしが考えているのは、両親や教育者や社会などである。そうすれば、多くの場合《裁判官》自身も何らかの仕方で罪にあずかっているさまが見られることだろう。過去を罰すると言いながら犯罪者の過去だけしか問題にしないのは、恣意的である」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・二八・P.292~293」ちくま学芸文庫)

昨今の日本の裁判制度を見てみよう。とはいえ、犯罪者を擁護するわけではない。裁判員裁判が導入されてからもなお、なぜ死刑判決が乱発されるのか。不可解としかおもえないからだ。たとえば、殺人被害者とたいへん親しかった人が法廷で切々と極刑を訴える。当然かもしれない。ところが他方、殺害されたのは裁判員の家族ではない。親友でもない。親しい交友関係があったわけでもない。別人である。殺人被害者とたいへん親しかった人とは立場が異なる。にもかかわらずなぜ殺人被害者とたいへん親しかった人と「同じ」立場に立ってものを考えることができるのか。立場の違いは決定的だ。裁判員にとっては間違っても自分と親しかった人の死ではないからである。錯覚はこのとき起きる。「自分の家族や親しい人が殺されたらどう思うか考えて下さい」という言葉が法廷を、あるいはマスコミを、世間話の中を駆けまわる。だがけっして間違ってはならないことがある。殺されたのはあくまで裁判員にとって自分と親しかった人《ではない》という事実だ。なるほど安易な同情を寄せることはできる。同情されて喜ぶ人も中にはいるだろう。しかし同情とは、他人を一段高いところから見下ろしたとき始めて生じる不遜な権力感情でしかない。不潔な同情を排して考えるとすれば、裁判員は、殺人被害者とたいへん親しかった人と《同等》の立場に立つことは不可能である。「自分の家族や親しい人が殺された」わけではまったくないからだ。ところで裁判所では、なぜ多数の主観を無理やり一致させようとする権力意志が生じてくるのか。裁判所では思想的強姦とでもいうべき主観の無理やりの一体化が平然と行われているのか。ニーチェは落ち着いている。主観を一つだけ設定する必要性などどこにもないと述べる。

「《主観を一つだけ》想定する必要はおそらくあるまい。おそらく多数の主観を想定しても同じくさしつかえあるまい。それら諸主観の協調や闘争が私たちの思考や総じて私たちの意識の根底にあるのかもしれない。支配権をにぎっている『諸細胞』の一種の《貴族政治》?もちろん、互いに統治することに馴れていて、命令することをこころえている同類のものの間での貴族政治?」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四九〇・P.34」ちくま学芸文庫)

「《肉体》と生理学とに出発点をとること。なぜか?ーーー私たちは、私たちの主観という統一がいかなる種類のものであるか、つまり、それは一つの共同体の頂点をしめる統治者である(『霊魂』や『生命力』ではなく)ということを、同じく、この統治者が、被統治者に、また、個々のものと同時に全体を可能ならしめる階序や分業の諸条件に依存しているということを、正しく表象することができるからである。生ける統一は不断に生滅するということ、『主観』は永遠的なものではないということに関しても同様である。また、闘争は命令と服従のうちにもあらわれており、権力の限界規定が流動的であることは生に属しているということに関しても同様である。共同体の個々の作業や混乱すらに関して統治者がおちいっている或る《無知》は、統治がおこなわれる諸条件のうちの一つである。要するに、私たちは、《知識の欠如》、大まかな見方、単純化し偽るはたらき、遠近法的なものに対しても、一つの評価を獲得する。しかし最も重要なのは、私たちが、支配者とその被支配者とは《同種のもの》であり、すべて感情し、意欲し、思考すると解するということーーーまた、私たちが肉体のうちに運動をみとめたり推測したりするいたるところで、その運動に属する主体的な、不可視的な生命を推論しくわえることを学んでいるということである。運動は肉眼にみえる一つの象徴的記号であり、それは、何ものかが感情され、意欲され、思考されているということを暗示する。主観が主観に《関して》直接問いたずねること、また精神のあらゆる自己反省は、危険なことであるが、その危険は、おのれを、《偽って》解釈することがその活動にとって有用であり重要であるかもしれないという点にある。それゆえ私たちは肉体に問いたずねるのであり、鋭くされた感官の証言を拒絶する。言ってみれば、隷属者たち自身が私たちと交わりをむすぶにいたりうるかどうかを、こころみてみるのである」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四九二・P.35~36」ちくま学芸文庫)

さらに裁判員の場合、裁判に参加するにあたって、次のような事情が決定的限界として作用してこないわけにはいかない。

「《われわれの心に浮かんでいる言葉》ーーーわれわれは、自分の考えをいつも持ち合わせの言葉で表現する。あるいは私の疑念の全体を表現すると、われわれはどの瞬間にも、それをほぼ表現し得る言葉をわれわれが持ち合わせているような、まさにそういう考えだけしか持たないのである」(ニーチェ「曙光・二五七・P.279」ちくま学芸文庫)

そもそもを言うと、国家の都合によって、人間は「算定されうるものにされた」という歴史がある。同時に犯罪も計量されうるものにされた。

「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名文を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・P.64」岩波文庫)

突きつめられた思考の果てで途方に暮れるジル。ジルは一個の宿命論者にまで変容してしまう。自分が犯した犯罪を明確化しようとして事情をさかのぼればさかのぼるほど、逆にその「起源」は自分から遠ざかっていくばかりか遂には「自分の外にある」という論理的帰結に至るほかないからである。「断固として犯罪を望むことによって」ジルは、今日までに至る諸事情が、逆に第二の犯罪を犯す「障害」となることを発見してしまう。

「自分の行為をこんな風に理解することによって、ジルは宿命論に落ちこんでいた。それは断固として犯罪を望むことによって、犯罪を乗り越えんとする欲望に対する、一つの障害をなすものだった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.220~221」河出文庫)

宿命論者と化したジル。ジルは絶望するほかない。第二の殺人を犯すとしてもそのためのれっきとした「理由」を見つけることができない。第二の殺人を犯すにあたって、まず第一の殺人の「起源」を徹底的に探求したが、結局のところ、「起源」は自分の外へ出てまで求められ続けるほかないという必然性へと思い至ったからである。第一の殺人をジル自身が欲したものとしてしっかり受け入れるため、第一の殺人に明確な確実さを与えようと試みたが、そこには第二の殺人へ繋がる必然的動機を少しも発見することができなかった。第一の殺人とこれから実行しようとしている第二の殺人とのあいだには何らの因果的連関も見当たらない。見当たらないという決定的必然性。二つの殺人は必然的になおかつ宿命的に断絶している。可能性の欠乏。この必然的断絶の前でジルは絶望する。

「可能性の欠乏は、一切が必然的であるということかないしは一切が日常的になったということかのいずれかを意味する。決定論者・宿命論者は絶望しており、絶望者として自分の自己を喪失している、ーーーなぜなら彼にとっては一切が必然性であるから」(キルケゴール「死に至る病・P.64」岩波文庫)

さて、ここで「一切が必然性」となっている世界を想像してみよう。いま目の前にある資本主義がそうだ。

「資本主義の極限は、まぎれもなく分裂症的なものであるが、資本主義はこの自分の限界にたえず近づくことをやめないのだ。分裂者は、器官なき身体の上で、脱コード化した種々の流れの主体としてーーー資本家より資本家的であり、プロレタリアよりプロレタリア的である主体としてーーー存在するものであるが、資本主義は自分の全力をあげてこの分裂者を生みだそうとするのだ。この傾向をさらに遠くまでたえず進み続けるならば、資本主義は、ついに、自分自身が一切の流れとともに月世界に送られる地点にまで到達することであろう。しかし、じっさいには、ひとはまだこうした事態を何もみたわけではない。分裂症がわれわれの病気、われわれの時代の病気であるといわれるとき、現代の生活が狂気を生むことを端的に意味しているだけなのだと考えてはならない。ここでは生活の様式ではなくて、生産の進行が問題なのだ。たとえば、<分裂症患者において意味が変質する現象>と<産業社会のすべての段階において不協和が増大するメカニズム>との間に平行関係が存在していることは、コードの破綻という見地からすればもはやきわめて明確であるが、いまはまたこうした単純な平行関係が問題であるのではない。じつは、われわれが言おうとしているのは次のことなのである。すなわち、資本主義は、その生産の過程において恐るべき分裂症の爆薬を生みだすものであり、そのためそれ自身は、自分のもっている抑制の全力をこれに対抗せしめることになるが、しかし分裂症の爆薬は、資本主義の進行の極限としてたえず再生産され続けるものなのだ、ということなのである。なぜなら、資本主義は、自分の極限に向かう傾向につき進むものであると同時に、またみずからこの傾向を妨げ抑制することをやめないものであるからである。それは、自分の極限をみずから志向するものであると同時に、またみずからこの極限を拒絶することをやめないものなのである。資本主義は、想像的な土地であれ、象徴的な土地であれ、あらゆる種類の残滓的な模造の土地を設立あるいは再興して、この土地の上で、よかれあしかれ、抽象量を根拠とする種々の人物を再コード化して、この土地の中にこれらの人物をはめ込もうとするのだ。《国家》も、故郷も、家庭も、一切が再び舞い戻り甦ることになる。この点はまさに、イデオロギーの上からいえば、資本主義が『これまで信じられてきたものの一切をよせ集めた、雑色の絵』だといわれるゆえんである。実在するものは、ありえないことがないものである。それは、ますます人工的なるものとなる。マルクスは、<利潤率が傾向的に低下する>とともに、<剰余価値の絶対量が増大する>という二重の運動を相反傾向の法則と呼んだ。<種々の流れが脱コード化し脱土地化する>とともに、<それらの流れが再び激しく模造の再土地化をうける>という二重の運動が存在するということが、右の法則の系として考えられる。資本主義機械が、種々の流れから剰余価値を引きだすために、これらの流れを脱土地化し脱コード化して、これらを公理系化すればするほど、官僚機械や公安組織のような、資本主義の付属装置は、剰余価値の増大する部分を吸収しながら、ますます<再-土地化>をすすめることになるのである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.49~50」河出書房新社)

こうある。「資本主義は、その生産の過程において恐るべき分裂症の爆薬を生みだすものであり、そのためそれ自身は、自分のもっている抑制の全力をこれに対抗せしめる」。欲望する諸機械としての社会は、どんどん脱コード化していく欲望の流れを公理系の中へ導入し、欲望の抑制を欲望する流れを作りだし、資本にとってはいつも安全な状態で「ますます<再-土地化>をすすめることになる」。ただ単に欲望の実現を欲望するだけでなく、欲望の抑制を欲望する部分機械としての人間の出現。脱土地化の運動は資本主義の欲望であるが、それをたちまち再土地化するのもまた資本主義の欲望である。このような必然性の世界の中では、何もかもが悲しげに見えてくるのだ。

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