白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて35

2022年10月01日 | 日記・エッセイ・コラム
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

動物観察。一日一度、家の周囲を一周するだけ。ほとんどまったく手間のかからない超初心者向けエクササイズであると言えるかもしれません。それでもなお身体が思うように動いてくれない時は屋内で静かに横になり、魔の激鬱状態をひたすら耐えるしかありませんが。


「名称:“アマガエル”」(2022.10.1)

二〇二二年十月一日午後二時頃撮影。二十年ほど前、家の周囲には田畑が数多く残っていました。引っ越してきたばかりのことです。春になると顔を出し秋が深まると庭の地中で冬眠するカエルが一匹いるのに気づきました。いつも一匹。理由はわかりません。でも毎年、何食わぬ独特の愛嬌を見せてくれるのが面白く、やあ、今年も無事に顔を見せてくれたねと、ドアや壁にへばりついているのを何だかほっとしつつ見守っています。

青蛙おのれもペンキぬりたてか(芥川龍之介)

参考になれば幸いです。

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Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて34

2022年10月01日 | 日記・エッセイ・コラム
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

花壇。一日一度、水をやるだけ。継続して育てる場合は時宜に応じて肥料を加えています。なお、うつ症状がひどい時は水をやれないこともあります。そんな時は家族に頼んでみます。それも無理な場合は放置しておいても三、四日なら大丈夫です。キンモクセイは渇水にさえ気をつけていればほぼ確実に育ってくれるのでほとんど手間のかからない初心者向けエクササイズであると言えるかもしれません。


「名称:“キンモクセイ”」(2022.10.1)

二〇二二年十月一日午前八時四十分頃撮影。広がりのある独特の香りに気づき、「あっ、秋だ」、と感じさせてくれます。芳醇な懐かしい香り。新聞配達をしていた頃を思い出します。

参考になれば幸いです。

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Blog21・エルスチールは何人いるのかという問いの愚問性/モレルの<支離滅裂性>あるいは<常軌を逸した雑多な寄せ集め>としてのモレル

2022年10月01日 | 日記・エッセイ・コラム
馬車に乗る時、<私>はアルベルチーヌと一緒にではなく「ひとりで乗っていたいと思うこともよくあった」。というのは「意に染まないこんな生活に終止符を打つことを願っていた」からだが、<私>の場合、それはしばしば不意に実現される。その前提条件は「私を束縛していた慣習がいきなり廃棄される」必要性であり、また慣習が廃棄されるや同時に<欲望としての私>は「いっとき現在の自我にとって替わる」ことを伴わないではおれない。

「もっとも私は、ひとりで乗っていたいと思うこともよくあった。いつと日を決める気はなかったが、仕事というよりも楽しみを私にあきらめさせる点で意に染まないこんな生活に終止符を打つことを願っていたのである。とはいえ私を束縛していた慣習がいきなり廃棄されるときもあり、それはたいてい快活に生きたいと切望する昔の自我がいっとき現在の自我にとって替わるときだった」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.398」岩波文庫 二〇一五年)

ヴェルデュラン夫妻に紹介されたラ・ラスプリエールの広大な敷地内にある庭。断崖に沿った道が森の中をうねって付けられている場所。そんなところを歩いている時、「私をとり巻くむきだしの岩山と、その切れ目から見える海とが、まるで別世界の断片のように目の前にただよった」。この「別世界の断片のように目の前にただよった」風景に<私>は「見覚え」がある。そうでなければ気づかなかったに違いない。どこで「見覚え」たのか。「それはエルスチールが『ミューズと出会う詩人』と『ケンタウロスと出会う若者』を描いた二点のみごとな水彩画の背景としたもので、私は二点をゲルマント公爵夫人邸で見ていた」。このような過去の記憶の不意打ちとともに「私のいる場所はまるで現実世界の外へと置き換えられ」る。習慣・因習に束縛されている<或る価値体系>から<別の価値体系>への移動。するとただちに「現実世界」はがらりと様相を変える。<別の価値体系>の側こそが「現実」に<なる>。そうした体験を多く生き抜いた人間であればあるほど<別の価値体系>がどれほど多種多様に存在するか、それこそ星の数ほどあちこちに、なおかつ<諸断片>としてばらばらな時空間を埋め尽くしているか、始めてわかるというものだ。

「いっとき、私をとり巻くむきだしの岩山と、その切れ目から見える海とが、まるで別世界の断片のように目の前にただよった。この山と海の光景には見覚えがあって、それはエルスチールが『ミューズと出会う詩人』と『ケンタウロスと出会う若者』を描いた二点のみごとな水彩画の背景としたもので、私は二点をゲルマント公爵夫人邸で見ていたのだ。これらの画の想い出のせいで私のいる場所はまるで現実世界の外へと置き換えられ、エルスチール描くところの先史時代の若者のようになった私は、かりに散策の途中で神話の人物と出会ったとしても驚かなかったであろう」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.398~399」岩波文庫 二〇一五年)

エルスチールのモデルは何人かいて、これまではほぼモネやルノワールといった印象派に違いないと読者は思っていたわけだが、いきなり「『ミューズと出会う詩人』と『ケンタウロスと出会う若者』を描いた二点のみごとな水彩画」という記述に出会ってギュスターヴ・モローだったのかと驚く。プルーストはエルスチールについて、そのモデルが誰かなど決して特定しない。ヴァントゥイユについてもそうであるように。むしろ驚くならエルスチールやヴァントゥイユの中にはこんなにも無数の<他者>が共存し合っているのか、というふうに驚くのが正解に近い。ニーチェから三箇所。

(1)「《愛と二元性》ーーーいったい愛とは、もうひとりの人がわれわれとは違った仕方で、また反対の仕方で生き、働き、感じていることを理解し、また、それを喜ぶこと以外の何であろうか?愛がこうした対立のあいだを喜びの感情によって架橋せんがためには、愛はこの対立を除去しても、また否定してもならない。ーーー自愛すらも、一個の人格のなかには、混じがたい二元性(あるいは多元性)を前提として含む」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・七五・P.67」ちくま学芸文庫 一九九四年)

(2)「われわれはみな夢の中ではこの未開人に等しい、粗雑な再認や誤った同一視が夢の中でわれわれの犯す粗雑な推理のもとである。それでわれわれは夢をありありと眼前に浮べてみると、こんなにも多くの愚かさを自分の中にかくしているのかというわけで、われながらおどろく。ーーー夢の表象の実在性を無条件に信じるということを前提にすると、あらゆる夢の表象の完全な明瞭さは、幻覚が異常にしばしばあって時には共同体全体・民族全体を同時に襲った昔の人類の諸状態を、われわれにふたたび思い出させる。したがって、眠りや夢の中でわれわれは昔の人間の課業をもう一度経験する」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・十二・P.36」ちくま学芸文庫 一九九四年)

(3)「どうして、私たちが私たちのより弱い傾向性を犠牲にして私たちのより強い傾向性を満足させるということが起こるのか?それ自体では、もし私たちが一つの統一であるとすれば、こうした分裂はありえないことだろう。事実上は私たちは一つの多元性なのであって、《この多元性が一つの統一を妄想したのだ》。『実体』、『同等性』、『持続』というおのれの強制形式をもってする欺瞞手段としての知性ーーーこの知性がまず多元性を忘れようとしたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下・一一六・P.86」ちくま学芸文庫 一九九四年)

モレルについて再び。<私>はモレルの言動が余りにも「矛盾に満ちていた」と考える。「この性格は、かならずしも等しなみに醜いというわけではなく、むしろ矛盾に満ちていたと言うべきだろう」。さらに「中世の古写本にも似て、多くの誤謬や、ばかげた伝承や、卑猥なことを含んでいて、常軌を逸した雑多な寄せ集めであった」と。

「そのあとで聞かされたこととは(私がそのことにけっして確信が持てなかったのは、アルベルチーヌにかんするアンドレの断言が、とりわけ後々(のちのち)の断言がつねに信用できない気がしたからで、それというのもすでに指摘したようにアンドレは私の女友だちを心底から愛さず、むしろ嫉妬していたからである)、もしそれが本当ならとにかくふたりが周到に私に隠していたことになるが、アルベルチーヌがモレルをよく知っていたことである。御者が解雇されたこの時期にモレルが私にたいしてとった新たな態度に接して、私はモレルにかんする意見を変えることになった。それまで私がこの若者の性格を下劣なものと考えていたのは、この男が私を必要としたときに見せた卑劣なやりかたと、頼みごとを聞いてやったとたん私に会っても知らんぷりをした無視のせいである。それに加えて明らかな事実として指摘すべきは、シャルリュス氏との金銭ずくの関係と、支離滅裂な動物的本能であり、その本能が充たされなかったり(そういう事態になることもあった)、もめごとをひきおこしたりすると、モレルは悲嘆に暮れた。しかしこの性格は、かならずしも等しなみに醜いというわけではなく、むしろ矛盾に満ちていたと言うべきだろう。中世の古写本にも似て、多くの誤謬や、ばかげた伝承や、卑猥なことを含んでいて、常軌を逸した雑多な寄せ集めであった」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.406~407」岩波文庫 二〇一五年)

プルーストのいう「支離滅裂」や「常軌を逸した雑多な寄せ集め」。しかしこれらの言葉を持ち出して非難しようと責めているわけでは全然ない。プルーストは、ころころ変わっていく道徳的善悪などまるで問うていない。差し当たりモレルという名の登場人物を出現させることで、或る種の、なおかつ多くの人間は、諸商品の無限の系列のようにどこまでも「支離滅裂」に分解され得るのであり、見た目がどれほど一つの身体に見えているにせよ、その実態は「常軌を逸した雑多な寄せ集め」であるほかないと、ほんの少しばかり<暴露>して見せているに過ぎない。

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