白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて70

2022年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。

 

夜間はずいぶん冷え込むようになってきました。でも、もしかすると開花するかも知れないバラの花の芽がふくらんでいます。目につくのは三個ほどです。

 

「名称:“Princess of Infinity”」(2022.10.28)

「秋光や解き捨ててある真田紐」(神尾久美子)

 

「名称:“Princess of Infinity”」(2022.10.28)

「平凡に堪へがたき性(さが)の童幼(わらわ)ども花火に飽きてみな去りにけり」(斎藤茂吉)

 

「名称:“Princess of Infinity”」(2022.10.28)

「鉛筆とがらして小さい生徒」(尾崎放哉)

 

二〇二二年十月二十八日撮影。

 

最寄駅の方向へ歩いてみましょう。

 

「名称:“町屋”」(2022.10.24)

「素通りをして秋晴のうるし町」(曽根けい二)

 

「名称:“町屋”」(2022.10.24)

「好きな鳥好きな木に樹に来て秋日濃し」(町春草)

 

「名称:“土蔵”」(2022.10.24)

「秋澄めるものの一つの土蔵かな」(不破博)

 

二〇二二年十月二十四日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・<異議申し立て>としてのアルベルチーヌ/全体主義的圧力としての社会的<制度>

2022年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム

遂に<私>は残酷なほどの苦痛を受け止めまともに向き合わざるを得ない。一方でこれまで知らなかった新しい世界を「知りたい」という欲望から生じた快楽があり、もう一方で「知る」という認識から生じた苦痛がある。アルベルチーヌという一つの同じ身体の中に男性と女性との二つの性が共存しているという紛れもない事実。その点でアルベルチーヌはすでに動物であることを乗り越え単独で成長していく植物にも等しい。苦悩する<私>はもはや眠ることができず朝を迎える。取り乱している<私>の様子を見にきた母はとりあえず窓の外に打ち広がる「バルベックの浜辺や海や日の出」を見せて冷静さを取り戻させようとする。ところが「バルベックの浜辺や海や日の出の背後に、私が母の目にもそれとわかるほど絶望をあらわにして見ていたのは、モンジュヴァンの部屋だった」。かつてヴァントゥイユ嬢とその女友だちとが同性愛を繰り広げているのを<私>が<覗き見>した、あの「モンジュヴァンの部屋」。

 

「しかしお母さんが示してくれたバルベックの浜辺や海や日の出の背後に、私が母の目にもそれとわかるほど絶望をあらわにして見ていたのは、モンジュヴァンの部屋だった。そこでは、バラ色に上気したアルベルチーヌが、大きな雌猫のように身体を丸め、鼻を強情そうにそり返らせ、ヴァントゥイユ嬢の女友だちになりかわり、同じ官能的な笑い声をあげて、こう言っている、『それがどうしたの!見られたら、かえって好都合じゃないの。あたしに、まさかできないって?つばを吐くのが、この老いぼれ猿のうえに?』」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・四・P.611」岩波文庫 二〇一五年)

 

だが<覗き見>と同等かあるいはそれ以上に読者の目を引くのは<冒瀆>のテーマである。死んだヴァントゥイユの肖像画に唾を吐きかけた上で、さらにその肖像画の前で同性愛に耽る二人の女性。<私>は頭の中でその時に発せられ今なお記憶に残っている言葉をあえてアルベルチーヌの言葉へ置き換えて反復させる。「それがどうしたの!見られたら、かえって好都合じゃないの。あたしに、まさかできないって?つばを吐くのが、この老いぼれ猿のうえに?」。プルーストはここでアルベルチーヌによる<冒瀆>へ瞬時に移動させている。しかしなぜわざわざ置き換えねばならないのか。なるほど<私>の嫉妬とか嫌悪とかいう意味ではすらすら読めてしまえそうではある。だが「失われた時を求めて」をただ単なる物語(ストーリー)として見ている限り、その理由は死んでも見えてこないに違いない。

 

そもそもアルベルチーヌはトランス(横断的)両性愛者である。旧約聖書の中でさもわかったかのように論じられているソドム(男性同性愛)でもなければゴモラ(女性同性愛)でもなく、もっと遥かに少数の、ほとんど誰からも理解一つされず、逆に信じがたいほど過酷この上ない差別に晒され続けてきたマイノリティの一人だ。そしてマイノリティという点でアルベルチーヌが演じる<冒瀆>の身振りは極めて社会的な意義を持つ振る舞いであると言わねばならない。プルーストはアルベルチーヌという徹底的なマイノリティに<冒瀆>の身振りを与えることで、全体主義的異性愛絶対主義という社会的<制度>に対する異議申し立てを演じさせているわけである。プルースト自身、父は新約聖書の側のカトリック系、母は旧約聖書の側のユダヤ系、という混み入った血縁関係のもとで随分苦悩している。アルベルチーヌの異議申し立てとプルーストの異議申し立てとは次元の異なる別々の問題ではあるものの、<暴露><覗き見><冒瀆>がプルーストにとって避けて通れないテーマとして浮上してこざるを得ない理由として、そもそもそれらのテーマはどれも社会的<制度>に対して狙いをつけたものだということが見えてくるに違いない。

 

次に「バルベックの浜辺や海や日の出」と「モンジュヴァンの部屋」とが折り重ねられている重層性について。プルースト独特の詩論でもある。その様相は「夜明け」とともに、にもかかわらず、「夕暮れどき」を思わせずにはいないと語られる。

 

(1)「正面の、パルヴィルの断崖の突端にある、私たちがイタチまわしをして遊んだ小さな森が、なおも金色に輝くニスのような水面に覆われた海のほうまで、おのが葉の茂る画面を傾けているさまは、しばしば午後の終わりに私がアルベルチーヌといっしょにそこへ昼寝に出かけ、太陽が沈んでゆくのを見て起きあがったときを想わせる」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・四・P.611~612」岩波文庫 二〇一五年)

 

(2)「夜明けの光が真珠母色の破片となって散らばる水面のうえに、いまだに夜霧がピンクブルーの屑となってあてどなく漂うなか、何艘もの船が、おのが帆とバウスプリットの先端とを黄色く染める斜めの光に微笑みかけながら通ってゆくのは、夕べに帰路につく船を想わせる」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・四・P.612」岩波文庫 二〇一五年)

 

だがしかし、「いずれも」、<私>が思い描く「モンジュヴァンの恐ろしいイメージを覆い隠して無に帰せしめることなどできるはずもない」。またこの時に思い浮かべられた「夕暮れどき」は「実際の夕方のように私が見慣れているそれに先立つ昼間の一連の時間に基づいて出てきたものではなく」、「切り離され、あとからつけ加えられただけ」とある。

 

「いずれも想像上の、寒くて震えるような、人けのない光景、単なる夕暮れどきを想わせる光景にすぎず、夕暮れどきといっても、実際の夕方のように私が見慣れているそれに先立つ昼間の一連の時間に基づいて出てきたものではなく、切り離され、あとからつけ加えられただけの、モンジュヴァンの恐ろしいイメージを覆い隠して無に帰せしめることなどできるはずもないーーー回想と夢想の織りなす詩的ではあるが空しい光景にすぎないのだ」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・四・P.612」岩波文庫 二〇一五年)

 

愛と嫉妬の非連続性についてこうあった。

 

「というのもわれわれが愛や嫉妬と思っているものは、連続して分割できない同じひとつの情念ではないからである。それは無数の継起する愛や、無数の相異なる嫉妬から成り立っており、そのひとつひとつは束の間のものでありながら、絶えまなく無数にあらわれるがゆえに連続しているという印象を与え、単一のものと錯覚されるのだ」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.401」岩波文庫 二〇一一年)

 

人間はその都度自分に都合よく任意の記憶を「切り離」し取り出し、大々的に披露して見せかけることができる。ニーチェから二箇所。

 

(1)「ある事物の発生の原因と、それの終極的功用、それの実際的使用、およびそれの目的体系への編入とは、《天と地ほど》隔絶している。現に存在するもの、何らかの仕方で発生したものは、それよりも優勢な力によって幾たびとなく新しい目標を与えられ、新しい場所を指定され、新しい功用へ作り変えられ、向け変えられる。有機界におけるすべての発生は、一つの《圧服》であり、《支配》である。そしてあらゆる圧服や支配は、さらに一つの新解釈であり、一つの修整であって、そこではこれまでの『意識』や『目的』は必然に曖昧になり、もしくはまったく解消してしまわなければならない。ある生理的器官(乃至はまたある法律制度、ある社会的風習、ある政治的慣習、ある芸術上の形式または宗教的儀礼の形式)のもつ《功用》をいかによく理解していても、それはいまだその発生に関する理解をもっていることにはならない。こう言えば、旧套に馴れた人々の耳には随分と聞きづらく不快に響くかもしれない、ーーーというのは、古来人々は、ある事物、ある形式、ある制度の顕著な目的または功用は、またその発生の根拠をも含んでいる、例えば、眼は見る《ために》作られ、手は摑む《ために》作られた、と信じてきたからだ。そして同様に人々は、刑罰もまた罰する《ために》発明されたものだと思っている。しかしすべての目的、すべての功用は、力への意志があるより小さい力を有する者を支配し、そして自ら一つの機能の意義を後者の上に打刻したということの《標証》にすぎない。従ってある『事物』、ある器官、ある慣習の全歴史も、同様の理由によって、絶えず改新された解釈や修整の継続的な標徴の連鎖でありうるわけであって、それの諸多の原因は相互に連関する必要がなく、むしろ時々単に偶然的に継起し交替するだけである。してみれば、ある事物、ある慣習、ある器官の『発展』とは、決して一つの目標に向かう《進歩》ではなく、まして論理的な、そして最短の、最小の力と負担とで達せられる《進歩》ではなお更ない。ーーーむしろ、事物乃至は器官の上に起こる多少とも深行的な、多少とも相互に独立的な圧服過程の連続であり、同時にこの圧服に対してその度ごとに試みられる反抗であり、弁護と反動を目的とする思考的な形式変化であり、更に旨く行った反対活動の成果でもある。形式も固定したものでないが、『意味』はなお一層固定したものでない」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十二・P.88~90」岩波文庫 一九四〇年)

 

(2)「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末である。或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ!ーーーあらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の衝動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動《一切の》、ーーーそれゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である」(ニーチェ「生成の無垢・下・二五〇・P.148~149」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

プルーストが主張するのは「習慣」という社会的<制度>に絡め取られることからの逃走の重要性である。

 

「私に必要なのは、自分をとり巻くどれほど些細な表徴にも(ゲルマント、アルベルチーヌ、ジルベルト、サン=ルー、バルベックといった表徴にも)、習慣のせいで失われてしまったその表徴のもつ意味をとり戻してやることだ。そうして現実を捉えることができたら、その現実を表現しそれを保持するために、その現実とは異なるもの、つまり素早さを身につけた習慣がたえず届けてくれるものは遠ざけなければならない」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.494~495」岩波文庫 二〇一八年)

 

そのような「習慣」からの注意深い逃走によって始めて捉えることのできる「印象」がある。プルーストはいう。この種の「印象」について「作家の義務と責務は、翻訳者のそれなのである」と。

 

「あることがらがなんらかの印象を与えるとき、そのとき実際に生じていることを私が把握しようと努めていたならば、本質的な書物、唯一の真正な書物はすでにわれわれひとりひとりのうちに存在しているのだから、それを大作家はふつうの意味でなんら発明する必要がなく、ただそれを翻訳すればいいのだということに、私は気づいたはずである。作家の義務と責務は、翻訳者のそれなのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.480」岩波文庫 二〇一八年)

 

とはいえプルーストが目指す「翻訳」はあくまで言語によってでなくてはならないという課題から逃れることができない。一方<私>は「<私>の心の真実」に従って或る行動を起こす。アルベルチーヌと結婚する。しかしその実態は容易に信じがたい事態である。<監禁>のテーマが存分に語られることになる。