白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて36

2022年10月02日 | 日記・エッセイ・コラム
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

花壇。一日一度、水をやるだけ。継続して育てる場合は時宜に応じて肥料を加えています。なお、うつ症状がひどい時は水をやれないこともあります。そんな時は家族に頼んでみます。それも無理な場合は放置しておいても三、四日なら大丈夫です。ナンテンは渇水にさえ気をつけていれば毎年実をつけてくれるのでほとんど手間のかからない初心者向けエクササイズであると言えるかもしれません。


「花名:“ナンテン”」(2022.10.2)

二〇二二年十月二日午前十一時五十分頃撮影。日毎に色づいているようです。日中の日差しはまだ強いのですが夜は冷え込みます。これまで上着は夜中もTシャツでした。二日ほど前から上着もようやく長袖のスエットを着込んでいます。寒暖差が激しいですね。なお、このナンテンはタマの飼主が生まれた時すでに実家の庭にあったもの。引っ越しのたびに一緒に連れて来ました。樹齢五十四年以上ということになります。

参考になれば幸いです。

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Blog21・モレルと読者とを接続するプルースト

2022年10月02日 | 日記・エッセイ・コラム
前回、モレルについてこう述べた。「或る種の、なおかつ多くの人間は、諸商品の無限の系列のようにどこまでも<支離滅裂>に分解され得るのであり、見た目がどれほど一つの身体に見えているにせよ、その実態は<常軌を逸した雑多な寄せ集め>であるほかない」。そしてプルーストが述べていることはまさしく文字通り、そう読まねばならないのだと。モレルに込められた人格多様性。人間は実にしばしば自分自身のことを棚に上げて他人の身振り(言語)に見られる<支離滅裂さ・論理的一貫性のなさ>のみを指摘し過ぎるという自惚れに陥りがちである。プルーストの文体は、他人が見せる<支離滅裂さ・論理的一貫性のなさ>と同時に、自分の側もまた実にしばしば自分自身のことを棚に上げて思い上がってはいないかという不意打ちの形をとった見る側への問いかけを含んでおり、往々にして見る側の身振り(態度)こそ<覗き見>にほかならないという事態を<暴露>していることも忘れるべきでない。モレルについて、こうある。「その本性は、あらゆる向きに折り目がついてもはやなんだか見当もつかなくなった一枚の紙のようなものである」。そうでない人間がどこにいるか、という問いかけがいつも読者の頭上にぶら下がっているのだ。

「しかしモレルの頭のなかの矛盾をつぎつぎと指摘するのは、その頭にあまりにも論理を期待しすぎるせいかもしれない。じつのところその本性は、あらゆる向きに折り目がついてもはやなんだか見当もつかなくなった一枚の紙のようなものである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.410」岩波文庫 二〇一五年)

次の箇所では<私>の「ふとした仕草」が瞬時に呼び寄せた事態について述べられている。「私は無意識のうちに当時と同じ歌を口ずさでいた。そのことに気づいてはじめて私は、その歌によって間歇的な歌い手の存在を認めた」。

「私がスモーキングを着こむとき、ふとした仕草が呪術のような魔力を発揮して、はつらつとした浮薄な自我、つまりサン=ルーとリヴベルに夕食に出かけたときや、ステルマリア嬢をブーローニュの森の島へ夕食に連れてゆけると想いこんでいた夜の私の自我を呼び醒まし、私は無意識のうちに当時と同じ歌を口ずさでいた。そのことに気づいてはじめて私は、その歌によって間歇的な歌い手の存在を認めた。実際その歌い手は、その歌しか知らなかったのである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.412」岩波文庫 二〇一五年)

<私>の「ふとした仕草」は「ステルマリア嬢をブーローニュの森の島へ夕食に連れてゆけると想いこんでいた夜の私の自我を呼び醒まし」たわけだが、その時に不意をついて出現した「歌によって」<私>は自分の身体の中に「間歇的な歌い手の存在を認めた」というのである。<私>の中にいるのはただ単なる<私>だけがいるのではなく、<私>の知らない「間歇的な歌い手」がいるのだ。目に見えないその「歌い手」は、しかし、次のような性質を持っている。

「その歌をはじめて歌ったとき、私はアルベルチーヌを愛しはじめていたが、けっして親しい関係にはならないものと想いこんでいた。その後パリでそれを歌ったのは、私が愛するのをやめたアルベルチーヌをはじめてものにした数日後のことである。そしていまや私は、ふたたびアルベルチーヌを愛しはじめ、いっしょに晩餐に出かけようとしていた」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.412」岩波文庫 二〇一五年)

正体不明であるにせよ、愛する対象に対する<私>の身振り(言動・態度)の変化に応じて、<私>の知らない「間歇的な歌い手」が他でもない<私>の内部から出現する。そして<私>はそんなふうに「広がる多様な(自分の)すがた」を目にして大変うれしいと感じる。もっとも、それを知るためには習慣・因習の解除が不可欠だとプルーストは述べる。

「それに人は、いっとき昔の人間になると、すなわちずいぶん前からの自分とは違った人間になると、習慣によって弱められることのない感受性はどんなに小さな衝撃からも強烈な印象を受けるもので、その印象のせいで、それに先立つすべてのものは色あせてしまい、われわれはその印象の強烈さゆえに、まるで酔っ払いのように一時的昂奮に駆られて、その印象に愛着をいだくのである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.412~412~413」岩波文庫 二〇一五年)

同じことだが。

「私に必要なのは、自分をとり巻くどれほど些細な表徴にも(ゲルマント、アルベルチーヌ、ジルベルト、サン=ルー、バルベックといった表徴にも)、習慣のせいで失われてしまったその表徴のもつ意味をとり戻してやることだ。そうして現実を捉えることができたら、その現実を表現しそれを保持するために、その現実とは異なるもの、つまり素早さを身につけた習慣がたえず届けてくれるものは遠ざけなければならない」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.494~495」岩波文庫 二〇一八年)

何度も繰り返されなくてはならないのは<別の価値体系>への場所移動がどれほど重要か、ということでなければならない。そうでなくては自分の中にどれくらい多様でなおかつ無数の<他者>が存在しているか、わかるはずなどまるでないのである。

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