白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて52

2022年10月12日 | 日記・エッセイ・コラム
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

散歩。

つねづね思っていることがあります。歴史書に目を通していると少なくとも近代以前の湖国・近江の歴史はそれほど明るいものばかりではありません。暗い側面、しばしば血なまぐさい出来事の舞台になってきました。千年にも渡って京に都が置かれていた以上、隣国近江は京に殺到しようとする数々の軍事行動のため何度も繰り返し戦場になっています。

さらに気象条件は近畿地方南部より遥かに若狭・越前に近い風土であると言えるでしょう。曇り空が続く日はしょっちょうで何一つ珍しくありません。珍しくはありませんが独特の味わいがあります。むしろ曇り空や冬空の多さゆえ逆に晴れた日のありがたみがわかるというものかも知れません。


「名称:“琵琶湖東岸の空”」(2022.10.12)
「バルザック霧のガウンを重ね着て」(樋笠文)


「名称:“琵琶湖西岸の山並み”」(2022.10.12)
「榛(はん)の木に楢の木つづく山際の刈田の畔(くろ)ぞわが行くところ」(若山牧水)


「名称:“ムクゲ”」(2022.10.12)
「雨せまるくらさはなびら」(大橋裸木)


「名称:“最寄駅の線路”」(2022.10.12)
「まつすぐな道でさみしい」(種田山頭火)

ところで。連日の冷え込みと雨続きとですっかり終わったと思っていた金木犀。一昨日くらいからまた新しい花の芽を付け出しています。


「名称:“キンモクセイ”」(2022.10.12)
「稲妻に人見かけたる野道哉」(正岡子規)

二〇二二年十月十二日午前八時頃撮影。

日暮れです。


「名称:“琵琶湖西岸の山並み”」(2022.10.12)
「秋山の峯ゆく鹿のともをなみ霧にまどへる夕暮の声」(慈鎮)

二〇二二年十月十二日午後六時頃撮影。

参考になれば幸いです。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21・モレルのいう「代数の授業」

2022年10月12日 | 日記・エッセイ・コラム
プルーストはパトロンから貢がせる貨幣と自分の労働力で稼いだ貨幣との違いにさりげなく触れている。モレルがシャルリュスから受け取る小遣いとヴァイオリンのレッスンで稼いだ貨幣との違いについて、「お金に色はついていない、というのは正しくない。新たなやりかたで稼いだお金は、使い古された硬貨にも新品の輝きをとり戻してくれる」と。さらに「モレルがほんとうにレッスンに出かけたのなら、帰りぎわに女生徒が渡してくれる二枚のルイ金貨は、シャルリュス氏の手からすべり落ちる二枚のルイ金貨とはべつの効果をモレルに及ぼしたことだろう」と。

同じ「二枚のルイ金貨」でもパトロンから受け取る小遣いと自分の労働力を売って手に入れる賃金とでは雲泥の差である。ところがモレルの態度は一向に変わらない。シャルリュスは小遣いと賃金との間で違ってくるはずの態度がまるで見られない点に不審を覚える。モレルの言葉=「常識はずれの口実」がそうさせる。「シャルリュス氏はヴァイオリンのレッスンなるものの実態にしばしば疑念をいだき、しかも音楽家が、まるで別種の、金銭的観点からはなんの利益にもならない、そもそも常識はずれの口実を頻繁に引き合いに出すだけに、その疑念はなおのこと増大した」。モレルがシャルリュスに提示する条件。「代数の授業につづけて出たいから夜は自由にしたい、という条件をつけた。そのあとで会いに来ればいいと?とんでもない、それは不可能で、授業はときに非常に遅くまでつづく」というのである。

「モレルが生徒のレッスンに出かけたいと言ったのは、まったくのうそ偽りではなかった。第一、お金に色はついていない、というのは正しくない。新たなやりかたで稼いだお金は、使い古された硬貨にも新品の輝きをとり戻してくれる。モレルがほんとうにレッスンに出かけたのなら、帰りぎわに女生徒が渡してくれる二枚のルイ金貨は、シャルリュス氏の手からすべり落ちる二枚のルイ金貨とはべつの効果をモレルに及ぼしたことだろう。第二に、二枚のルイ金貨のためなら、どんなに裕福な人でも何キロもの道を厭わず出かけるかもしれないが、それが従僕の息子ともなれば何里もの道でも出かけるだろう。しかしシャルリュス氏はヴァイオリンのレッスンなるものの実態にしばしば疑念をいだき、しかも音楽家が、まるで別種の、金銭的観点からはなんの利益にもならない、そもそも常識はずれの口実を頻繁に引き合いに出すだけに、その疑念はなおのこと増大した。モレルはこうして自分の生活のある種のイメージを示さないわけにはゆかなかったが、しかし意識して、いや無意識のうちにも、まるで闇につつまれたイメージを呈示したので、はっきり見分けられるのはわずかな一部にすぎなかった。ひと月のあいだモレルはシャルリュス氏の求めに応じてつき合ったが、代数の授業につづけて出たいから夜は自由にしたい、という条件をつけた。そのあとで会いに来ればいいと?とんでもない、それは不可能で、授業はときに非常に遅くまでつづく、という」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.501~502」岩波文庫 二〇一五年)

モレルは「代数の授業につづけて出たいから夜は自由にしたい」、さらにその「授業はときに非常に遅くまでつづく」と言っている。というのが事実ならプルーストは「代数」という言葉を二重の意味で用いている。シャルリュスは「こいつが夜に自由にしたいと言うのは、代数なんかじゃないな」と浮気を疑うわけだが、しかし「代数」が浮気相手の<置き換え>を意味する限り、むしろモレルは何一つ嘘をついていない。シャルリュスは「代数」を文字通り代数学の授業として考えている。ところがモレルのような詩人にとって「代数」は、これまた文字通り等価性があると認められる性愛の相手をどんどん置き換えていく実践に他ならない。置き換えは次のように諸商品の無限の系列をなす。

「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第三節・P.118~120」国民文庫 一九七二年)

相手が「ゲルマント大公だったこともある」。メーヌヴィルの娼館では、モレルも、そしてゲルマント大公も、トランス(横断的)両性愛者だ。

「『午前の二時までもかい?』と男爵は訊ねる。『ときにそうなります』。『だが代数の本を読んだってわかるはずだ』。『本のほうがよくわかりますね、授業じゃあまり理解できませんから』。『じゃあ、なぜ授業に?第一、代数なんてきみにはなんの役にも立たんだろう』。『好きなんですよ、それが。気のふさぎを吹っ飛ばしてくれるんです』。『こいつが夜に自由にしたいと言うのは、代数なんかじゃないな』とシャルリュス氏は思った、『さては警察と繋がりでもあるのだろうか?』。いずれにせよモレルは、どんな反論を受けようとも、代数のためだとかヴァイオリンのためだとか言って、夜の遅い時間を自分のために確保していた。一度など、それが代数でもヴァイオリンでもなく、ゲルマント大公だったこともある。大公はリュクサンブール公爵夫人を訪問するために数日この海岸にやって来て、この音楽家と出会い、それがだれであるかは知らないで、また相手に自分の素性を知られることもなく、五十フランを与えてメーヌヴィルの娼館で一夜をともにしたのである。モレルにとっては、ゲルマント大公から受けとる謝礼と、褐色に日焼けした乳房をあらわにした女たちにとり巻かれる悦楽とで、まさに二重の歓びだった」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.502~503」岩波文庫 二〇一五年)

シャルリュスもモレルも「代数」という語彙の意味を正しく理解している。実践的態度が異なってくるのは両者が「代数」という語彙のシニフィエ(意味されるもの・意味内容)を別々の違った意味で受け取っているからに過ぎない。また「モレルにとっては、ゲルマント大公から受けとる謝礼」とあるように、モレルとゲルマント大公との関係は労使関係ではまるでなく、モレルはゲルマント大公をもう一人のパトロンとして小遣いを与えられているだけのことだ。その小遣いはどこへ行くのかというと「褐色に日焼けした乳房をあらわにした女たち」を買うのに用いられる。ローカル鉄道のメーヌヴィル駅。その駅前の娼館でモレルは何一つ労働力を売って得たわけではない貨幣を用いて娼婦たちを買い遊び惚けている。しかし貨幣は生きていくために必須の必要労働と必ずしもそうでない剰余労働との違いを覆い隠してしまう。

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫 一九七二年)

シャルリュスはシャルリュスの知らない時間にモレルが一体何をしているのか気が気でない。そこで「男爵はジュピアンに、娼館の女将(おかみ)を買収して、自分とジュピアンをなかに隠して現場をのぞかせるように手配してくれないかと頼んだ」。シャルリュスの頭は無数の情念を表す記号の山脈と化す。

「そして翌週のはじめ、モレルがまたしても留守になると予告すると、男爵はジュピアンに、娼館の女将(おかみ)を買収して、自分とジュピアンをなかに隠して現場をのぞかせるように手配してくれないかと頼んだ。『合点です、やってみましょう、かわいい色男のためなら』とジュピアンは男爵に答えた。この不安がシャルリュス氏の頭をどれほど動揺させ、またそのことによって一時的にその頭をどれほど豊かにしたかは、とうてい計り知れない。このように恋心なるものは、思考という地質に正真正銘の隆起をひきおこすのだ。シャルリュス氏の頭は、数日前には真(ま)っ平(たい)らな平原にも似て、どれほど遠くにも地表からとび出ている一塊の思念すら認められなかったのに、いまやその頭のなかに突如として岩のように固い山がいくつも聳(そび)え立ったのである。山といっても、だれか彫刻家がそこから大理石を運び出した山ではなく、その場で大理石に鑿(のみ)をふるったかのように彫刻された山々で、そこに『憤怒』『嫉妬』『好奇』『妬み』『憎悪』『苦悩』『傲慢』『恐怖』『愛情』などの途方もなく巨大な群像が身をよじっているのだ」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.503~504」岩波文庫 二〇一五年)

様々な感情が列挙されている。とはいえそれらは「だれか彫刻家がそこから大理石を運び出した山ではな」いにせよ、プルーストが言語へ翻訳・変換したもろもろの記号であることに注目したいと思う。

BGM1

BGM2

BGM3