白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて49〔改訂版〕

2022年10月10日 | 日記・エッセイ・コラム
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

散歩。うつ症状が軽微な時に無理しない範囲で。とはいえ、うつ病発症期には禁物です。まずは専門医にかかり診断を受けた上で症状がそこそこ回復してきたら始めるのがセオリーとされています。社会復帰を焦って散歩やジョギング、さらに仕事の準備にあれこれ励むとかえって逆効果なので気をつけましょう。社会復帰までの時間は人それぞれ。個人差が激しく、三ヶ月程度で済む場合もあれば一年から一年半、なかには三年以上というケースも少なくありません。また何度も繰り返し再発する危険性があります。

昨今では長引く不況のためローンや借金返済、教育費などのことを考える余り、慌ててでも早期社会復帰を目指さざるを得ない風潮があります。しかしそれでは逆にリバウンドを繰り返し、そのたびに症状を悪化させるばかりになってしまいます。日本ではほとんど報道されませんが、今のアメリカは世界最大のメンタルヘルス大国であり、アルコール・薬物依存はもとより鬱病大国であることを忘れてはならないでしょう。

さて雨上がり。


「名称:“ナンテン”」(2022.10.10)
「霧ばしらたてて御嶽の秋驟雨(あきしゅうう)」(遠藤正年)

ズームアップしてみましょう。


「名称:“ナンテン”」(2022.10.10)
「子も毬もはずめる露の浄土かな」(飴山實)


「名称:“テッポウユリ”」(2022.10.10)
咲き終えて種を含んでいます。ここ数日間ずっとこんな感じです。
「秋の寂(さび)尽(つき)せぬ露の紀念(かたみ)かな」(井月)


「名称:“カエル”」(2022.10.10)
今朝も一匹だけです。ドアを開けて見たら軒下の定位置から3センチばかり下へずれたところにいました。家の周囲を一周した戻ってきたら定位置に戻っていました。
「とまりゆく音のまどほさ目に見えぬ時計のおもてにひた向ひ居り」(折口信夫)

二〇二二年十月九日午前九時頃撮影。

終日降ったり止んだり。午後にまた家の周囲を探してみるともう一匹が見つかりました。


「名称:“カエル”」(2022.10.10)
外壁西側とエアコン室外機との間。
「身をぬけてゆく北風のつぶて打ち」(長谷川久々子)

ズームアップしてみましょう。


「しぐれますと尼僧にあいさつされて居る」(尾崎放哉)

二〇二二年十月九日午前三時頃撮影。

参考になれば幸いです。

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Blog21・「とあるカフェ」でのシャルリュスの変身欲望

2022年10月10日 | 日記・エッセイ・コラム
ラ・ラスプリエールの別荘はノルマンディー海岸を見渡す高台にある。だから<私>が始めてバルベックを訪れた時とは異なり、パリとバルベックとを結ぶローカル鉄道の幾つかの駅周辺が舞台となっている。それぞれの駅ごとに周囲の様子もそれぞれに違っている。グランドホテル付属の大規模なカジノとはまた趣きの異なる小規模カジノでアルベルチーヌが女友だちと一緒に遊んでいるのを見た<私>はアルベルチーヌの同性愛嗜好を思い出して不安に駆られ、先に女友だちが帰郷するのを見届けてようやく胸を撫でおろしたようにそれぞれの駅ごとに世界が分割されている。或る町の駅にその町の名が割り当てられたというより、逆に「或る駅の名」がその町を代表するのだ。ローカル鉄道は一つしかないけれども「駅の名」ごとに異なる多様な世界がある。

シャルリュスの手紙を受け取ったモレルはパトロンを袖にして遊び呆けていることがばれた、シャルリュスを怒らせてしまった、と慌てた。そこで<私>はシャルリュスの待つ「とあるカフェ」へ案内する。シャルリュスはモレルに向かって言い放つ。「あなたが勝手な想いこみで偉くなったつもりでいても、それで私の価値が下がるわけじゃないんだ」。階級社会の掟を持ち出して言葉の往復ビンタを浴びせる。モレルはもはや絶交かと取り乱す。となればモレルのこれまでの努力はあっけなく水泡に帰す。モレルは必死の思いでシャルリュスの足元ににじり寄って媚びを売りまくり拝みたおす。しかしそんなことでシャルリュスが動じるわけはない。かといってシャルリュスはもうモレルを愛していないのかと言えば全然そうでない。むしろ自分の目の前で身も世も忘れて是非これからもそばに置いて欲しいと取り乱す一方のモレルを見て嫌が上にも興奮を抑えきれない。言葉の微妙な政治性を用いてじわじわモレルを追い詰める。駄目だ、もはや決闘しかない、とシャルリュスは愛欲と殺意とを同時に高めていく。「いくぶん平静をとり戻し」つつ、むしろ冷静になればなるほどかえっていつもの「銘」を連発する。「唯一ノ者カラ発スルカクナル光輝!」、「死こそわが命」、など。シャルリュスは幾つもの「銘」を打ち重ねることで自分自身が文字通り「銘」に<なる>。

「『あなたが勝手な想いこみで偉くなったつもりでいても、それで私の価値が下がるわけじゃないんだ』。そう言うと氏は、気がふれたかと思われるほどの傲慢な衝動に駆られ、両腕を挙げて叫んだ、『《唯一ノ者カラ発スルカクナル光輝!》相手に合わせて身を低うしてやるのは、落ちぶれるのとは違うんだ』と言い添えた氏は、高慢と歓喜の昂奮が冷めて、いくぶん平静をとり戻していた、『ふたりのわが仇敵が、たとえ身分は不釣合いであっても、せめて私が流させても恥ずかしくない高貴な血の持主だといいのだが。この点は、まあ内密に多少の情報を得ていて安心はしている。あなたにすこしでも私に感謝する気持があるのなら、私があなたのせいで先祖の好戦的気概をとり戻し、あなたがとんでもない不良だとわかった今でも、最期の覚悟をするときにはご先祖さまと同じく<死こそわが命>と宣言する、そうした私のすがたをこそあなたの誇りとすべきだろう』。シャルリュス氏がそう言ったのは本心からで、モレルへの愛情ゆえばかりではなく、氏が無邪気にも先祖から受け継いだと信じている戦闘好きゆえに決闘をするのだと考えるだけで嬉しくなったのだ。当初はひたすらモレルを呼び寄せるために仕組んだ決闘だったのに、いまではそれを断念するのに心残りを感じるほどであった」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.485~486」岩波文庫 二〇一五年)

この種の「銘」との同一化は自分で自分の言葉に酔っているように見えはする。だかしかし決してそうではない。シャルリュスはそんな軽薄なナルシストとはまるで異なる人物である。プルーストがシャルリュスについて言っているのは「銘」(言語)による<生成変化>であり、<殺意への意志>に<なる>シャルリュスに内在する「人肉食」という欲望である。愛する相手を「食べてしまいたい」という言いまわしならどこにでも掃いて捨てるほど転がっているステレオタイプ(紋切型)に過ぎない。だがシャルリュスにとっては決して比喩ではないし、シャルリュスでなくても愛する相手を本当に「食べてしまいたい」という「人肉食」の名残りを曖昧な形で保存している人々は案外いるのかもしれない。というのも一度<神格化>された人間の死後、その血や肉に似せたものを晩餐として食する信仰は今なお神聖な教えとして世界各地に残っているからである。

シャルリュスは壮烈な「銘」の蒐集家であり信奉者である。そこで決闘となると自分で自分を歴史化してしまっても何らおかしくはないだろう。

「『こりゃ画家には、なんとも絵筆を動かしたくなる光景でしょう!あなたはエルスチール画伯をご存じなんだから』と氏は私に言う、『ぜひとも連れてくるべきですな』。私はエルスチールはいま沿岸にはいないと言った。シャルリュス氏は、電報を打てるのではないかとほのめかした。『いや!私は画伯のために言ってるんですよ』と氏は、私が黙っているのを見ていう、『いつだって巨匠にはーーー私の見るところ、あれは巨匠ですからねーーー、かような民族的復活の一例を描きとめるのは興味のあることでしょう。なにしろ一世紀にひとつあるかないかという大事件ですからな』」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.487~488」岩波文庫 二〇一五年)

是非とも「一世紀にひとつあるかないかという大事件」としてエルスチールに描かせたいと願うほど、シャルリュスの欲望は絵画への<生成変化>を生きようとするのである。

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