プルーストはカンブルメール老夫人独特の文体について次のように述べている。互いに阻害し合う二つのメソッドを習い覚えた結果、ステレオタイプ(紋切型)から脱却していると。
「老夫人の文体では、おそらくべつの師から教わったふたつのメソッドがたがいに阻害しあっていたようで、形容詞をいくつか重ねる月並みをカンブルメール老夫人が帳消しにできたのは、ひとえに第二のメソッドによってそれらの形容詞を下降音階ふうに用いて、最後が完全和音になるのを避けたからにほかならない」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.522~523」岩波文庫 二〇一五年)
カンブルメール老夫人はショパンの愛好家であり若夫人はドビュッシーの愛好家。世代間の差異は明白である。にもかかわらず老夫人の側が「形容詞をいくつか重ねる月並み」から早くも脱却し「それらの形容詞を下降音階ふうに用いて、最後が完全和音になるのを避け」ることができた理由。偶然とはいえ<或る言語体系>と<別の言語体系>とを横断的に学習することで以前にはまったく見られなかった<新しい言語体系>を身につけていたからである。ニーチェの言葉ではこうなる。
「《思想を改善する》。ーーー文体を改善することーーーこれは思想を改善するということであって、およそそれ以上のものではない!ーーーこれをすぐに承認しない者には、またいかにしてもそれを納得させることができない」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・一三一・P.368」ちくま学芸文庫 一九九四年)
文体の変化は化学的反応変化に似ている。新しい社会が出現して歴史的断層を刻み込む時期にはいつも人々が用いる文体の変化が伴っていたことはフーコーの一連の著作によって明らかにされた通り。このような化学反応のことをトランス記号論的(横断的)「縁組み」と呼ぶことができる。シャルリュスはゲルマント家がどれほど高貴かをモレルに教えようと演説する。その内容はほとんど法螺話なのだが、プルーストが言っていることは、シャルリュスはしばしば法螺を吹くという性格を通して、価値体系の異なる大貴族同士が、双方ともに異なるにもかかわらず紛れもなく「縁組み」できるし実際してきたという脱コード化(接続・切断・再接続)の横断的歴史である。
「『なによりもゲルマント家がそうだ、なにしろフランス王家と十四回も縁組みをしている。しかもその縁組みは、なによりもフランス王家にとって嬉しくありがたいことなんだ。なぜならフランスの玉座に据えられるべきだったのは、アルドンス・ド・ゲルマントで、その異母兄弟とはいえ年下のルイ肥満王(ル・グロ)ではなかったからだ。ルイ十四世の治世化では、われわれは王弟(ムッシュー)の死去にあたって喪に服したが、それは国王と祖母を同じくしていたからにほかならない。ゲルマント家と比べるとずいぶん格下だが、それでもラ・トレムイユ家なら挙げてもいい、歴代のナポリ王やボワチエ伯の子孫にあたる。ユゼス家は、家系としてはさほど古くないが、同輩衆としてはいちばん古いものだ。リュイーヌ家は、ずいぶん新しいが、何度も華々しい縁組みをしている。ショワズール家、アルクール家、ラ・ロシュフーコー家も重要だ。ほかに挙げるとすれば、トゥールーズ伯爵は不満に思うだろうが、ノアイユ家、モンテスキウ家、カステラーヌ家ぐらいで、うっかり忘れていなければ、これだけだ。カンブルメルド侯爵だとか、ヴァトフェールフィッシュ侯爵だとか呼ばれておる有象無象(うぞうむぞう)の小童(こわっぱ)どもは、あなたの連隊の最低のひょっとこ兵となんら変わらん。あなたがカカ伯爵夫人のところでピピをしようが、ピピ男爵夫人のところでカカをしようが、どっちも同じことで、あなたの評判を落として、便所紙として糞まみれの雑巾をつかむはめになるだけで、なんともきたねえ話だ』」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.527~528」岩波文庫 二〇一五年)
なおカンブルメール家に対してゲルマント家の優位を示そうとシャルリュスは糞味噌に貶めている。「あなたがカカ伯爵夫人のところでピピをしようが、ピピ男爵夫人のところでカカをしようが、どっちも同じことで、あなたの評判を落として、便所紙として糞まみれの雑巾をつかむはめになるだけで、なんともきたねえ話だ」。俗語で「カカ」は「うんこ」、「ピピ」は「おしっこ」。だが俗語だからといってただ単なる誹謗中傷に過ぎないわけではまるでない。むしろプルーストは大真面目かつ用意周到に用いている。というのも、新しい化学反応を出現させるほどの「縁組み」が必要になるのは大貴族といえども双方ともに没落の危機感を抱いている時期であって、俗語でいう「なんともきたねえ話」でなければ<縁組・登記・更新>による延命は不可能だからだ。異種の価値体系同士による性的交換関係なしに実状はまるで進展せず、そもそも異種の価値体系同士による性的交換関係はいつでも可能であるとプルーストはいうのである。
またシャルリュスはカンブルメールではなく「カンブルメルド」と言っているが、ここでの「メルド」は「糞」のこと。ずいぶん以前、ゲルマント夫人とスワンとの会話でこうあった。「二重に省略してるのね」。ワーテルローの戦いで降伏を迫られたカンブロンヌ将軍が「メルド!」=「糞!」と言った話から、両者の前半部分のみを接続して「カンブル-メール」になったというジョーク。
「『それにしてもカンブルメールって、驚くべき名前ですわね、ぎりぎりのところで終わってますが、それにしてもひどい終わりかた!』と大公夫人は笑いながら言った。『始まりだって、ひどいもんですよ』とスワンは答えた。『なるほど二重に省略してるのね』。『最初の語を終わりまで言えなかったところをみると、よほど怒り心頭に発したとはいえ、そこそこ節度はわきまえてたようですな』」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.340」岩波文庫 二〇一一年)
おぞましい冗談に思えるかもしれない。だがしかし重要なのは、そもそも言葉というものは、フロイトが夢について「省略・圧縮・転移」されているというように、まったく生活様式の異なる大貴族間の<異なる価値体系>も、横断的(トランス)言語的交換と性的交換とを通して<接続・切断・再接続>できるという点でなければならない。
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