改行がない。何一つ起こっていないように見える。ところがこれまで何かと起こってきた。思わず舌打ちしたくなってしまいそうな齟齬が、ずいぶんあったように思える。だから改行はなくていいのかもしれない。改行のなさのさなかでしか縷々浮き彫りにされないやりきれない生々しさ。その種の諦念の漂いの中にこうある。
「この家には、いい気分になれる人は一人しかいてはならない戒律のある家なんだろうか。夫がいい気分だと私の気分は暗澹たるものになる」(朝吹真理子「夕方の神様」『群像・3・P.32』講談社 二〇二五年)
かといって家父長制について論じているわけでもない。「私」は「外」を欲している。いや、もっと違うのだ、「家」というものがあるとすれば。少なくとも「私」は夫とこの家のための愛玩動物なのではない。だから働きに出ようと考えることはできるし実際に働いてもいるが職場は夫のいる「この家」の中だ。
しかしそもそも「家の外」と言いうる場所が今なおどこかにあると言えるだろうか。「日記」の増殖にもかかわらず、増殖すればするほど世界は追いかけてくるだけでなく追い抜いてもいく。ところが追い抜いたくせに決して離してはくれない。
「いま全世界で日記を書く人がふえているらしいですよ。同業の友人からのメールを読んで何か返事をしようとしていいねねむいしか浮かばない」(朝吹真理子「夕方の神様」『群像・3・P.32』講談社 二〇二五年)
「私」とその友人たちとの間にもはや違いが見あたらないようになってくる平板な日々を「神」は決済し得るのだろうか。
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