昨日報道を見ていたらパレスチナ自治区ガザ住民を移住させる主旨のトランプ大統領発言が飛び込んできた。おそらく反発を受けてアメリカは「内容をちょっとだけ変えた」修正案を出して見せるだろうと思っていたのだが「内容をちょっとだけ変えた」修正案が実際に出てきた。
思ってしまう。そういうことができるのはなぜかと。プルーストから引いてみよう。以前「ノルポワ式」、「その都度モザイク」、「裏切る言葉」、とタイトルして述べた箇所。
ノルポワが連発して止まないステレオタイプ(紋切型・常套句)を冷笑するシャルリュス。当時の流行語の幾つかを羅列して見せるだけでノルポワが出来上がってしまう。
「そういえば想い出すね、昔あなたが、あらわれてはしばらく存続しやがて消えてゆくあの語法を、面白がってメモしておられたことを。『風を撒(ま)くものは嵐を刈りとる』とか、『犬が吠えるのを尻目に隊商は進む』とか、『われによき政策を与えたまえ、さらば汝によき財政を与えん、ですよ、ルイ男爵が言っていたように』とか、『そこに見られるさまざまな徴候を悲観的にとらえるのは大仰だが、しかしまじめに受けとったほうがいい』とか、『プロシア王のために働く』とか(そもそもこれが復活したのは必定でしたな)。ところがその後、いやはや、なんと多くのものが死んでゆくのを見たことか!」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.240~241」岩波文庫 二〇一八年)
遥かに以前からノルポワが口にしていたステレオタイプ(紋切型)は次のようなもの。「花咲く乙女たちのかげに」篇でプルーストはすでに暴露しておいた。
「たとえば『セント=ジェームズ宮の内閣はいち早く危機を察した』とか、『ポン=ト=シャントルでは衝撃は並たいていのものでなかった。双頭帝国の利己的で巧妙な政策を不安な想いで見守っていた』とか、『モンテトリオ宮から警戒警報が発せられた』とか」(プルースト「失われた時を求めて3・第二篇・一・一・P.89」岩波文庫 二〇一一年)
後者でノルポアが連発するステレオタイプは「ノルポワ式」とでもいうべき特徴を持つ。思わず読者の側を赤面させてしまう幼稚な娯楽小説の決まり文句として実にしばしば投げ売りされる「お約束」のモザイク。ちなみにこの「ノルポワ式」はとりわけ第二次世界大戦後、どれもエンターテイメントの世界で盛んに用いられ読者や観客の関心をぐいぐい引っ張っていくための方便として利用されたフレーズのパッチワークばかりの先駆けに等しい。二十世紀のエンターテイメント界の有名どころではクライブ・カッスラーやフレデリック・フォーサイス、あるいは映画「007」シリーズでもう見飽きたという読者を続出させた。しかしシャルリュスに戻っていえば、ノルポワがいつも用いていい気になるちょっとしたワンフレーズにのみ焦点を当てているわけではない。問題はその論理の進め方に見られる鼻持ちならないステレオタイプ丸出しの下品この上ない文体なのだと述べる。
「お気づきかな、ノルポワがつねづね、早くも一九一四年から、いかに狡猾な言いまわしで中立諸国へ向けた論説の出だしを書いていたか。ノルポワは最初、たしかにフランスはイタリア(あるいはルーマニアやブルガリアなど)の政策に介入する必要はない、と言明する。中立から脱すべきか否かは、これら列強のみが、完全に独立した見地から、それぞれの国益のみを考慮して決定すべきことである、と言う。ところが、論説の最初の言明(昔なら緒言と呼ばれたもの)はこのように見事に公平無私であるのに、そのつづきは大概ずっと欲得ずくになる。ノルポワは『しかしながら』と言って、要するにこうつづけるのです。『戦闘から実質的利益をひき出しうるのは、ひとえに権利と正義の側に与(くみ)する国民だけとなることは火を見るよりも明らかである。努力を惜しむ政策をとり、連合国のために剣をとって闘おうとしない国民に、何世紀も前から虐げられた同胞の嘆きの声が立ちのぼる領土が報酬として授けられることなど、期待するほうがおかしい』。こうして参戦を奨励する方向へ一歩踏みだしてしまうと、もうノルポワをとどめるものはなにもない。もはや参戦の方針のみならず時期についても、ますます露骨な忠告を与える始末。『たしかに』とノルポワは『よき伝道者』と自称するほど偽善者面をしてこう言う、『参戦すべき適切な時期と形態を決めるのは、もとよりイタリアやルーマニアだけの権利である。とはいえ両国は、いたずらに言を左右にしていては時機を逸するおそれがあることを知らぬわけにはいかない。すでにロシア騎兵の蹄(ひづめ)の音は、追いつめられたゲルマニアを言いあらわしえぬ恐怖で震撼させている。勝利の輝かしい曙光(しょこう)がすでに見えてから助太刀に駆けつける国民が、急げばなお与えられる報酬を授かる権利などなんら有しないことは自明の理であろう、云々』。これじゃあ、まるで劇場で『残り少ないお席はまもなく売り切れます。遅れておいでのお客さまはお急ぎください!』って呼ばわるのとなんら変わらん」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.246~247」岩波文庫 二〇一八年)
すべての読者を前にしてノルポワはこう話を進めていく。今の日本でよく使われるマニュアル的現代文へ言い換えてみれば次のような方法。
おっしゃるとおり、なるほどAという方法があります。一般的でとてもわかりやすい。理にもかなっていると思います。次にBですが、さきほどお客様のお話で少し出ましたように利点が割とはっきりしていているところは確かですね。一方で多少とも難点が目に付くかなとご指摘される方も同様に少なからずいらっしゃいます。お客様もおっしゃられたようにです。さらにCですが、この方法はコスト面で敬遠される方が多いわけですが、利便性や使い勝手のよさだけでなく長く付き合っていけるものをということでしたらですね、案外将来性は見込めるのではないでしょうか。もっとも、今のところはそれほど広く普及していないですけれど、少しずつですが選択される方が増えてきたとは言えます。駆け足ですがABCそれぞれの方法についてご説明しますとそんなイメージでしょうか。さて、(「しかしながら」)今回わたくしどもがご案内したいと申しますのはこのページをめくっていただくとあるDという方法です。
シャルリュスのいう「ノルポワ式」は相手の頭にすでにあるだろう幾つかの方法をかなり当たりのいいソフトタッチかつ親身になって寄り添う演出で早くも承認してしまい、しかしそこで暗黙の「しかしながら」を割り込ませ、実をいえば大事な点はここなのですとばかりに間を置いて見せる。「しかしながら」以前と以後とで、まったく次元の異なる提案が挿入されてくることを相手にほとんど意識させないことが肝心。ところがそんな技術もすでに見え透いているとシャルリュスは「ノルポワ式」ステレオタイプの浅はかさをあざわらう。ノルポワはまあまあ利口な側ではあるものの始めから間違っているというのだ。シャルシュスにすればノルポワが始めから間違わざるを得ない事情について、やや数ページさかのぼってみないといけない。
しかしノルポワについて語るシャルリュスについて語り手はいう。
(1)「最後になるが」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.226」岩波文庫 二〇一八年)
(2)「最後に」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.228」岩波文庫 二〇一八年)
(3)「これこそ最後になるが」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.229」岩波文庫 二〇一八年)
延々引き伸ばしていけてしまう。幾らでも接続し組み換え継ぎはぎすることができる。そうできる世界になったしもうなってしまったとプルーストはいささか滑稽な演出を心がける。すべてはモザイクと化した。常に切断できるし常に別の文脈へ接続できる。その繰り返しを延々反復していく。別の文脈へ接続できるという事情が開かれていればいるほど同一性というものはどこをどう探してみても回帰してこない。逆に差異性ばかり変化しつつ回帰してくる。
切断と別の場への接続の不連続性。断続と間歇と。それが場の移動(別の価値体系への移動)であって始めて、生産/流通/金融という資本の流れも増減を繰り返すことができる。
何を語るか、という点で一度稼ぐ人々がいる。いかに語るか、という点でもう一度稼ぐ人々がいる。いや違っていた、大事なのは何をいかに語るかだ、と騒ぎ立てて三度も稼ぐ人々がいる。さらに、語ることで語られていないことをほのめかす仕方が流行したりしなかったりする。文脈はいつもその都度ころころ変わっていく。凝集と解体、更新再更新を繰り返す。
シャルリュスは作品を通して実に多くを語る。言い間違える自由と不自由とについても語る。最低限に絞り込んだとしても「ふたりのシャルリュス氏が存在したと言える」状況下。
「そもそもこの場合、それ以外の氏をべつにすれば、ふたりのシャルリュス氏が存在したと言える。ふたりのうち知的なほうのシャルリュス氏は、自分が失語症になるのではないかと心配し、なんらかの語や文字を口にしようとするとかならずべつの語や文字を言ってしまうと嘆いていた。ところが実際にそんな事態がおこると、もうひとりの潜在意識下のシャルリュス氏が、さきのシャルリュス氏が憐憫を買おうとするのとは対照的に羨望をそそろうとし、さきのシャルリュス氏なら軽蔑した媚まで売って、演奏家たちがもたつくのを見てとったオーケストラの指揮者よろしく、出だしの文言をただちに停止し、すでに口にした語をこれから発すべきことがらへときわめて巧みに移行させ、実際には言い違えて口にした語をまるで正しく選ばれた語であるかのように見せてしまうのだった」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.419~420」岩波文庫 二〇一八年)
しばしば見かける。老いたシャルリュスでなくとも。
「実際には言い違えて口にした語をまるで正しく選ばれた語であるかのように見せてしまう」
だからといってその言葉遣いが意図的かどうかということになると、(1)発語者/記述者にしかわからないことが多い。もっとわからないのは(2)発語者/記述者ゆえにわからないような場合。(2)の場合なら山積している。では山積しているのがわかるのはどうしてだろう。
古典的推理小説の探偵のような特権的立場は必ずしも必要でない。むしろありふれた日常生活の中の様々な場面でちょくちょく遭遇する。発見者はいつも身近にいるとは限らないけれどもそれに気づき「目くばせ」で伝えることができる人々はたくさんいる。言語学者でなくても全然構わない。たくさんいる。
例えば平日のほぼ閑散とした二両編成の電車の中。そんなところでさえ何人かはいつもいる。何食わぬ顔で。
そういうことができてしまう。なぜ「できてしまう」のかという点について述べた。