白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・二代目タマ’s ライフ463

2025年02月04日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二五年二月四日(火)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

飼い主に聞きたいんだけどさ、タマは黒猫でしょ?その反対は白犬さんなのかな。

 

あのね、そんな簡単なもんじゃないと思うよ。けど、そういえば白犬伝説ってあったなあ。中世の頃に京の都が荒れ果てて、まあ超えらいさんは別としても、そこそこ見かけるお金持ちから貧乏人まで子どもを育てていけない世帯が続出してた頃の話だね。生まれたばかりの捨て子が道端のあちこちで見うけられた。そんなある日のこと、ひとりの男が嵯峨野からの帰りに大極殿のすぐそばを通りかかると門の下に置き去りにされてる幼児の姿があった。都といっても中世は乱世だから夜になるとたくさんの野犬が出没するほどの荒れようでね、気になりながらも通りがかりの男は忙しくてそのまま通り過ぎたんだ。

 

そんなに捨て子が多かったの?今でいう所得格差ってやつ?

 

そんなもんじゃないよ。野犬も飢えてるもんだから捨て子は夜のあいだに食われちまうのが常だった。特に貧乏世帯の親たちにとっては耐え難い。ところがね、その男が見かけた幼児は次の日もまたその次の日もなぜか生きてるんだ。不思議におもって夜更けに様子をうかがってるとひと際巨大な白犬が現われた。それを見た他の野犬たちはびびって逃げ散った。見てると巨大な白犬はその幼児に添い寝しながらお乳を与えてやってるんだ。

 

「夜(よ)打深(うちふけ)て、何方(いずかた)より来るとも無くて、器量(いかめし)く大(おお)きなる白き狗出来(いできたり)ぬ。他の狗共(ども)皆此れを見て逃去(にげさり)ぬ。此の狗、此の児の臥したる所へ只寄(ただより)に寄れば、『早(はよ)う、此の狗の、今夜此(この)児をば食でむと為(す)る也けり』と見るに、狗寄(より)て児の傍(かたはら)に副(そ)ひ臥(ふし)ぬ。吉(よ)く見れば、狗、児に乳(ち)を吸(すわ)する也けり。児、人の乳を飲む様に、糸吉(いとよ)く飲む」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第四十四・P.130~131」岩波文庫 二〇〇一年)

 

驚いた男は毎晩見にくるようになった。でも白犬は目撃されてるのを鋭く察したのかもしれない。ある日のこと幼児も白犬も忽然と姿を消したきり二度と現われなかったって話だ。

 

へ~、そんな話はじめて聞いた。びっくりだよ。じゃあ巨大な黒猫さんの話ってないの?

 

あはは、招き猫に巨大な黒猫ってあるんだどね、なんでか知ってる?

 

なんで?

 

黒猫は不吉だって言われてたのはずっと昔の話でね、むしろ夜目が効くとか気配を消す技術に長けてるってことで大きな黒猫の招き猫が作られるようになったんだ。ミニサイズのも可愛いとか言われて結構繁盛してる。さらに世界中の本格ミステリ小説の世界じゃ鴉と黒猫とは切っても切っても切り離せない象徴だよ。文学からエンタメから映画まで富の象徴と言ってもいい。

 

むむ、でもタマはなるほど黒猫で毎度々々ご飯いただいてるんだけど、う~ん、そもそもタマの飼い主ってそんなに富と関係あるの?

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。FKAツイッグス。アルバム「LP1」の頃はとてもユーモラスな演出で好感を持って聴いたわけだがそんな中にもどこか痛々しさの欠片のようなものを漂わせてはいた。わざわざ大げさなまでに自分の顔面にべたべたペイントするだけでなくぐにゃぐにゃ変形させて見せるMVなど。けれども黒人アーティストの作品はジャズにせよブルースにせよヒップホップにせよまるでどこにも痛みのないようなものはない。かといって自虐性ばかりを売りにしてきたわけでは全然ない。それにしても今作はアルバムのアートワークからしておぞましいホラーさながら。ところが歌声は相変わらずFKAツイッグス。


Blog21・女性「上納神話」解体へ・熊楠による熊野案内/猿への供物3(再録)

2025年02月04日 | 日記・エッセイ・コラム

「『哲学が何の役に立つのか』と問い尋ねる者に対しては、こう答えるべきである。自由な人間のイマージュを立ち上げること、その力能〔=権力〕を安定させるために神話と魂のトラブルを必要とする一切の力に廃棄通告すること、この程度のことにでも関心を抱いている者が他にいるのか、と」(ドゥルーズ「意味の論理学・下・P.178」河出文庫 二〇〇七年)

 

それは例えば、「台湾・沖縄から南西諸島にかけて」なぜあれほど煽情的な情報ばかりがほとんど一方的に行き交うのか、その過程でどのような人々が他の誰を犠牲にしつつどんなふうに大儲けしているのか、そう問うことで始めて見えてくるだろう。

 

「最初の哲学者は、自然主義者である。最初の哲学者は、神々について述べるのではなく、自然について述べるのである。最初の哲学者が、自然から積極性を奪い取るような神話を哲学に導入しないことを条件に」(ドゥルーズ「意味の論理学・下・P.179」河出文庫 二〇〇七年)

 

さてしかし「台湾・沖縄から南西諸島にかけて」だけが問題なのだろうか。「女性アナウンサー」を「人身御供/上納」とする習慣を残していると見られる大きな業界でもたいへんよく似た「神話」がまかり通ってきたのではと問うことができるだろう。以前「猿神神話と人身御供としての女性」についてこう述べた。続き。

 

前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

「近江国(あふみのくに)野洲郡(やすのこほり)」は今の滋賀県野洲市。「御上(みかみ)の嶺(たけ)」は野洲市内の三上山(みかみやま)を指す。しかし説話では「三上(みかみ)神社」の神は「陁我(たが)の大神」と書かれている。だが「陁我(たが)の大神」を祭るのは滋賀県犬上(いぬがみ)郡多賀(たが)町にある「多賀(たが)大社」である。しかし説話の意図を考慮すれば、この違いはほとんど何らの関係もない。さらにそもそも猿にしても狗にしてもその文字はどちらも「けものへん」を用いて書かれている。両者いずれにしても獣(けもの)として前提されている。信仰の違いは言語を通して価値観の違いとなり、さらにその実践を通して可視化され人々の目の前に出現する。ゆえに仏教の布教目的の色彩が濃い「日本霊異記」編集に当たっては、両者の違いはなおさらどうでもよくなるのである。問題はこの説話が「夢」の中の出来事から始まっている点にある。だから最初に異郷訪問があり、異郷から帰還した後、改めて次の展開へ進むという形式を踏んでいる点に即して述べたい。

宝亀年間(七七〇年〜七八〇年)。三上神社でも多賀大社でもどちらでも構わないが、その辺(ほとり)にお堂があった。お堂に住む僧の名は恵勝(えしよう)といい、奈良の南都七大寺の一つ・大安寺(だいあんじ)からやって来ていた。或る日、恵勝の夢に人一人が現われて「わたしのためにお経を読んで下さい」と言った。驚いて目が覚めた。つくづく不可解なことだと考え込んでしまった。翌日、小さな白い猴が実際に恵勝の目の前までやって来て言う。「この寺に住み着いて、わたしのために法華経を読んで下さい」。

「明くる日、小(ちひさ)き白き猴(さる)、現(げに)に来(きた)りて言はく、『此(こ)の道場に住(とどま)りて、我が為に法華経(ほけきやう)を読め』」(「日本霊異記・下巻・第二十四・P.166」講談社学術文庫 一九八〇年)

恵勝は猴に向かって「そなたは誰なのか」と尋ねた。人間の言葉を話すのでただ単なる猴ではないと思ったのだろう。すると白猴は自己紹介し始めた。「私はもともと東天竺国(とうてんぢくこく)の大王でした。国内には多くの修行僧がいるが、修行僧に仕える従者は千人以上。けれども従者は僧の従者ということなので農耕に励む者ばかりとは限らず、農耕への従事が怠りがちになる者も少なくない。そこで私は従者の人数制限を設けることにして従者削減の法令を発したのです。だからといって、仏教修行を制限したわけではけっしてありません。ところがなぜか、おそらく従者削減のせいなのでしょう、私が死んで生まれ変わってみるとかつてのような人間ではなく猴の身になっており、今やこの社の猴神というわけです。でも猴はもうこりごり。今は脱猴を目指しています。そんなわけで私のさらなる転生のために法華経を読んで頂きたいと願い出ました」。

「我は東天竺国(とうてんぢくこく)の大王なり。彼(そ)の国に修行の僧の従者(ともびと)数千所(どころ)有り。農業(たつくるわざ)を怠る。数千とは千余数の数千なり。因(よ)りて我制(とど)めて『従者多きこと莫(なか)れ』と言ひき。其の時我は、従(とも)の衆多(あまた)なるを禁(とど)めて、道を修することを妨げずありき。道を修することを禁(とど)めずと雖(いへど)も、従者を妨ぐるに因りて、罪報と成る。猶(なほ)し、後生(ごしやう)の此の獼猴(さる)の身を受けて、此の社の神と成る。故(ゆゑ)に斯(こ)の身を脱(まぬか)れむが為に、此の堂に居住(すまひ)せり。我が為に法華経を読め」(「日本霊異記・下巻・第二十四・P.166~167」講談社学術文庫 一九八〇年)

恵勝はいう。「そういうことなら読んで差し上げよう。では供養のための供物(そなえもの)を用意して下さい」。猴は答える。「そもそも猴と化した私にはお供えに値するであろう供物(そなえもの)なんて持っていません」。和尚は少し考え、「この村では大量の籾(もみ)の収穫があります。それを供養の品とすればいいでしょう。そうしたらお経を読んであげましょう」、と言った。ところが猴は反論する。恵勝さん、それですがーーー。「この村の籾(もみ)はそもそも朝廷から私が賜ったものです。にもかかわらず、神社の役人が手前勝手に自分の所有物と化して占領してしまいました。私には手をつけさせないようにしたのです。従って籾はもはや私の自由になりません」。

「朝廷(みかど)の臣、我に賜(たま)ふ。而(しか)るを典(かど)れる主有りて、己(おのれ)が物と念(おも)ひて、我に免(ゆる)さず。我恣(ほしきまま)に用ゐず」(「日本霊異記・下巻・第二十四・P.167」講談社学術文庫 一九八〇年)

とはいってもそれは神社の管理者と猴との間で論争されるべき議題。恵勝(ゑしやう)はまた立場が異なる。なので言うほかない。「供物(そなえもの)が用意できないというのに、ではどうしてお経を読んで差し上げることができましょう」。

「供養無くは、何(なに)すれぞ経を読み奉らむ」(「日本霊異記・下巻・第二十四・P.167」講談社学術文庫 一九八〇年)

猴は答えていう。「そうことでしたら仕方がありません。聞けば浅井郡(あさゐのこほり)に大勢の僧がいて、しばらくすると皆で六巻抄(ろくくわんぜう)を読み上げる準備が進んでいるそうです。私はそちらの側の信者としてその講の中へ入ることにしようかと」。なお、「六巻抄(ろくくわんぜう)」は仏教者の戒律〔生活規律〕を述べた著作の一つ・「四分律刪繁補闕行事鈔(しぶんりつさくはんほけつぎょうじしょう)」のことを指し、唐の道宣の撰により六巻に編纂されたもの。

「然らば、浅井郡(あさゐのこほり)に諸(もろもろ)の比丘(びく)有りて、六巻抄(ろくくわんぜう)を読まむとするが故に、我其の知識に入(い)らむ」(「日本霊異記・下巻・第二十四・P.171」講談社学術文庫 一九八〇年)

恵勝は「檀越(だにをち)の山階寺(やましなでら)の満預(まんよ)と曰(い)ふ大法師(だいほふし)」の所へ行ってこのやり取りについて説明した。「檀越(だにをち)」は檀家のことだがここでは寺院経営のための大手スポンサー。「山階寺(やましなでら)」は奈良の興福寺の旧称。スポンサーとしては巨大。恵勝はそこの実力者・満預(まんよ)に事情を説明するものの、満預は頭から受け付けない。そしていう。「それは猴が言った言葉です。私は信じないし、申し出を受理することもないし、聞こうとも思いません」。

「此(こ)は猴(さる)の語なり。我は信(まこと)とせじ、受けじ、聴(ゆる)さじ」(「日本霊異記・下巻・第二十四・P.171」講談社学術文庫 一九八〇年)

これまた余りにもそっけない回答である。そこで恵勝は仕方なく自分だけでも六巻抄を読もうと四苦八苦していると、お堂で使っている童子や修行者らが慌てふためきつつ恵勝のところへ駆け込んで来ていう。「小さな白い猴がお堂の上に乗っています。振り返ってみると九間の大堂が倒壊して粉々になっていて、どこもかしかも木っ端微塵。さらに仏像はどれも破壊され、他のすべての僧坊も倒壊しております」。

「小き白猴、堂の上に居り、纔(ひただ)見れば、九間の大堂仆(たふ)るること微塵(みぢん)の如し。皆悉(ことごとく)に折れ摧(くだ)けぬ。仏像皆破(やぶ)れ、僧坊も皆仆(たふ)れたり」(「日本霊異記・下巻・第二十四・P.171」講談社学術文庫 一九八〇年)

それを見た恵勝はただちに満預と相談した。結果、倒壊した七間の堂を再建し、「陁我(たが)の大神と題名(だいみやう)せる猴(さる)」の言葉を信じることにし、その白猴を同じ信徒集団の中に入れた。さらに白猴が申し出ていたお経も読んでやった。するとその後、僧たちの願いである「六巻抄」講読・講義の間、災難一つ発生することはなかった。

「檀越僧に曰(い)ひて、更に七間の堂を作る。彼(そ)の陁我(たが)の大神と題名(だいみやう)せる猴(さる)の語を信じ、同じく知識に入れて、願へる所の六巻抄(ろくくわんぜう)を読み、幷(しかしなが)ら大神の願ふ所を成しき。然して後、願の了(をは)るに至るまで、都(かつ)て障難無かりき」(「日本霊異記・下巻・第二十四・P.171~172」講談社学術文庫 一九八〇年)

猴の願いは切実だ。その申し出を蹴った寺院の側に多大な存在を与える。大堂や仏像、僧侶らの住居もことごとく粉々に倒壊させる。要するにお経を読んでほしいという猴の切実この上ない願いよりもただ単なる「箱もの」の側が大事だというのか、という重大な問いかけを含んでいる。奈良時代すでに巨額の資金を持つ大寺と、一方、山岳地帯を拠点に全国各地を回遊修行する聖(ひじり)たちの経済的格差は歴然としていた。

しかし一体、猴はどこから来たのか。山から来た。というより、もともと山の中にいた。仏教説話なので「東天竺国(とうてんぢくこく)」=「東インド」の王だったということになってはいても、さらにそれが生まれ変わったとしてもなおただ単なる猴ではなく「山神としての猴」へ転化している。一度にごく普通のありふれた猿になるわけではまったくない。それ以前の神の位置と比較すればなるほど異なる。とはいえ、あくまで神としての位置付けは変わっていない。とりわけ日本のような地理的条件が土台になっている諸地域では季節・気象のほんの僅かな差異によって、出てくる結果はおそるべき違いとなって奔出するのである。

「南方氏が熊野山中の奇草を得んがために山神とオコジの贈を約せられしは一場の佳話なりといえども、そのオコゼは果して山神の所望に応ずべき長一寸のハナオコゼなりしや否や。自分は山神とともに少なからず懸念を抱きつつあり。また海人が山神を祀りオコゼをこれに貢することはすこぶる注意すべきことなり。おそらくはこの信仰は『山島に拠りて居をなせる』日本のごとき国にあらざれば起るまじきものにてことに紀州のごとき海に臨みて高山ある地方には似つかわしき伝説なり」(柳田國男「山神とオコゼ」『柳田国男全集4・P.429』ちくま文庫 一九八九年)

また、高いところを生活圏とする動植物について、人間は古代から畏怖の念を抱いてきた点も忘れてはならない。

「ローマ人やエトルリア人は、天空を、固定した数学的な線で以て切断し、このような具合に限界づけられた空間を神殿と見立てて、その中へ神を封じ込めたのだが、それと同じように、すべての民族は、このように数学的に分割された概念の天空を、自分の上にもっているのであって、今や真理の要求ということを、あらゆる概念の神は《その》領域のうちにのみ求められるものだというふうに、理解しているのである」(ニーチェ「哲学者の書・哲学者に関する著作のための準備草案・P.356~357」ちくま学芸文庫 一九九四年)

さらに。

「《動物より下へ》。ーーー人間が笑いころげて嘶(いなな)くとき、その下品さではどんな動物もかなわない」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・第九章・五五三・P.444」ちくま学芸文庫 一九九四年)

ニーチェが考える「猿」とは。

「猿どもは、人間が彼らから由来しうるにしては、あまりにも気だてがよすぎる」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・二九六・P.170」ちくま学芸文庫 一九九四年」)

説話に戻るとこう言える。転倒したのは猿の側ではない。人間の側が転倒して始めて猿も治るべきところを得たと。ところが昨今の異常気象は地球規模で生態系に破壊的打撃を与え続けている。だがそもそも、昨今の異常気象多発の要因をわんさと生産して自ら墓穴を掘り下げ、ますます墓穴を増産しているのは人間社会の連関関係総体である。今後なお悪条件の側の多産性ばかりが加速的に増していきそうだ。今の日本では少なくとも過半数の人間は、なぜ、それほどまでして共食いならぬ共死にしたいと欲しているのだろうか。


Blog21・女性「上納神話」解体へ・熊楠による熊野案内/猿への供物2(再録)

2025年02月04日 | 日記・エッセイ・コラム

「言語の起源に対しては、また、火と最初の金属の制度に対しては、その原理において神話的な王国・富・所有が接合される。青銅と鉄の使用に対しては、戦争の発展が接合される。芸術と産業の発明に対しては、奢侈と熱狂が接合される。人類の不幸を作り出す出来事は、そんな出来事を可能にする神話と切り離せない」(ドゥルーズ「意味の論理学・下・P.178」河出文庫 二〇〇七年)

 

 

さてしかし「台湾・沖縄から南西諸島にかけて」だけが問題なのだろうか。「女性アナウンサー」を「人身御供/上納」とする習慣を残していると見られる大きな業界でもたいへんよく似た「神話」がまかり通ってきたのではと問うことができるだろう。以前「猿神神話と人身御供としての女性」についてこう述べた。

 

前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

僧といっても様々な形態があった頃。「仏ノ道」を「行(おこな)ヒ行(ありく)僧」がいた。回国修行に身を投じる「聖(ひじり)」である。「飛騨国(ひだのくに)」を通過中、山中深く入っていったところ、道に迷ってしまう。木の葉は渦高く積もり道らしき道もない。もはや行き止まりかと思われたその時、目の前に巨大な滝が立ちはだかっている。返ろうと思うがやって来た道もすでに区別できない。周囲は切り立った崖が聳え立っていて、その高さは500メートル以上はあるだろう。よじ登ろうにも手立てがない。その時、背後から蓑笠姿で荷物を背負った男性がやって来るのが見えた。声をかけて道を尋ねようとしたが逆に聖の側がいかがわしいような目で見られてしまう。男性は無言でそそくさと歩いて滝の前まで行ったと思うとそのまま滝の中へ踊り込んで消え失せてしまった。見ていた聖は、今のは鬼に違いないと怖気付いた。けれども、どのみち鬼に喰われてしまうようならその前に自分から身を投げて、後生を祈るほかないと思い切り、男性が消えていった巨大な滝の中へ聖自ら身を投げた。

てっきり溺死するものと考えていたところ死にはせず、滝は簾のようになっており、すうっと通り抜けたところ、その内部に道が続いている。道は山の下をくぐり抜けるように細く奥へと向かっているらしい。そのまま歩を進めると道は終わり、そこには大きな人郷(ひとざと)が広がっていた。人家もたくさん見える。

「滝ヨリ内ニ道ノ有(あり)ケルママニ行(ゆき)ケレバ、山ノ下ヲ通(とほり)テ細キ道有(あり)。其(それ)ヲ通リ畢(はて)ヌレバ、彼方(かなた)ニ大キナル人郷(ひとざと)有(あり)テ、人ノ家多ク見ユ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.34」岩波書店 一九九六年)

聖はなんとか人郷に出ることができたと思いさらに歩こうとしたところ、さきほど見かけた荷物を背負った蓑笠姿の男性がいる。聖の姿を認めるやこちらへ向かって駆けてきた。その後ろからやや遅れて浅葱色の上下(かみしも)を着た年配男性が歩いてくる。浅葱色の上下を着た年配男性は聖はつかまえて「さあ、こちらへどうぞ」と引き連れて行こうとする。それを見た人々が一斉に群がり始め、同じように「さあ、こちらへ」と周囲と取り囲むような格好になった。そこで「郡殿(こほりのとの)」(郡司)に決めてもらおうではないかということになったようで、郡司の屋敷へ連れて行かれた。屋敷に着くと、由緒正しそうな老人が出てきた。荷物を背負っていた男性がその老人に向かって述べる。「この人物は私が日本(にほん)国から連れて参りました。そしてこの方に差し上げたわけです」、と浅葱色の上下を着た年配者を指さした。

「此ハ、己(おのれ)ガ日本(にほん)国ヨリ将詣来(ゐてまうでき)テ、此(この)人ニ給(た)ビタル也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.34」岩波書店 一九九六年)

郡司はいう。「そういうことなら、浅葱色の上下を来た者が得ると考えてよいだろう」。するとたちまちその年配男性が聖を自分の家へ連れて行こうとする。聖はわけがわからないと思いはするものの成り行きに任せて付いて行くほかない。年配男性はそれを察していう。「そんなに不審がられるな。ここは大変豊かで何ら不自由のない桃源郷のようなところですから」。

「不心得(こころえず)ナ思不給(おもひたまひ)ソ。此(ここ)ハ糸楽(いとたのし)キ世界也。思フ事モ無(なく)テ、豊(ゆたか)ニテ有(あら)セ奉(たてまつら)ム為(ずる)也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.35」岩波書店 一九九六年)

ほどなく男性の家に着いた。さっきの郡司の屋敷ほどではないが、まずまずしかるべくしつらえられた家屋のようだ。聖が到着したと知ると家の者らはみんなはしゃぎだして楽しそうな雰囲気に包まれた。たちまち盛大なご馳走が整えられ「さあ、召し上がって下さい」と差し出された。鳥や魚など肉類もある。修行者として肉食はタブーなのだが断りきれなくなった。その一つにこの家の一人娘との結婚が約束されたことが上げられる。さらにもし盛大なもてなしを拒否しようものなら理由も何もわからないまま殺されるかもという不安がよぎる。考えた上で一旦男性の勧めに従ってみることにした。また、修行者だとはいえ、勧められるがまま髪の毛も生やすことになった。宴席をともにすることは村落共同体の仲間入りを意味する。断るわけにもいかず鳥や魚など肉類も口にしてみた。どうなることかと思って心配だったがとても美味しい。すっかり平らげてしまった。

夜になった。新婚の初夜である。登場した娘は二十歳くらいの美女。考えてもいなかったが衣裳もたいへん似合っていてうるわしい。家の主人はいう。「娘です。差し上げましょう。今日からは私ども親が愛しく可愛がってきたように大切にしてやってほしいものです。一人娘なのでこの気持ちを察して頂きたい」。そう言うと主人は部屋を出ていった。聖は言われるがまま女性と夜を共にした。

「夜ニ入(いり)テ、年二十許(はたちばかり)ナル女ノ、形・有様美麗(びれい)ナルガ能(よく)装束(しやうぞ)キタルヲ、家主押出(おしいだ)シテ、『此(これ)奉ル。今日ヨリハ、我(わが)思フニ不替(かはらず)哀レニ可思(おぼすべき)也。只一人侍ル娘ナレバ、其(その)志ノ程ヲ押量(おしはか)リ可給(たまうべし)』トテ返入(かへりいり)タレバ、僧、云甲斐(いふかひ)無(なく)テ近付(ちかづき)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.36」岩波書店 一九九六年)

一緒に暮らしてみると女性はたいへん気立てのいい性格で日に日に情が移ってしまった。聖もまた髪の毛が随分と伸び始め、髻(もとどり)を結うほどになった。さらに特徴的なのは毎日の食卓である。幾らでも出てくる。もっと食べろとどんどん出てくる。食ってばかりの毎日が続く。女性と聖とはすっかり仲の良い夫婦になって既に八ヶ月が過ぎた。その頃から妻の様子にどこか腑に落ちない点が見受けられるようになった。

同じ頃、家の主人のもとに客人がやって来た。何か話し込んでいる。こっそり聞き耳を立ててみると、何のことなのか意味が上手くつかめない。だが、自分の身の上に関係があることはわかる。再び不審感がつのってきた。そこで妻に問いかけてみたが、なぜか頑固に話そうとしない。しかし食事を重ねて聖が肥え太ってくるごとに涙を浮べて愁いを隠しきれずにいる。また他の家々でも派手な饗宴の準備に取りかかり出した様子だ。理由はわからない。聖は思い切って妻を問い詰めてみた。「理由も言わず黙っていられる私の側こそ辛い。だから話してほしい」と。しばらくすると妻は泣く泣くこの国の奇妙な風習について語って聞かせた。「この国には年に一度、人一人を生贄として神に捧げ奉る祭祀があるのです。あなたがここに来られた時、我も我もと一斉に人だかりができたのも、その身代わりとしてあなたを自分のものにしようと人々が群がったからなのです。もし生贄を用意できなければ、どれほど愛しい我が子であっても差し出さないわけにはいきません。もし今、あなたがここにいらっしゃらなかったとしたら、今度は私自身が生贄として神にむさぼり喰われなければならなかったところでした。しかし身代わりとは申せども、あなたはもはやあなたなのでーーー」。妻は涙ながらに言葉を詰まらせる。

「此(この)国ニハ糸(いと)ユユシキ事ノ有(ある)也。此(この)国ニ験(げん)ジ給フ神ノ御(おは)スルガ、人ヲ生贄(いけにへ)ニ食(くふ)也。其御(そこのおは)シ着(つき)タリシ時、我モ得ム我モ得ムト愁(うれ)ヘノノシリシハ、此料(このれう)ニセントテ云(いひ)シ也。年ニ一人ノ人ヲ、廻(めぐ)リ合(あひ)ツツ生贄ヲ出(いだ)スニ、其(その)生贄ヲ求不得(もとめえぬ)時ニハ、悲シト思フ子ナレドモ、其(それ)ヲ生贄ニ出ス也。其(そこの)不御(おはせざら)マシカバ、此(この)身コソハ出(いで)テ神ニ被食(くはれ)マシト思ヘバ、只我替(わがかはり)テ出ナント思フ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.37~38」岩波書店 一九九六年)

ところが聖は冷静で、生贄の方法について妻に問う。妻は聞いて知っていることだけだがこう答える。生贄を裸にして俎(まないた)の上にきれいに寝かせ、神殿の瑞垣の中へ押し入れ、入れ終わると里人らはその場を去ることになっていると。だがもしよく肥えていない貧弱な体つきの人間が生贄として運び入れられたような場合、里は不作になり、病気が蔓延し、とても不穏な生活環境に陥ってしまうといいます。だから生贄にはよく食べてよく肥えさせる必要があるのだと。

「然(さ)ニハ非(あら)ズ。生贄ヲバ裸ニ成(なし)テ、俎(まないた)ノ上ニ直(うるはし)ク臥(ふせ)テ、瑞籬(みづかき)ノ内ニ掻入(かきいれ)テ、人ハ皆去(さり)ヌレバ、神ノ造(つくり)テ食(くふ)トナン聞(きく)。痩弊(やせつたな)キ生贄ヲ出(いだ)シツレバ、神ノ荒(あれ)テ、作物(さくもつ)モ不吉(よからず)、人モ病(やみ)、郷(さと)モ不静(しづかならず)トテ、此何度(かくいくたび)ト無(なく)物ヲ食(くは)セテ、食(く)ヒ太ラセント為(する)也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.38」岩波書店 一九九六年)

一方で貧弱なものを与える。するともう一方から貧弱なものが与え返される。この点はエリアーデが論じているように世界中の民族共同体の神話の中で、共通に、なおかつ一様に見られるアニミズム的思考である。ニーチェはエリアーデよりも遥かに早くからこの事情を債権者と債務者との関係に置き換えて論じていた。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫 一九四〇年)

外界から襲いかかってくる自然災害に対して、その過酷な暴力を押し沈めるためにはどうすればいいのか。そこで始めて生贄の奉納という宗教的信仰が出現した。迷信に過ぎない。だがそれは習慣化すると肝心の起源は忘れ去られ、迷信は迷信でなくなり、自動的かつ周期的に反復されなければ許されない、何か恐ろしい災難が降りかかってくるに違いないと信じて疑わない《掟》と化する経過を辿るし実際に辿ってきた。

さて、聖が婿入りした家では祭祀の七日前から注連縄を張り巡らせに掛かった。その直前、聖は自分に良策があると妻に言ってひそかに短刀のよく鍛えられたものを用意させて身に付け、周囲の隙を見計らって短刀にさらに磨きをかけていた。

生贄奉納の当日がやって来た。聖に湯を使わせ、由緒正しい装束を身に纏わせ、髪の毛には櫛を入れて艶やかに仕立て上げ、髻を改めて結い直し、鬢を品よく整え、入念な身繕いを終えた。玄関には既に多くの里人が集合し、早くしろと声を荒げて待っている。そして舅(しうと)が馬に乗り、一行はようやく出発した。山中へ入っていく。しばらくして生贄御社(いけにへのみやしろ)へ到着。そこに巨大な「宝倉(ほくら)」がある。「宝倉(ほくら)」は「祠(ほこら)」=「神殿(しんでん)」。

「山ノ中ニ大キナル宝倉(ほくら)有(あり)」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.39」岩波書店 一九九六年)

いかにも威厳のある瑞籬(みづがき)で囲まれた広い神域。饗宴のための大量の膳が据え並べられていて、集まった人員も数知れない。酒食の宴が終わると舞い遊びが始まる。舞楽も終わるとようやく生贄が呼び出される。

「此(この)男ヲ呼立(よびたて)テ、裸ニ成(なし)、括(くくり)ヲ放(はなた)セテ、『努々不動(はたらかず)シテ、物云(いふ)ナ』ト教ヘテ含(ふくめ)テ、俎(まないた)ノ上ニ臥(ふせ)テ、俎ノ四(よつ)ノ角(すみ)ニ榊(さかき)ヲ立(たて)、注連・木綿(ゆふ)ヲ懸ケ集(あつめ)テ、掻(かき)テ前(さき)ヲ追テ、瑞籬ノ内ニ掻居(かきすゑ)テ、瑞籬ノ戸ヲ引閉(ひきとぢ)テ、人一人モ無(なく)返(かへり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.39」岩波書店 一九九六年)

聖は素っ裸にされ髻を結んであった紐を解かれ注意を受ける。「けっして動いてはいけない。何一つ言うこともならない」。そして俎(まないた)の上へ横にされる。俎の四隅には榊が立てられており、注連縄が張られ、木綿(ゆふ)を垂らしてあつらえられている。そして生贄の聖を乗せた俎は人々の手で持ち上げられ儀式に則って瑞垣の内部へ押し入れられる。瑞籬の戸が引き閉じられると里の者らは帰途へ付き、生贄だけを残して誰一人としていなくなった。聖は伸ばした両足の間にこっそり挟み込んできた短刀を隠し持っている。

そのうち、誰も手を触れていないにもかかわらず、第一の祠の戸がぎぎっと音を立てて開いた。続いて他の祠の戸も次々に開いていく。聖はやや恐怖を覚え始めた。見ていると祠の間から人間と同じくらいの大きさの猿が出できた。第一の祠に向かって何か喚き声を上げる。すると第一の祠に掛けられた簾を掻き上げて何者かが出てくる。よく見ると猿だ。しかしこの猿は大型で銀の延板を並べ立てたような歯を光らせながら威圧感を放ちつつ歩み出てきた。

「大キサ人計(ばかり)ノ猿、宝倉ノ喬(そば)ノ方ヨリ出来(いでき)テ、一ノ宝倉ニ向(むかひ)テカカメケバ、一ノ宝倉ノ簾(すだれ)ヲ掻開(かきあけ)テ出(いづ)ル者有(あり)。見レバ、此(これ)モ同ジ猿ノ、歯ハ銀(しろかね)ヲ貫(ぬき)タル様(やう)ナル、今少シ大キニ器量(いかめし)キ、歩出(あゆみいで)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.39」岩波書店 一九九六年)

他の猿たちも次々に登場した。大量に出てくる。大型の猿は最初に出てきた猿に向かって何か言う。すると聖が横にされている俎に近づき、用意された箸と刀とを手に取り生贄に向けて斬り降そうとした。瞬間、聖は股の間に挟んでおいた短刀を手に持ち直すやいきなり飛び起き走り出し第一の祠にいる猿に踊りかかった。驚いた猿はのけぞり倒れる。聖は猿をすぐに起こさず床に押し付け問いただす。「お前、神か」。猿はびっくり慄いてしまい、ただひたすら両手を擦り合わせて許しを乞う。他の猿たちはそれを見るや一匹残らず逃げ散って木に登り、喚き声を上げているばかり。

「此ノ猿、生贄ノ方様(かたざま)ニ歩ミ寄来(よりき)テ、置(おき)タル莫箸(まなばし)・刀ヲ取テ、生贄ニ向(むかひ)て切(きら)ント為(する)程ニ、此(この)生贄ノ男、胯ニ夾(はさみ)タル刀ヲ取(とる)ママニ、俄(にはか)ニ起走(おきはしり)テ、一ノ宝倉ノ猿ニ懸(かか)レバ、猿周(あわて)テ仰様(のけざま)ニ倒(たふれ)タルニ、男、ヤガテ不起(おこさず)シテ、押懸(おしかか)リテ踏(ふま)ヘテ、刀ヲバ未(いま)ダ不指宛(さしあて)デ、『己(おのれ)ヤ、神』ト云ヘバ、猿、手ヲ摺(する)。異(こと)猿共(ども)、此(これ)ヲ見テ、一ツモ無(なく)逃去(にげさり)テ、木ニ登(のぼり)テカカメキ合(あひ)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.40」岩波書店 一九九六年)

聖はすぐそばに生えている葛(かづら)の茎を折り取ってこの猿に柱に縛り付けた。そして猿の腹に短刀を差し当てていう。「お前は間違いなく猿だな。それを神だなどと称して里人をたぶらかし、毎年々々生贄を捧げさせてむさぼり喰らう。甚だしく酷な話ではないか。さらに聞くが、お前の第二、第三の御子とやら、寸毫の狂いもなくこの場に召し出すべし。でないと突き殺す。神だというのなら刀の刃は立たず刺さりもしないはず。その腹で試してみようか」。

「己(おのれ)ハ猿ニコソハ有(あり)ケレ。神ト云(いふ)虚名乗(そらなのり)ヲシテ、年々(としどし)人ヲ噉(くら)ハムハ極(いみじ)キ事ニハ非(あら)ズヤ。其(そこの)二、三ノ御子(みこ)ト云(いひ)ツル猿、慥(たしか)ニ召出(めしいだ)セ。不然(さらず)ハ突殺(つきころし)テン。神ナラバヨモ刀モ立(たた)ジヤ。腹ニ突立(つきた)テ試(こころみ)ン」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.40」岩波書店 一九九六年)

そう言ってほんの僅かに短刀で腹の肉を抉り出す身振りをしてみた。猿は手を摺りながら喚き声を発した。するとそこへ二匹の猿が出できた。それが第二、第三の御子なのだろう。大型の猿を第一の御子=神子と考えるとそうなる。そして最初に姿を現わした猿を入れると計四匹の猿をまとめて主導的な立場にある自称=猿神として考えることができる。聖は最初に出てきた猿に命じて葛を折り取って持ってこさせると四匹まとめて縛り上げた。さらに最初の猿に向けて言った。「お前、私を斬り殺そうとしたな。しかし言うことを聞くというなら命を断つことだけはしようと思わぬ。というのは、事情のわかっていない人々を相手に悪ふざけを仕掛けて趣味の悪い風習を流行らせ、あくどい結果ばかり撒き散らすこれまでの仕業をだな、もう金輪際止めるというのなら、だ。でなければお前の命はもう無い」。

「己(おのれ)、我ヲ切(きら)ントシツレド共(ども)、此(かく)随ハバ命ヲバ不断(たたじ)。今日ヨリ後、案内モ知(しら)ヌ人ノ為ニ祟(たたり)ヲ成シ、不吉(よからぬ)事ヲモ至サバ、其(その)時ニナン、シヤ命(いのち)ハ断(たち)テント為(する)」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.40」岩波書店 一九九六年)

聖はしばらく猿たちを木に縛り付けておき、宴席の残火を取って来てすべての祠に火を付けて廻った。炎は天高く燃え上がり、遠く離れた里までも照らし出した。里に戻って物忌に入っていた人々もそれに気づいた。何事かとどの家の中も大騒ぎになった。が、祭祀の常識として物忌に籠っている間(このケースでは三日間)は外に出られない。現場まで駆けつけて何事が起こっているかを確認しようにも出るに出られない。ただ、聖の妻だけは頼まれて短刀の用意を謀ったため、「もしかしたら、あるいは」、と炎を見て思った。

そのうち、聖が無事に帰ってきた。葛の茎で縛り付けた四匹の猿を先頭に立たせている。それを見た里人らは思った。「あの生贄が神〔御子たち〕を縛り付けて追い立てながら里に降りてくるとはどういうことだ。これは神よりも尊い人を誤って生贄として送り出してしまったに違いない。神さえも縛り上げて戻ってくるとは。ややもすれば我ら里人を喰らい尽くしてしまうかも」。

「彼(かの)生贄ノ、御子達(みこたち)ヲ縛(しばり)テ前ニ追立(おひたて)テ来(く)ルハ、何(いか)ナル事ゾ。此(こ)ハ、神ニモ増(まさり)タリケル人ヲ、生贄ニ出(いだ)シタリケルニコソ有ケレ。神ヲダニ此(かく)ス。増(まし)テ、我等ヲバ噉(くらひ)ヤセンズラン」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.41」岩波書店 一九九六年)

里人らの大騒ぎを横目に、聖は妻のいる舅の家の門の前に立ち、開けてくれと呼んだ。「開けないとあなたがたの為にならぬと思うが」と。

舅もまた怖いので娘を呼んでいう。「あの方はきっと神よりも驚異的な人に違いない。娘のことが気に入らなかったのだろうか。そなた、娘よ、戸を開けて宥めてきてくれ」。

「此(こ)ハ、極(いみじ)キ神ニモ増(まさり)タリケル人ニコソ有(あり)ケレ。若(もし)、我(わが)子ヲバ悪(あし)トヤ思フラン。和君(わきみ)、門ヲ開(あけ)テ云誘(いひこしら)ヘヨ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.41」岩波書店 一九九六年)

妻は恐れている父に代わって門をほんの少しばかり開けてみた。聖はその隙間を押し開いた。見ると妻がぼうと立っている。ほとんど裸のままなので妻に命じて狩衣・袴・烏帽子などの装束を持って来させ、素早く着替え、猿たちを家の戸に縛り付けて、さらに武具を背負い、舅を呼んで事情を説明した。「これらは神ではなくて猿です。なのに年々生贄を送り込んで喰い殺させていたとは、迷いごとにも程がある。このような物らは猿丸(さるまろ)と言って、人家に繋いで飼っていれば、馬小屋の番になり、愛玩できてなかなか愛嬌さえあるものを、逆に数年間も生贄を奉納し神として奉り続けてきたとは。実にあきれたものです。私がここにいる限りはもうこのような無茶なことはないと保障できましょう。金輪際、私にお任せ下さい」。

「此(これ)ヲ神ト云(いひ)テ、年毎(としごと)ニ人ヲ食(くは)セケル事、糸奇異(いとあさまし)キ事也。此(これ)ハ猿丸(さるまろ)ト云(いひ)テ、人ノ家ニモ繋(つなぎ)テ飼(かへ)バ、被飼(かはれ)テ人ニノミ被凌(りようぜられ)テ有(ある)者ヲ、案内モ不知(しらず)シテ、此(これ)ニ年来(としごろ)生(いき)タル人ヲ食(くは)セツラン事、極(きはめ)テ愚(おろか)也。己(おのれ)ガ此(ここ)ニ侍ラン限(かぎり)ハ、此(これ)ニ被凌(りようぜらる)ル事有(ある)マジ。只己ニ任セテ見給ヘ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.42」岩波書店 一九九六年)

聖とその家族はようやく納得した。そして一同が次に向かったのは、里で郡司を務めている老人の邸宅である。門を開けさせて、今度は事情を飲み込んだ聖の舅が実状を説明した。舅の言葉に戦慄した郡司はもしや郡司自身が殺されるのではと怯え出した。郡司は「助けてくれ」と嘆願する。そこで舅はいう。「すべて私に任せなさい。そうすればもう二度とこのような陰惨な風習が復活することはないでしょう」。聖はその場を見た猿たちに向かって重ねていう。「よし、お前さんらを殺すようなことはしない。だがもし今後、またこの辺りに出現して悪さしようものなら、今度こそ必ず射殺すほかない」。

「吉々(よしよし)、己(おのれ)ガ命ヲバ不断(たたじ)。此(これ)ヨリ後、若(もし)此辺(このわたり)ニ見エテ、人ノ為ニ悪(あし)キ事ヲ至サバ、其(その)時ニ必ズ射殺シテントスルゾ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.43」岩波書店 一九九六年)

そうして郷人(さとびと)を呼び集め、皆で現場に残されたすべての祠を解体させた。さらに解体させて残った廃材もすべて焼き払った。また、主導的立場を演じていた四匹の猿たち。罰を与えられた。聖の持ち物の一つ・杖で二十回打ち据えて、四匹とも追放した。猿たちは杖で打たれた傷跡という罪滅ぼしの烙印を負って足を引きずりながら山中のどこかへ消え失せ、もう二度と里へ戻ってくることはなかった。

「郷ノ者皆呼集(よびあつめ)テ、彼(かの)社ニ遣(つかはし)テ、残(のこり)タル屋共(やども)皆壊(こほち)集メテ、火ヲ付(つけ)テ焼失(やきうしな)ヒツ。猿ヲバ四乍(よつながら)祓負(はらへおほ)セテ追放(おひはなち)ケリ。片蹇(かたあしなへ)ギツツ山深ク逃入(にげいり)テ、其(その)後敢(あへ)テ不見(みえざり)ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第八・P.43」岩波書店 一九九六年)

この箇所で「片蹇(かたあしなへ)ギツツ山深ク」とある。柳田國男を参照。

「一目小僧は多くの『おばけ』と同じく、本拠を離れ系統を失った昔の小さい神である。見た人が次第に少なくなって、文字通りの一目に画をかくようにはなったが、実は一方の目を潰された神である。大昔いつの代にか、神様の眷属にするつもりで、神様の祭の日に人を殺す風習があった。おそらくは最初は逃げてもすぐ捉まるように、その候補者の片目を潰し足を一本折っておいた。そうして非常にその人を優遇しかつ尊敬した。犠牲者の方でも、死んだら神になるという確信がその心を高尚にし、よく神託予言を宣明(せんみょう)することを得たので勢力が生じ、しかも多分は本能のしからしむるところ、殺すには及ばぬという託宣もしたかも知れぬ。とにかくいつの間にかそれが罷(や)んで、ただ目を潰す式だけがのこり、栗の毬(いが)や松の葉、さては箭に矧(は)いで左の目を射た麻、胡麻その他の草木に忌が掛かり、これを神聖にして手触るべからざるものと考えた。目を一つにする手続もおいおい無用とする時代は来たが、人以外の動物に向っては大分後代までなお行われ、一方にはまた以前の御霊の片目であったことを永く記憶するので、その神が主神の統御を離れてしまって、山野道路を漂泊することになると、怖ろしいことこの上なしとせざるを得なかったのである」(柳田國男「一目小僧その他・二十一」『柳田國男全集6・P.267~268』ちくま文庫 一九八九年)

さて。ではどうしてこの説話が飛騨国へ伝わったのか。聖はずっと彼方の国へ留まったはず。後日談の箇所を見ると、此方(こなた)から彼方(かなた)へ行くことはできないか、そもそも行く方法がわからない。しかし彼方(かなた)から此方(こなた)へは時々やって来ることがあるらしい。もともそ彼方の国には牛も馬も狗さえもいなかった。けれども猿が時々里に降りてきて悪さをするのでその防止のため狗を彼方へ送り込み、さらに村落共同体成形維持のため、牛や馬も連れて帰っているうちにだんだん繁殖し、子どもたちも増えたという。「飛騨国(ひだのくに)ノ傍(かたはら)」にその境界線あるいは出入口があるとされるが、隣国に当たる信濃国(しなののくに)にも美濃国(みののくに)にもそれらしき場所は見当たらないのだとも。おそらく境界線も出入口ももはやないだろう。なぜなら、かつてはあった先住民の村落・生活様式の異なる民・移動民たちはもうすべて近代から戦後にかけて溶け込んだに違いないからだ。この説話はまだ広い意味での「異人」が列島各地で独自の生活様式を保存しており、その生活様式のもとで暮らしていた限りでのみ、両者が接触する地点で発生したに違いない実話が元になっていると考えられる。なかでも最有力なものは「日本書紀」にある。説話の中にたびたび出てくる蓑笠姿をトレードマークとし、乱暴狼藉の末に共同体から追放され、永遠に世界各地を流浪して歩くことを決定づけられた登場人物。ほかでもないスサノオノミコトである。

「素戔鳴尊、青草(あおくさ)を結束(ゆ)ひて、笠蓑(かさみの)として、宿(やど)を衆神(もろかみたち)に乞(こ)ふ、衆神の曰(い)く、『汝(いまし)は是躬(これみ)の行(しわざ)濁悪(けがらは)しくして、遂(やら)ひ謫(せ)めらるる者(かみ)なり。如何(いかに)ぞ宿(やどり)を我(われ)に乞(こ)ふ』といひて、遂(つひ)に同(とも)に距(ふせ)く。是(ここ)を以て、風雨(かぜあめ)甚(はなは)だふきふると雖も、留(とま)り休(やす)むこと得(え)ずして、辛苦(たしな)みつつ降(くだ)りき。爾(それ)より以来(このかた)、世(よ)、笠蓑を著(き)て、他人(ひと)の屋(や)の内(うち)に入(い)ること諱(い)む。又(また)束草(つかくさ)を負(お)ひて、他人(ひと)の家(いへ)の内に入ること諱む。此(これ)を犯(をか)すこと有(あ)る者(もの)をは、必(なから)ず解除(はらへ)を債(おほ)す。此(こ)れ、太古(いにしへ)の遺法(のこれるのり)なり」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第七段・P.86」岩波文庫 一九九四年)

昔話として類話は多いが、より一層実在的で、動物ではない人間として見た場合、それは古典としての「日本書紀」を見れば既に出てきているのではと考えられる。そしてそのミソギの聖地はまたしても熊野をおいて他にない。

「一書に曰はく、素戔嗚尊の曰(のたま)はく、『韓郷(からくに)の嶋(しま)には、是(これ)金銀(こがねしろかね)有り。若使(たとひ)吾が児の所御(しら)す国(くに)に、浮宝(うくたから)有(あ)らずは、未(いま)だ佳(よ)からじ』とのたまひて、乃ち鬚髯(ひげ)を抜(ぬ)きて散(あか)つ。即(すなは)ち杉(すぎのき)に成(な)る。又(また)、胸(むね)の毛(け)を抜き散つ。是(これ)、檜(ひのき)に成る。尻(かくれ)の毛は、是柀(まき)に成る。眉(まゆ)の毛は是櫲樟(くす)に成る。已(すで)にして其(そ)の用ゐるべきものを定(さだ)む。乃ち称(ことあげ)して曰(のたま)はく、『杉及(およ)び櫲樟、此(こ)の両(ふたつ)の樹(き)は、以(も)て浮宝(うくたから)とすべし。檜(ひのき)は以て瑞宮(みつのみや)を為(つく)る材(き)にすべし。柀(まき)は以て顕見蒼生(うつしきあをひとくさ)の奥津棄戸(おきつすたへ)に将(も)ち臥(ふ)さむ具(そなへ)にすべし。夫(そ)の噉(くら)ふべき八十木種(やそこだね)、皆(みな)能(よ)く播(ほどこ)し生(う)う』とのたまふ。時に、素戔嗚尊(すさのをのみこと)の子(みこ)を、号(なづ)けて五十猛命(いたけるのみこと)と曰(まう)す。妹(いろも)大屋津姫命(おほやつひめのみこと)。次(つぎ)に柧津姫命(つまつひめのみこと)。凡(すべ)て此の三(みはしら)の神(かみ)、亦(また)能(よ)く木種(こだね)を分布(まきほどこ)す。即ち紀伊国(きのくに)に渡(わた)し奉(まつ)る。然(しかう)して後(のち)に、素戔嗚尊、熊成峯(くまなりのたけ)に居(い)まして、遂(つひ)に根国(ねのくに)に入(い)りましき」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第八段・P.100~102」岩波文庫 一九九四年)

また聖(ひじり)は始めから蓑笠姿で全国を遊行しながら修行者として孤高を貫く存在だ。スサノオノミコトと似たこの条件は、聖にも同時に当てはまる。猿神もまた追放されることによってだけでなく、農耕生活の必需動物たる馬小屋の管理に当たり、さらに気の効く芸能を習得する力を持ってもいるため、改めてその条件を得る。整理してみよう。説話の中で猿は始めから神として君臨した。次に猿としての正体を曝かれた。第三に猿は山へ返っていった。死んだわけではまったくない。死ぬ必要もない。猿は第一に「猿」。第二に「万能の猿神=貨幣」。第三に「山神としての猿」。だから一度は貨幣の位置を占めたことになる。それがさらに変容し、第三の形態を得て、今なお続く山神=猿神信仰として全国各地で生き生きと生き残ってきたと言える。

注記としてこの説話の前の「巻第二十六第七話」では、猿神の正体を曝くのは「狗山(いぬやま)」という移動民だった。そしてそこで妻を得る。第八話でも同様、猿神の正体を曝くのは「聖(ひじり)」という移動民であり、そしてそこで妻を得る。要するにそこで新しい定住民族が出現するという生成変化が演じられる。同種のもの同士では見えないのだ。異種のもの同士が同一線上に置かれるとき始めて、そこに或るものAと別のものBとを照合して見せる場がありありと出現するのであり、その限りで出現する等価性並びに不等価性でなくてはならない。

「価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる(見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、またペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである)。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.102」国民文庫 一九七二年)

というふうに。


Blog21・女性「上納神話」解体へ・熊楠による熊野案内/猿への供物1(再録)

2025年02月04日 | 日記・エッセイ・コラム

デマ情報をパッチワークしてひとつのストーリーと化した作り話に過ぎない「神話」が世間に流通し出すと何が起こるかという問いは古くから問われてきた。ところが今や世間一般をはるかに越えて世界的規模で流通し出しているのがこれまた「神話」だという事態。そこへさらに「魂のトラブル」=「煽られて発生した不安」を付け加えてますます「自分たちだけの特権的権力」を「安定させるために」に煽動・利用される。「神話・煽られて発生した不安」は今の権力構造を安定させるために意図的に捏造されているに過ぎないことへの問いがあまりにも足りないというほかない。

 

「自然は発明に対立しない。発明は自然そのものの発見にほかならないから。しかし、自然は神話に対立する。ーーー人間の不幸は、人間の習慣・慣習・産業から由来するのではなく、そこに混在する神話の部分と、神話が人間の感情と作品に導入する偽の無限から由来するのである」(ドゥルーズ「意味の論理学・下・P.178」河出文庫 二〇〇七年)

 

昨日述べた。

 

それは例えば、「台湾・沖縄から南西諸島にかけて」なぜあれほど煽情的な情報ばかりがほとんど一方的に行き交うのか、その過程でどのような人々が他の誰を犠牲にしつつどんなふうに大儲けしているのか、そう問うことで始めて見えてくるだろう。

 

さてしかし「台湾・沖縄から南西諸島にかけて」だけが問題なのだろうか。「女性アナウンサー」を「人身御供/上納」とする習慣を残していると見られる大きな業界でもたいへんよく似た「神話」がまかり通ってきたのではと問うことができるだろう。以前「猿神神話と人身御供としての女性」についてこう述べた。

 

前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

「美作国(みまさかのくに)」(現・岡山県北部)に「中参(ちうざん)」と「高野(かうや)」という神がいた。中参(ちうざん)は猿。高野は蛇。猿は山神としての歴史が長い。蛇は稲作農耕社会成立とともに水神として、さらに冬季や塚穴で暮らす時期は山神としても尊崇される。次の説話は「猿神=中参(ちうざん)」とその生贄とに関する。

フレイザーやエリアーデの著作に収められた膨大な資料から見て、最初の生贄が人間だったことはもはや明らか。しかしそのような人身御供の風習は徐々に廃れていった。その理由は十六世紀以降のヨーローパで始めて人間を大切にしようという意識が芽生えてきたからではまったくない。人間という言葉が生まれたと同時に始めて出現したイデオロギーであり、その理由は労働力として有効であるという認識の発生とともに生まれた歴史的過程の一要素である。しかし説話は近代以前のものだ。だから特に「今昔物語」のような善悪の判断をできるだけ排した説話集を覗いてみると、近代以前の世界の一面を垣間見ることができる。ちなみに次の箇所で扱われている当時の美作国(みまさかのくに)について考える場合、半分以上が山間部、三分の一程度が農山村だった頃に出現した説話として想定したいと思う。

年に一度、猿神に生贄を捧げる信仰が残っていた頃、生贄に関し、「国人(くにびと)ノ娘ノ未(いま)ダ不嫁(とづがざる)」、という絶対的条件が定められていた。美作国内の若い女性で処女であること。

「毎年(としごと)ニ一度其祭(それをまつり)ケルニ、生贄(いけにへ)ヲゾ備(そな)ヘケル。其(その)生贄ニハ、国人(くにびと)ノ娘ノ未(いま)ダ不嫁(とづがざる)ヲ立(たて)ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第七・P.29」岩波書店 一九九六年)

或る時、特に身分が高いというわけではないが、十六、七歳になる美麗な生娘がいた。両親ともに普段からこの女性を愛しく思い大切に育てていた。ほどなく、今年の生贄にその女性を、と指名されることになった。

「其国ニ、何人(なにびと)ナラネドモ、年十六、七許(ばかり)ナル娘ノ形(かた)チ清気(きよげ)ナル、持(もち)タル人有(あり)ケリ。父母(ちちはは)、此(これ)ヲ愛シテ身ニ替(かへ)テ悲(かなし)ク思(おもひ)ケルニ、此(この)娘ノ、彼(かの)生贄ニ被差(さされ)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第七・P.29」岩波書店 一九九六年)

例年通りの祝祭なので日取りはあらかじめ決定されている。だから女性の死の日から計算すれば残された日数があと何日か逆算することができる。そうなると両親もその娘もともにもはや逆算することしかできない精神状態に陥る。親子ともに泣き暮らすほかない日々が続いた。そんな折、「東(あづま)ノ方(かた)」から少しばかり縁のある者がそこへたまたま立ち寄った。狗山(いぬやま)を専業としている者だ。狗山については既に何度か述べた。

普段から何頭かの犬〔狗〕を飼っておき、訓練し、猟師は山の奥深くに入る。鹿や猪を見つけると、連れて来た猟犬を巧みに操り獲物を咋殺(くひころ)させて生業にする猟法(または猟師)のこと。数日間も深い山間部に入ることが稀でない経験から、山岳地帯で発生する危険に関してはかなりの専門知識を持ち合わせている。

狗山は特定の定住民ではない。しばらく同じ地域で狩猟を行い、また季節や地形など諸条件が変わると別の地域へ移動して生計を立てる非定住民である。この東人(あづまびと)がここへやって来たのも狩猟のためであって他に何らかの用事があったわけではまったくない。ところが一時的に美作国のこの地域で腰を降ろしている間に、例の生贄の話題が耳に入ってきた。そしてその家の前を通りかかったついでに蔀(しとみ)の中をふと覗いてみると、十六、七歳ばかりの若い女性が家具や柱などに寄り掛かりつつ、髪の毛を顔の前までばらばら垂らして泣き臥せっている。東人は気の毒な気がした。そこで一度、この女性の親に会ってみようと考えた。親はいう。「うちの子はこの娘たった一人。大切に思い育ててきたし、気立てもよく愛嬌もありーーー。しかしとうとう生贄に指名されてしまった。私たちが一体、いつどこでどんな悪事を働いたというのでしょう。余りにも悲しい思いで一杯です」。

東人はいう。「一人娘が生贄として目の前で膾(なます)=刺身(さしみ)にされるとは」。そして続ける。「わたしたちが仏神を畏怖し奉るのは仏神がわたしたちを守護して下さると思えばのこと。さらに子どものためを思うからこそ我が身も惜しいと思わない。にもかかわらず、子どもを守ろうとするどころかその親の気持ちを踏みにじり子どもを膾(なます)=刺身(さしみ)にして差し出せと。そしてまた女性の死は既に決定済みとのことのようだ。もう亡くなったも同然というに等しい。それならいっそ、私にその女性を預けては下さるまいか。同じ死ぬなら私が女性の身代わりとなって死ぬのも一つでしょう。身代わりであれば私に女性を託して下さってももはや同じことです。そう苦しまないで頂きたい」。

「仏神モ命ノ為(ため)ニコソ怖(おそろ)シケレ。子ノ為ニコソ身モ惜(をし)ケレ。亦、其(その)君ハ今ハ無(なき)人也。同(おなじ)死(しに)ヲ、其(その)君、我ニ得サセ給ヒテヨ。我、其替(そのかはり)ニ死侍(しにはべり)ナム。其(そこ)ハ、己(おのれ)ニ給フトモ苦シトナ思給(おもひたまひ)ソ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第七・P.30」岩波書店 一九九六年)

しかし、どうすればそんなことができるのか。東人はいう。「策略があります。この家の中に私がいると誰にも言わないで下さい。そしてただひたすら精進していますと告げて、注連縄(しめなわ)を張り巡らせておき、策略が上手くいくよう準備の仕上がりを待っていて欲しいのです」。

「只可為様(すべきやう)ノ有(ある)也。此(この)殿ニ有(あり)トテ、人ニ不宣(のたまはず)シテ、只、精進(しやうじん)ストテ、注連(しりくへ)ヲ引(ひき)テ量(はかり)給ベシ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第七・P.30」岩波書店 一九九六年)

東人は両親の了解を取り付けて女性を妻として娶った。日数を経るうちに妻のもとを去りがたくなってくる。同時に東人は数年来飼育してきた犬のうち特別に優秀な二頭の犬を選び、こっそり山中へ入って猿を捕らえる訓練に打ち込ませた。しばらくすると二頭の犬は猿の姿を見るや瞬時に飛びかかり噛み殺す方法を習得した。東人もまた自分の刀をひときわ磨き上げて準備に当たった。

例祭の日が近づいた。東人は妻にいう。「私がそなたの身代わりに死ぬのは辛いことではない。生きていればいずれは死ぬのだから。ただ辛いのは、そなたと別れることになることだ」。

「我ハ其(そこの)御代(かはり)ニ死侍(しにはべり)ナントス。死(しに)ハ然(さ)ル事ニテ、別レ申シナムズルガ悲(かなし)キ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第七・P.31」岩波書店 一九九六年)

そして当日。神社から宮司(みやづかさ)を筆頭に祭祀のため大勢の人員が家にやって来た。新調された長櫃(ながひつ)が持ち出され、「この中に生贄を」と家の中へ差し入れられた。長櫃の中には予定通り東人が簡略な衣服と刀剣だけを身に付けて入り、両脇に猟犬を臥せさせ、長櫃の蓋を閉じた。両親は女性を入れたかのように装って長櫃を再び家の前で待っている祭祀の行列に向けて差し出した。大勢の人々は鉾や榊など様々な祭具を手にどよめきながら神社へ向かった。

「新(あたらし)キ長櫃(ながひつ)ヲ持来(もてき)テ、『此(これ)ニ入(いれ)ヨ』ト云(いひ)テ、長櫃ヲ寝屋(ねや)ニ指入(さしいれ)タレバ、男、狩衣(かりぎぬ)袴(はかま)許(ばかり)ヲ着テ、刀ヲ身ニ引副(ひきそへ)テ長櫃ニ入ヌ。此(この)犬二ツヲバ左右(さう)ノ喬(そば)ニ入レ臥(ふ)セツ。祖共(おやども)、女ヲ入(いれ)タル様(やう)ニ思ハセテ取出(とりいだし)タレバ、鉾(ほこ)・榊(さかき)・鈴・鏡ヲ持(もて)ル者、雲ノ如クシテ、前(さき)ヲ追(おひ)ノノシリテ行(ゆき)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第七・P.31」岩波書店 一九九六年)

生贄御社(いけにへみやしろ)に到着するとまず祝詞(のつと)が唱えられる。そして神社の垣が開かれ、長櫃を閉じていた紐が解かれ、長櫃は内部へ搬入される。すると宮司らは神前から引き退く。後は猿神の登場を待つばかり。東人は長櫃をほんの僅かばかり削り取って隙間から周囲を覗く。そこには2メートル以上もある巨大な猿が上座に座っている。その左右を縦二列になって百匹ほどの猿が興奮しながら喚き声を上げている。猿神の前にはこれまた巨大な俎(まないた)が置かれていて、さらに酢と塩を混ぜた調味料と酒と塩を混ぜた調味料とが並べられている。鹿をなまで調理する時の用意とまるで違わない。

「男、長櫃ヲ塵許(ちりばかり)キサゲ開(あけ)テ見レバ、長(たけ)七、八尺許(ばかり)ナル猿、横座ニ有リ。歯ハ白(しろく)シテ顔ト尻トハ赤シ。次々ノ左右ニ、猿百許(ばかり)居並(ゐなみ)テ、面ヲ赤ク成(なし)テ、眉(まゆ)ハヲ上(あげ)テ、叫ビノノシル。前ニ、俎(まないた)ニ大(おほき)ナル刀置(おき)タリ。酢塩(すしほ)・酒塩(さかしほ)ナド皆居(すゑ)タリ。人ノ鹿ナドヲ下(おろ)シテ食(くは)ンズル様(やう)也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第七・P.31」岩波書店 一九九六年)

やや間があって、巨大な猿が長櫃を開けようとし、他の猿たちもそれを手伝いに立ち上がった。その瞬間、東人は長櫃の中から踊り出て犬どもに「さあ、喰らいつくべしっ!」と繰り返し嗾けた。自分も磨き上げてきた刀を抜き、第一の猿を捕まえて俎(まないた)の上にべたりと延び臥せさせていう。「お前が肉を食うというならこうしてやる。その頸(くび)を切り落として、もう犬の餌だ」。

「汝ガ人ヲ殺シテ肉村(ししむら)ヲ食(くふ)ハ、此(か)ク為(す)ル。シヤ頸(くび)切テ、犬ニ飼(かひ)テン」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第七・P.32」岩波書店 一九九六年)

びっくりした猿は激しくまばたきして目に涙を浮かべ両手をさすって許しを乞う。だが東人はさらに畳み掛ける。「お前たちはこれまで何年間も多くの人々を殺しむさぼり喰ってきた。それに代わり今度はお前たちが殺されるわけさ。今こそその時と思え。お前、神であるというのなら、私を殺してみたまえ」。

「汝ガ、多年来(おほくのとしごろ)、多(おほく)ノ人ノ子ヲ噉(くらへ)ルガ替(かはり)ニ、今日殺(ころし)テン。只今ニコソ有(ある)メレ。神ナラバ我ヲ殺セ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第七・P.32」岩波書店 一九九六年)

東人が刀を閃かすや二頭の犬は、周囲に群れ集った百匹ほどの猿に次々と噛みつきかかり喰らい殺し始めた。たまげた猿たちは山中に逃げて隠れてしまった。そのうち一人の宮司に神が憑依して神がかった声を上げて何か言い始めた。「今日からもうこの生贄の儀式は止める。殺したりしない。また、この男性が私をこのように扱ったといってこの男性に危害を加えてはならない。さらに生贄に指名した女性はもちろん、その両親・親族らにも無礼な行為を与えてはならない。だから私を助けてくれ」。

「我レ、今日ヨリ後(のち)永ク此(この)生贄ヲ不得(えじ)。物ノ命ヲ不殺(ころさじ)。亦、此(この)男、我ヲ此(かく)棱(りよう)ジツトテ、其(その)男ヲ錯犯(あやまちをか)ス事無カレ。亦、生贄ノ女ヨリ始(はじめ)テ、其(その)父母(ぶも)・類親(るいしん)ヲ云不可棱(いひりようずべから)ズ。只我ヲ助ケヨ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第七・P.32」岩波書店 一九九六年)

ところが東人は聞き入れない。「私はどうなってもよい。多く差し出される生贄の代わりに私が死ぬというのだ。共に死ねば終わるだろう」。

「我ハ命不惜(をしからず)。多(おほく)ノ人ノ替(かはり)ニ此(これ)ヲ殺シテン。然(しか)シテ共(とも)ニ無成(なくなり)ナン」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第七・P.32」岩波書店 一九九六年)

そこで神が憑依した宮司もまた答えた。「こうして祝詞を申し上げて重大な誓いを述べ上げます」。そう誓言(せいごん)を口にした。もし誓言(せいごん)を破れば切腹しかない。今の世の国会議員待遇とはまるで違うのである。それを聞いて始めて東人は免(ゆる)して差し上げようと了解した。そして帰途についた。東人は無事に家に帰り、待っていた妻と共にずっと夫婦として長く暮らした。女性の両親も言いようもなく喜んだ。

「男ハ家ニ返(かへり)テ、其ノ女ト永ク夫妻(めをうと)トシテ有(あり)ケリ。父母ハ、聟(むこ)ヲ喜ブ事無限(かぎりなし)」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第七・P.32」岩波書店 一九九六年)

後日談がある。

「其(その)後、其生贄立(たつ)ル事無(なく)」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第七・P.33」岩波書店 一九九六年)

説話は「今昔物語」に載るもの。類話が「宇治拾遺物語」にある。後者ではこうなっている。

「その後はかの国に猪(ゐ)・鹿(しか)をなん生贄(いけにへ)にし侍りけるとぞ」(「宇治拾遺物語・巻第十・六・P.240」角川文庫 一九六〇年)

猿神はなるほど人々を生贄として殺害することはもう止めると宣言した。けれども「猪(ゐ)・鹿(しか)」を生贄にしないとはまったく一言も言っていない。さらにこの説話の冒頭にあるように村落共同体に長く伝わる一種の祭祀を変化させたのは狗山である。狗山は通例「猪(ゐ)・鹿(しか)」を狩猟対象として生きている人々である。となると、人身御供は消え失せたけれども、今度はその代理として「猪(ゐ)・鹿(しか)」が捧げ物として置き換えられたと考えることは容易である。いずれが真相かなど誰にもわかりはしない。そしてまた美作国の猿神への生贄は、説話の上では消え失せた。とはいえ、かつては確かにあったし、その名残なら今なお全国各地で見ることができる。柳田國男はいう。

「猿廻しも今では女子供の眼を楽しませるものの一となっているが、昔は立派な一つの儀式であった。かのマンザイなどよりも、もっと厳格な儀式であった。京都では朝廷においても正月の三日にこれを行わせられ、江戸の幕府でも年々その儀式が行われていたのであった。それは何のための儀式であったかというと馬の安全息災を祈るためのものであったのである。その証拠には現在でも厩(うまや)の口に猿が馬を引いているところの札を貼っているのが、あちらこちらで見受けらるるのでも分る。現に播磨(はりま)の石の宝殿社の守札のごとく今なお行われているものが少なくない。『新編武蔵風土記稿』、多摩郡巻之一百八に、日吉山王権現社には古い絵馬があるという記事が出ていて、またその絵馬の図までも書いてある。その絵馬を見ると、馬が狂い出そうとしているのを、猿が引き留めているのである。あれなども猿が馬の守りをするという思想を表わしたものであろうと思う。私の考えではあの猿の話と例の河童(かっぱ)、中国地方ではエンコとはまったく同じものだと思うのであるが、それは少し話が余談にわたるから略するとして、とにかく猿は馬屋の番に使われたものだという事は確実である」(柳田國男「猿廻しの話」『柳田国男全集5・P.510』ちくま文庫 一九八九年)

熊楠はこう述べている。

「かつて熊野川を船で下った時しばしば猴を見たが船人はこれを野猿(やえん)また得手吉(えてきち)と称え決して本名を呼ばなんだ。しかるに『続紀』に見えた柿本朝臣佐留(さる)、歌集の猿丸太夫、降(くだ)って上杉謙信の幼名猿松、前田利常(としつね)の幼名お猿などあるは上世これを族霊(トーテム)とする家族が多かった遺風であろう」(南方熊楠「十二支考・下・猴に関する伝説・P.28」岩波文庫 一九九四年)

見ておくべき生贄の移動について。第一に「村落共同体の構成員」。第二に(1)「消滅」・(2)「他の動物」。第三に「貨幣」(さいせん)。いずれにしても第三の選択肢「貨幣」は「若い女性の膾(なます)=刺身(さしみ)」と等価交換されるに至った。今なお人身売買が可能なのはそういう理由による。しかしまたその間の推移について、次のように貨幣へと置き換えられた瞬間から、それまでの事情は覆い隠されほとんどすっかり忘れ去られてしまうのである。

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫 一九七二年)

というふうに。

ところでしかし猿神信仰はまた別の側面から、かなり古い起源を持つ信仰の一つとして考えられる。少なくとも仏教輸入以前の倭国にはごく普通にあったのではと思われる。その点については機会があれば「日本霊異記」や「御伽草子」を通して考えてみたいとおもう。

 

 


Blog21・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて1057

2025年02月04日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

読書再開。といっても徐々に。

 

節約生活。

 

午前五時に飼い猫の早朝のご飯。

 

体操の後、エクスペリメンタルやインダストリアルを中心に飼い猫がリラックスできそうな作品リスト作成中。

 

Autechre「th red a」

曲をかける前から飼い主の部屋にお気に入りのぬいぐるみを持ってきて待っている。遊んでくれる時間だと認識しているようだ。1:19から低音の効果音がいろいろ入ってくる。グルルル音だけでなくずざ~と川底を浚うような音、ビヨヨヨ音、ランダムに打たれるベースなどで、さほどこれといった耳新しい音はない。だがとてもうれしそうに駆け回る。この手の音楽に対する慣れが今度は遊びの時間の始まりの合図になってきたらしい。