二〇二五年二月六日(木)。
早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
昨日の西行さんの歌もそうだけど昔の歌にタマってよく出てくるんだね。
そうなんだけど、もっとも最初は猫のタマじゃなかった。充実より空しさを詠んだもののほうが目立つかな。
空しさって?
こういう感じかな。でもちょっと難しいぞ。「空(から)の萩(はぎ)」と「空(から)は木ごと」とがずれつつ重なってる。
「空蝉(うつせみ)のからはきごとにとどむれど魂(たま)のゆくへを見ぬぞかなしき/よみ人しらず」(「古今和歌集・P.121」岩波文庫 一九八一年)
なるほど、そんなふうに読むのか。まだあんまり理解できてないけど。でもさ、空蝉(うつせみ)ってどっかで聞いたことある。テレビかなあ。
そう?う~ん、有名どころでは源氏物語に「空蝉(うつせみ)」の巻があるけど、ええと、確か「空蝉」って言葉を入れた歌もあった。
「空蝉(うつせみ)の身(み)をかへてける木(こ)のもとになほ人がらのなつかしきかな」(「空蝉」『新日本古典文学体系 源氏物語1・P.93』岩波書店 一九九三年)
どういうことなの?
「蝉の抜けがら」みたいに姿を変えた「木(こ)のもと」=「木の根本」=「空洞」(うつろ)と繋がってるんだけど、「木(こ)のもと」=「木の根本」=「空洞」(うつろ)ってのがね、空蝉が源氏から逃げるときに脱ぎ捨てていった「薄衣」のことらしい。だから空蝉の匂いのついた空っぽの「薄衣」を手にとって空蝉の「人がらのなつかしきかな」って言いたいようだ。
人間って昔からちょっとフェチっぽいんだね。
心の中に湧き上がってきた感情や情念や怨念や怨恨や畏怖を文字に置き換え書きつけた物語やエッセイを愛するってところからしてすでにフェチっぽいと言やあ確かにフェチっぽい。他に空蝉を用いてほぼ似たような歌ならこんなのも。
「つれもなき人の心はうつせみのむなしき恋(こひ)に身をやかへてん/八条院高倉」(「新古今和歌集」『新日本古典文学体系 新古今和歌集・P.339』岩波書店 一九九二年)
そうかあ。「うつせみ」と「むなしき恋」とは言わばセットなんだ。
いいところに気がついた、タマさん。それじゃあ次もわかるかな。
「うちはへて音(ね)をなきくらす空蝉(うつせみ)のむなしき恋(こひ)も我はする哉(かな)/よみ人しらず」(「後撰和歌集」『新日本古典文学体系 後撰和歌集・P.61』岩波書店 一九九〇年)
うん。わかるわかる。
黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。FKAツイッグス。アルバム「LP1」の頃はとてもユーモラスな演出で好感を持って聴いたわけだがそんな中にもどこか痛々しさの欠片のようなものを漂わせてはいた。わざわざ大げさなまでに自分の顔面にべたべたペイントするだけでなくぐにゃぐにゃ変形させて見せるMVなど。けれども黒人アーティストの作品はジャズにせよブルースにせよヒップホップにせよまるでどこにも痛みのないようなものはない。かといって自虐性ばかりを売りにしてきたわけでは全然ない。それにしても今作はアルバムのアートワークからしておぞましいホラーさながら。ところが歌声は相変わらずFKAツイッグス。
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