ライプニッツはいう。
「もし各々の魂〔能動的な力〕の襞(ひだ)をすべて拡げることができるとすれば、その魂〔能動的な力〕のなかに宇宙の美を認めることができるであろうが、その襞は、時間の経過によってしか人が感知できるほどには展開しない。しかし、魂〔能動的な力〕の判明な表象はどれも、宇宙全体を包蔵する無数の混乱した表象を含んでいるので、判明で際立った表象をもつかぎりでしか、魂〔能動的な力〕自身は自らが表象している事物を認識していない。だから魂〔能動的な力〕は、自らのもつ表象の判明さの程度に応じた完全性をもつのである。各々の魂〔能動的な力〕は無限を認識し、すべてを認識しているが、混乱した仕方で認識している。それはちょうど、海岸を散歩して海の立てる大きな音を聞いているとき、私は、音全体を構成しているそれぞれの波の個々の音を聞いていながら、聞き分けてはいないようなものだ」(ライプニッツ「理性に基づく自然と恩寵の原理」『モナドロジー・P.89』岩波文庫 二〇一九年)
なるほどその通りだろう。そしてこの「テクストに立ち返ってみよう」とドゥルーズはいう。
「ライプニッツのあの有名なテクストに立ち返ってみよう。もっとも、そこでもまた二つの解釈が可能である。一方では、わたしたちはこう言うーーー総合的な騒音の統覚は明晰だが、混雑している(判明でいない)。というのも、その統覚を構成する部分的なもろもろの微小表象〔知覚〕は、それ自体からして明晰ではなく、曖昧であるからだ。他方では、わたしたちはつぎのようにも言うーーー微小表象はそれ自体、<判明かつ曖昧な(不明晰な)>ものであって、ここで<判明>というのは、その微小表象が差異的=微分的な諸関係=比と諸特異性をとらえているからであり、曖昧であるというのは、それがまだ『区別のある』ものになっていず、まだ異化=分化していないからである。ーーーさらに、それらの諸特異性は凝縮して、わたしたちの身体と連関した識閾を、ひとつの異化=分化の閾として規定し、そしてこの閾から微小表象の現実化が始まり、しかも微小表象は現実化されて統覚になるのだが、この統覚は、今度は、明晰で混雑した統覚でしかないのであって、ここで明晰であるというのは、それが区別のあるものにあるいは異化=分化したものになっているからであり、混雑しているというのは、それが明晰なものだからである。してみると、問題はもはや、(論理的可能性という観点から)<部分-全体>に関して立てられるのではなく、(差異的=微分的な諸関係=比の現実化、もろもろの特異点の具現という観点から)<潜在的-アクチュアル>ということに関して立てられることになる。そのときにこそ、共通感覚(サンス・コマン)における表象=再現前化の価値は打ち砕かれて、逆感覚(パラ・サンス)における還元不可能な二つの価値になるのだ。すなわち、曖昧なものでしかありえず、また判明であるだけにいっそう曖昧である判明なもの、および、混雑したものでしかありえない、明晰で-混雑したもの。判明かつ曖昧であるというのは《理念(イデア)》に固有な事態である。ということはまさに、《理念(イデア)》《は、実在的ではあるがアクチュアルではなく、差異化=微分化してはいるが異化=分化してはいず、十分ではあるが完璧ではない》ということだ。<判明で-曖昧なもの>とは、本来は哲学的な酩酊・めまいであり、要するにディオニュソス的な《理念(イデア)》である。したがって、ライプニッツは海の岸辺であるいは水車の間近で、まさにぎりぎりのところでディオニュソスを逸していたのである。そしておそらく、ディオニュソスの諸《理念(イデア)》を思考するためには、<明晰で-混雑した>思索者アポロンが必要になるだろう。しかし、自然の光〔理性〕を回復するためには、ディオニュソスとアポロンが統一されるなどということはあるわけはないのだ。ディオニュソスとアポロンはむしろ、哲学的な言語活動において、かつ諸能力の発散的な行使のために、つまり文体に関して齟齬をきたすもののために、二つの暗号化された言語を合成するのである。
事物そのものにおける現実化は、どのように行われるのだろうか。異化=分化は、なぜ質の付与と〔部分の〕合成であり、種別化と〔空間の〕組織化であって、しかもそれらが相関しているのだろうか。異化=分化は、なぜ、そのような相補的な二つの方途をとるのだろうか。現実的な質と延長よりも、また現実的な種と部分よりも、はるかに深い<時-空>的力動が存在するのである。現実化を、つまり異化=分化を行うのは、まさしくその<時-空>的力動である」(ドゥルーズ「差異と反復・下・P.124~126」河出文庫 二〇〇七年)
いたずらに混乱させようとしているわけではいささかもない。こんなパッセージがある。
「判明かつ曖昧であるというのは《理念(イデア)》に固有な事態である。ということはまさに、《理念(イデア)》《は、実在的ではあるがアクチュアルではなく、差異化=微分化してはいるが異化=分化してはいず、十分ではあるが完璧ではない》」
多くの人々は思うかもしれない。事情がそうならとっとと<差異化=微分化>から<異化=分化>へ、「意識化」へ、思考を推し進めるべきではないかと。しかし<差異化=微分化>から<異化=分化>への作業は「無理矢理」なところがある。意識にのぼるためには「習慣」という枠組みに沿ってでなければのぼってこようにものぼってくることはできない。無数に特異的なもの、微分的なもの、差異的なもの、それらを習慣という枠組みを用いて強引にまとめ上げてしまうのは「恣意的な行為」でしかない。
プルーストから。「表徴・しるし・シーニュ」、「習慣」、「恣意性」について。二箇所。
(1)「私に必要なのは、自分をとり巻くどれほど些細な表徴にも(ゲルマント、アルベルチーヌ、ジルベルト、サン=ルー、バルベックといった表徴にも)、習慣のせいで失われてしまったその表徴のもつ意味をとり戻してやることだ。そうして現実を捉えることができたら、その現実を表現しそれを保持するために、その現実とは異なるもの、つまり素早さを身につけた習慣がたえず届けてくれるものは遠ざけなければならない」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.494~495」岩波文庫 二〇一八年)
(2)「人生がわれわれのうちにいかなる想念を残そうとも、その想念の具体的な形、つまりその想念がわれわれのうちにつくりだすさまざまな想念には、論理的な真実、可能な真実しか存在せず、そうした真実は恣意的に選ばれるにすぎない」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.458」岩波文庫 二〇一八年)
さらにプルーストから。死者・自殺者、半ば死につつある人々、そして死について。六箇所。
(1)「ところが私は、その同じ欲求がよみがえった今になって、これから何時間待とうと祖母はもはや二度と私のそばには戻らぬことを悟った。私がやっと今しがたそのことに気づいたのは、心を張り裂けんばかりに膨らませながらはじめて生きた真の祖母を感じたことによって、つまりようやく祖母を見出したことによって、祖母を永久に失ったことを知ったからにほかならない。永久に失ったのだ。私にはよく呑みこめなかったが、私はつぎのような矛盾に引き裂かれる苦しみを耐えしのぶよう努めるほかなかった。つまり一方には、私が感じたまま私のなかに生き残り、私のための捧げられた生存と愛情があり、この世の始まりから存在したはずのどんな偉人の才能やいかなる天才も祖母にとっては私の欠点のひとつにも値しないと思えたほどに、私のみを対象とし、私のみを目的とし、つねに私へと向けられていた愛がある。ところが他方では、そんな無上の喜びを現在のものとしてふたたび体験したとたん、まるでたえずぶり返す肉体的苦痛のように虚無の確信がその喜びに割りこんでくるのが感じられ、その虚無は、かの愛情を想う私のイメージを早くも消し去り、かの生存そのものを破壊し、私たりふたりの共通の宿命かと思われたものを過去にさかのぼって無に帰せしめ、祖母のすがたを鏡のなかに見るようにふたたび見出した瞬間、その祖母を、あたかも他のだれでもよかったかのように偶然のいたずらによって私のそばで数年間をすごしただけの存在、その存在にとって私などそれ以前にはなきに等しくそれ以後にもなきに等しくなるような、ただの見知らぬ女にしてしまっていた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・心の間歇・P.355~356」岩波文庫 二〇一五年)
(2)「そもそも毎日のようにあまりにも多くの死に瀕した人の情報がもたらされ、ある者は持ち直したが、べつの者は『息をひきとった』と聞かされるので、久しく会う機会のなかっただれそれは肺炎の危機から脱したのか、それとも他界したのか、もはや正確には想い出せなかった。こうした高齢者の暮らす領域では、死は数が増えるばかりで、ますます不確かなものになるのだ。このようなふたつの世代、ふたつの交際社会が交わる集まりでは、さまざまに異なる理由から、死は識別されにくく、ほとんど生と混同され、いわば社交辞令と化し、ひとりの人間を多かれ少なかれ特徴づける小事件とみなされるだけで、死を語る人びとの口調からは、それが当人にとってすべての終わりを告げる事件であることを意味しているとは感じられない。『お忘れですな、あれは死にましたよ』と言う人の口調は、まるで『あれは受勲者ですよ』とか『あれはアカデミーの会員ですよ』とかーーーこれもパーティーに出席できない理由という点では同じことになるがーーー『あれは冬をすごしに南フランスへ行きましたよ』とか『あれは高地で療養するよう命じられたんです』とかと言うときとそっくりなのだ」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.147~148」岩波文庫 二〇一九年)
(3)「『なんて申しあげたらいいのでしょう、あの人はいろいろな殿下の話をしなくては気のすまない人でした。ゲルマント家の人たちや、私のお義母(かあ)さまや、パルム大公妃に仕える以前のヴァランボン夫人について、なんとも滑稽な話を山ほどご存じでしてね。でも、ヴァランボン夫人が何者なのか、いまや知る人なんているでしょうか?もちろんこちらのかたは、そんなこと残らずご存じでしたが。でも、もうなにもかもお終(しま)い、その人たちは名前すら残っていませんし、そもそも生き残る価値もなかった人たちなのでしょう』。これを聞いて私が気づいたのは、社交界というのは不可分な唯一のものと思われるにもかかわらず、そして実際そこにはさまざまな社会的関係が極度に集中し、すべてが通じ合っているにもかかわらず、じつに多くの地方が残存していること、また少なくとも『時』の経過がじつに多くの地方をつくり出していること、社交界の形が変わったあとでようやくそこへたどり着いた人たちには、そうした地方はすでに名前を変えていて、もはや理解できなくなっていることである」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.216~217」岩波文庫 二〇一九年)
(4)「ところが奇妙な暗号というべきか、危険を怖れるこうした熟慮が私のうちに生まれたのは、ほんのしばらく前、死を考えることが私にはどうでもよくなったまさにそのときである。私が私自身でなくなるという怖れはその昔、それも新たな恋心を(ジルベルトやアルベルチーヌに)いだくたびに、私をぞっとさせた。なぜなら私は、それが一種の死に相当するからであろう、その女性を愛している存在がある日もはや存在しなくなるという考えに耐えられなかったからである。しかしその怖れは、何度もくり返されるにつれて、当然のことながら自信に満ちた落ち着きに変わっていた」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.279」岩波文庫 二〇一九年)
(5)「すでに見たように、当時は死の想念が私の恋愛を暗いものにしていたが、ずいぶん前からすでに恋愛の想い出が、私が死を恐れないための手助けをしてくれた。なぜなら私は、死とはなにか新しい現象ではないこと、それどころか子供のころから自分が何度も死んでいることを悟ったからである。さほど昔ではない時期を例にとれば、私は自分の生命に執着する以上にアルベルチーヌへの愛が自分のなかで継続しない私という人間など、はたして想像できただろうか?ところが私はもうアルベルチーヌを愛していないし、今の私はアルベルチーヌを愛している存在ではなく、愛していない別人になったのであり、別人になったとき私はアルベルチーヌを愛するのをやめたのだ。しかも私は、自分がこうして別人になったこと、もうアルベルチーヌを愛していないことに、なんら苦しんでいない。たしかに当時の私には、いつかアルベルチーヌを愛さなくなることがひどく悲しく思われたのに比べて、自分がいつか肉体を持たないときが来ることなどさほど悲しくは思われなかった。ところが今の私には、もうアルベルチーヌを愛していないことなど、どうでもよかったのだ!つぎつぎと生じたこのような死、それによって抹殺されるのを自我があれほど恐れた死、しかしひとたびそれが完了し、死を恐れていた自我が消えてなくなると、どうでもいい穏やかなものになる死、そんな死はしばらく前から、死を恐れるのがいかに愚かなことであるかを悟らせてくれた」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.279~280」岩波文庫 二〇一九年)
(6)「こんなにも苦しく目下のところ不可解な印象から、いつの日か多少の真実をとり出すことができるかどうかは判然としなかったが、かりに私が多少の真実をとり出せるとすれば、それは突如として出現したこの特殊な印象からでしかないと心得ていた。この印象は、私の知性によって描き出されたわけでもなく、私の臆病な心によってねじ曲げられ和らげられたわけでもなく、死それ自体によって、死の突然の啓示によって、まるで雷(いかずち)のように、人間業(わざ)でない超自然の図柄で、ふたつに裂けた不思議なみぞのように私のなかに穿(うが)たれたからである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・心の間歇・P.358~359」岩波文庫 二〇一五年)
という「死者・自殺者・死につつある人々」の行列が延々続いている。それらはどれもかけがえのないその都度一度きりのものだ。ところが「習慣」というものはこのような反復から「その都度一度きり」の一回性を抹消してしまう。
「習慣は、反復から、何か新しいもの、すなわち(最初は一般性として定立される)差異を《抜き取る》」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.207」河出文庫 二〇〇七年)
では一体どこから「尊厳」というものがやってくるのだろうか。ある性暴力の前と後と。死者や自殺者について述べられた六箇所を引用してみておもうのだが、前と後との<あいだ>の時間は無限の距離を増殖させて遠ざけることができるだろう。けれども一方、前と後とが記憶のなかで<共振>し合う以上、事態は最大限に凝縮しもするのである。