改行されていないのでわかりにくいかも知れない。しかしここから先は間違いなく、さらに新しい領域が開かれている。プルーストはいう。「私がいまや上陸したのは恐ろしい《未知ノ土地》で、想いも寄らぬ苦痛にさいなまれる新たな局面が目の前にあらわれたのだ」と。思考を停滞されることなく押し進めることの重要性。苦痛を伴わない思考はない。「人がとことん苦しい想いをしないのは、たいていは創造的精神に欠けるからにすぎない」とあるように。しかし一方、創造的思考の推進は、否応なく与えられる苦痛「とともにすばらしい発見の歓びを与えてくれる」。
「私がいまや上陸したのは恐ろしい《未知ノ土地》で、想いも寄らぬ苦痛にさいなまれる新たな局面が目の前にあらわれたのだ。しかしながら、大洪水のようにわれわれを呑みこんでしまうこの現実は、それまでの臆病なつつましい想定と比べればいかに巨大であるとはいえ、その想定によってじつは予感されていたことである。私がアンドレのそばにいるアルベルチーヌを見てあれほど不安に感じたのは、おそらく今しがた知ったようなこと、アルベルチーヌとヴァントゥイユ嬢との友情のようなこと、はっきり頭には想い描けなかったものの私がぼんやりと怖れていたことだったのだろう。人がとことん苦しい想いをしないのは、たいていは創造的精神に欠けるからにすぎない。さらにいえば、このうえなく恐ろしい現実がわれわれに苦痛とともにすばらしい発見の歓びを与えてくれるのは、そうとは気づかぬまま長いあいだ想い悩んでいたことにその現実が斬新で明快な形を与えてくれるからにほかならない」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・四・P.583~584」岩波文庫 二〇一五年)
汽車はすでにローカル鉄道のパルヴィル駅で停車中。アルベルチーヌはもう下車するところだ。車両のドアを開けた。その身振りが「私の心を堪えがたいまでに引き裂いた」。プルーストは「真実」という言葉を二重の意味で用いている。(1)「私の身体から二歩ほど離れたところにアルベルチーヌの身体が占めているように見える位置、それは私の身体とは独立した位置であり、その空間の隔たりは真実を描かんとするデッサン画家ならふたりのあいだに然るべく描かざるをえないはずのものである」。(2)「にもかかわらずその空間の隔たりは単なる外見にすぎず、正真正銘の現実に即して事態を描き直そうとする人なら、いまやアルベルチーヌを私からすこし離れたところに配置するのではなく、私の心のなかに配置しなければならないと言いたくなる事態」。この二重化はただ単に<私>にとっての二重化であるだけでなく同時にアルベルチーヌの二重化でもある。
「しかし降りようとしてアルベルチーヌがしたこの動作は、私の心を堪えがたいまでに引き裂いた。私の身体から二歩ほど離れたところにアルベルチーヌの身体が占めているように見える位置、それは私の身体とは独立した位置であり、その空間の隔たりは真実を描かんとするデッサン画家ならふたりのあいだに然るべく描かざるをえないはずのものであるが、にもかかわらずその空間の隔たりは単なる外見にすぎず、正真正銘の現実に即して事態を描き直そうとする人なら、いまやアルベルチーヌを私からすこし離れたところに配置するのではなく、私の心のなかに配置しなければならないと言いたくなる事態である」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・四・P.584~585」岩波文庫 二〇一五年)
そしてまた無数のアルベルチーヌの出現はこの時が最初でもない。以前こうあった。「私の心に刻一刻と相ついで浮かんだ数えきれない一連の想像上のアルベルチーヌのなかで、浜辺で見かけた現実のアルベルチーヌは、その先頭に姿をあらわしているにすぎない。芝居の長期間の講演中、ある役の『初演女優』である花形は、最初の数日にしか出ないのと同じようなものである。この現実のアルベルチーヌはほんのシルエットにすぎず、そのうえに積み重ねられたいっさいは私のつくりだしたものである」。
「私はアルベルチーヌをどれだけ知っているのだろう?海を背景にした一、二の横顔だけである。その横顔は、もちろんヴォロネーゼの描いた女性たちの横顔ほどに美しくはない。もし私が純粋に審美上の動機に従っていたなら、アルベルチーヌよりもヴェロネーゼの女性のほうを好んでいただろう。激しい不安が治まると、見出せるのはあのもの言わぬ横顔だけで、ほかになにひとつ所有できなかったのだから、どうして美的動機以外のものに従えたであろうか?アルベルチーヌを見かけて以来、毎日そのことで数えきれないほどの考えをめぐらし、私があの娘(こ)と呼んでいるものと心のなかでくり返し対話をつづけ、その娘に質問させたり、答えさせたり、考えさせたり、行動させたりしてきたのだ。私の心に刻一刻と相ついで浮かんだ数えきれない一連の想像上のアルベルチーヌのなかで、浜辺で見かけた現実のアルベルチーヌは、その先頭に姿をあらわしているにすぎない。芝居の長期間の講演中、ある役の『初演女優』である花形は、最初の数日にしか出ないのと同じようなものである。この現実のアルベルチーヌはほんのシルエットにすぎず、そのうえに積み重ねられたいっさいは私のつくりだしたものである。それほど恋愛においては、われわれのもたらす寄与がーーーたとえ量的観点だけから見てもーーー愛する相手がわれわれにもたらしてくれる寄与をはるかに凌駕する」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.465~466」岩波文庫 二〇一二年)
新しく開かれた領域。プルーストは「《未知ノ土地》」という。それは第一に「コタールがパルヴィルのカジノで私に言ったことの真相」である。
「だが今後の私には、新たな一日などないのだ。どの一日も、私の心に未知の幸福を求める気持を目覚めさせることはなく、ひとえに私の苦痛をひき延ばすだけで、しかも私にその苦痛に耐える力がなくなるまでひき延ばすのだ。コタールがパルヴィルのカジノで私に言ったことの真相は、私にはもはや疑いえないものになった」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・四・P.586」岩波文庫 二〇一五年)
パルヴィルのカジノで目撃したアンドレとアルベルチーヌとのワルツ。コタールは囁いた。「あのふたりは間違いなく快楽の絶頂に達していますよ。あまり知られていませんが、女性はなによりも乳房で快楽を感じるものなんです。ほら、ふたりの乳房がぴったりとくっついてるでしょう」。そして確かに「アンドレとアルベルチーヌの乳房は、それまでずっと密着したままであった」。
「『そうですね、だが娘にこんな習慣を身につけさせているなんて、親御さんもずいぶん軽率ですなあ。私なら、むろんこんなところへ娘を来させたりしません。でも、みな美人でしょうか?顔立ちがよくわからんが。ほら、ご覧なさい』と、アルベルチーヌとアンドレがくっついてゆっくりワルツを踊っているのを示して言い添える、『鼻メガネを忘れてきたんでよく見えんのですが、あのふたりは間違いなく快楽の絶頂に達していますよ。あまり知られていませんが、女性はなによりも乳房で快楽を感じるものなんです。ほら、ふたりの乳房がぴったりとくっついてるでしょう』。たしかにアンドレとアルベルチーヌの乳房は、それまでずっと密着したままであった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.434~435」岩波文庫 二〇一五年)
だがしかし、ゴムラ(女性同士の同性愛)だけならこれまで何度も繰り返し示唆されてきた。ただそれがもはや動かない現実として可視化されたというに過ぎない。同じく注目したいと思うのは「ひとえに私の苦痛をひき延ばすだけで、しかも私にその苦痛に耐える力がなくなるまでひき延ばす」とある箇所。かつてのスワンがまさしくそうではなかったか。苦痛の延長を何度も繰り返し反復させていた。苦痛の解消ではなくその逆を目指しているかのように。二箇所。
(1)「ところが恋心に寄りそう影ともいうべき嫉妬心は、ただちにこの想い出と表裏一体をなす分身をつくりだす。その夜、オデットが投げかけてくれた新たな微笑みには、いまや反対の、スワンを嘲笑しつつべつの男への恋心を秘めた微笑みがつけ加わり、あの傾けた顔には、べつの唇へと傾けられた顔が加わり、スワンに示してくれたあらゆる愛情のしるしには、べつの男に献げられた愛情のしるしが加わる。かくしてオデットの家からもち帰る官能的な想い出のひとつひとつは、室内装飾家の提案する下絵や『設計図』と同じような役割を演じることになり、そのおかげでスワンは、女がほかの男といるときにどんな熱烈な姿態やどんな恍惚の仕草をするのかが想像できるようになった。あげくにスワンは、オデットのそばで味わった快楽のひとつひとつ、ふたりで編み出したとはいえ不用意にもその快さを女に教えてしまった愛撫のひとつひとつ、女のうちに発見した魅惑のひとつひとつを後悔するにいたった。いっときするとそうしたものが新たな道具となって、拷問にも等しい責め苦を増大させることになるのを承知していたからである」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.209」岩波文庫 二〇一一年)
(2)「スワンは郵便局から家に戻ったが、この一通だけは出さずに持ち帰った。ロウソクに火をつけ、封筒を近づけた。開けてみる勇気はなかったのである。最初はなにも読めなかったが、なかの固いカード状用箋を封筒の薄い紙に押しつけると、最後の数語が透けて読めた。きわめて冷淡な結びのことばである。今のようにフォルシュヴィル宛ての手紙を自分が見るのではなく、かりに自分宛ての手紙をやつが読んだら、はるかに愛情あふれる言葉がやつの目に入ったことだろう!スワンは、大きすぎる封筒のなかで揺れる用箋を動かないように押さえ、それからなかの用箋を親指でずらして、書いてある行を順ぐりに封筒の二重になっていない部分にもってきた。そこなら透けて読めたのである。それでも、はっきりとは判読できなかった。もっともきちんと読めなくても差しつかえなかった。書いてあるのは重要でない些末なことで、ふたりの恋愛関係をうかがわせることは一切ないのがわかったからである。オデットの叔父のことが書いてあるようだ。行のはじめに『あたしは、そうしてよかったのです』と書いてあるのが読めたが、どうしたのがよかったのかスワンは理解できなかった。が、突然、当初は判読できなかった一語があらわれ、文全体の意味が明らかになった。『あたしは、そうしてよかったのです、ドアを開けた相手は叔父でしたから』というのだ。開けた、だって。すると今日の午後、俺が呼び鈴を鳴らしたとき、フォルシュヴィルが来ていたのだ。あわてたオデットがやつを帰らせたために、あんな物音がしたのだ。そこでスワンは、手紙を端から端まで読んだ。オデットは最後に、あのように失礼な対応になったことをフォルシュヴィルに詫びたうえで、タバコを忘れてお帰りになった、と書いている。スワンが最初にオデットの家に寄ったときに書いて寄こしたのと同じ文面である。だが俺には『この中にあなたのお心もお忘れでしたら、お返ししませんでしたのに』と書きそえていた。フォルシュヴィルには、そんなことはいっさい書いていない。ふたりの関係は暗示する文言はなにひとつ出てこない。それにどうやらこの内容からすると、オデットはやつに手紙を書いて訪ねてきたのは叔父だと信じこませようとしているのだから、そもそもフォルシュヴィルは俺以上に騙されていることになる。要するにオデットが重視していたのは俺のほうで、その俺のために相手を追い払ったのだ。それにしてもオデットとフォルシュヴィルのあいだに何もないのなら、なぜすぐにドアを開けなかったのだろう。なぜ『あたしは、そうしてもよかったのです、ドアを開けたのは叔父でしたから』などと書いたのだろう。そのときオデットになんらやましいところがなかったのなら、ドアを開けなくてもよかったのにと、どうしてフォルシュヴィルが考えるだろうか。オデットがなんの危惧もいだかず託してくれたこの封筒を前にしたとき、スワンは申し訳ないと恐縮したが、それでも幸せな気分だった。自分のデリカシーに全幅の信頼を置いてくれたと感じられたからである。ところがその手紙の透明な窓を通して、けっして窺えないと思っていた事件の秘密とともに、未知の人の生身に小さく明るい切り口が開いたかのようにオデットの生活の一部があらわになったのだ。おまけにスワンの嫉妬も、この事態を歓迎した。嫉妬には、たとえスワン本人を犠牲にしてでも、おのが養分になるものを貪欲にむさぼり食らう利己的な独立した生命があると言わんばかりである。いまや嫉妬が糧(かて)を得たからには、かならずスワンは毎日、オデットが五時ごろだれの訪問を受けたかが心配になり、その時刻にフォルシュヴィルがどこにいたかを知ろうとするにちがいない。というのもスワンの愛情は、オデットの日課に無知であると同時に、怠惰な頭脳ゆえに無知を想像力で補うことができないという当初に規定された同じ性格をあいかわらず保持していたからである。スワンが最初に嫉妬を感じた対象は、オデットのすべての生活ではなく、間違って解釈された可能性のある状況にもとづきオデットがほかの男と通じていると想定される瞬間だけだった。その嫉妬心は、執念深い人がタコの足のように最初のもやい網を投げいれると、ついで第二の、さらに第三のもやい網を投じるのと同じで、まずは夕方の五時という瞬間に食らいつき、ついでべつの瞬間に、さらにもうひとつべつの瞬間にとり憑くのである。とはいえスワンは、つぎからつぎへと自分の苦痛を編み出したわけではない。それら一連の苦痛は、スワンの外から到来したひとつの苦痛を想い出したうえで、それを永続化したものにほかならなかったのである」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.220~223」岩波文庫 二〇一一年)
このスワンの態度は、経済でいう決済を延々引き延ばしていく方法とまるで違わない。マルクスはいう。
「私は前に(第一部第三章第三節b)、どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され、それとともに商品生産者や商品取引業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか、を明らかにした。商業が発展し、ただ流通だけを念頭において生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて、信用制度のこの自然発生的な基礎は拡大され、一般化され、完成されて行く。だいたいにおいて貨幣はここではただ支払手段としてのみ機能する。すなわち、商品は、貨幣と引き換えにではなく、書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られる。この支払約束をわれわれは簡単化のためにすべて手形という一般的な範疇のもとに総括することができる。このような手形はその満期支払日まではそれ自身が再び支払手段として流通する。そして、これが本来の商業貨幣をなしている。このような手形は、最後に債権債務の相殺によって決済されるかぎりでは、絶対的に貨幣として機能する。なぜならば、その場合には貨幣への最終的転化は生じないからである。このような生産者や商人どうしのあいだの相互前貸が信用の本来の基礎をなしているように、その流通用具、手形は本来の信用貨幣すなわち銀行券などの基礎をなしている。この銀行券などは、金属貨幣なり国家紙幣なりの貨幣流通にもとづいているのではなく、手形流通にもとづいているのである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十五章・P.150~151」国民文庫 一九七二年)
こうある。「このような手形は、最後に債権債務の相殺によって決済されるかぎりでは、絶対的に貨幣として機能する。なぜならば、その場合には貨幣への最終的転化は生じないからである。このような生産者や商人どうしのあいだの相互前貸が信用の本来の基礎をなしているように、その流通用具、手形は本来の信用貨幣すなわち銀行券などの基礎をなしている。この銀行券などは、金属貨幣なり国家紙幣なりの貨幣流通にもとづいているのではなく、手形流通にもとづいているのである」。この場合、<苦痛>は延々と引き延ばされる自転車操業に等しい。だが資本主義にとってこの苦痛(受難)は<公理系>のさらなる付加によって乗り越えられていくものだ。ドゥルーズ=ガタリのいうように少なくとも乗り越えられてきた。
「資本主義は、古い公理に対して、新しい公理⦅労働階級のための公理、労働組合のための公理、等々⦆をたえず付け加えることによってのみ、ロシア革命を消化することができたのだ。ところが、資本主義は、またさらに別の種々の事情のために(本当に極めて小さい、全くとるにたらない種々の事情のために)、常に種々の公理を付け加える用意があり、またじっさいに付け加えている。これは資本主義の固有の受難であるが、この受難は資本主義の本質を何ら変えるものではない。こうして、《国家》は、公理系の中に組み入れられた種々の流れを調整する働きにおいて、次第に重要な役割を演ずるように規定されてくることになる。つまり、生産とその企画に対しても、また経済とその『貨幣化』に対しても、また剰余価値とその吸収(《国家》装置そのものによるその吸収)に対しても」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第三章・P.303~304」河出書房新社 一九八六年)
次の記述もまたアルベルチーヌの変容の一つだが、今度はその「背後に見える」ものについてである。「もはや海の青い山脈ではなくモンジュヴァンの寝室」に置き換えられる。
「アルベルチーヌの背後に見えるのは、もはや海の青い山脈ではなくモンジュヴァンの寝室で、アルベルチーヌはそこでヴァントゥイユ嬢の腕に抱かれ、官能の歓びから聞きなれない音を漏らしながら笑っているのだ」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・四・P.586」岩波文庫 二〇一五年)
モンジュヴァン。ヴァントゥイユの家がある。「大きな沼のほとりの、やぶに覆われた土手を背にして立つ」陰影漂う暗いところ。ところがこの暗さには途方もない力がある。フロイトがニーチェから引用して名指したような暗黒の<エス>。
「比喩をもってエスのことを言い現わそうとするなら、エスは混沌(こんとん)、沸き立つ興奮に充ちた釜(かま)なのです。われわれの想像では、エスの身体的なものへ向かっている末端は開いていて、そこから欲動欲求を自分の中へ取り込み、取り込まれた欲動欲求はエスの中で自己の心理的表現を見出すのですが、しかしどんな基体の中でそれが行われるのかはわれわれにはわからないのです。エスはもろもろの欲動から来るエネルギーで充満してはいます。しかしエスはいかなる組織をも持たず、いかなる全体的意志をも示さず、快感原則の厳守のもとにただ欲動欲求を満足させようという動きしか持っていないのです。エスにおける諸過程には、論理的思考法則は通用しません。とりわけ矛盾律は通用しません。そこには反対の動きが並び存していて、互いに差し引きゼロになったり、互いに譲り合ったりすることなく、せいぜいそれらは支配的な経済的強制のもとでエネルギーを放出させようとして妥協しているだけです。ーーーエスの中には時間観念に相当するものは何も見出されません。すなわち時の経過というものは承認されません。そして、これはきわめて注目すべき、将来哲学によって処理されるべき問題だと思われますが、そこには時間の経過による心的過程の変化ということがないのです。エスの境界線を決してふみ越えることのなかった願望興奮や、同時にまた抑圧によってエスの中へ沈められてしまった諸印象は、潜在的には不死であって、数十年経った後でもまるで新たに生じたかのような状態にあるのです」(フロイト「精神分析入門・下・P.290~291」新潮文庫 一九七七年)
自然と労働力、そしてすべての<欲望>としての<エス>がある。
