白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・パリへの場所移動/同棲と<監禁>のロンド

2022年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム

アルベルチーヌを連れてバルベックからパリへ移った<私>。<私>の母も一緒だ。パリでは差し当たり<私>のアパルトマンで同棲生活を始める。この場所移動を契機として再び価値変動が生じる。

 

例えば、朝。陽光が部屋に差し込み二人の化粧室兼浴室を仕切る霧模様の曇りガラスを「いきなり黄色に染め、金色(こんじき)にいろど」るような時間帯、「習慣によって長いあいだ押し隠されていたありし日の一青年をそっと私のなかに露わにすると、私はさまざまな追憶に陶然とする」。いったん「習慣」が解除される。それと知らずに一方的に押し付けられてきた社会的<制度>から解き放たれる。そんな<私>は「まるで大自然のただなかで金色の葉の茂みを前にしたような具合で、おまけにその茂みには一羽の小鳥さえいる」と感じる。

 

「一羽の小鳥」というのは化粧室兼浴室の仕切りガラスの向こう側で「ひっきりなしにさえずるアルベルチーヌの声」だ。アルベルチーヌの歌声。<小鳥への生成変化>はもう始まっている。

 

「太陽が、このガラス製モスリンをいきなり黄色に染め、金色(こんじき)にいろどり、習慣によって長いあいだ押し隠されていたありし日の一青年をそっと私のなかに露わにすると、私はさまざまな追憶に陶然とする。まるで大自然のただなかで金色の葉の茂みを前にしたような具合で、おまけにその茂みには一羽の小鳥さえいるのだ。ひっきりなしにさえずるアルベルチーヌの声が聞こえてくるからである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.24」岩波文庫 二〇一六年)

 

とはいえしかしアルベルチーヌはもはや<籠の鳥>でしかないかのようだ。社会的<制度>から自由になってのびのびと幻想的な夢に浸り楽しむことができるのは<私>の側だけの特権であり、逆にアルベルチーヌとともにではまるでない。同棲にもかかわらずというより、むしろ同棲ゆえに二人の間の「仕切り」はますます明確化してくる。

 

なるほど<私>は「アルベルチーヌをこのように女友だちから引き離した」。「私の心に新たな苦痛が生じることはなくなった」。だが「この安らぎは、要するに歓びというよりも苦しみの鎮静である」。パリのアパルトマンでの同棲生活は<監禁>というテーマと切り離せない。<監禁>することで<私>はアルベルチーヌを<私>の「安らぎ」のためにのみ有効なただ単なる鎮静剤へ置き換えたに過ぎない。

 

「アルベルチーヌをこのように女友だちから引き離した首尾は上々で、私の心に新たな苦痛が生じることはなくなった。おかげで私の心は休息の状態、ほとんど不動の状態に保たれ、これでわが心の傷は癒やされるかと思われた。とはいえわが恋人がもたらしてくれたこの安らぎは、要するに歓びというよりも苦しみの鎮静である」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.26~27」岩波文庫 二〇一六年)

 

ところが同棲という言葉は内情を知らない人々の頭を思考停止させてしまう効果を持つ。実態は<監禁>であっても周囲からは<実に仲の良い二人>に映って見えることがたびたびあるのと変わらない。<私>の「安らぎ」はアルベルチーヌの好意によってもたらされたものでは決してなく、アルベルチーヌにトランス(横断的)性愛のタブーという社会的<制度>を押しつけたまま延々と引き延ばされていく<監禁>という対等でない立場の違いから生じている。アルベルチーヌは常に監視されているが監視されている側からすれば監視する側がいつどのような方法で監視しているのかさっぱりわからない方法が取られている。<パノプティコン>についてフーコーから。

 

「<一望監視装置>(パノプティコン)は、見る=見られるという一対の事態を切り離す機械仕掛であって、その円周状の建物の内部では人は完全に見られるが、けっして見るわけにはいかず、中央部の塔のなかからは人はいっさいを見るが、けっして見られはしないのである。これは重要な装置だ、なぜならそれは権力を自動的なものにし、権力を没人格化するからである」(フーコー「監獄の誕生・第三部・第三章・P.204」新潮社 一九七七年)

 

次にこうある。「私はアルベルチーヌをもはやきれいだとは思わず、いっしょにいても退屈するだけで、もはや愛していないことがはっきり感じられ」、と。だからといって同棲を解消し、アルベルチーヌに自由を与えるわけにはいかない。しかし自由を与えないわけにもいかない。後者の自由はパリのアパルトマンで同棲して閉じ込もるという条件付きの自由であると言いうる自由に過ぎない。そしてこの場合は後者である。

 

「この安らぎは、あまりにも激しい苦痛のせいで私に閉ざされていた数多くの歓びを味わわせてくれなかったわけではないが、私はアルベルチーヌをもはやきれいだとは思わず、いっしょにいても退屈するだけで、もはや愛していないことがはっきり感じられ、その歓びは、アルベルチーヌのおかげでもたらされたものではなく、むしろアルベルチーヌがそばにいないときに味わったものだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.27」岩波文庫 二〇一六年)

 

アパルトマンとしては同じ一つの建物でなくてはならない。ところが、(1)あくまで同棲という形態を取りつつ二つに仕切られた部屋の一方にアルベルチーヌがいること。(2)設置された「仕切り」によって意図的にアルベルチーヌを切り離しておいて始めてもたらされる<私>の「歓び」でなければならないということ。このうち(1)で部屋を別々にする点に限り、プライバシーを念頭に置けば当然かもしれない。しかし(2)は余りに無惨な処置に思える。けれども重要なのは、<私>にとってもアルベルチーヌにとっても、これまで知らなかったさらなる《未知ノ土地》が新しく始まるということを意味している点だろう。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて70

2022年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。

 

夜間はずいぶん冷え込むようになってきました。でも、もしかすると開花するかも知れないバラの花の芽がふくらんでいます。目につくのは三個ほどです。

 

「名称:“Princess of Infinity”」(2022.10.28)

「秋光や解き捨ててある真田紐」(神尾久美子)

 

「名称:“Princess of Infinity”」(2022.10.28)

「平凡に堪へがたき性(さが)の童幼(わらわ)ども花火に飽きてみな去りにけり」(斎藤茂吉)

 

「名称:“Princess of Infinity”」(2022.10.28)

「鉛筆とがらして小さい生徒」(尾崎放哉)

 

二〇二二年十月二十八日撮影。

 

最寄駅の方向へ歩いてみましょう。

 

「名称:“町屋”」(2022.10.24)

「素通りをして秋晴のうるし町」(曽根けい二)

 

「名称:“町屋”」(2022.10.24)

「好きな鳥好きな木に樹に来て秋日濃し」(町春草)

 

「名称:“土蔵”」(2022.10.24)

「秋澄めるものの一つの土蔵かな」(不破博)

 

二〇二二年十月二十四日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・<異議申し立て>としてのアルベルチーヌ/全体主義的圧力としての社会的<制度>

2022年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム

遂に<私>は残酷なほどの苦痛を受け止めまともに向き合わざるを得ない。一方でこれまで知らなかった新しい世界を「知りたい」という欲望から生じた快楽があり、もう一方で「知る」という認識から生じた苦痛がある。アルベルチーヌという一つの同じ身体の中に男性と女性との二つの性が共存しているという紛れもない事実。その点でアルベルチーヌはすでに動物であることを乗り越え単独で成長していく植物にも等しい。苦悩する<私>はもはや眠ることができず朝を迎える。取り乱している<私>の様子を見にきた母はとりあえず窓の外に打ち広がる「バルベックの浜辺や海や日の出」を見せて冷静さを取り戻させようとする。ところが「バルベックの浜辺や海や日の出の背後に、私が母の目にもそれとわかるほど絶望をあらわにして見ていたのは、モンジュヴァンの部屋だった」。かつてヴァントゥイユ嬢とその女友だちとが同性愛を繰り広げているのを<私>が<覗き見>した、あの「モンジュヴァンの部屋」。

 

「しかしお母さんが示してくれたバルベックの浜辺や海や日の出の背後に、私が母の目にもそれとわかるほど絶望をあらわにして見ていたのは、モンジュヴァンの部屋だった。そこでは、バラ色に上気したアルベルチーヌが、大きな雌猫のように身体を丸め、鼻を強情そうにそり返らせ、ヴァントゥイユ嬢の女友だちになりかわり、同じ官能的な笑い声をあげて、こう言っている、『それがどうしたの!見られたら、かえって好都合じゃないの。あたしに、まさかできないって?つばを吐くのが、この老いぼれ猿のうえに?』」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・四・P.611」岩波文庫 二〇一五年)

 

だが<覗き見>と同等かあるいはそれ以上に読者の目を引くのは<冒瀆>のテーマである。死んだヴァントゥイユの肖像画に唾を吐きかけた上で、さらにその肖像画の前で同性愛に耽る二人の女性。<私>は頭の中でその時に発せられ今なお記憶に残っている言葉をあえてアルベルチーヌの言葉へ置き換えて反復させる。「それがどうしたの!見られたら、かえって好都合じゃないの。あたしに、まさかできないって?つばを吐くのが、この老いぼれ猿のうえに?」。プルーストはここでアルベルチーヌによる<冒瀆>へ瞬時に移動させている。しかしなぜわざわざ置き換えねばならないのか。なるほど<私>の嫉妬とか嫌悪とかいう意味ではすらすら読めてしまえそうではある。だが「失われた時を求めて」をただ単なる物語(ストーリー)として見ている限り、その理由は死んでも見えてこないに違いない。

 

そもそもアルベルチーヌはトランス(横断的)両性愛者である。旧約聖書の中でさもわかったかのように論じられているソドム(男性同性愛)でもなければゴモラ(女性同性愛)でもなく、もっと遥かに少数の、ほとんど誰からも理解一つされず、逆に信じがたいほど過酷この上ない差別に晒され続けてきたマイノリティの一人だ。そしてマイノリティという点でアルベルチーヌが演じる<冒瀆>の身振りは極めて社会的な意義を持つ振る舞いであると言わねばならない。プルーストはアルベルチーヌという徹底的なマイノリティに<冒瀆>の身振りを与えることで、全体主義的異性愛絶対主義という社会的<制度>に対する異議申し立てを演じさせているわけである。プルースト自身、父は新約聖書の側のカトリック系、母は旧約聖書の側のユダヤ系、という混み入った血縁関係のもとで随分苦悩している。アルベルチーヌの異議申し立てとプルーストの異議申し立てとは次元の異なる別々の問題ではあるものの、<暴露><覗き見><冒瀆>がプルーストにとって避けて通れないテーマとして浮上してこざるを得ない理由として、そもそもそれらのテーマはどれも社会的<制度>に対して狙いをつけたものだということが見えてくるに違いない。

 

次に「バルベックの浜辺や海や日の出」と「モンジュヴァンの部屋」とが折り重ねられている重層性について。プルースト独特の詩論でもある。その様相は「夜明け」とともに、にもかかわらず、「夕暮れどき」を思わせずにはいないと語られる。

 

(1)「正面の、パルヴィルの断崖の突端にある、私たちがイタチまわしをして遊んだ小さな森が、なおも金色に輝くニスのような水面に覆われた海のほうまで、おのが葉の茂る画面を傾けているさまは、しばしば午後の終わりに私がアルベルチーヌといっしょにそこへ昼寝に出かけ、太陽が沈んでゆくのを見て起きあがったときを想わせる」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・四・P.611~612」岩波文庫 二〇一五年)

 

(2)「夜明けの光が真珠母色の破片となって散らばる水面のうえに、いまだに夜霧がピンクブルーの屑となってあてどなく漂うなか、何艘もの船が、おのが帆とバウスプリットの先端とを黄色く染める斜めの光に微笑みかけながら通ってゆくのは、夕べに帰路につく船を想わせる」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・四・P.612」岩波文庫 二〇一五年)

 

だがしかし、「いずれも」、<私>が思い描く「モンジュヴァンの恐ろしいイメージを覆い隠して無に帰せしめることなどできるはずもない」。またこの時に思い浮かべられた「夕暮れどき」は「実際の夕方のように私が見慣れているそれに先立つ昼間の一連の時間に基づいて出てきたものではなく」、「切り離され、あとからつけ加えられただけ」とある。

 

「いずれも想像上の、寒くて震えるような、人けのない光景、単なる夕暮れどきを想わせる光景にすぎず、夕暮れどきといっても、実際の夕方のように私が見慣れているそれに先立つ昼間の一連の時間に基づいて出てきたものではなく、切り離され、あとからつけ加えられただけの、モンジュヴァンの恐ろしいイメージを覆い隠して無に帰せしめることなどできるはずもないーーー回想と夢想の織りなす詩的ではあるが空しい光景にすぎないのだ」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・四・P.612」岩波文庫 二〇一五年)

 

愛と嫉妬の非連続性についてこうあった。

 

「というのもわれわれが愛や嫉妬と思っているものは、連続して分割できない同じひとつの情念ではないからである。それは無数の継起する愛や、無数の相異なる嫉妬から成り立っており、そのひとつひとつは束の間のものでありながら、絶えまなく無数にあらわれるがゆえに連続しているという印象を与え、単一のものと錯覚されるのだ」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.401」岩波文庫 二〇一一年)

 

人間はその都度自分に都合よく任意の記憶を「切り離」し取り出し、大々的に披露して見せかけることができる。ニーチェから二箇所。

 

(1)「ある事物の発生の原因と、それの終極的功用、それの実際的使用、およびそれの目的体系への編入とは、《天と地ほど》隔絶している。現に存在するもの、何らかの仕方で発生したものは、それよりも優勢な力によって幾たびとなく新しい目標を与えられ、新しい場所を指定され、新しい功用へ作り変えられ、向け変えられる。有機界におけるすべての発生は、一つの《圧服》であり、《支配》である。そしてあらゆる圧服や支配は、さらに一つの新解釈であり、一つの修整であって、そこではこれまでの『意識』や『目的』は必然に曖昧になり、もしくはまったく解消してしまわなければならない。ある生理的器官(乃至はまたある法律制度、ある社会的風習、ある政治的慣習、ある芸術上の形式または宗教的儀礼の形式)のもつ《功用》をいかによく理解していても、それはいまだその発生に関する理解をもっていることにはならない。こう言えば、旧套に馴れた人々の耳には随分と聞きづらく不快に響くかもしれない、ーーーというのは、古来人々は、ある事物、ある形式、ある制度の顕著な目的または功用は、またその発生の根拠をも含んでいる、例えば、眼は見る《ために》作られ、手は摑む《ために》作られた、と信じてきたからだ。そして同様に人々は、刑罰もまた罰する《ために》発明されたものだと思っている。しかしすべての目的、すべての功用は、力への意志があるより小さい力を有する者を支配し、そして自ら一つの機能の意義を後者の上に打刻したということの《標証》にすぎない。従ってある『事物』、ある器官、ある慣習の全歴史も、同様の理由によって、絶えず改新された解釈や修整の継続的な標徴の連鎖でありうるわけであって、それの諸多の原因は相互に連関する必要がなく、むしろ時々単に偶然的に継起し交替するだけである。してみれば、ある事物、ある慣習、ある器官の『発展』とは、決して一つの目標に向かう《進歩》ではなく、まして論理的な、そして最短の、最小の力と負担とで達せられる《進歩》ではなお更ない。ーーーむしろ、事物乃至は器官の上に起こる多少とも深行的な、多少とも相互に独立的な圧服過程の連続であり、同時にこの圧服に対してその度ごとに試みられる反抗であり、弁護と反動を目的とする思考的な形式変化であり、更に旨く行った反対活動の成果でもある。形式も固定したものでないが、『意味』はなお一層固定したものでない」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十二・P.88~90」岩波文庫 一九四〇年)

 

(2)「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末である。或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ!ーーーあらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の衝動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動《一切の》、ーーーそれゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である」(ニーチェ「生成の無垢・下・二五〇・P.148~149」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

プルーストが主張するのは「習慣」という社会的<制度>に絡め取られることからの逃走の重要性である。

 

「私に必要なのは、自分をとり巻くどれほど些細な表徴にも(ゲルマント、アルベルチーヌ、ジルベルト、サン=ルー、バルベックといった表徴にも)、習慣のせいで失われてしまったその表徴のもつ意味をとり戻してやることだ。そうして現実を捉えることができたら、その現実を表現しそれを保持するために、その現実とは異なるもの、つまり素早さを身につけた習慣がたえず届けてくれるものは遠ざけなければならない」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.494~495」岩波文庫 二〇一八年)

 

そのような「習慣」からの注意深い逃走によって始めて捉えることのできる「印象」がある。プルーストはいう。この種の「印象」について「作家の義務と責務は、翻訳者のそれなのである」と。

 

「あることがらがなんらかの印象を与えるとき、そのとき実際に生じていることを私が把握しようと努めていたならば、本質的な書物、唯一の真正な書物はすでにわれわれひとりひとりのうちに存在しているのだから、それを大作家はふつうの意味でなんら発明する必要がなく、ただそれを翻訳すればいいのだということに、私は気づいたはずである。作家の義務と責務は、翻訳者のそれなのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.480」岩波文庫 二〇一八年)

 

とはいえプルーストが目指す「翻訳」はあくまで言語によってでなくてはならないという課題から逃れることができない。一方<私>は「<私>の心の真実」に従って或る行動を起こす。アルベルチーヌと結婚する。しかしその実態は容易に信じがたい事態である。<監禁>のテーマが存分に語られることになる。

 


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて69

2022年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

散歩。

 

藤の木川(ふじのきがわ)。琵琶湖に注ぐ川の一つです。JR湖西線の真下の橋にプレートがあります。

 

「名称:“藤の木川(ふじのきがわ)プレート”」(2022.10.26)

「水音も鮎(あゆ)さびけりな山里は」(嵐雪)

 

同じ橋のもう一方にもプレートがあり「まとばはし」となっています。

 

「名称:“まとばはしプレート”」(2022.10.26)

「蜻蜓(とんぼう)のくるひしづまる三ヶの月」(其角)

 

漢字表記では「的場橋」とあります。坂本城跡に近いことから弓術練習場のあった場所だろうと言われています。

 

「名称:“的場橋(まとばばし)プレート”」(2022.10.26)

「明方(あけがた)や城をとりまく鴨(かも)の声」(許六)

 

上流へ向けて歩いてみましょう。

 

「名称:“藤の木川”」(2022.10.26)

「中洲にも柳の家や秋の川」(高浜虚子)

 

南へ折れてすぐまた西へ向かっていきます。

 

「名称:“藤の木川”」(2022.10.26)

「秋の江に打ち込む杭の響かな」(夏目漱石)

 

「名称:“ハナミズキ”」(2022.10.26)

「行く秋や秘仏は紅をさし給ふ」(原田青児)

 

ところが京阪電車石坂線の手前で行き止まり。引き返して道を変え、踏切のあるところを渡ることにします。

 

「名称:“藤の木川”」(2022.10.26)

「柳散り清水涸れ石処々」(蕪村)

 

やや坂道に入ります。権現馬場(ごんげんばば)の道標があり、かつて馬場があった場所だと思われます。

 

「名称:“権現馬場(ごんげんばば)道標”」(2022.10.26)

「入りかかる日の赤きころニコライの側(そば)の坂(さか)をば下(お)りて来にけり」(斎藤茂吉)

 

「名称:“柿の木”」(2022.10.26)

「秋空や日和(ひより)くるはす柿の色」(酒堂)

 

さらに上流へ向かうと橋の名前が変わっています。県道47号線にはこうあります。

 

「名称:“権現橋(ごんげんばし)プレート”」(2022.10.26)

「ただひとつ風にうかびてわが庭に秋の蜻蛉(あきつ)のながれ来にけり」(若山牧水)

 

上流は山中をのぼって行きます。

 

「名称:“藤の木川”」(2022.10.26)

「不知火の闇に鬼棲む匂ひあり」(松本陽平)

 

しかしなぜ「権現」(ごんげん)なのでしょう。仏教でいう本地垂迹説と関係があるのか、それとも徳川家康の尊称なのか。県道を南へ少し歩くと右手に恐ろしく急勾配な石段が見えてきます。石段を登りきったところにあるのが「日吉東照宮(ひよしとうしょうぐう)」。徳川政権樹立後、今の栃木県日光市に日光東照宮が建造されますが、そのモデルになったと言われています。

 

「名称:“日吉東照宮(ひよしとうしょうぐう)”」(2022.10.26)

「琴坂のつま先あがり秋袷(あきあわせ)」(潮見朋子)

 

境内に椿の花が咲いていました。

 

「名称:“ツバキ”」(2022.10.26)

「茶の花の世にはさし出(で)ぬ匂ひ哉」(正秀)

 

今朝も軒下にいる蛙。

 

「名称:“アマガエル”」(2022.10.27)

「寒けれど穴にもなかずきりぎりす」(丈草)

 

二〇二二年十月二十六日~二十七日撮影。

 

参考になれば幸いです。

 


Blog21・プルーストの両義性/破壊的苦痛に伴う美しい悦楽

2022年10月27日 | 日記・エッセイ・コラム

アルベルチーヌの身体はなるほど<私>の目の前にある。ところが身体ばかりどれほど近くにあってもなおその精神は逆に地球の裏側よりも遥かに遠いと感じる経験は誰にでもあるに違いない。

 

「視覚とは、なんと人をあざむく感覚であろう!人間の身体は、たとえアルベルチーヌの身体のように愛する人の身体であっても、数メートルの距離に、いや数センチの距離にあるだけでも、われわれから遠く隔てられている感じがする。その身体に宿るとされる心についても、同じことが言える。ところがなんらかの事情で、われわれに相対(あいたい)するその心の位置がいきなり変化して、その心が愛しているのはべつの人であってわれわれではないことが示されると、われわれはひき裂かれたこちらの心の動悸によって、愛する人はこちらから数歩のところに存在しているのではなく、こちらの心のなかに存在していることを悟るのだ」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・四・P.607」岩波文庫 二〇一五年)

 

とあるように、アルベルチーヌの「心の位置がいきなり変化して、その心が愛しているのはべつの人であってわれわれではないことが示されると、われわれはひき裂かれたこちらの心の動悸によって、愛する人はこちらから数歩のところに存在しているのではなく、こちらの心のなかに存在していることを悟るのだ」。アルベルチーヌの欲望が向かっているのは必ずしも<私>ではなく「べつの人」、アンドレ、ヴァントゥイユ嬢、ヴァントゥイユ嬢の女友だちといった同性愛者の系列である。なかでもアルベルチーヌは<私>との性愛から快楽を得ることができるトランス(横断的)性愛者であり、もはや<私>がどんな手段を弄したとしてもたどり着けない《未知ノ土地》に生きている。何度も繰り返しアルベルチーヌと密接に愛し合ったとしても、アルベルチーヌの印象はいつも二方向へ分裂した形で与えられるほかない。プルーストはいう。「あらゆる印象にはふたつの方向が存在し、片方は対象のなかに収められているが、もう片方はわれわれ自身のなかに伸びていて、後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」。

 

「われわれが自然なり、社会なり、恋愛なり、いや芸術なりをも、このうえなく無私無欲に観賞するときでさえ、あらゆる印象にはふたつの方向が存在し、片方は対象のなかに収められているが、もう片方はわれわれ自身のなかに伸びていて、後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.481~482」岩波文庫 二〇一八年)

 

<私>に決定的衝撃を与えたアルベルチーヌの身振り(言葉)。その「ことばはまさに『開けゴマ』で、私自身では見つけることのできなかったその呪文」と、プルーストはユーモラスな語彙を用いている。

 

「ところが『そのお友だちっていうのは、ヴァントゥイユのお嬢さんなの』ということばはまさに『開けゴマ』で、私自身では見つけることのできなかったその呪文が、ひき裂かれたわが心の奥深くにアルベルチーヌをはいりこませたのだ。そしてそのうえに閉ざされてしまった扉は、たとえ私が百年ものあいだ探しつづけても二度と開けることはできないであろうと思われた」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・四・P.607~608」岩波文庫 二〇一五年)

 

ここで「そのお友だちっていうのは、ヴァントゥイユのお嬢さんなの」という言葉こそ<私>を長い眠りから叩き起こす「開けゴマ」効果を与えている点に注目したい。そうでなかったら人間は習慣の罠にかかったまま何一つ考えようとしない怠惰な生きものだからである。

 

「思考するということはひとつの能力の自然的な〔生まれつきの〕働きであること、この能力は良き本性〔自然〕と良き意志をもっていること、こうしたことは、《事実においては》理解しえないことである。人間たちは、事実においては、めったに思考せず、思考するにしても、意欲が高まってというよりはむしろ、何かショックを受けて思考するということ、これは、『すべてのひと』のよく知るところである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・第三章・P.354」河出文庫 二〇〇七年)

 

アルベルチーヌと一緒にいる時、<私>はアルベルチーヌについて「潔白」だと信じている。少なくとも「有罪」だとは考えもしない。ところがアルベルチーヌが最寄駅で下車し<私>一人になるとたちまち<私>はもう一人の<私>へ移動する。「昇ってゆく太陽の光は、私のまわりの風物を一変させることによって、苦しみに向きあう私の位置まで変更したかのように、私の苦しみをあらためて一段と残酷なほど意識させるに至った」というように。

 

「しかしこうしてひとりきりになると、あたかも話し相手が口をつぐむとすぐに聞こえてくる耳鳴りのように、そのことばはふたたび耳のなかに轟(とどろ)いた。アルベルチーヌの悪徳は、いまや私にとっては疑う余地がなくなった。昇ってゆく太陽の光は、私のまわりの風物を一変させることによって、苦しみに向きあう私の位置まで変更したかのように、私の苦しみをあらためて一段と残酷なほど意識させるに至った。私はこれほど美しく、またこれほど苦痛をさそう朝のはじまりを見たことがなかった」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・四・P.608」岩波文庫 二〇一五年)

 

しかしこのような変貌について「私はこれほど美しく、またこれほど苦痛をさそう朝のはじまりを見たことがなかった」。身がよじれるほど破壊的な苦痛に、《未知ノ土地》の発見という新しい悦びが伴っている。