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農業の現場の おはなしなどなど。

維新政府の治山治水対策。

2012-12-14 10:59:04 | Weblog
維新政府の治山治水対策。

前回関連として・・・明治維新政府のとった治山治水対策のお話。
維新”という名まえは同じでも、その政策には大きな違いがあるのだ
なぁとおもいつつの再録となります。よろしかったらご参考に。

 ↓

「治山治水の父/デ・レイケとエッセル」

水と安全はタダ・・と思ってきた日本。ついでに治山治水もタダだと、
おもわれている方はおおいのではないでしょうか。ところがですね、
じつは日本の治山治水には、多くの優秀な人材と多額の資金が投入さ
れていた時期があったのです。

たとえば、山に植林する治山とともに、全国に点在する代表的な明治
期の治山治水例として・・・次のような堤や堤防があるのだそうです。

神田下水道(東京都)     ・ エッセル堤(福井県三国町)
デレーケ堰堤(群馬県榛東村) ・ オランダ堰堤(滋賀県大津市)
巨石積み堰堤(岐阜県中津川市)・ 羽根谷巨石堰堤(岐阜県海津市)
石積み堰堤(岐阜県中津川市) ・ 常願寺川改修(富山県)
デレーケ堰堤(京都府山城町)  ・ 鳥取港築港(鳥取県鳥取市)
デレーケ堰堤(徳島県美馬市)・ 木曽川・長良川・揖斐川河川改修(愛知県)

などです。近くにお住まいの方も、おられることと思います。

これらの明治時代の治水工事施設は、現在もしっかりとその役目を
はたしている現役の施設が多いというのですから、当時の技術は、じ
つにたいしたものだと驚嘆せずにはおられません。

そしてお気づきになられたことだと思いますが、この工事に冠せられ
た デ・レーケ と エッセル という言葉、これはじつは人の名前
となります。
そう、デ・レーケさんとエッセルさん、このお二人は明治初期にその
持ち前の技術を買われて日本政府に雇用された欧米人、いわゆるお雇
い外国人の方なのです。明治5年に来日したお二人は、オランダ低水
技術〔山腹については緑化を特に重視する技術〕をもって、近代日本
の治山治水に尽くされた方たちです。

工事が終わってしまってからでは、その重要性がついつい軽くみられ
がちになってしまいがちな治山・治水工事にあっても、ちゃんと名前
が残っているのですから、このお二人の持っておられた当時のオラン
ダの優秀な治山治水技術の存在が、どれほど現場で重宝されたものだ
ったかを窺い知ることができますよね〔お雇い外国人のなかではオラ
ンダよりもイギリス出身者のほうに、重きが置かれたという明治政府
内部の事情もあったにもかかわらず・・なのだそうですから二重にた
いしたものです〕。

また、苦しい財政事情であったはずの開明期の日本において、先進の
欧米の技術を導入することで、これほどの治山治水事業を展開した
時の日本政府の指導者たちの先見の明
には、しょうじき頭が下がるお
もいでいっぱいになります。

「昔から、なにもしなくても、ただ存在しているだけのもの」と、つい
つい思ってしまいがちな、山や川などの自然に対する防災技術や施設と
いったものが、本当はわれわれの祖先が残してくれた、貴重な「お金の
かかった人工」の財産である場合も多いものなのですねえ。

・・・余談ですが、エッセルさん。

じつはエッシャーさんともよばれています。
息子さんの名前は マウリッツ・エッシャー/Maurits Cornelis Escher!

そうなんです、『科学者の目で見たかのような緻密なタッチで、現実では
ありえない世界を表現し、見るものを迷宮へと誘う』作品を数多く創作さ
れたオランダを代表するあの版画家なんですよ。


◎ 1873年(明治6年)にデ・レーケとエッセルは、オランダから来日。
  国内の修復工事の設計、指導を行った。 デ・レーケは 都合30年以
  上日本に滞在し、1903年(明治36年)離日。日本の土木の基礎を
  築いたとして勲二等瑞宝章を授与されています。
  1988年(平成10年)にはデ・レーケの孫が来日し、木曽川などを
  視察、話題になりました。

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