なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

天下五目

2009-06-08 18:44:11 | Weblog
 「天下五目」、なかなか堂々とした響きがあります。
  「碁盤に5子も置き石を載せれば、相手がプロ棋士であろうとそうは簡単には負けませんゾ」という気持ちが出ているようです。
 実際にはアマ・ザルの大勘違いであるのですね・・・その勘違いに気がつけば多少は進歩したと言うことでしょう。

 初めて私が「天下五目」なる言葉を目にしたのは、かなり前ですが棋院の発行している雑誌か何かの囲碁雑誌の付録かは定かではありませんが、ともかく「別冊囲碁」のような小冊子だったと思います。
 骨子としては・・・たぶん初段くらいの棋力の人が5,6段クラスに5目置くようなイメージだと思います。
 「白からのカカリヲ無視して大場に先行する、仮に2隅を制されても残り2隅を確保し、天元を生かせれば間違いなく勝てる!」ような作戦だったと思います。
 確かに、書いてある通りに事が進めば間違いなく黒の勝利であろう。
  ところがここに大きな落とし穴があるような気がします。
 どんなに良い作戦でもそれを実行し遂行する力・棋力が伴わなければ作戦を現実にには出来ません。
 それと「これだけ置けば負けるはずがない」あるいは「置き石が地になれば地合いで負けるはずがない」と言うような心理と言うか囲碁感から抜けないといけないことが肝心だろうと思うのです。

 私の実戦の5子局(私が5子置いて教えてもらいました)はあのゼイ・ノイ九段です。
 私の場合は地で勝とうと言う気持ちはありませんから、序盤から置き石の優位性を信じて戦闘開始です。
 しかし、相手は流石のゼイさんで、ほぼノータイムで打ち返してきます。
  二面打ちで教わっていましたので、多少黒の方が時間の余裕はありましたが、手が進むにつれ私の方が押されぎみで小考を繰り返します。
 先生はと言うと、たまに小首を傾げる程度・・・
  今にして考えると「黒のあまりのヘボさ加減が不思議だったのでしょうね」
 ともかく先生は自分の形を崩さず、黒におかしな手があれば突いてくる打ち方なので時間が要らなかったのかも知れません。
 要するに白から崩すまでも無く、黒が隙だらけだったわけです。
  尤も置き石の5子と言うのが当時の私には荷が重かったのかも知れないので、5子戦での評価と言えるかどうかはわかりません。

 話が変わって、夕べは早い夕食を食べて・・・転寝をしました。
  但し起きたのが寄る11時で4時間は眠っていたし、ベッドで横になっていたのですから、本番の睡眠だったようです。
 睡眠時間4時間以上ですから1日の必要睡眠時間の半分以上をとってしまいましたので、さて夜中に暇をもてあましそうです。
 お風呂に入ってからネット碁の観戦、これが深夜の2時。
  流石にネット通りも人通りが少なくて、対局一覧表では置き碁が多い時間帯です。
 要するに多少の点数差があっても、相手が少ないので置き碁もOKと言う感じの時間です。
 さて観戦したのは5子局。
  私などはネットでの5子局はちょっと怖くて打てません。
 点数制度ですから適正なハンデのはずですがそれでも怖い。
  最初に白が一手目をうつ時に震えてしまいそう・・・打つ場所が見つからない感じです。
 そうは言っても打たなくては始まりませんから、初めの数手は目をつむって飛び込むような感じです。
 どこへ打っても潰されるような・・・さりとて余りにアザトイ手は打てないし。

 さて観戦の5子局の黒氏、まさに「天下五目作戦」で二隅で白に両カカリを許している・・・まさに絵に描いたような天下五目の立ち上がりですが、でも
  決定的な場面を見逃している・・・
  生きている石に手入れをするようなところがある・・・
  千手で切り上げるところと、後手でもキチンと打つところの区別が・・・
 全く野次馬は人の欠点とか失敗には気がつくものです。
  私が黒で打てばきっと観戦の人たちがヤキモキしながら観戦していることでしょう。
 ともあれ「天下五目」はなかなか難しいのです。

 「5つも置けばどう打っても黒に地が多くつく」と何となく思いがちですが・・・
 私、若い頃K畑先生に鍛えられていた頃のことから考えると・・・結局「天元の石が戦闘に参加し、力を出せれば黒の勝ち」と言うような評価だったでしょう。
 先生の場合は特に、現実に地が残ったかどうかより「天元の石が生きていたかどうか」の方を見ていたようです。
 天下五目も地で勝つことを考える前に、天元が大事でしょうね。
  マア、そうは言っても結局は地の多い少ないで勝負が決まるので地を考えないわけにもいかないし・・・