何かをやろうとする時に、初めの一歩を踏み出すことが出来さえすれば成功の確率が高いような気がする時があります。
例えがあっているかどうか自信がありませんが、我が家の息子の場合には得意科目と苦手科目の差が激しくて中高時代は苦労したようです。
彼の苦手科目は私・父親の得意科目で彼の姉の得意科目でもあるからこれは心理的プレッシャーになったようです。
そう、彼は数学が苦手、逆に語学系は得意。
得意と苦手でプラスマイナスゼロで良いではないかとも思うのですが、語学の方は苦手でもそこそこ点数が取れるのに比べ、数学の方は○か×かの違いしかないところがあります。
対策は単純でその苦手科目の勉強をするしかない・・・それしかない。
私が思うには、それを好きになるのが最も早い確実な対処法の第一歩なのですが、どうやら息子を見るに心の中にブロックがあるようで、見たことが見た通りに伝わっていないようなところがあるようでした。
私は子供時代算数とういう科目が好きでした。
中学に入ってすぐに躓いた時がありますが、マア図形問題が好きになって克服できたようです。
物事を論理的に考える、正しい道筋を数式で表す、結果として正しいか間違っているかのどちらかしかないと言う潔さ?・・・そういうものが好きだった。
当時の私は国語などで説明問題で、半分くらい正しいから半分の配点と言うやり方が嫌でした。
特に「作者はどう思ったと思いますか?」のような問題で自分なりの感じたことを書けば良いと思われるのに、それに正解とか間違いがあるのに不満でした。
あることに同じ反応をしなければ間違いと言うやり方に疑問だったのです。
マア、子供でしたし、問題として「何を要求されているのか?」とは考えなかったのですね。
話が変わりますがその息子の少年時代に野球のチームに入っていまして、同じチームにT君と言う上手な子がいました。
上手と言いましたが、実は私から見ると勘違いなのです・・・
例えば彼は内野手なので、守っていてゴロが来るわけですが、確実に補球してアウトにできそうな打球にしか反応しない・・・捕球に行ってはじいたりしそうな、ギリギリのプレーは初めからやろうとしないのです。
そういう判断を事前に出来ると言うのも一つの才能かも知れませんが。
ともかく、結果だけを見れば綺麗に補給して確実にアウトを取るプレイしかないのですから、彼は上手いように見える。
逆にともかく全力で守備の練習をするタイプは、常にチャレンジですから失敗も多いので、結果としては下手に見える!?
何の為の練習かまるで取り違えているらしいし、そう言うことへの評価もおかしいのです。
そして何より本人が「周りに評価されることしかやらない」とか「成功する姿しか見せない」・・・失敗を極度に恐れているのでしょう。
さてさて、囲碁では思うように勝てなくても「好きだ」という気持ちに揺らぎが無いのは不思議ですね。
勝ったり負けたりで半分勝てればそれなりに満足出し、結果以前に打てること自体がうれしい。
そういう意味では学科みたいに点数で評価されたら好きになれない人も出てくるでしょうし・・・
そう言えば囲碁のような1対1で行って、勝敗がついて、しかもその勝敗の原因が運の作用よりも本人の責任範囲のものが多いとされるゲームを好まない人がいるように思えます。
失敗する可能性のあるプレイには参加しない。
例えばある段級に成れたとして、それより上の人から見れば下になる・・・
そう言うことに拘るところが気になるのかも知れないし、初めに初級者の時点で多少はコンプレックスみたいな気分を味わうに違いないと予想してしまうのかも知れません。
私はその点単純だったのでしょう、「囲碁が好き」「囲碁が面白い」それだけ。
生活をしていればいろんな勘違いはあるでしょう。
勘違いをしてはいけない勘違い。
勘違いをしていなければ生きにくい勘違い・・・。
例えがあっているかどうか自信がありませんが、我が家の息子の場合には得意科目と苦手科目の差が激しくて中高時代は苦労したようです。
彼の苦手科目は私・父親の得意科目で彼の姉の得意科目でもあるからこれは心理的プレッシャーになったようです。
そう、彼は数学が苦手、逆に語学系は得意。
得意と苦手でプラスマイナスゼロで良いではないかとも思うのですが、語学の方は苦手でもそこそこ点数が取れるのに比べ、数学の方は○か×かの違いしかないところがあります。
対策は単純でその苦手科目の勉強をするしかない・・・それしかない。
私が思うには、それを好きになるのが最も早い確実な対処法の第一歩なのですが、どうやら息子を見るに心の中にブロックがあるようで、見たことが見た通りに伝わっていないようなところがあるようでした。
私は子供時代算数とういう科目が好きでした。
中学に入ってすぐに躓いた時がありますが、マア図形問題が好きになって克服できたようです。
物事を論理的に考える、正しい道筋を数式で表す、結果として正しいか間違っているかのどちらかしかないと言う潔さ?・・・そういうものが好きだった。
当時の私は国語などで説明問題で、半分くらい正しいから半分の配点と言うやり方が嫌でした。
特に「作者はどう思ったと思いますか?」のような問題で自分なりの感じたことを書けば良いと思われるのに、それに正解とか間違いがあるのに不満でした。
あることに同じ反応をしなければ間違いと言うやり方に疑問だったのです。
マア、子供でしたし、問題として「何を要求されているのか?」とは考えなかったのですね。
話が変わりますがその息子の少年時代に野球のチームに入っていまして、同じチームにT君と言う上手な子がいました。
上手と言いましたが、実は私から見ると勘違いなのです・・・
例えば彼は内野手なので、守っていてゴロが来るわけですが、確実に補球してアウトにできそうな打球にしか反応しない・・・捕球に行ってはじいたりしそうな、ギリギリのプレーは初めからやろうとしないのです。
そういう判断を事前に出来ると言うのも一つの才能かも知れませんが。
ともかく、結果だけを見れば綺麗に補給して確実にアウトを取るプレイしかないのですから、彼は上手いように見える。
逆にともかく全力で守備の練習をするタイプは、常にチャレンジですから失敗も多いので、結果としては下手に見える!?
何の為の練習かまるで取り違えているらしいし、そう言うことへの評価もおかしいのです。
そして何より本人が「周りに評価されることしかやらない」とか「成功する姿しか見せない」・・・失敗を極度に恐れているのでしょう。
さてさて、囲碁では思うように勝てなくても「好きだ」という気持ちに揺らぎが無いのは不思議ですね。
勝ったり負けたりで半分勝てればそれなりに満足出し、結果以前に打てること自体がうれしい。
そういう意味では学科みたいに点数で評価されたら好きになれない人も出てくるでしょうし・・・
そう言えば囲碁のような1対1で行って、勝敗がついて、しかもその勝敗の原因が運の作用よりも本人の責任範囲のものが多いとされるゲームを好まない人がいるように思えます。
失敗する可能性のあるプレイには参加しない。
例えばある段級に成れたとして、それより上の人から見れば下になる・・・
そう言うことに拘るところが気になるのかも知れないし、初めに初級者の時点で多少はコンプレックスみたいな気分を味わうに違いないと予想してしまうのかも知れません。
私はその点単純だったのでしょう、「囲碁が好き」「囲碁が面白い」それだけ。
生活をしていればいろんな勘違いはあるでしょう。
勘違いをしてはいけない勘違い。
勘違いをしていなければ生きにくい勘違い・・・。