なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

やればできる子?

2009-03-16 17:41:55 | Weblog
 子供の頃、家では全くと言えるほど勉強をしない子供でした。
  要するに家で教科書で予習・復習をしない、いや教科書を開かない。
 中学でもほぼ同様で、中間・期末考査の三日前程度から教科書を開いて試験範囲のところを読む程度。
 高校に入ってからは、更にひどくなって教科書は教室の机の中にすべてしまって帰る(教科書を忘れる心配はない)、持ち歩くのは分厚いサイズの大学ノート1冊のみ。
 これで全ての教科を間に合わせるのですから合理的と言うかいい加減と言うか・・・
 鉛筆2,3本と消しゴムを制服のポケットに入れて行く・・・要するに筆箱は無し。
  
 そういういい加減なスタイルでしたが、自分で言うのもおかしいですが、予習・復習をしない”覚悟”ですから授業中の集中は大変なものだったとは思います。
 但しやる気のない時は窓の外の景色ばかりを見ていたので高校生の時は視力回復。
  そういうことなのでテストの結果にばらつきがある。
 こういう時に母親のお説教は決まっています。
 「おまえはやればできる子なんだから・・・」
 子供ながらにこの言葉には反発を感じていましたね・・・但し口に出しての反論とか反抗はしませんから、マア猫かむりの部類でしょう。
 『みんな、やれば出来るのなら何のためのテストなんだろう』とか
 『やればできる子にはテストの点にプラスアルファーがあるのかな』
 『やって出来た子と、やらないでも出来た事では区別がつくのかな』などなど

 子供の頃からへそ曲がりな性格ではありました。
 でも「やればできる」ということのインチキなからくりは分かっていたような気がします。
 つまり「やったかやらないか」という事では無くてどれだけ出来たかをチェックしているのですから、親から「やればできる」という励まし・叱責はあまり意味が無い。
 要するに「やる」という事で結果がついてくるはずではあるけれど、結果が良ければ途中経過の努力については「よくやった」としてしまうのか・・・難しい問題がある。
 「努力することができる」と言うのも一つの能力です。

 囲碁について考えると・・・
 例えば先日あるネットでの観戦で・・・正会員では無いので、そこでは観戦のみ許されています・・・2局観戦しました。
 ここは表示の段位が比較的辛いはずなんですが、持ち時間の制度によってかなりの早碁傾向にあるように思えます。
 従って観戦していても比較的1局の観戦と言うものは手軽な感じはしますが、反面打たれた手に観戦者として「納得がいかない」手が出現することも多いような気がします。
 見ている私のレベルで理解できないだけなのか、単に時間に追われて打った手と言うことなのかは難しいですが、両方混在するような気がします。
 厚かましい批判をするなら、高段者と言われる人の打つ手なのか疑うこともありますし、相当に偏った局面でも打ち続けることもよくある。
  原因としては時間制度のような気がしますが、時間に追われてとりあえず打つと言うことと、アマ特有の攻めっ気と言うか・・・
 早碁を楽しむとか瞬間的な判断力を鍛えるとか、あるいはいろんなケースを試しておくような意味はあるとは思いますが、一般的言って「じっくり」した対局態度、盤面の展開などの方が「タメ」になるような気がします。
 私個人としては、アマ・ザルから少しでもも脱却するのには「じっくり」がキーワードだと思っていますが、さてそのように自分に言い聞かせて「やればできる」ものだろうか?そこが問題です。
 できるものならとっくに出来ていたとも言えるし、それ以前に「やる」こと自体出来るかどうか・・・
 「やっていたはず」が「できていなかった」と言うこともある。

10日ぶり

2009-03-15 00:45:43 | Weblog
 土曜日の夜にいつものネット囲碁にいつものように入場。
  はじめに誰かの対局を見る・・・入場してから2,30分とか一局とか観戦するのが私の定石です。
 仕事から帰宅して早々とか、夕食後あるいは入浴後のゆったりムードの頭を多少は囲碁向きにマッサージすると言うか、ウォーミングアップと言うか、ともかく切り替え時間が必要です。
 観戦しながら対局待ちリストの窓を見て、似たような点数の人が現れたらオファーを出します。
 尤も、ここのところたまたまタイミングが悪くてうまい具合に丁度好い人に行き合わなかったり、あるいは観戦中の対局が面白くて自分の対局のことを忘れていたり、そうそう、いつものことですが観戦しながら寝てしまったり・・・そんな事でネットには繋ぐのですが対局とは遠ざかっていました。
 それが土曜日の夜は・・・Oさんと言う人が対局待ちリストにありました。
  何度か打っているので名前に覚えはありますし、この時はOさんのなまえしか載っていませんから打つのならこの人としか打てません。
 
 私としては入場したばかりで打つのはいつもはやらないのですが、Oさんの点数を見て気が変わりました。
 確か以前この人と打った時は向こう2子のはずだった・・・
 棋譜倉庫から過去200局のリストを見るとこの人とかなり前に打っていて、確かに向こう2子の棋譜が残っている。
 今のハンデは向こう先でコミ無しくらいになる筈ですから、彼が現在好調あるいは進化したらしい。
 私の点数は殆ど変わっていないので、一応以前のままとすると、彼が接近してきたことになる。
 こういうとき”祝福的”な気分になるものの、一方で試してみると言うか”ご機嫌うかがい”みたいな気分で打ってみたくなるものです。
 「どれどれ、進歩の程は?」と言うほど傲慢ではありませんが、すでにライバル的な位置まで来ているのかどうか試してみたくなるものです。
 結果は先輩の意地でしょうか・・・意地悪ジイサンとでも言いましょうか

 ところで局後また棋譜倉庫でその碁を振り返りましたが、この1局はその前の対局から10日も経っていました。
 これでは月に実戦が3局?
  ムムッ! 碁キチ返上の危機!?
  

攻撃は最大の防御?

2009-03-14 13:03:07 | Weblog
 昔通っていた囲碁クラブの常連さんにM山さんと言う人がおりまして、この人も無類の囲碁好きな人です。
 晩年は体力的に問題があったようですが、それでも週に2,3回は碁席にやって来まして、お気に入りの相手と何局も続けて打ちます。
 両者5.6級で相当な早打ちなので5,6局打ったとしても2時間はかからなかったと思います。
 M山さんはお相手との連戦で疲れると1時間はインターばるを取って後で再びライバルと打つのが定石でした。
 
 性格はやや頑固なところがあって誰とでも打ちとけると言うことはなかったのですが、どういうわけか可愛がって頂きました。
 M山さんについても印象は囲碁以外では、きれいな江戸弁でしょう。
  「ひ」と「し」の区別ではなく、特徴は歯切れのよさとでも言いましょうか、あれは真似したくても難しいでしょう。
 昔「1週間のご無沙汰でした」で始まる歌謡番組がありましたが、あの司会者も綺麗な発音だったと思いますが、ああいうイメージです。
 それと、昔の落語家の喋り口調みたいなところがありました(関東落語えすが)
  そうですね関東の落語は江戸弁でなくてはやれないと言われていたのですよね・・・私のような地方出身者には大きなハンデ以上に、生まれによる差別に近い事でした。
 頭はともかく視力においてパイロット・言葉において落語家は将来の職業の中では除外項目でした・・・脱線しました。

 話はM山さんに戻ります。
 囲碁を打つ時に何やら格言めいたことを言いながら打つ習性があります。
 大したことでは無いのですが・・・「何にもならない瀬戸の柿の木」の「瀬戸」が良かったですね。
 普通はこの言葉は「裏の柿の木」と言う人がほとんどですが、M山さんの「瀬戸の柿の木」を聞いて一種の感動みたいなものがありました。
 この言葉が綺麗な江戸弁で語られて、一種の時代を感じましたし、『瀬戸って家の裏手のことなんだ』と教えられたような感じでした。
 ところでM山さんの好きな言葉の一つに「攻撃は最大の防御」があります。
  要するにM山さんも相手の人も、この棋力クラスでは攻撃力の方が防御力の方がやや勝っているところがあるようです。
 攻撃は得意だけれど、防御が苦手と言うか。
  要するに攻めた方が結果的に有利と言うことですから、確かに攻撃していれば防戦の必要が無いし勝率も良いようです。
 まあ結果論的に棋力ゾーン限定であっても間違いでは無さそう。
  要するに攻めが好きなだけなんですが、「それを言っちゃあオシメイよ」と言うところでしょう。

三つの話

2009-03-13 17:29:04 | Weblog
 自転車通勤も長くなると毎朝すれ違ったり、あるいは追い抜かれる人とは顔馴染みになります。
 会釈をするわけでもないし世間話をするのでもない、ましてや名前も知りませんが、考えてみると名前を知らなくて話をしたことが無いという点では、大半のご近所レベルと変わらない。
 いつもどのあたりで出会うか決まっているので、たまに場所がずれると『寝坊かな?』とか『私の方が遅れているのかな?』などと感じたりします。
 いくつかの高校の通学路でもあるので、顔馴染みの高校生とは3年近くすれ違うことにもなるし、中学校の校門あたりでは生徒指導をしている先生たちともお馴染み。
 さらに、ある交差点ではボランティアでゴミや吸い殻を片付けているオジサンたちも。

 ところで今朝はいつもの場所あたりでいつもの老夫婦のウォーキングとすれ違いました。
 いつからかははっきりしませんが、何年も前からすれ違っているはず。
  毎朝では無いようなきがしますが、天気が良い日には出会うような気がします。
 老婦人の方は軽く片足を引きずっていて、彼女よりだいぶ背に高い(夫と思われる)男の人はゆっくりと歩調を合わせて歩いている。
 不思議なことに、二人は傍目には楽しそうとは見えないのだけれど、何年も一緒に歩いていると思う。
 ともあれ勝手な想像では、夫人の歩き方からすると脳卒中か脳梗塞があったように思える。
 何の変哲もないような光景ですが、勝手な想像が働き始めます・・・これがあるから長いこと飽きずに人間をやっているようなものです。
 まずは両人は夫婦と言う事と夫人の方のリハビリのためのウォーキングと言うこと絵出発。
 ① 両人ともウォーキングが趣味なので早朝から歩いている。
 ② 夫人が歩きたいので夫はつき合わされている
 ③ 旦那が奥さんのリハビリにために半ば強制して一緒に歩いている。
  考えればいろいろありそうですが基本パターンはこんなところか
 なぜなら、二人は歩きながら会話をしているようにも見えないし、楽しそうにしているわけでもないのに何年も続いているのですから。

 ここからさらに想像は飛躍して、陳腐ではあるけれど現実の歩いている老夫婦が私の想像のストーリーの中に入って来ます。
 ① 旦那は若い頃からワンマンな性格で、良かれと思ったら無理にでもリハビリをやらせる・・・婦人が楽しそうに歩いているようには見えないし、旦那も頑固そうな印象。
 ② 本当は夫人が夫に頼んで一緒に歩いて貰っているのだが、人前で夫婦楽しそうにすることが出来ない年代
 ③ 旦那は若い頃ワンマンだったが、最近では実は仲が良い・・・夫人に合わせた歩き方が「気遣い」を感じさせる。
 ともあれ老夫婦のウォーキングとすれ違ったら、頭の中で勝手に想像・創造しますから全く”飽きない”性格。
 これだから何年も自転車通勤が続けられるのかも知れません。

 さて、こういうことを無理やり囲碁に当てはめると
 「何の変哲もない場面で、最低3つのストーリーを考える」と言うことにしたら・・・いや囲碁の場合にはこの局面ではこの一手と言うこともあり、常に3つのストーリーと言うのはあり得ないことではある。
 でも、もしかしたら常に「それしかない」と言うような見方しかできないとしたらそれはそれで問題ありなんでしょう。
 物事の本質を見極めようとすることと、変化に対応出来る柔軟性と言うようなものに通じるような気がします。
 ドラマならば型にはまった展開ではあきられる・・・囲碁ならば勝敗と言う結果が伴うのですから不利な展開が予想されるならば、不利益を被る方が受け入れるはずがない。
 そうかと言って奇を衒ったストーリーでは現実と遊離してしまう。
  案外ドラマの脚本と囲碁は共通の要素があるのかも知れません。
 

オッ!先輩

2009-03-12 17:39:30 | Weblog
 私は長年碁を打って来て・・・誤解が無いように申し添えますが、それは碁と言うもので遊ばせて頂いてと言うくらいの意味です・・・金銭面などで損をしたか得をしたかと言うと、圧倒的に「損」だったとは思う。
 要するに「現世的」な損得で言えばそういうことになります。
  直接かけた費用・時間を換算したり・仮に経済活動だったと言う比較において・・・
  「碁さえ楽しめれば、後は生活できる程度で充分」という気分ね生きてきたわけで、本来ならばそういう人は一生独身でいても不思議ではないのですが、現実には女房子供もいる。
 そこには現実の生活もあるので、現実と気分の間のギャップは相当に深いものがあります。
 まあ、そのギャップを女房に埋めてもらってきたわけで、頭が上がらない相当いい加減な亭主として生きてきた。
  ”そういうものだ”と開き直ると結構そのようになるらしい。
 これがプロ棋士と言うのならともかくザル碁ですから・・・
  加えて生活の場面でも気の進まないことはやらない性格で、それが仕事に反映すると・・・仕事だから好き嫌いは言えませんが、納得のいかないことには相手が誰誰であっても抵抗する・・・
 だから若い頃は重役連に睨まれていました。
  尤もその重役の上にいる社長に4子置いて碁を打っていて、囲碁仲間みたいなところもあったので重役にしては扱いにくい若僧だったかも。
 ともあれ経済面、社会的な地位や名誉と言うものとは縁が無いのですが、囲碁を楽しむ仲間には恵まれたとは思います。
 それほど大勢の人との交流があるわけではありませんが、家ではいい加減なオヤジという評価が囲碁仲間では「ザルではあるが真面目な囲碁愛好家」くらいの差はあると思います。

 さて、ほんの少し前までの職場絵では数こそ少なかったのですが必ずと言っていいくらい囲碁が好きな仲間がいました。
 確率にしたら1割程度ではありますが40人いれば4人くらいですから昼休みの相手には困らない。
 ところが最近はその1割の確率がどうも怪しい。
  たまたまなのかどうか、今は私以外はいないように見えます。
 本当は隠れ囲碁ファンがいるのかどうか?・・・でももうすぐ1年になるのに同好の士は見つかりませんでした。
 今の職場も長くてあと2年ですし、その後はないでしょうから4月から”好い人”が転勤して来てくれ。

 ところで、火曜日の夕方の仕事帰りに、信号機のある交差点を自転車で渡ったところで「○○サーン」と大きな声で呼ばれました。
 周りにはそれらしい人はいなかったのですが、よく見ると信号待ちの車の中でニコニコと手を振っている人がいます。
 これは2年前まで同じ職場にいたT倉先輩、今は定年後に嘱託か再雇用で近くの事務所に勤めているはず。
 しかし大声で手を振るなんて天真爛漫なところがある先輩です。
  先輩は信号待ちですから話が出来ないので、私も歩道から手を振って挨拶・・・結局人目など気にせずに似たような先輩後輩だったようです。
 
 そう言えば2年前はこのT倉先輩ともう一人総務課長の二人に二面打ちをしたものです。
 ザルが相手に5子も置かせて二面打ちですから全くの冷や汗ものです。
  それでも私の性格から「下手ではあってもいい加減な碁は打ちたくない」「自分から負けに行くようなことはしたくない」ので二人相手に頑張ったものです。
 今にして思えば、たまには負けた方が良かったかも知れないとは思いますが・・・逆にザルでも真剣だったことで今でも手を振って貰えるのかも知れません。
 物差しや秤では計れないけれど、「得」した部分ですね。

予定稿

2009-03-11 17:23:20 | Weblog
 スポーツ記事など締め切りに間に合わせて、早く報道のレールに乗せるために「予定稿」と言うものがあるそうです。
 記者は試合の進行を見ながらAが勝利する場合とBが勝利する場合の二つのストーリーを想定して、概ね骨子となる物語を書いておく、あるいは想定して描いておくのでしょう。
 それで、現在時間火曜日の深夜で、明日このブログに載せる原稿を考えるとすると・・・仮に明日の予定の総合病院での検査についての予定原稿では。
 朝9時半からですから適当に朝の総合病院の様子を描いてもいいし書かなくてもいいし・・・
 朝9時からの検診ですと、同じ9時台に何人か予定の人がいるので少し早めに家を出るから、途中で通学の高校生とすれ違ったり、並行して自転車で走ったりするので、最近の高校生とか女子高生を観察して記事にするとか・・・
 肝心の検査の結果は概ね3通りしかストーリーがありません。
 ① 以前よりよくなった。
 ② 前と変わりがない(良くも悪くも・・・)
 ③ 明らかに悪化しているので、すぐに入院精密検査あるいは日常生活での改善
   この3つですが、本当言うとそれは可能性だけの話で現実には①は起こりそうもないので②か③だけ。
 
 総合病院で検査と定期的に診察を受けながら、そこの病院の方針で循環器系の内科と生活習慣病クリニックとの3つに通っている・・・さらに勤務先での医療サービス・・・ちょっと贅沢な気もします。
 だいたい本人にしてからが治るとは思っていないから、「今より悪くならなければ好し」の割には手間と費用がかかっているような気がします。
 ですからニュースで保険制度の維持が問題になると私もその足を引っ張っている一人みたいな気がして来て、多少胸が痛むのです。
 まあ持病の悪化で胸が痛むのではないのでまだ好いですが。

 明日は検査のみですから予約時間に始まって30分程度で終わるはずです。
  午後3時半からは歯科の方の予定。
 昼前に買い物とか用事を済ませなければ・・・息子も休みらしいので二人分の昼飯・・・その方の準備も。
 手帳には書き込まないまでも、朝何時に家を出るか、病院の帰りに寄る予定の店、スーパーで材料を買って昼食を二人分作るか、面倒だから弁当にしてしまうか、歯科大には何時に家を出ると丁度好いか、その帰りにどこに寄るか・・・
 夜にはACLの放送があるのだろうか、などなど頭の中はメモが結構詰まっています。

 もしかすると、こういうメモが詰った状態で生活する習慣で何か影響があるのかも知れません。
 仮に予定をすべて紙に書いてしまえば頭の中のメモは要らないので、頭の中のビジィな状態は解決する。
 従ってその分を他のことに集中できるはず・・・
  いや、もしかしたらこの程度のビジィ状態があった方が良いのかも・・・そうでないと頭が楽をし過ぎてかえって良くない?
 さてさて、暇人の暇つぶしには相違無いか。
 

キャスター生活

2009-03-10 18:10:40 | Weblog
 土曜日は仕事がありませんから前の日に夜更かししてネット碁だったり本を読んだり、好きなことをしています。
 朝寝坊していても、少々の寝坊なら起こされることはないので安心。
  但し、部屋の掃除で女房殿が侵入してくるので、これは要注意です。
 部屋の床などに散乱しているモノがあれば、片付ける人がゴミと判断すればさっさと捨てられてしまいますし、最低でも適当に片付けられてしまいます。
 それは私の価値判断とは無縁なので、後になって捨てられたものの苦情を言っても「文句があるなら自分で片付けて下さい」の一言で苦情却下・・・それならまだ良い方で、どういう反撃が来るか分からないので、穏やかに?暮らしたいなら泣き寝入りしかない。
 だから、そういう事態が起きないように[掃除の気配]を感じたら前もって捨てられたら困るものを隔離しておくしかありません。

 そういう事で、本日も恒例の土曜掃除。
  これに備えて、ベッド回りのものはすべてキャスター付きです。
 金属製の4段ワゴン型、ワンボックスキューブ型、コの字型テーブル、オイルヒーター・デロンギ、・・・だから掃除機を持った女房殿はキャスター付きの家具を移動させながら行きます。
 おかげで、掃除=強制退去が無くなりましたので寒い冬でも安心です。
 但し、掃除=窓全開ですから・・・それは困る・・・掃除が終わっても「もう少しの間開けておいてください」・・・寒いのが苦手なのに。

 ところで、仕事ではデスクを二つ並べて仕事をしています。
  一つは通常の事務、もうひとつはパソコン専用。
 事務用の方にあるノート型のパソコンはオフラインで、横にあるハードデスクの方はインターネットに接続で、データのやり取りやプリントなどはこちら。
 それぞれに椅子が置いてあるのですが、その距離80cm、仮に立ち上がれば一歩で移動できる距離。
 但し私は立ち上がらない・・・モノグサ太郎
 二つの椅子はどちらもキャスター付きなので、横にスライドすれば用は足りる。
  見るからにモノグサなので、お客さんの目がある時はやりませんが・・・
 立ち上がった方が、一歩でも歩いた方が健康には良いでしょうが・・・キャスターな生活をしています。

イエローカード

2009-03-09 17:42:52 | Weblog
 土曜日にJリーグの開幕戦を数試合見ました。
  やっと本番が始まったと言う興奮を感じましたが、一方で”今年もか”と言うような失望感も味わいました。
 一言で言うと「勝ちにこだわる」というか・・・
  プロの世界で多くのサポーターに後押しされているのですから勝つことに拘るのは当然のことではあるけれど、それにはやはり限度と言うか、スポーツマンとしての美学と言うものが無くてはいけないと思うのです。
 サポーターとして贔屓チームの応援であっても、スポーツそのものを楽しむ観戦でありたいと思うのです。
 要するに勝てば良いだけではなくて、味方も相手も良いプレイには拍手し汚い・危険なプレイにはブーイングする。
  それは「結果が全て」と言うことからすれば”アマチャン”ですが、「汚い事をしても勝つ」よりは「負けても堂々と・・・」の方が好きです。
  最近よくスポーツで「サムライ○○」みたいな表現を見ますが、単に「死ぬ気で頑張る」のがサムライではなくて、「正々堂々」という要素を強調して欲しい。

 囲碁では例えば「体操」とか「シンクロ」のような判定・審判による評価で決まる要素は無いと言ってよいでしょう。
 ゲームが進行すれば自然に結果は出てくるようになっています。
  そして、勝敗は・・・私が負けるのは要するに私が弱いからで、今後の対策は強くなるしかない・・・という非常にシンプルな結論です。
 まあ現実には、運みたいなものもないではないし、もしかしたら姑息な手段と言うのもあるのかも知れませんが、基本的には自分の責任です。
 「姑息な手段」と言うのは、たとえばチーター行為
  但し実名サイトでは考えられません。
 あとは、もしかしたらと言う範囲では・・・
  例えば対局相手が決まった時に、すぐに対局開始せずに時間をかけるようなことですが、これも故意なのか、あるいは実際に電話とかお茶とかでパソコンのそばを離れているのかも知れないのではっきりしない「武蔵」。
 でも、必ずしもこれをやれば相手が「小次郎」になってくれるとは限らないし、「武蔵」と考える事事態イヤラシイ心理かも知れません。
  そういう意味で言えば対局中の接続切れ・・・あれも故意なのか事故なのか・・・待たされる方もイライラしますが、再接続も反則負けの命がけではあるので何とも言えないけれど・・・それでも一局で数回繰り返されると私の場合は性格の悪さが出て来ます。
 ともかく多少の心理的な問題はあっても判定みたいなもので勝敗が左右されませんから、こういうことも私としては囲碁が好きなことの一つかも知れません。

 Jリーグ観戦で感じた具体的な事では・・・
  点を取らなければか勝てませんから、そのためには攻撃に出るのは当然のことですが、可能性としては点が取れる可能性としては通常の攻撃より相手の攻撃を逆手にとっての反撃・カウンターの方が点になる確率が高い。
 だから、ここに矛盾した面白さがあるように思えます。
  つまり相手に反撃されるリスクがあっても攻撃しなければいけないわけです。
 対策としては攻撃してもカウンターを受けないこと。

 さて、攻撃が頓挫した時に相手の反撃を反則でつぶす・・・これが単なるファールルなら良いし、イエローであっても1試合一人1枚なら良い・・・そういう試合は見ていて面白くないものです。
 イエローは2回やれば退場させると言うことですが、逆読みすれば1回までは認められている行為みたいな・・・
 今年もそういう試合を開幕の日から見てしまいました。
  「強い」とか「円熟」の中身はこの要素が多いような気がします。
 確かに勝つためにやっているのでしょう・・・非公然のチームコンセプト?

 なんだかサッカーの話と囲碁の話がごちゃごちゃになって来ました。
  書いている私にもイエローカードですね。

前夜祭

2009-03-07 17:02:50 | Weblog
 ここのところ天候が不順で雨がよく振ります・・・と言うのは勝手な解釈なんでしょうね。
 今年みたいに季節を通して考えればカラカラの日が多かったり雪が少なかったりしたら、このあたりで雨が続かないと夏になる頃には水不足になるに違いないのだから、雨は恵みの雨と考えるべきでしょう。
 それに火事の心配も少なくなるし、インフルエンザとか風邪、花粉アレルギーなどなどトータルすればプラス要素が多いかも知れません。
 それでも通勤の自転車でレインコートは必需品だし、行きか帰りは必ず強い向かい風に鍛えられて文句を言いたくなります。
 ともあれ3月に入りましたから、三寒四温の一歩手前でしょう。
  近所の河津桜は既に咲いたのに春は今一歩。

 さてこの時期は何と言ってもJの開始。
  土曜日からやっと始まります・・・二月の休みは長いですね。
 「今年こそ」と言う期待と、裏腹に「今年は大丈夫?」と言う不安が混ざり合った複雑なj次期です。
 ということで金曜日の夜は一人で長いシーズン前の前夜祭。
  特別なことはしませんから、気持ちだけの前夜祭です。
 土曜日に試合がある選手は会場近くの宿舎に前泊で、前夜祭どころではないでしょうからファンとしても明日・明後日の長い開催第一週に備えて眠って置くことが大事です。
 きっと土日には試合中継を5試合位見て、夜には速報番組を見る週末が始まります。
 考えてみればそういうことの合間を縫ってネット碁を打って、ネットで観戦し、本を読んだりDVDでドラマをみたいするのですから、案外丈夫に生まれているのかも知れませんね。
 尤もそれ以外のことに手が回らなくなりますが・・・
  
 ともかく寝だめの前夜祭のはずが金曜日のうちに・土曜日までにあと数分で目が覚めてしまいました。
 覚めたものは仕方がない・・・コーヒーでも飲んで、ネット碁を観戦して・・・
  これではいつもと変わりません。
 ただの老人で、夜中に目が覚めているだけのようです。
  ま、それでもやりたい時にやりたいことをしておかなければ、「あとで」はなさそうな年頃です。

懐かしの”タンベ”!?

2009-03-06 17:58:22 | Weblog
 ひところ流行語的に”ちょい悪オヤジ”と言う言葉がありましたが、私も家では「不良オヤジ」と言うことになっています。
 法的にトラブルを起こしたり、家族が悲嘆にくれると言うことはないのですが「キズもの」というか「良品ではない」と言う意味で不良オヤジ・・・いや既に不良ジイサマです。
 何と言っても自分の好きな事ばかりやっている・裏を返せばやりたくないことは梃子でもやらないのですから、アテにも頼りにもならない・・・タダいるだけ・・・床の間の置物ほどの価値もありません。
 ともかく不良ジイサンのルーツは・・・昨日や今日始まったことではなく、「ローマは1日ではならず?」少なくとも高校時代から始まっていたと言うお話。

 私はタバコをやめて10年以上は経っています。
  それまでは毎日60本は煙にしていたが、ある日を堺に禁煙したのですから・・・周りは意志が固いなどと言いますが、要するに極端な性格だと言うことでしょう。
 (尤も止めていなければ、ブログを書いたりしていられなかったでしょうが)
 以来1本も吸っていませんので、禁煙歴も10年も越えると受動喫煙なども少し気になりますが・・・昔の自分を考えれば文句も言えないと思って、周りで吸う人がいてもクレームはつけられない感じです。
 昔は家の中でも吸っていましたので、例え換気扇の近くで吸っても匂いは残ります。
 ましてや深夜に本を読みながら吸っていれば、窓を開けたままにして置いても翌朝でも匂いは残ります。
 それは服にも、髪の毛にも・・・
  10年以上経ったので家の中はすっかり匂いが消えました・・・たぶん3年か5年くらいかかったでしょうね。

 よく病院とか調剤薬局に煙草を吸う人の肺の写真がポスターになっていますが、おそらく私の肺もああいう模様だったでしょう。
 だから10年以上禁煙してから経過して・・・そのままなのか?、あるいは多少は元に戻ったのか?・・・さてどうなんでしょうね。
 あまり期待はできませんが。
  何と言っても吸い始めたのが早いし・・・
 高校時代にはジャズ喫茶に出入りしていて、初めはショートピース、途中からハイライト。
 性格がゴキブリみたいなもので、暗くて狭くて暖かいところが落ち着く。
  本人としては他人に迷惑をかけているつもりはないですが、やはり当時としてはジャズ喫茶でたばこを吸う、ビリヤードが好き、アルバイト代わりにパチンコで稼ぐ・・・やはり不良高校生だったかも。
 やはりそういう仲間がいまして・・・今でこそ会社での幹部だったり歯科医だったりしますが・・・仲間で通じる言葉があるわけです。
 隠語で煙草は「タンベ」でしたが、誰が言い出したのか、語源が何かは分からないけれど使っていました。
 マッチが「テッカリ」これも語源は想像がつきません。

 最近韓ドラを見ていましたら・・・画面を見ながら音声を聞いて字幕スーパーを追いかけるのですが、ある場面で字幕に「・・・煙草・・・」と出た時に、確かに役者が「タンベ」と言ったのです。
 どうも韓国語で煙草=「タンベ」らしい。
  と言うことは隠語ととして使っていたのは外国語で煙草と言っていたのに過ぎないことになります。
  隠語で話していた頃から40年以上も経ってから謎が解けたようです。
   調べようとしていたのではないけれど、なんだかすっきりした感じです。
 ついでに「テッカリ」を・・・いや、分かるものなら何年か後には自然に分かるかも知れませんね。
  

肝心なところで間違える

2009-03-05 17:18:51 | Weblog
 同じようなレベルで勝ったり負けたりしているのですが、自分が「弱い」のに呆れて情けなくなることがあります。
  先週の週末にもドジの3連発。
 昔、藤沢先生が「チョンボが無ければ」だったか「待ったがあれば」だったかともかくそういうことならば「俺が一番強い」と言ったとか言わないとか。
 心理的に確かにそうですが、それはザルの心理にも似ている。
 更にそれを聞いたプロが「チョンボ(実際はもう少し違う表現だったと思いますが)も芸のうち」と言ったらしい。
 確かにその通りですが、ぼやきに対してマジで答えるあたり、それも素人的な感じもします。
 プロならサラッと聞き流すようなところだと思いますが、マジで受けるところが逆の意味でプロなのかも知れない。

 さて、そうは言っても同じチョンボでもプロとアマではレベルが違うのは当然。
  これから起こるあろういくつかの変化は既に織り込み済みで話を進めるとか、盤上には現れないが現在の形になるまでの下地みたいな変化とか、そういう地下構造を前提として考えたり話を進めるのがプロで、ザルはそうはいきません。
  「ギャーと言ったがこの世の別れ」みたいなレベルのミスが勝負の分かれ道。
 
 それでドジの3連発の話。
 ① 攻め合いで2手勝っていると思いこんでいました。
   「攻め合いは1手勝ちのこと」という変なカッコつけと言うか、見栄が手伝って相手がダメを1つ詰めてきたのに敢えて手抜き!・・・これが・・・これで攻め合い1手負けになっていた。
  どうせボヤキですから恥ずかしながら言ってしまうと、攻め合いが負けているのにダメ詰め比べをしてくるなんて・・・
 締め付けにしては効果が変わらないし、もしかしたらこういうチョンボを期待していて全く期待通りになったらしい。
 ② やはり攻め合いで、私が包囲されて攻められている場面。
   いや、私のダメがもう一つ多ければ攻め合い勝ち。
   攻め合いの手数を読み違えました・・・私からダメを詰められない場所があって、ダメ数よりダメ詰めが1手余計にかかるので、攻め合い負け。
 それも、勝っていると思い込んでいるので包囲される手を打たせている。
 ③ なんて言うこはないヨセの場面
   大ざるで滑れる所をあえて小ザルでそこを打って他に回ろうとしたのに、何と言う勘違いなのか、クリックミスをして打った石を味良く取られてしまい・・・最後まで頑張ったものの1目半足らず。
 もしも、もしも間違わなければ4,5目残っていたらしい。

 トータルすると間抜けな3連発
  タラレバがあるのなら3-0となるところを0-3になったような。
  もしもこの手の間違いを起こさなければ半目は強くなれるのに・・・
 これが、皆さんに遊んでもらえる理由かも知れませんが。
  しかし肝心なところで間違える癖・病気・・・いや決定的に弱い理由ですね。

眠り姫

2009-03-04 18:07:42 | Weblog
 童話で眠り姫と言うものがあったような気がしますが・・・たぶん魔女の呪いで何かの棘に刺さった途端に何年も眠り続けるお姫様の話。
 私は老人ですからお姫様とは縁がないし王子様でもありませんが、話は子供時代
  私より三才上の姉は小学校の学芸会の時は所謂良い役を貰う
 だから何度かお姫様になりました。
  そういう姉が、実生活では実によく眠る人で、母などは感心・呆れて名付けたのが「眠り姫」・・・マア娘の綽名を「姫」ですからひとさまの前では言えません。
 従って、そういう血筋は弟の私にも流れているはずです。
  一族に・・・ご先祖様にも「眠ること」に関する千節の持ち主がいます。
 父方の祖母のご先祖さま・この人は静岡県西部のお大名家の弓の指南番だったとか言いますが、詳しいことは分りません。
 ただ一つだけ家の「伝説」になっている話があるのです。
  この人は大変な居眠り名人でお殿様の前でも寝てしまうくらいの人です。
 何で弓の名人に居眠り癖があるのかは理解できませんが、伝説ですからそう信じるしかありません。
 ともあれ、お殿様も呆れて・・・本来なら不敬罪ですが・・・罪を問わないようにするために「居眠り御免」の許可証が発行されたらしい。
 そういう人の末裔ですので、私も居眠りには”自信”がある。
  昼休みの15分の仮眠は公然の睡眠、このほかに暇で退屈なら起きている顔をして頭は眠っている非合法も得意。
 
 夜にさあ寝るぞと布団を敷いてパジャマに着替えて・・・と言うのは苦手です。
  このパターンではかえって寝付けないのです。
   「眠るぞ」ではなくて「何となく」でなくてはいけないのです。
 ですから、床屋さんの椅子などでは本当によく眠ります。
  洗髪の時は起こされますが、、、それと髭を剃る時は床屋さんが怖がって起こします。
  最後に仕上げで「出来ました」と手鏡で移される時など、無理やり起こされたという感じです。
 それと病院の待合室・・・ここが良く眠れる。
  寒すぎず熱くなく丁度好い温度で、うるさくもなく寂しくもない人の気配がする場所。
 そして明るすぎず暗くないこういう条件が合っているのか・・・
  予約時間に多少余裕を持って出かけると必ず眠ってしまうのです。
 まあ鼾さえかかなければ大きな迷惑ではないでしょうが。

 今日は午前中に生活習慣病クリニックで10分の仮眠、そして午後に歯科大の方は予約時間に余裕を持って出かけたら30分前に着いて待合室で30分フルに仮眠。
 もしかしたら仮眠ではなくて熟睡かも。
  

想像しにくい

2009-03-04 17:38:28 | Weblog
火曜日の朝、女房殿が出がけに私の部屋の入口で「今日は午後から雪かもしれないって」と一言。
 『それは困る』、ここのところスッキリしない天気が続くので、まさに『気象庁は何をしているのだ』的な気分です。
 TVで天気予報を見ると、統治は昼過ぎから雪になりそう・・・
  そうです、この時期は南の海上を低気圧が通過して、北からは寒気が流れ込むと春の大雪だってある。
 いや、むしろこの時期が一番雪になりやすかったはずです。
  学生時代には思わぬ大雪で当時の国電のダイヤが乱れるのは、関東では3月で、この気圧配置。
 
 尤も今日の予報の積雪量1cmと言うのが想像しにくい。
  言葉の問題では「積雪量」と「降雪量」の違いについて、どうでもよいようなことに引っかかったりしますが・・・ともかく畑の真ん中みたいなところで雪の量を測ったら1cmと言うことだとは想像できる。
 でも、実際にそのくらいの雪が降ったとして、どういう影響があるのかが想像しにくい。
 畑の中では積もっても歩道の敷石ではどうなのか、アスファルトの車道は?
 要するに私の最大の関心事は自転車で走って帰れるかどうかであり、用意するのが雨合羽なのか防寒着が適しているかであり、履物はスニーカーで良いのか防寒シューズかゴム長の方が良いのかということです。
  天気予報を参考にして、自分の勘でそういうことを決めなくてはいけない。
 
 更にもうひとつありました。
  雪になるとして、初めから雪なのかあるいは初めが雨で途中から雪になるかも問題。
 特に雪の量が少ない時は・・・初めに雨だと積もることが無さそう。
  但し降る時間によっては、凍結の可能性はある・・・・

 「予想」と言うのは気圧配置とか、ここより西とか北の地方のデータによって今後の変化を占うので、ひと昔に比べたら局地的な予想とか、時間変化とかかなり制度が上がりました。
 まあ100%ではありませんが、同じ予想でも競馬の予想よりはずっと確率が高い。
 こういうものを囲碁に無理やり結びつけると
  予想のデータは定石のような感じがしますね。
 但し相手が必ずこちらの思惑通りになるとは限らないところもお天気に似ています。
 それでも、ついついこちらの都合の良い結果を期待するところなどは競馬の予想みたいなところもある。
  独りよがりの射幸心では打てませんが、逆に全て予想通りの進行だと却って味気ないだろうとは思う。
 そういう意味で、囲碁の神様がいたら相当強いだろうけれど、もしかしたらその方にとって囲碁はつまらない遊びかも知れません。
  神様の心理は想像できません。
 それに、明日の風向きではありませんが、盤上の出来事もいつも期待を裏切られているのです。

逆ボランティア?

2009-03-03 17:57:29 | Weblog
 以前は夕食後に何かTV番組を見ていたものですが、最近はどうも”見たい”という番組が無い。
 格闘技以外のスポーツなら見ないこともないのですが、今はJも開幕寸前ですし。
 番組がワンパターン化したのだろうか、何を見ても想定内と言う感じで意外性とかあるいは思っていた以上の奥行とかを感じないので、何だか時間の無駄をしているような気がして、それならいっそ部屋にこもって何か本でも読んだ方が良いような気になってしまいます。
 TV局の番組の悪口を言いましたが、本当は単に私の”見る”という意欲が薄れているだけかもしれません。
 読書はともかく、代わりにやっているネット碁にしてもTVのワンパターン番組とマイザル碁がいい勝負みたいなところがありますから。
 
 そんな事で夕食後はさっさと部屋に引き揚げてしまうので、我乍ら下宿人状態の生活です。
 しかもネットで観戦しながらいつの間にか・・・やはり年には勝てない。
  同じザル碁でも、ギラギラと言うか意欲を前面に出して打ちまくる、あるいは人の碁を見て何か探ってやろうというのなら自分でも”ようやっている”と感じても良いかも知れませんが、何となく見ているうちに何となく眠ってしまうのだから情けない。
 まあ昼間の仕事の疲れという言い訳もホンの少しはありますが、それで深夜になって目が覚めるのですからやはり老人の証・・・すでに老人ですが。

 さてそういう事で深夜目を覚ますと観戦中だったはずの対局はとっくに終わっていました。
 あわてて対局室から出て「待機室」を覗くと例のライバルM氏が待っている。
  あちらに方が私よりやや強いという感じはするが、それでもこのネットに入会以来のライバル的存在で、もう5,6年のネット碁付き合いです。
 彼の方が圧倒的に対局数が多いのと、連続対局が多いので纏め勝ちみたいなものがある反面纏め負けもある。
 だから点数の振幅が大きいのですが、今日の点数差での手合いは私の先でたくさんコミ貰いです・・・もう2子寸前。
  こういうときの心理は微妙ですね。
 「同じくらい」という意識がありますからコミ貰いというのが悔しい、反面、勝って当たり前みたいな不遜な気持ちも無いわけではないから、『対局して負けたらどうしよう』みたいな・・・
 事実負けると次は2子になるから打ち込み碁のカド番みたいなもの。
  
 『負けたら、それが今の実力差』という風に開き直って”対局オファー”
 まあ結果はオーライでしたが・・・かなりの大差で、私が終盤に間違いが起きないように自陣に手入れをしたところで白さんが投げましたが、もしかしたらこういう結果は白さんの半分くらい想定内だったろうか?
 ボランティア的な対局?・・・勝ったら勝ったで性格が悪い。

素人は考える

2009-03-01 15:28:05 | Weblog
 今朝も起きぬけから2局もネットで観戦しました。
  これは割合強い人たちの対局・・・そうですね県の代表を争うトーナメントで争う少し前くらい、手合いでは定先くらいでしょう。
 私程度のザルから見るとプロは雲の上で、県代表なら上空を飛ぶ気球の感じです。
 その気球に先ですからやはり地上からは見上げるところにあるはずなんですが、どうもあれこれ批評めいたことを考えながら観戦するものです。
 プロの対局だとただただ拝見するようなものですが、強くてもアマの碁となるとどこか親近感があると言うか縁台で後ろから覗いてるような気分もあります。
  批評の焦点がたぶん外れているはずなんですが、これは強い人の話を聞かないと外れているのか、的を得ているのかわからない・・・すると観戦そのものが効果的な勉強かどうか甚だ心もとない。

 本当に観戦して勉強したいのなら、正しく評価できる人の意見を聞かなくてはいけない。
 その対局のその先生なりの話と、見ていて感じたことへの感想、そして当事者同士の話。
 そういうものがそろわないと勉強とは言いにくいですね。
  どうも私のは暇つぶしでしかないのは明らか。
 それでも1日の中で、暇な時間があれば頭の中を「囲碁」らしきもので充填しておくことも大事かもしれません。
 そこが微妙なところです。
  良いものを充填しないと却って弊害があるかも知れないし、そうかと言って空にして置くのも良くないかも知れないし・・・。
 
 明治時代の毒舌家の大先生はたしか「君たちの碁は河原(埋立地の泥の上のイメージだと思う)で杭を打っているようなものだ」と言ったそうな。
 心は「打てば打つほど下がる!」
 要するに「打っても打っても強くならない」と言うのは半面で、実は「打てば打つほど良くないこともある」のでしょう。
 考えずに何局も打つ癖がつく。
 敗因・勝因などの振り返りがおろそかになる。
 一定の水準で落ち着いて安心してしまう。

 まあ素人もいろいろ考えるものですが、考えることは良いとして最大の弱点は解決策を持っていないということです。
 更に解決策があったとして、おそらく実行できる力も環境も無いと思われます。
  従って、ザルとしてなら今後もそのレベルで楽しめますが、仮にザルとさよならするとしたなら囲碁そのものとのお別れになりかねない。
 ”ザル碁我が故郷”くらいの開き直りが無いと今後も楽しめないようなきがします。  
 それでも一方では常に空の上に憧れるようなところもないといけないような矛盾を抱えているような気もします。