子供の頃、家では全くと言えるほど勉強をしない子供でした。
要するに家で教科書で予習・復習をしない、いや教科書を開かない。
中学でもほぼ同様で、中間・期末考査の三日前程度から教科書を開いて試験範囲のところを読む程度。
高校に入ってからは、更にひどくなって教科書は教室の机の中にすべてしまって帰る(教科書を忘れる心配はない)、持ち歩くのは分厚いサイズの大学ノート1冊のみ。
これで全ての教科を間に合わせるのですから合理的と言うかいい加減と言うか・・・
鉛筆2,3本と消しゴムを制服のポケットに入れて行く・・・要するに筆箱は無し。
そういういい加減なスタイルでしたが、自分で言うのもおかしいですが、予習・復習をしない”覚悟”ですから授業中の集中は大変なものだったとは思います。
但しやる気のない時は窓の外の景色ばかりを見ていたので高校生の時は視力回復。
そういうことなのでテストの結果にばらつきがある。
こういう時に母親のお説教は決まっています。
「おまえはやればできる子なんだから・・・」
子供ながらにこの言葉には反発を感じていましたね・・・但し口に出しての反論とか反抗はしませんから、マア猫かむりの部類でしょう。
『みんな、やれば出来るのなら何のためのテストなんだろう』とか
『やればできる子にはテストの点にプラスアルファーがあるのかな』
『やって出来た子と、やらないでも出来た事では区別がつくのかな』などなど
子供の頃からへそ曲がりな性格ではありました。
でも「やればできる」ということのインチキなからくりは分かっていたような気がします。
つまり「やったかやらないか」という事では無くてどれだけ出来たかをチェックしているのですから、親から「やればできる」という励まし・叱責はあまり意味が無い。
要するに「やる」という事で結果がついてくるはずではあるけれど、結果が良ければ途中経過の努力については「よくやった」としてしまうのか・・・難しい問題がある。
「努力することができる」と言うのも一つの能力です。
囲碁について考えると・・・
例えば先日あるネットでの観戦で・・・正会員では無いので、そこでは観戦のみ許されています・・・2局観戦しました。
ここは表示の段位が比較的辛いはずなんですが、持ち時間の制度によってかなりの早碁傾向にあるように思えます。
従って観戦していても比較的1局の観戦と言うものは手軽な感じはしますが、反面打たれた手に観戦者として「納得がいかない」手が出現することも多いような気がします。
見ている私のレベルで理解できないだけなのか、単に時間に追われて打った手と言うことなのかは難しいですが、両方混在するような気がします。
厚かましい批判をするなら、高段者と言われる人の打つ手なのか疑うこともありますし、相当に偏った局面でも打ち続けることもよくある。
原因としては時間制度のような気がしますが、時間に追われてとりあえず打つと言うことと、アマ特有の攻めっ気と言うか・・・
早碁を楽しむとか瞬間的な判断力を鍛えるとか、あるいはいろんなケースを試しておくような意味はあるとは思いますが、一般的言って「じっくり」した対局態度、盤面の展開などの方が「タメ」になるような気がします。
私個人としては、アマ・ザルから少しでもも脱却するのには「じっくり」がキーワードだと思っていますが、さてそのように自分に言い聞かせて「やればできる」ものだろうか?そこが問題です。
できるものならとっくに出来ていたとも言えるし、それ以前に「やる」こと自体出来るかどうか・・・
「やっていたはず」が「できていなかった」と言うこともある。
要するに家で教科書で予習・復習をしない、いや教科書を開かない。
中学でもほぼ同様で、中間・期末考査の三日前程度から教科書を開いて試験範囲のところを読む程度。
高校に入ってからは、更にひどくなって教科書は教室の机の中にすべてしまって帰る(教科書を忘れる心配はない)、持ち歩くのは分厚いサイズの大学ノート1冊のみ。
これで全ての教科を間に合わせるのですから合理的と言うかいい加減と言うか・・・
鉛筆2,3本と消しゴムを制服のポケットに入れて行く・・・要するに筆箱は無し。
そういういい加減なスタイルでしたが、自分で言うのもおかしいですが、予習・復習をしない”覚悟”ですから授業中の集中は大変なものだったとは思います。
但しやる気のない時は窓の外の景色ばかりを見ていたので高校生の時は視力回復。
そういうことなのでテストの結果にばらつきがある。
こういう時に母親のお説教は決まっています。
「おまえはやればできる子なんだから・・・」
子供ながらにこの言葉には反発を感じていましたね・・・但し口に出しての反論とか反抗はしませんから、マア猫かむりの部類でしょう。
『みんな、やれば出来るのなら何のためのテストなんだろう』とか
『やればできる子にはテストの点にプラスアルファーがあるのかな』
『やって出来た子と、やらないでも出来た事では区別がつくのかな』などなど
子供の頃からへそ曲がりな性格ではありました。
でも「やればできる」ということのインチキなからくりは分かっていたような気がします。
つまり「やったかやらないか」という事では無くてどれだけ出来たかをチェックしているのですから、親から「やればできる」という励まし・叱責はあまり意味が無い。
要するに「やる」という事で結果がついてくるはずではあるけれど、結果が良ければ途中経過の努力については「よくやった」としてしまうのか・・・難しい問題がある。
「努力することができる」と言うのも一つの能力です。
囲碁について考えると・・・
例えば先日あるネットでの観戦で・・・正会員では無いので、そこでは観戦のみ許されています・・・2局観戦しました。
ここは表示の段位が比較的辛いはずなんですが、持ち時間の制度によってかなりの早碁傾向にあるように思えます。
従って観戦していても比較的1局の観戦と言うものは手軽な感じはしますが、反面打たれた手に観戦者として「納得がいかない」手が出現することも多いような気がします。
見ている私のレベルで理解できないだけなのか、単に時間に追われて打った手と言うことなのかは難しいですが、両方混在するような気がします。
厚かましい批判をするなら、高段者と言われる人の打つ手なのか疑うこともありますし、相当に偏った局面でも打ち続けることもよくある。
原因としては時間制度のような気がしますが、時間に追われてとりあえず打つと言うことと、アマ特有の攻めっ気と言うか・・・
早碁を楽しむとか瞬間的な判断力を鍛えるとか、あるいはいろんなケースを試しておくような意味はあるとは思いますが、一般的言って「じっくり」した対局態度、盤面の展開などの方が「タメ」になるような気がします。
私個人としては、アマ・ザルから少しでもも脱却するのには「じっくり」がキーワードだと思っていますが、さてそのように自分に言い聞かせて「やればできる」ものだろうか?そこが問題です。
できるものならとっくに出来ていたとも言えるし、それ以前に「やる」こと自体出来るかどうか・・・
「やっていたはず」が「できていなかった」と言うこともある。