カッキーYAMA   akihiko tange

手始めに、日常的なことを気の向いたときに載せていくつもり。

Blogに付くコマーシャル・part2

2011-11-03 | エッセイ

blogページ下のコマーシャルの表題が60円になったり70円になったり、くるくると変わるのは、そこのところの数字は暫定的ということで、ある意味どうでもよいのだろう。警鐘のようなつもりなのかもしれない。また株価の高・下についてもお金を払えば、その理由などを知ることができるようだ。
 機関投資家というのは、本来は有効でかつ有益、優良な投資をして、自社(投資会社、あるいは個人投資家)の利益を上げようとするのが基本のはずだ。ところが今やいろいろな投資家がいてレートの差益のみしか考えず、いつしかそれだけを専門とし、利益のみを追求するというところが増えてしまっているのかもしれない。本来の投資ということを忘れ、何も考えず思考停止となり、多くはないが安定的に利益を上げられるからといって国債を買い続ける日本の銀行と似ているのかもしれない。ただし前者は利益は相当上がっているだろう。それが何か悪いか、と開き直られるとただちには反論できない。そうした資金が流れ込むこと自体は悪いことではないからだ。そういった資金で動くことのできる企業ももちろん多いはずだ。しかし、このところ経済規模は大きくなり暴力的に動く、とよく言われてきた。自由に資金が流れるのは一概に悪いとは言えないのかもしれないが、レートの乱高下でこうも国内の企業が苦しんだりするのであれば、やはり何か手を考えざるを得なくなるだろうと思うのだが、そんなことを言うエコノミストはいない。あくまで自由経済を標榜するばかりだ。どの国にとっても苦しむことはあるはずだから、何か新たな考えに基づいたルールが必要とされるときが来ているのかもしれない。レートの上げ下げのみに終始するのではなく、きちんと投資がなされることが重要に思う。円とドルの間の換金ばかりやっているように見えてしまうのである。実に不思議な業種のように思うのである。機関投資家というものの実態はどういったものなのだろう。実態把握と対策を国なり何なりがやらざるを得なくなるかもしれない。また、経済の現況実態の説明をするばかりではなく、その仕組み全体の是非について、あるいは改良点などについて述べる経済評論家の輩出が必要とされるときが来るだろう。これは相当視野が広くなくてはできない。ではでは、よく分からないのでこの辺で経済、バイバイよ。


上の文に続けて・・・。

 なぜ、株価が今、上がらないかというと有効な投資先が無いからだ。あるいはそういうところには既に投資してしまっている。優勢劣敗が進行しつつあるというところだろうが、そんなこと投資家などに決められてたまるかっつうのヨ、ナァ。
  アジアは急成長していたがバブル的危うさは中国も含めやはり在り、最近、減速状況が起き始めて慌てて資金を引き揚げているところもあるらしい。欧州経済は実は始めからあまり良くはなく投資先として魅力はない。ドイツはその中では悪くはなく、まじめな国民性のところが比較的良いのは昔からそうなのである。ラテンの国は文化的には個人的に好きだが、経済的にはどうしようもない国が多い。アメリカの経済状況は悪い。相当悪いはずだが、メディアからは依然としてあまり明確には伝わってこない。悪い印象は与えたくないという心理がメディアに働いているのかもしれない。しかしそれでは正確な実態が伝わらない。もしかすると、アメリカの経済状況、とても良いのではと思ってしまうのである。メディアというのはアメリカだけを向いていれば良いというわけではないだろうに・・・。もろもろの結果、とても有効とまではいかないが相対的によく働く日本人のいるところへ投資するしかないかな、というところらしい。
  最近かなり円高に振れているのは、そんな世界状況に加え、東北震災の復興資金が、税金という形であるにしろ何にしろ、銀行に預けた人々の懐から取れる算段が国の偉い人たちの間でまとまり、長きに渡り資本投下がなされるということも手伝って、そこに群がる企業に投資でもしようかというところかもしれない。これに消費増税の動向が影響として加わっているのだろう。
 復興資金の厳しい使い方、つまり効果的な使い方をすることは借り入れ先の、お金を出す人々のことを思えば当たり前なのだが、ここのところの考え方が逆転してしまっている偉い人たちがこの国にはいて、拳骨でも入れないともう治らないのかもしれない。ほんとに、具体的に拳骨を入れないと・・・。こういう人たちの手に掛かると復興資金はじゃぶじゃぶとした使われ方となり、思ったより効果が上がらないという、かつての公共事業において問題になったことにも似た状態となる。そんなとき、経済状況も思ったより良くはならないのは既に実証済みだ。良くないことが実証されてしまったものだが実態が分かっただけでもまだましだし、分かるのが、いや、知らされるのが遅かったとも言える。そしてそこには楽をして儲けている人も実に多く発生する。植木等の歌は好きだが、彼にあやかるかのように、楽して儲けて何が悪い、と開き直られると反論するのが実に面倒だ。そもそもそこだけを言っている訳ではないのである。費用対効果ということが言われだして税金が使われるような公的な場面ではとても良い、当り前の判断基準を言いだしたなと思っていたのだが、最近はあまり聞かれなくなった。オーバーヒート即クールダウンの国民性のようだ。そのじゃぶじゃぶとしたところでは、復興資金のお陰で見かけ上の利益を上げる企業は出てくるだろう。投資先が経済全体を引っ張るくらい十分あるわけではないから、先の外的理由とのバランスでレート、株価がどの程度影響されどう動くかは分からない。だが今回は投資家はレートのところではいつもの様には逃げないだろうと思う。だから円安には向かわない。あるとすれば万が一の暴落くらいだろう。円高傾向は都内などの中小企業は困るだろうが流れとして震災復興という国内需要に向かうという企業も多いだろう。ただし、実態が希薄となったときもまだその国内需要に群がり過ぎていると後が怖いことは、90年前後のバブルとバブル崩壊のことを思い起こせば分かると思う。
 経済のことは、私は、想像からくるいい加減な話になってしまい、ボロが出る。ボロが出ても私の場合はそれほど構わないのだが、経済の話は分かりにくく自分自身疲れるので、ではではこの辺で、バイバイよ。


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blogに付くコマーシャル

2011-11-03 | エッセイ
円高60円と株大暴落の前兆
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上記のようなコマーシャルがgooblogのページ下に出ている。私の場合は、どういった類のコマーシャルであれ付くように設定している。どこのblogもそれを載せるか載せないかの選択くらいは仕組みとしてできるようになっている。このことに関して掲載側が選択できることは良いことだと思う。
 
 今、円高60円と出ているが先程まで70円だった。その前は60円。くるくると変わるようだ。内容は知らないが、この手の情報を売りにして儲けようとしているところは今ごまんとある。株に現在投資している人はもちろん、これから投資しようという人、投資はしないけれど株式市場に興味のある人、などなど読みたい人は多いのだろう。投資したお金が目減りしそうだとか、投資先が倒産かなどとなればその人はもう大変に違いない。私はこのコマーシャル内容を勧める気はないが、興味のある人は見てみるとよいかもしれない。先へ進むにはお金が必要な仕組みになっている。お金を支払ってでも見る価値があるはず、ということだろうが、見たことが無いのでその価値は分からない。


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函館の駅舎について・建築のこと、街のこと

2011-11-03 | 旅行

 数年前、函館へ行った。鉄道を使った。30年ぶりに降り立った函館の駅は以前とは違って、鉄と金属製の新建材でできた新しいものへと建て替わっていた。一言で言うと、風情が全くない。以前の駅舎は木造であったかどうか、若いころ旅の途中で何回か訪れただけなので明確には覚えていないが、いずれにしろ風情だけはあったように思う。新しいものに風情を求めるのは酷であると言われるならば、デザインが上手いとはとても言えないと言い換えてもいい。年季が入れば何かしら良くなるなどという問題ではない。木造だったから良くて、鉄骨に新建材だから悪いということでは断じてない。どこがやったかは知らないがデザインが、要は下手なのである。駅前にはロータリー的な駅前広場が設けられているが、これもなんだかよく分からない。「駅前広場?、ハイ、設けました」といった感じだ。これから有効に使うところを見せて、あっと言わせるということだろうか。現段階で、この駅前広場に取り付いた建物はあまり良い景観を作り出せてはいない。
 駅舎は、ホールの部分の天井が高く設計され、そこの吹き抜け的なところにブリッジが渡されていた。しかし、その高く設定した天井もブリッジも全く効果が上がっていなくて取って付けたような感じだった。吹き抜けとブリッジをデザインとして設けました、と言えば言葉としてはそれはそうなのだろう。しかし建築は、物である。言葉で言う前にそれが上手く効果的にそうなっているか、それがそうなっているときまったく違和感なく言葉に置き換えられるはずのものだ。言葉を下手なデザインに置き換えただけである。ここを見ただけでデザインのことを、建築のことを知らない人がやったのでは、と疑った。函館と言えば鉄道での北海道への玄関口である。結構重要なポイントになる街のはずなのに、と首を捻りたくなるのだった。かといってそれ以上、やったのがどういう人たちなのかなど調べる気もないのだった。自分の見た印象だけで十分だと思った。たとえそれが名のある人の手になるものであり、それをもってこちらの言っていることが多くの人に否定されたとしても・・・。
 以前blogに函館へ行ったときのことを書いたときに、駅を出て右手の残り少なくなった朝市、レンガ倉庫群、シーサイドのショップ、そこから少し歩いての函館山のあたりのことしか書かなかったのは、そこが懐かしかったり好いなと思ったりしたこともあったし、駅舎や駅前広場の思考停止で開発されたかのような様子を書く気にもならなかったからでもある。駅舎はもう出来上がってしまっていてこれから何かを望むことはできそうもない。駅前広場は何かうまく使われると好いなと願うばかりだ。

 函館は、つまらぬ駅の建物だ。
  もう無理だとは思うが、できればすぐにでも作り直した方が良い。





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秋空 

2011-11-03 | エッセイ



自宅近くで・夕方



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