2からの続き・・・
さざえ堂の西側にあるのが宇賀神堂・・・
○ 白虎隊十九士を祀っている・・・洋服の姿で・・・なぜ ?
このころの會津藩は、長沼流の兵法を改めて、様式操練に切り替えたので洋服にした。
○ イメージとしてはこちらが浮かぶ・・・
この格好は、幼稚園や保育園の学芸会などで用いられている・・・
○ 奇跡的に助かった飯沼定吉の写真・・・
茶碗の後ろの額縁に入っているのは、白虎隊血染めの布が・・・当時のもの・・・
○ 霊像前に詩が書いてある板は、広場にあるイタリアから送られてきた碑(ポンペイの柱)を囲った板に
文相であった時の鳩山一郎の筆・・・詩文は白虎隊・・・
○ 武士の最初の忠孝・・・楠正成、そして最後の忠義・・・白虎隊。
宇賀神堂から山腹を回って広場への道・・・
○ 広場に上がる石段が・・・観光客は右側の石段やスローコンで上がってくる・・・
○ 広場の十九士の墓は線香が絶えない・・・
戸の口原に出陣した白虎二番士中隊は37名・・・そのうち17名は無事に入城・・・
20名は途中の飯盛山で自刃、一人、飯沼定吉が蘇生・・・
西軍が犬畜生にも劣るということで2年間野ざらしにされていた・・・
明治22年になって調査の末、飯沼貞吉を除く19名と決定し大慰霊祭を行い十九士銘々の墓が建ったのでありました。
○ あいうえお順に並んでいる・・・
井深茂太郎、Sonyの創業者関係ありかなしか ?
石田和助、一番先にお先に御免と言って腹を切った・・・
刀を腹に突き立てて前に伏して倒れる者や
お互いに喉を刺したのが多かった・・・
一番最後に残った人はどんな気持ちだったのか・・・
池上新太郎、親類に池上武助という者がいて、
息子の四朗が初代大阪市長に、孫の女の子が・・・
秋篠宮妃のおばあちゃん・・・
130年前賊軍とされ、60年後に、秩父宮に殿様の娘が嫁ついで賊軍の汚名が晴れ、
その 60年後、武士の娘が皇室に嫁ぐ・・・何か因縁めいたものがある。
○ 篠田義三郎、隊長役として、隊をまとめてここまで連れてきた・・・
隊長の日向内記が食料調達に行ったまま帰らなかったので・・・それが悲劇になった・・・
隊士墓の左奥にある殿様の弔歌の碑・・・松平容保
○ いく人の涙はいしにそそぐとも
その名は世々に朽ちじとぞ思ふ 源容保
○ 十九士の墓の裏側にある石碑・・・
これはなんて書いてあるかわからないが・・・
白虎隊碑には、白虎隊士の自刃や飯沼少年の蘇生・・・
そして、「この国に殉ずる精神は」全く會津藩の教育によるものであって、
この精神こそ将来日本を護るためには、なくてはならないものである…と説いている…
死して美なりと・・・
明治時代、日本は富国強兵の時代・・・
お国のためということで、プロパガンダに使われたのか・・・
あってはならないこと・・・
この時期、会津は小学生の修学旅行が多い・・・
3・11で途切れたが徐々に回復兆しにある・・・
偶然にも、修学旅行の小学生の前で白虎隊の最期を舞っている・・・
南~鶴ヶ城望めば~砲煙上がる・・・じゃじゃじゃじゃーん・・・
○ 忠烈今も名を残す・・・花も會津の白虎隊・・・・
子供たちは何を感じているのか・・・
おわり・・・
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