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テレビのコメントについて林真理子のエッセイに考えさせられた

2005-12-30 00:14:37 | つぶやき

林真理子の『愛すればこそ・・・・』という本をここ数日かけて読んだ。

この人にかんしてはデビュー当時にたしか「有名になりたい」ということを明確に打ち出して脱いだ写真を週刊紙かなにかで見て以来、あまりよいイメージがなく、例のアグネス・チャンとの論争に関してもあまり興味がわかなかった。

あの論争の頃ぐらいから急に文化人的なイメージが強くなってあまりテレビにも出なくなった気がする。

以前表参道のある楽譜売り場でこの人が母親らしき人と一緒にいて領収書をもらうときに「林でお願いします」とわりと大きい声で言ったのを見た。

『愛すればこそ・・・・』を読んでいるとこの人は自分が有名人でいることをすごく意識している人だと感じるが、それでも経済的な面で若い頃に苦労したことなどがつづられていてそれなりに興味深かった。

ちなみにこの本自体もわりと若いころに書かれた本のようだ。

そこに収められた文章の一つにロサンゼルス・オリンピックだったかの開会式の感想をテレ朝で話すように言われたエピソードがのっている。

「面白いかつまらないか正直に言えばよい」ということであったが、最後には「私も行きたいわぁ」と言わされたそうだ。

こういう話を読むと実際にはたとえばテレ朝の人があのエッセイは困ります、などとこの作家に言った場合、「いえあれはあくまで読者を喜ばすためですから」などというのではないか、と自分などは思ってしまう。


つまりテレビというのは虚飾に満ちた世界ではあるが、そうした虚飾を明らかにするような場合でも実際にその人は虚飾を作り上げるのに協力してる人であるから、物書きとしてもまた虚飾を作り上げる可能性もあるし、それをまたどこかで明らかにすることで出演料や原稿料をもらってる可能性もあるとも思えるわけである。

結局その人の意見がどこにあるかなどということは分からずじまいのようなことになるとも思える。

こういう人は人によって話すことを変えるいわゆる八方美人的な人だといっては言いすぎだが、自分にはどうもここで書くことが本当のことです、などという言い方が妙に引っかかって仕方がない。

しかしその一方で、自分はテレビと言うのはあまり好きではないけれど、そういういわば表に出ない葛藤みたいなものを感じることのできないやからでは自分はないつもりである。

できれば言いたいことを言っている人と、必ずしもそうではないとも思える人が一緒にテレビに出て時間をかけて話してるのを見られればそれが理想だなとも思う。

ここ二年ほどだと思うが、年末になるとよく「朝まで生テレビ」のような形でサッカーの討論番組をテレ朝でやっていて、その番組にでてくる植田朝日とか言うサッカーフアンが非常に好きだ。

どこにひきつけられるかと言うと、釜本やラモスなどがいても全く物怖じすることなく自分のいいたいことをきちんと主張しているようであるのが見ていて非常に気持ちがいいのである。

残念ながら自分には議論の詳細についてはあまりついてゆけないのであるが、サッカーというものが非常に奥深いものであることを感じさせてくれるのは非常にうれしいことで、こういう企画が他のスポーツなどについても行われれば非常にいいと思う。

あの番組は今年はいつ放送になるのだろう、ととりとめもなく思っている年末の夜でした。

今調べてみたら今年はなかったのかも知れない。

生のテレビで充分な時間を割いて専門家が言いたいことを言えるような番組がもっといろんあ分野に関して増えれば自分もテレビというのをもう少し好きになれるような気もする。

あの番組にしても釜本はあまり言いたいことは言えなかっただろうなと漠然と思う。

それとは対照的にセルジオ越後はかなり言いたいことを言っていてあからさまな協会批判がすごくて特にストライカーの養成講座のようなものに関して「協会の金余り事業」とか「一体誰が教えるの?」などと批判していた。

こういう場面を見ている時に発言している人たちの表情があまりに対照的であったりするのを見るのが楽しかった。

今年はないようだが、ぜひまたそういう番組を見たい。