前回それについて書いた足立区の冊子や広報に「認知症」という言葉が載っていた。恥ずかしながら自分はこの言葉をそこではじめて知った。Political Correctnessとか言うことがやたらとアメリカなどで言われているらしく、その影響かどうか知らないが、日本でも差別語を廃止しようという動きはいまだに進行中であるようだ。
しかし認知症というのは論理的におかしな感じがする。たとえば誤認証などといえば論理的にはわかるだろうが、これとて何か難しい響きがある。認知失調症というふうに言うべきだと主張する人たちもいることを教えていただいたが、これも長すぎると思う。「認知障害」などといえばいいのだろうか。
しかしこのようなことを考えるのは、「痴呆症」という言葉を使い出すころにマスコミや医学会が考えるべきことではなかったか。これは私の憶測だが、「痴呆症」という言葉は「ボケ」という言葉に代わるものとして使われだしたのではないだろうか。もしくは考え出されてというべきか。
かりに認知症という言葉を用いてもまたこれがまずいい言い方であるといわれる可能性もないではないが、これはどう考えても自分にはいメージが沸かないことばである。まずこれは病名なのであろうか。その点がはっきりしない。役所の文書に使われているところをみると、どうやら公式な言い方ということに落ち着きそうだが、いずれにせよ、この言い方が使われだすと、「痴呆症」とか「ボケ」という言葉はあちこちで使ってはいけないということになるだろう。
言葉がなくなれば病気や「症状」もなくなればいいが、なかなかそう簡単にはいかないと思うのが普通であろう。われわれはあくまでも「ボケ」や「痴呆」と闘いながら付き合っていかねばならないのだとしたら、「認知症」とか「認知失調症」といった専門的な響きのすることばでこの問題を論じたり、情報を集めたり送ったりすることが、自分たちとは関係の薄いものだという印象を与えてしまうことになり、問題と直面することにかえって役立たなくなりはしないだろうか。
たとえば、今まで「痴呆症」という言葉を使って書かれた著作物やネット上の情報の数も決して少なくないはずである。そういったことなど気にするに値しないということだろうが、「痴呆症」という言葉ですら、「ボケ」という言葉を避けるために使われだしたとしたらずいぶんな回り道をしたことになりはしないだろうか。
つまり痴呆症という言葉で浸透しているものを言葉を変えるということは意外に不都合なこともあるし、こうしたことを忌み嫌うことにすらなりかねないとも思う。
だいたい認知という言葉自体普段われわれはあまり使わない言葉であって、この言葉がどういう場合に使われるのかを考えて書こうとするとすぐにこれまたどういういい方はまずいとかいいとかいったことを考えなければいけなくなるようなきがする。
つまりこうした自己検閲のような意識が働くことによってある問題について考えることがめんどくさくなり、やめるという人もでてくるかも知れなくてそれが自分は「痴呆症」という言葉がいいか悪いかということよりもよほど問題のように思える