24 黄釈子 Blog 「My Days」by Oldman+1(吉住)

コロナ予防接種0回、30年間健康診断0回の後期高齢+1、元原告団長の下り坂人生、日々の戯言。KindleWriter。

おろし餅2

2021年12月23日 | 日記

昨日は、鯖江の従姉妹のおばちゃんが「もちっこ」で蒸し揚げ、コネ回して作った出来立ての餅を、ワイフが手伝って白餅を作り、二度目はその餅の一部を、私がおろした大根に「出しつゆ」をぶっかけたのにちぎり入れて、「おろし餅」を作っているそばで食べた。おばちゃん手作りの大根の麹漬けと一緒に食べるから、どれだけ食ったか、記憶にないほど、たくさん食べた。

狭くて、天井材の紙が半分以上めくれてぶら下がっているオンボロな台所に小さな食卓テーブル、周りは食器棚だけでなく、山ほどの傾いた棚や流し台にモノが溢れている。丸い大きな石油ストーブの真上に、針金のハンガーにかかった下着が3枚、簡単にひっかけて、ぶら下がっている。おっそろしい!

家は200年ほども経過している、大きな古民家。柱材など、カールさんが喜びそうなほどの太くてがっしりしたものだが、ガステーブルや冷蔵庫や流しなど、戦後の経済成長時代に便利になった台所を、安い建材で併設し、それが、もはや手入れされることもなく、見る影もないほどボロボロになっている。

70代後半から80代の「元気な老人」だけが住んでいる住宅は、外見はそこそこでも、内部はどこも似たようなもの。本人は立派に「掃除している」と思い込んでいるが、ガラクタものに溢れ、少し目線を上に上げたら、埃と蜘蛛の巣で大変なことになっているのだ。

私は、我が両親がデーサービスで不在の時間に、どれほど掃除と改善をやったことか。高齢老人の暮らしぶりが手に取るように分かる。単に部屋の中央に天井からぶら下がる2灯の丸い大小の蛍光灯が入った、照明器具一つを例にとってみればいい。蛍光管の予備や、グロースイッチの予備など、家のあちこちにあった。親父が買い込んでくるのだ。そして、蛍光灯を付けるスイッチは、紐になっているが、腰が曲がって手が届かなくなる頃には、それに長い紐が結び付けてある。

試しにその照明器具の上を見てみればいい。ホコリが山のように重なっている。(続きは、また、今度にしよう。書くのに飽きた。)


大根おろし餅

2021年12月23日 | 気象

2021年12月23日(木曜日)午前4時30分:[  -1c/10c/30%   ]{getup0400} 曇りのち晴れ

昨日の午前中は鯖江の国道8号線より東側に向かった。9時半に家を出ようとすると、ワイフが私も行く、と車に乗ってきた。私の母親の姉の子供である従姉妹のおばちゃんは、昭和13年生まれだから、83歳。小柄な背格好と性格は、ますます我が母親そっくりになってきている。

母親の姉は抜群に数学のできる才女で女学校の教師になり、同じ教師の旦那と一緒になったが、その旦那が教頭か校長の時、首吊り自殺をした。原因は旦那の浮気だったようで、姉の死後、何年か経過して、その相手が家に入った。

その頃、このおばちゃんは成人していたのかもしれない。少し、知能の遅れた2つか3つ年に離れた姉がいたはずで、一度、二人で我が家の母親に会いにきたことがあるけど、今はいない。そして、このおばちゃんの下に、男の子がいて、私より2、3歳か、5、6歳年上だと思うのだが、秀才で、藤島高校に通っている頃には、もうすでに英字新聞を読んでいた。そして、当然のように東大に進み、卒業した後に、高速道路などを専門に作る建設会社に入り、専務取締役で退職した。

当然、結婚して東京に家を持ち、女房も子供(女の子)もいるが、福井の実家には後妻さんがいて、父親の死後も実家に戻ることはできないが、分け付けの畑があり、何故だか、退職後一人で鯖江のアパートを借りて、その畑に通いながら一人暮らしをしていた。東京の自宅と、鯖江のアパート暮らしの二重生活をしていたのだろう。

二、三度、我が家の母親をたづねてきて、畑で収穫した野菜類を置いていった。日中、私は自分の不動産屋の事務所に出かけていたので、結局、今現在でも、この少し年の離れた東大出の従兄弟の顔を、全く知らないし、写真一枚手元に残っていない。それというのも、彼は、そんな二重生活を2、3年か、続けながら、あっという間に死んでしまった。

どこで、誰が喪主で葬儀をしたのかさえも、全く知らない。

我が団塊世代はいうに及ばず、その少し上の世代も、1割ほどの秀才たちは都会に出ていき、日本経済の発展とともに高度成長時代を謳歌して生きてきた。で、その晩年は、不思議なほど、似たような境遇で孤独死する。我が集落でも、兄の後を追うように、奈良県在住の弟が、数日実家に車でやってくる。たくさんの田んぼは放置したまま、山も放置しながら、古い家の周りを草刈りなどして、また、奈良に戻っていく。私より若いけれど、それでも70歳近いはずだ。これも、元教員。今年の春先まで奈良かどこかの教育委員会の仕事を続けていた。

問題は、この定年退職後の「田舎暮らし」を夢見ることにある。その場所が親が不在になった実家であっても南国であっても、同様なのだ。第二の人生を考えるなら、遅くとも50代に決断して、自分の体力のある頃に移住し、生活環境を整え、乏しい収入に耐えながら、農作物をつくったり、果樹を育てて、地域に生きる努力を積み重ねないと、第二の人生は、うまくいかない。

第一の人生を考えてみればわかる。中学、高校、そして大学と努力してきて、都会に出て、サラリーマンという念願の奴隷生活を続けてきたのだ。そこで手に入れた家族が二つ返事で、都内の奴隷生活に疲れたおっさんのノスタルジーだけの田舎暮らしに、慣れた全ての生活を断ち切って、同行移住するわけがない。

「夢破れて山河あり」状態は、貧困層も、大学出の出世層も無関係に、今でも60代以降の世代に継続中の悲話(?)なのだ。特に、役所や類似企業勤めの60歳定年、65歳まで年金ゼロ世代は、なんとか現役世代に近い収入を得ようと、顔が引きつっている。

巨大なストレスを心に抱えながら、衰える肉体を維持しようとアンチエイジングすれば、ますます、心臓は負荷に耐えられなくなる理屈で、病気を誘発する。余程の金を手に入れない限り(たっぷり金があれば、逆に都会で悠々暮らせるが)、見栄と欲に凝り固まった脳みそを破壊しなきゃ、第二の人生を自然に生きながらえるのは、難しい。