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名も無きねこに

『日本人はなぜ無宗教なのか』読了

2008-02-06 19:11:34 | わたし
「数字が語るフランスの現在」の、先週土曜の放送分を聞いてみた。
音声だけだと全くわからないのは金曜分と同じだけれど、
スクリプトを読んでみると、使われている単語がずいぶんと簡単な気がした。
1レッスンを三回繰り返せば、何かしら身につくだろうか。
そうとでも思わないとやってられない。

今日の勉強は次のとおり。
『完全予想仏検2級』:60分
NHKフランス語講座入門編:40分
『フランス語練習問題3000題』復習:15分
『1からはじめるフランス語作文』:20分
NHKフランス語講座応用編:20分


途中まで眼を通しては何度も放り出していた
『日本人はなぜ無宗教なのか』(阿満利麿 筑摩書房 東京 1996)をやっと読み終えた。

唯物論者とかガチガチの無神論者でもないのに
「わたしは無宗教です」と主張するひとびとが、実は何を思っているのか、
その仕組みを、明治維新以後の国家神道編成と、
中世から近世にかけての仏教の変容の二側面から考察している。

いわゆる無宗教というのは、徹底した反宗教的姿勢ではない。
「宗教は怖い」なんて思ってる一方で、初詣に行ったり、
先祖を大切に思ったり、墓参りをしている時点で、
実はそれは既に宗教的行為なのだと著者は主張する。
そうした、本来宗教的行為であったけれど今では形骸化している儀礼は、
「自然宗教」という独自のくくりで宗教として扱われる。

読んでいて一番抵抗を感じたのはそこだった。
唯物論か、さもなくば信仰かと、ずいぶん大雑把な
二分法を迫っているように思え、唯物論者でなければ、
ある程度何かしらを信仰してしまっているという論理に見える。
まあ、例えば、亡くなってしまった人のことを考えるのは、
徹底した唯物論から見れば無意味な行為かもしれないけれど、
そうした唯物論ではすくいきれない領域を指して
「宗教」と呼んでいるのだろうか。
宗教でなければ、何なのだといわれれば、それはそれで困るが。

宗教の目的を人生への意味付けとして説明している部分は共感できる。
意味付けできるのは宗教だけとは思わないけれど、
一切の宗教を単なる迷信として真っ向から否定していた頃の自分を思い出して、
少し気恥ずかしかった。
コメント
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