金魚葬送

 金魚のきんちゃんが死んでしまった。今朝庭に出たときに、水がめの外で死んでいるのを見つけた。
 水替えを怠ったためかもしれない。それで体調が悪くなって、水の外へ跳ね出してしまったのかも知れない。
 最悪の事態を招いてしまうまで放っておいた自らのいい加減さが腹立たしいし情けない。

 昔に比べると、小さな生き物の死に対して自分がドライになっているような気がする。大人というのはそういう感受性が鈍くなっていくのかもしれない。金魚やめだかが死ぬたびにいちいちくよくよしていたら、毎日の生活が滞ってしまう。だけど、そういう感覚の麻痺は、寂しいことだ。
 きんちゃんのことを考えてみる。3センチくらいの小魚のときに家にきたのが2002年。みゆちゃんより2年も先輩で、今年で6歳だった。
 金魚の寿命というのはどれくらいなのだろう。子供の頃たずねていった、母方の祖母の生家。空の広い田舎で、牛や馬を飼っていて、そこに20年くらい生きて大きなフナほどになった金魚がいた。
 水に戻れずに、苦しかっただろうと思う。暑かっただろうと思う。死んだきんちゃんの体は、私が知っていたよりもまたひとまわり大きくなっていて、その成長に気がつかないほど、私は金魚に注意を払っていなかったのだ。

 きんちゃんがいなくなって独りぼっちになった水槽で、やはり同様に大きくなったぎよちゃんは、ぐるぐるぐるぐる、水面近くを泳ぎまわっている。
 センチメンタルな考え方をすれば、いなくなったきんちゃんを探しているのかもしれない。それとも、魚のあいだに友情があるとはちょっと考えにくいから、もしかしたら、縄張りが自分だけのものになって喜んでいるのかもしれない。その真意はぎよちゃんが喋れない以上謎だけれど、環境の変化という要因は大きいに違いない。
 つい人に置き換えて考えてしまって、新しいつれあいが欲しいだろうかと思うのだけれど、ぎよちゃんは、何を望んでいるのだろう。
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ママチャリを買う

 いわゆるママチャリを買った。うしろに子供の椅子を取り付けて息子を乗せるのである。歩いて行くには少し遠いが、車で行くと駐車場がない、というようなところへ行くのに便利だと思ったのである。

 もともと、タイヤの細い速く走れる自転車が好きで、学生の頃にはクロスバイクに乗っていた。
 だから、クロスバイクに子供椅子を付けられないかしらと思った。日本人ではあまり見かけないけれど、欧米の人がクロスバイクの自転車のうしろに子供椅子をつけて走っているのは、よく街で見る。
 近所の店の前に、ときどき子供椅子がうしろについたイタリアの自転車メーカーBianchiのクロスバイクが止まっていて、サドルなんかも高い位置にあるから、やっぱり外国の人の持ち物なのだろうと思う。
 その自転車を見て、子供をうしろに乗せたとき、前に乗る大人はどうやって自転車にまたがるのだろうと思った。
 サドルの前は、ハンドルの下からフレームが高い位置のままで一直線に伸びているから、足が通らないように見える。しかし、サドルのうしろから足を回そうとすると、今度は先に乗っている子供の頭の上を越えていかないといけないから、相当大変であるように思われる。
 そのどちらかしか自転車をまたぐ方法はないと思われるのだが、おそらく、長身で足の長い欧米の人なら、きっとどちらかが可能なのだろう。日本の子供乗せ自転車がママチャリなのは、きっとこの足の長さの問題のためで、それゆえ、私もクロスバイクに子供椅子を乗せることはあきらめた。
 いかにも“ママチャリ”というのは、自分の取りたいスタイルからして少し抵抗があるのだが、そうも言っておられず、便利なので、よく使っている。

 余談であるが、欧米人の家族が自転車で移動するとき、子供を乗せるのは父親が多いように思う。それに比べて、このあいだ、日本人家族の母親が前とうしろにふたりの子供を乗せて一生懸命ペダルをこいでいる横で、身軽な父親がひとりですいすい自転車に乗っていくのを見た。ジェントルマンとかレディーファーストの文化との違いなのかしらと思った。


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