頭通ってお腹通らず

 頭通って、お腹通らず。猫にとって、由々しき事態である。
 先日、みゆちゃんが庭に出たいと言ったので、窓を開けてあげた。意地悪するつもりは毛頭なくて、ただ寒いので、細めに開けたら、ちょうど頭が通るくらいの幅しかなかった。みゆちゃんは、その隙間に頭を突っ込んで、まずは上半身が外に出たのだけれど、そのあと、なんと、お腹が詰まってしまった。開け閉めがさほど重くない窓なので、みゆちゃんが力任せに通過するにしたがい、横に滑ってちょうどお腹の幅まで開いた。みゆちゃんは何食わぬ顔をして庭へ出て行ったのだが、見ていたこちらは、なんとも情けない気持ちになった。
 確かに、最近みゆちゃんはふくよかである。上から見ると、白いお腹が、シロアリの女王みたいであるし、触ると、がっしりしているような、柔らかいような、気持ちいい肉付きである。
 ドライフードの入れ物のふたを勝手に開けて、よくぽりぽりと食べているので、だいぶ太ったのかしらと体重を量ってみると、さほど増えてはいなかった。ちなみに、数値は3.7キログラム。二年前、けがを負って家に来たときには、2キロ足らずしかなかったから、これは感慨深い数値である。
 ということは、運動不足でお腹がたるんでいるのかもしれない。近頃あまり遊んでやれていないから、育児の合間に、もっと相手をしてあげるべきなのかもしれないが、私も趣味のことなどをして息を抜きたいし、なかなかそうもできない。
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お風呂猫

 みゆちゃんはお風呂に入りたがる。と言っても、猫なので、当然湯船には入らないが、私と息子がお風呂に入っていると、ドアの前に座って、開けてくれとにゃあにゃあ鳴く。みゆちゃんは普段から息子をライバル視しているので、息子だけがお風呂に入って自分は入れないという状況がいやなのである(これに関しては息子も同じで、みゆちゃんをライバルだと思っている。このあいだ、お風呂に入ろうと誘ってもなかなか応じなかったので、じゃあ、みゆちゃんと入る、と言ってみたら、息子はすぐに入ると従った)。浴室のドアを細く開けてあげると、するりと入ってきて、慎重に浴槽に前足をかけた。私と息子が手を出すと、お湯で濡れているのもかまわずに、ひげの付け根や、顔の側面にこすり付け、そうして満足して、浴室から出て行った。
 実家のネロは、以前よく母とお風呂に入っていた。何をするわけでもなく、湯船に被せたふたの上に黙って座り込んでいる。ぽかぽかと暖かくて気持ちがいいのだろうけれど、あたたかくて快適な場所なら居間にだってある。ネロは母が一番好きであるから、きっと一緒にいたかったのだと思う。
 息子が生まれて間もない頃、父が息子をお風呂に入れたことがあって、そのときはちゃめが浴槽の縁に上って見学に来た。好奇心に加えて、自分のお気に入りの父が孫をお風呂に入れていることが気になったのだろう。
 それぞれの思惑があって、猫はお風呂に入る。
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昔昔のPCゲーム

 小学校の頃、父が初めて仕事用に買ったパソコンの中に、宇宙船のゲームが入っていた。もうゲームの名前は忘れてしまったけれど、自分が操縦席に座っているような画面構成になっていて、前方に現れる隕石を避けたり、敵機を撃ち落したりしながら進んで行って、どこかの惑星に着陸し、燃料を補給するという、ただそれだけのゲームだった。出てくる隕石や敵機もただ色のついた線描で、着陸する惑星にいたっては網掛けの円であった。
 でも、熱中した。パソコンを使っていいと父から許された、限られた時間いっぱい、弟と二人、パソコンの前に椅子を並べて、宇宙船を操作した。線描きの隕石が頭上をかすめるように飛んでいくと、二人して首を引っ込めたものである。今の超リアルなテレビゲームに比べると、面白くもなんともない原始的なゲームだけれど、その頃の私たちには、3次元的な画面が珍しく、とてもリアルに感じられた。暗闇の中で次々と後方に流れていく宇宙の星たちもきれいだった。
 四半世紀ほど前には、旅館のロビーや、大浴場の前のホールに、卓上型のインベーダーゲームみたいなものがよく置いてあった。
 弟が小さいとき、旅館のテレビゲームがどうしてもやりたくて、父にお願いし、ゲーム代の五十円玉をもらった。わくわくしながらエレベーターのゲームをスタートさせたが、ゲームになれていなかった弟は、すぐにゲームオーバーとなり、一生懸命お願いした五十円玉は、数秒で消えてしまった。無関心な父は、もういいのか、と弟に言った。幼い弟が味わった悔しさ、虚しさの程は、想像に難くない。
 その後十年ほど経って、弟はレトロなゲームばかりを集めた家庭用ゲーム機のソフトの中に、そのエレベーターゲームが入っていることを見つけ、再挑戦し、全面クリアしたらしい。
(トラックバック練習板)
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子猫誘拐未遂事件

 学生時代の、今よりもっと考えが浅はかだった頃の話である。
 自転車に乗ってゆるやかなカーブを曲がったところに、白黒ぶちの子猫が、ちょこんと座っていた。夏の終わりの、昼下がりの道の真ん中で、無防備にこちらを見つめている。ブレーキをかけて自転車を止めると、にゃあと立ち上がり、尻尾をぴんと震わせて、親しそうに寄って来た。手を伸ばすと、ごろごろ、すりすり、人懐っこい。
 しばらく遊んで、じゃあ行くねと自転車に乗ろうとすると、にゃあにゃあと訴えた。私についてこようとするかのようである。
 もしかして、捨て猫だろうか。捨てられて、助けを求めているのだろうか。周りは住宅街で、車通りは多くないが、カーブした道はときどきスピードを出した車が通る。このままにしておいたら、事故にあわないともわからない。私はそんなふうに、保護しなければならない納得のできる理由を考えた。人懐っこい子猫を家につれて帰りたかったことも大きかったし、しばらく前に、やせ細って危険な状態に陥っていたデビンちゃんを保護したばかりだったので、猫を救うという使命に燃えていたのだ。
 そのように子猫を連れて帰ったのだが、家の中に放すとなにやらそわそわ、帰りたそうなそぶりである。場所になれないからだろうとしばらく様子を見ていたが、にゃあにゃあと困ったように鳴く子猫を見ているうちに、本当に捨て猫だったのだろうかという疑問がむくむくとわいて来た。飼い猫ならば事である。
 それを確かめるため、子猫がもといた場所に、日が暮れる前に連れて行った。道に下ろすと、子猫は振り向きもせず小走りに、まっすぐそばの家に近づいて、裏口の戸をくぐって姿を消した。よく見ると、扉のところに、空になった猫缶が置いてあった。
 すぐに返したから、おそらく家の人は子猫がいなくなっていたことには気がついていないだろう。やれやれと胸をなでおろす。私の早とちりで、あやうく子猫誘拐事件を起こしてしまうところであった。
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節分の鰯

 節分に、鰯を買った。
 普段は下調理が面倒臭くて、よく切り身の魚を買うのだけれど、たまに鰯のような丸々一匹の魚を買ってくると、まな板の上のその姿が、金魚鉢の中でゆらゆら泳いでいる金魚のそれと重なって、少しばかり敬虔な気持ちになる。この鰯は私が食べる為に死んでしまったのだから、残さないように、大事に食べなければいけないなあ、と思う。
 クリスマスに、鶏一羽を丸々使ったローストチキンを食べたときも同じであった。魚にしても鶏にしても、普段パックに入って売っている切り身の状態では、生前の姿がわかりにくい。
 子供と一緒に教育テレビの人形劇を見ていたら、劇中の子供たちが、どうして食べる前にはいただきますと言わなければならないの、と問いかける場面があった。年配の登場人物がそれに答えて、調理してくれた人や、素材となる食べ物を作ってくれた人、さらには、食べ物となる植物や動物は生きているのだから、食べ物それ自体に対して、感謝の気持ちでいただきますと言うのだよと、子供たちに言い聞かせた。
 子供が見る教育番組として、なかなかいい話だと思った。
 給食費を払っているのに、なぜいただきますと言わなければならないのか、と言う保護者がいるという。そういう大人には、ぜひこの人形劇をみてもらいたい。
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初代猫タヌキの食生活

 鼻先に落とした食べ物を空中でキャッチするのが特技であった初代猫のタヌキは、嗜好も一風変わっていて、パンやうどんが好みであった。
 子猫だったタヌキがはじめて家の庭に姿を現したとき、まだ猫に関する知識が皆無といってよかった父が、パンでもあげてみようと言って、猫はパンなんか食べないという母の常識的な反対を無視して子猫にパンをあげてみたところ、むしゃむしゃと食べたので、母や私は驚いたのだった。
 タヌキの好みは洋風で、ほかにチーズが好きだったり、ボウルの中のクレープの材料を、フライパンを準備するわずかのあいだ背中を見せたその隙に、テーブルに上って舐めてしまったりしたが、ある時、歯磨き粉のついた歯ブラシにくんくん興味を示したので、匂ってみるかと鼻の前に差し出すと、いきなり、ぱくっと食いついた。
 あとになって、どこかの掲示板で、自分の猫の変わった好みについて語られていたのをたまたま見たのだけれど、歯磨き粉が好きだという猫もいた。
 西洋マタタビとも言われるキャットニップはミント系のハーブであるから、猫はミントが好きなのかもしれない。ちなみにこのキャットニップの和名はイヌハッカで、なぜ日本名では犬となるのか不思議である。
 歯磨き粉を食べてしまったタヌキは、そのあとしばらく、無表情で無口のまま、白いよだれを垂れていた。口の中がすうすう、はあはあしていたのだろう。
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わんにゃんとドライブ

 子供の頃に飼っていた犬は、車によく酔った。車に乗せると、息がはあはあと荒くなり、よだれがだらだら流れ出る。かわいそうなので、極力、車には乗せないようにするのだけれど、家族でレジャーに出かけるときなど、やむを得ない場合には、タオルをたくさん積み込んで、なるべく揺れないよう、誰かがしっかりと抱きかかえて行く。繊細な神経の犬だったから、車が動く前から、乗っただけでもう反射的に息が苦しくなっている。車で行くときにはいつも大変だったので、よその犬が、助手席の窓から涼しげな顔をしてドライブを楽しんでいるのを見ると、いつもうらやましく思った。
 もっとも、最初から車酔いする犬だったのではない。子犬の頃は、譲ってもらったブリーダーの人が慣らしていたためか、車が平気だった。車酔いをするようになった責任は、実は私たちにある。子犬が家に来て間もない頃、母に音楽教室へ車で送っていってもらうときに、うれしくて子犬も一緒に乗せていった。ところが、教室で私と弟が降りて行ったあとには、子犬を支える人間は誰もいない。母の運転で帰るまでのあいだ、かわいそうに、子犬は車内でこっちへふらふら、あっちへふらふらしていたらしい。それ以来の車嫌いなのである。
 これに対して猫たちはどうかというと、一度、車内でネロをケージから出したところ、ブレーキペダルの下にもぐりこんでしまい、乗っている者はみな怖い思いをした。それ以降、猫はケージから出さないことにしている。
 みゆちゃんが車を好きになってくれて、一緒にドライブできたらどんなにか楽しいかと思うけれど、ケージのまま座席に置くと、いつもより低い唸り声で「降ろせ~、降ろせ~」と鳴き続けるのが現状なので、夢のまた夢、といったところである。
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みゆちゃんのスーパーボール(壁紙用)

壁紙にしたいと言ってくださった方がいらっしゃったので、壁紙用に大きいサイズの絵をアップしました。

本文を読みたい方はコチラ
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いつかは「本物」の玉子焼きを

 文豪内田百の家にいた猫のノラが一番好きであったのが、握り寿司の玉子焼きであったという。これは、内田百の「ノラや」という随筆に述べられているのだが、うちの猫なんかを見ていると、玉子焼きよりも断然刺身のネタに飛びつきそうである。怪訝に思って読み進めていくと、鮨屋の玉子焼きは、普通に家で作るのと違って、河岸から仕入れてくる魚のエキスのような物の汁が入っているそうである。きっと、猫が舌鼓を打つような味なのだろう。まだ読んだことはないけれど、内田百は「御馳走帖」なんていう随筆まで書いているくらいだから、百が言ういつもの鮨屋というのは、それ相応の店なのだろう。
 この「ノラや」を読んで、そんなにおいしいものなのかと鮨屋で玉子焼きを食べてみたのだけれど、残念ながら私の「それ相応」は回る鮨屋であるから、たいしてうまいものとは思えなかった。いつかはノラが食べていた、お魚エキス入りの玉子焼きを食べてみたいものである。
(トラックバック練習板)
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眠れない熊たち

 動物園に行くと、年老いたツキノワグマが、ちょうどクマのからだがすっぽり入るくらいの、落ち葉が敷かれた丸いベッドで眠っていた。時々ふるえるようにしながらじっと眠っているので、いっしゅん冬眠なのかしらと思ったが、少し前に、上野動物園で国内では初めてとなるクマの冬眠が試みられているというニュースを聞いたから、この京都の動物園のクマはただ眠っているだけなのだろう。
 えさをとることが難しい冬の山でクマたちは冬眠するのだから、毎食きっちり与えられる動物園のクマは冬眠する必要がないにちがいない。
 だがこの冬は、野山に住むクマも眠れずにいるらしい。例年では真冬にクマの姿を見ることのない地域で、クマの目撃情報が相次いでいるという。専門家のあいだでは、暖冬のため冬でもえさが豊富にあるから冬眠する必要がないのだという意見と、反対にえさが不足していて冬眠できるだけの栄養を蓄えることができなかったのだという意見に分かれているらしい。
 理由はどうであれ、山の住み家をはなれて人の前に姿を現し捕獲されたクマは、その9割が殺処分されている。殺すという方法が一番低コストなのだろうけど、世の中には無駄金があふれている。動物たちの命を救うために使うお金がもう少しあったっていいと思う。


暖冬余波?冬眠できず親と離れ…民家の床下に子グマ(読売新聞) - goo ニュース
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