雀庵の「常在戦場/12 習近平排除という秘策もある」
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/299(2021/5/11/火】地元の「べーべー言葉」で言うとこうなる。
方言って色々あるけどよー、「べーべー言葉」って結構きったねーよなあ、おめえもそー思うべー? 全然、品がねーじゃん、ダサって感じで、ちっともオシャレじゃねーよ、やっぱよー、きれーじゃねーとモテねーぜ。おれよー、神戸弁っていいなあって思うけど、今度、カネができたらよー、神戸行くべーよー。
これ、50年ほど前に母が同郷のオバサンと話している「べーべー(よーよー)言葉」を真似たものだが、最初に聞いた時には「俺もよー、いっつもお上品ぶってるカーチャンがよー、きったねー言葉でうれしそーにぐっちゃべってるのきーてびっくりしただよ」。男女共通、女性も「おれ」と言う。今はほとんど消えてしまったようだ。
方言とかお国言葉は西日本では元気に残っているが、明治維新は江戸幕藩体制とは逆に西日本勢力による東日本制覇でもある、と見れば「方言は西高東低」が自然なのだろう。
今の産経の連載小説は高殿円氏の「コスメの王様」で、神戸随一の花街「花隈町」が舞台とか。小生が大好きな「神戸弁」がいっぱい出てきて、「なんて美しい言葉なんだろう」と毎回感動している。高殿氏と同じく神戸生まれの神戸育ちの友達以上、恋人未満の奥様と恋愛ごっこをしたことがある。
「修一はん、何しとぉ? こっちきーへん? 一緒にお茶しよ・・・あー、そないなこと、あかんね、うちは人妻や・・・ほんまに修一はん、イチビやなあ」。言葉を聞いているだけでポワーン。ネットで調べたらなーんだ、みんな神戸弁が大好きだ!
<大阪や京都といったいわゆる関西弁に近いイントネーションですが、大阪ほどきつい言葉ではなく、また京都よりも親しみやすいのが、神戸の方言(神戸弁)の特徴です。
女性らしく上品で、甘えるような口調にも聞こえるため、男性にもとっても人気が高い方言です。
男性によっては神戸弁で話しかけられるとキュンとしてしまう人も多いくらいです。
合コンなどで(私が)神戸出身と聞くと、お願い、神戸弁で話してみて!なんて言われることもしばしばです。女性からもかわいいと思われることが多く、ひそかに神戸弁をうらやましいと思っている方も多いほど、人気の方言です。
また、神戸弁を関西弁とひとくくりにしてほしくない!思っている人が多く、プライドを持っています。東京に来ても神戸弁を話している人が多いのも特徴です。
神戸弁として特徴的なのは、語尾を「とぉー?」と伸ばす話し方です。大阪弁で言う「なにしとんねん」は、「なにしとん?」もしくは「なにしとぉー?」となり、とっても優しい表現です>(noel編集部:神戸の方言(神戸弁)の特徴・種類)
大阪弁の「なにしとんねん」だと何だか怒られているみたいだし、京都弁の「何してはりますの」では言い訳しないといけないような圧迫感を覚えるね。神戸弁の「何しとぉー?」なら「当ててごらん・・・こっちおいで、可愛いなあ」・・・ドラマになるね。事件になったりして・・・
神戸弁と言えば、谷崎の「細雪」の言葉は高級住宅街の芦屋と老舗の船場が舞台になっている。住まいは芦屋(兵庫県)、職場は船場(大阪府)、東京で言うなら住まいは田園調布、職場は銀座・丸の内。新興の芦屋と伝統の船場は同一圏内として文化・言葉が融合しているようだ。
<「細雪」は阪神間モダニズム時代の生活文化を描いた作品としても知られ、全編の会話が船場言葉で書かれている。上流の大阪人の生活を描き絢爛でありながら、それゆえに第二次世界大戦前の崩壊寸前の滅びの美を内包し、挽歌的な切なさをも醸し出している。作品の主な舞台は職住分離が進んだため住居と職場のある阪神間である>(WIKI)
「修一はん、サンチカ知っとぉー? 三宮の地下街や、今度神戸に来たら案内するからね、きっとよ」・・・果たせぬ夢、夢のままで置いておくからいいんだろうなあ、30年振りに会ったところでいい思い出が消えるだけのよう。
「とっていいのは写真だけ、残していいのは足跡だけ」、遠足はそれでいいが、人生という旅では違うね。未練たらたらで写真や日記なんぞを「とっておく」と成仏したはずなのに恨まれたりするから、ヂヂババは寝たきりになる前にちゃんと処分をしておくべきだ。後進のために残すべきものは残すが、怪しいものは消す、という取捨選択は大事である。小生は証拠隠滅完了!
今日は隣町の通称、登戸(のぼりと)研究所、「第9陸軍技術研究所」を訪ねようと思っていたが、コロナ禍で見学不可。小学4年(1961年頃)あたりに車窓から初めて登戸研究所を見たが、草ぼうぼうで不気味な廃墟みたいだった。長じて台湾征討や日清戦争の記録を読むと、疫病や毒薬・毒ガス攻撃など、生物・細菌兵器や化学兵器、いわゆるBC兵器に対する防疫、防毒が課題となり、そのために研究所が創られたのだろうと推察はしていた。
常在戦場の気概、警戒を忘れたからバイオ兵器「武漢ウイルス」にしてやられたのではないか。チャイナコロリを制圧した台湾は立派だった。
登戸研究所は現在、明治大学生田キャンパスに移築されているが、敗戦間際に資料の殆どが処分されたこともあって研究の詳細は不明のようだ。明大サイトには「戦争には必ず付随する秘密戦(防諜・諜報・謀略・宣伝)という側面を担っていた研究所であり、その活動は戦争の裏面を示しているといえます。登戸研究所の研究内容やそこで開発された兵器・資材などは、時には人道上あるいは国際法規上、大きな問題を有するものも含まれています」とある。
風船爆弾、細菌兵器、偽札製造なども研究されたようだが、詳細は分かっていない。最盛時に職員は千人いたというが、実際に自分が関わった研究内容は知っていても、機密漏洩はしないというのがルールであろうし、また研究は多岐にわたるため職員、たとえトップでも全体を詳細に知ることはあり得ないから、実態は不明のままかもしれない。
ドキュメンタリー映画「陸軍登戸研究所」のサイトにはこうある。
<戦前、極秘に進められていた防諜、謀略、秘密兵器の開発の拠点だった陸軍登戸研究所は、敗戦を迎え「証拠湮滅」の命令が下されて歴史から消えました。しかし今日、当時の関係者が、そこで何が行われ作られていたかをようやく語り始め、殺人光線、生体実験への道、毒物・爆薬の研究、風船爆弾、生物・化学兵器、ニセ札製造と多岐にわたる研究の実態が明らかになりました。その成果は、陸軍中野学校を通じて果たされたものも多くありました。
それぞれに携わった研究員、作業員、風船爆弾の製造の一翼を担わされた当時の女学生たち、陸軍中野学校OB、その他今聞いておかなければ抹消されてしまう歴史を、勇気ある証言者たちがカメラの前に立ち、語った映像を6年以上の歳月をかけて追い続けた渾身のドキュメンタリーがこの「陸軍登戸研究所」です>
戦争はルールや審判、贔屓チームを応援する観客がいるスポーツではなく、勝者が正義であり、ルールであり、審判者だから、敗者はただただ刑罰、報復を受けるだけしかない。もし日本が勝っていれば、米国は無差別大量虐殺をした残虐極まるトンデモ国家として指導者は死刑になっていたろう。「勝った方が正義、負けた方が悪」、これは戦争の常識。勝者が歴史を創るのだ。
まともな学者は焚書坑儒、清貧にめげずに歴史をほじくり返して真実を探す。勝者=カネに阿る下司は学術会議に巣食う。錬金術会議!
そういう初歩的な良識、常識とか基礎的な知性、智慧がないと失敗を繰り返す。交差点では信号が青でも用心するのが大人の智慧だ。小生は同じ詐欺師に2度騙されて、ようやく「この世にはとんでもない奴がいる」と知った。だから、1回目は強面の米国GHQ占領軍に騙され、2回目は歴史に残るアジテーターの中共毛沢東に騙されたのは仕方がない、そこまでは「無知の涙」として天は許すだろう。
でも女房子供にまで愛想つかされ、毛沢東もせなんだった自画自賛のテーマパークまで造っている誇大妄想狂、自己肥大、ほとんどビョーキの習近平に騙される――これはいくら寛容な天でもお許しにはなるまい。インモラルである。
大清帝国は少数民族の満洲族が建国した。支那の人々は4000年の興亡の中で「当てにならない国家には依存しない、我が身は我が身で守る」という処世訓が身についている。今は「上に政策あれば下に対策あり」、実にしたたか。中共が崩壊しようが、自分たちの暮らし、価値観、多分「綺麗なべべ着て、旨いものを食って、面白おかしく暮らす」が最低限保証され、混乱を収めてくれるのなら、統治者はどんな人物、民族でも構わないのだろう。「誰が支配者になろうと数年数十年で支那流の価値観に変身させられる」という自信とノウハウがあるからに違いない。
中共による海外ハイレベル人材招致計画「千人計画」。好待遇に引かれて移住する理系技術者は多いようだ。理系脳は心も目も澄んでいそうで、文系脳と違って人間の恐ろしさ、怪しさ、汚さへの警戒心が足りないのではないか。世事に疎い印象がある。
自分の技能が高く売れるのなら、買ってくれる人の期待に応える・・・・非常に合理的な判断であり、カネを見てヒトを問わない。文系はヒトを見てカネを問わない、兄弟仁義の世界。
♪親の血をひく兄弟よりも かたいちぎりの義兄弟 こんな小さな盃だけど 男いのちをかけて飲む
作詞した星野哲郎は遠洋漁業の船乗り出身。板子一枚下は地獄、そこは戦場、命懸けの世界だ。星野を導いた石本美由起は海軍出身の作詞家、一流に育てたのは音大出の作曲家、船村徹。文系は人間を研究する。文系が天下国家を見て方向性を打ち出せば理系は上手く実行してくれるようだ。
中共のトップが知的にすこぶる怪しい習近平のままなら中共は世界の大きな不安要因になる。引退=急性期閉鎖病棟に保護入院(強制的な隔離)させて、新たな象徴的国家主席を据えるという手もあるだろう。習近平を上回る国民的人気者・・・小生は習の彭麗媛夫人しか思いつかない。
明治の国家モデルはドイツ帝国だ。優れたビスマルク宰相と人気抜群のヴィルヘルム1世国王のコラボによるドイツ帝国の建国は明治の指導者大久保利通らを大いに鼓舞した。狡猾なビスマルクがヴィルヘルム1世を担いだから上手くいったのである。バイデン翁を担いだ怪しい米民主党は失敗するだろうが・・・
WIKIによると軍籍の歌手である人気者の彭麗媛の父親は文革時に「反革命」と批判されていた。彼女の曲の一つ「在希望的田野上」(希望の野原で)は、文革でイデオロギー一色になっていた歌が、トウ小兵の改革開放で庶民の楽しみに戻りつつあった時代(1981年~)に大ヒットした。文革による荒廃から繁栄に向かうことへの人々の強い期待が、歌詞と重なり合った。
(ネットで視聴したら50年前の1931/昭和6年12月の藤山一郎の大ヒット曲「丘を越えて」に似ている。明るい明日を信じている、という感じ。「丘を越えて」の作詞は島田芳文、作曲は古賀政男で「明治大学マンドリン倶楽部の合奏曲として作曲したもの。桜の名所として知られた川崎市多摩区の多摩川河川敷と多摩丘陵の自然風景に着想を得た」(WIKI)。なんと、小生のシマだ! この年9月18日は 柳条湖事件/満洲事変勃発)
文革再来を目指す習近平、文革を悪夢とする彭麗媛。彭麗媛主席のもとで実務に当たるのは李克強首相、あるいは汪洋・党中央政治局常務委員(序列は7人中4位)あたりか。汪洋は李克強の共青団派とも江沢民派とも近しいようで、経済運営に長けているとか。
そう言えば清朝末期、独裁者・西太后は宮中クーデターで光緒帝を幽閉・追放、ついには清朝を崩壊させてしまったが、西太后の愚かさと残忍さ、狂気は習近平と似ている。上手く習近平排除ができれば世界も中共もずいぶん穏やかになるのではないか。彭麗媛同志、加油!
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
メルマガID 0001690154「必殺クロスカウンター」
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/299(2021/5/11/火】地元の「べーべー言葉」で言うとこうなる。
方言って色々あるけどよー、「べーべー言葉」って結構きったねーよなあ、おめえもそー思うべー? 全然、品がねーじゃん、ダサって感じで、ちっともオシャレじゃねーよ、やっぱよー、きれーじゃねーとモテねーぜ。おれよー、神戸弁っていいなあって思うけど、今度、カネができたらよー、神戸行くべーよー。
これ、50年ほど前に母が同郷のオバサンと話している「べーべー(よーよー)言葉」を真似たものだが、最初に聞いた時には「俺もよー、いっつもお上品ぶってるカーチャンがよー、きったねー言葉でうれしそーにぐっちゃべってるのきーてびっくりしただよ」。男女共通、女性も「おれ」と言う。今はほとんど消えてしまったようだ。
方言とかお国言葉は西日本では元気に残っているが、明治維新は江戸幕藩体制とは逆に西日本勢力による東日本制覇でもある、と見れば「方言は西高東低」が自然なのだろう。
今の産経の連載小説は高殿円氏の「コスメの王様」で、神戸随一の花街「花隈町」が舞台とか。小生が大好きな「神戸弁」がいっぱい出てきて、「なんて美しい言葉なんだろう」と毎回感動している。高殿氏と同じく神戸生まれの神戸育ちの友達以上、恋人未満の奥様と恋愛ごっこをしたことがある。
「修一はん、何しとぉ? こっちきーへん? 一緒にお茶しよ・・・あー、そないなこと、あかんね、うちは人妻や・・・ほんまに修一はん、イチビやなあ」。言葉を聞いているだけでポワーン。ネットで調べたらなーんだ、みんな神戸弁が大好きだ!
<大阪や京都といったいわゆる関西弁に近いイントネーションですが、大阪ほどきつい言葉ではなく、また京都よりも親しみやすいのが、神戸の方言(神戸弁)の特徴です。
女性らしく上品で、甘えるような口調にも聞こえるため、男性にもとっても人気が高い方言です。
男性によっては神戸弁で話しかけられるとキュンとしてしまう人も多いくらいです。
合コンなどで(私が)神戸出身と聞くと、お願い、神戸弁で話してみて!なんて言われることもしばしばです。女性からもかわいいと思われることが多く、ひそかに神戸弁をうらやましいと思っている方も多いほど、人気の方言です。
また、神戸弁を関西弁とひとくくりにしてほしくない!思っている人が多く、プライドを持っています。東京に来ても神戸弁を話している人が多いのも特徴です。
神戸弁として特徴的なのは、語尾を「とぉー?」と伸ばす話し方です。大阪弁で言う「なにしとんねん」は、「なにしとん?」もしくは「なにしとぉー?」となり、とっても優しい表現です>(noel編集部:神戸の方言(神戸弁)の特徴・種類)
大阪弁の「なにしとんねん」だと何だか怒られているみたいだし、京都弁の「何してはりますの」では言い訳しないといけないような圧迫感を覚えるね。神戸弁の「何しとぉー?」なら「当ててごらん・・・こっちおいで、可愛いなあ」・・・ドラマになるね。事件になったりして・・・
神戸弁と言えば、谷崎の「細雪」の言葉は高級住宅街の芦屋と老舗の船場が舞台になっている。住まいは芦屋(兵庫県)、職場は船場(大阪府)、東京で言うなら住まいは田園調布、職場は銀座・丸の内。新興の芦屋と伝統の船場は同一圏内として文化・言葉が融合しているようだ。
<「細雪」は阪神間モダニズム時代の生活文化を描いた作品としても知られ、全編の会話が船場言葉で書かれている。上流の大阪人の生活を描き絢爛でありながら、それゆえに第二次世界大戦前の崩壊寸前の滅びの美を内包し、挽歌的な切なさをも醸し出している。作品の主な舞台は職住分離が進んだため住居と職場のある阪神間である>(WIKI)
「修一はん、サンチカ知っとぉー? 三宮の地下街や、今度神戸に来たら案内するからね、きっとよ」・・・果たせぬ夢、夢のままで置いておくからいいんだろうなあ、30年振りに会ったところでいい思い出が消えるだけのよう。
「とっていいのは写真だけ、残していいのは足跡だけ」、遠足はそれでいいが、人生という旅では違うね。未練たらたらで写真や日記なんぞを「とっておく」と成仏したはずなのに恨まれたりするから、ヂヂババは寝たきりになる前にちゃんと処分をしておくべきだ。後進のために残すべきものは残すが、怪しいものは消す、という取捨選択は大事である。小生は証拠隠滅完了!
今日は隣町の通称、登戸(のぼりと)研究所、「第9陸軍技術研究所」を訪ねようと思っていたが、コロナ禍で見学不可。小学4年(1961年頃)あたりに車窓から初めて登戸研究所を見たが、草ぼうぼうで不気味な廃墟みたいだった。長じて台湾征討や日清戦争の記録を読むと、疫病や毒薬・毒ガス攻撃など、生物・細菌兵器や化学兵器、いわゆるBC兵器に対する防疫、防毒が課題となり、そのために研究所が創られたのだろうと推察はしていた。
常在戦場の気概、警戒を忘れたからバイオ兵器「武漢ウイルス」にしてやられたのではないか。チャイナコロリを制圧した台湾は立派だった。
登戸研究所は現在、明治大学生田キャンパスに移築されているが、敗戦間際に資料の殆どが処分されたこともあって研究の詳細は不明のようだ。明大サイトには「戦争には必ず付随する秘密戦(防諜・諜報・謀略・宣伝)という側面を担っていた研究所であり、その活動は戦争の裏面を示しているといえます。登戸研究所の研究内容やそこで開発された兵器・資材などは、時には人道上あるいは国際法規上、大きな問題を有するものも含まれています」とある。
風船爆弾、細菌兵器、偽札製造なども研究されたようだが、詳細は分かっていない。最盛時に職員は千人いたというが、実際に自分が関わった研究内容は知っていても、機密漏洩はしないというのがルールであろうし、また研究は多岐にわたるため職員、たとえトップでも全体を詳細に知ることはあり得ないから、実態は不明のままかもしれない。
ドキュメンタリー映画「陸軍登戸研究所」のサイトにはこうある。
<戦前、極秘に進められていた防諜、謀略、秘密兵器の開発の拠点だった陸軍登戸研究所は、敗戦を迎え「証拠湮滅」の命令が下されて歴史から消えました。しかし今日、当時の関係者が、そこで何が行われ作られていたかをようやく語り始め、殺人光線、生体実験への道、毒物・爆薬の研究、風船爆弾、生物・化学兵器、ニセ札製造と多岐にわたる研究の実態が明らかになりました。その成果は、陸軍中野学校を通じて果たされたものも多くありました。
それぞれに携わった研究員、作業員、風船爆弾の製造の一翼を担わされた当時の女学生たち、陸軍中野学校OB、その他今聞いておかなければ抹消されてしまう歴史を、勇気ある証言者たちがカメラの前に立ち、語った映像を6年以上の歳月をかけて追い続けた渾身のドキュメンタリーがこの「陸軍登戸研究所」です>
戦争はルールや審判、贔屓チームを応援する観客がいるスポーツではなく、勝者が正義であり、ルールであり、審判者だから、敗者はただただ刑罰、報復を受けるだけしかない。もし日本が勝っていれば、米国は無差別大量虐殺をした残虐極まるトンデモ国家として指導者は死刑になっていたろう。「勝った方が正義、負けた方が悪」、これは戦争の常識。勝者が歴史を創るのだ。
まともな学者は焚書坑儒、清貧にめげずに歴史をほじくり返して真実を探す。勝者=カネに阿る下司は学術会議に巣食う。錬金術会議!
そういう初歩的な良識、常識とか基礎的な知性、智慧がないと失敗を繰り返す。交差点では信号が青でも用心するのが大人の智慧だ。小生は同じ詐欺師に2度騙されて、ようやく「この世にはとんでもない奴がいる」と知った。だから、1回目は強面の米国GHQ占領軍に騙され、2回目は歴史に残るアジテーターの中共毛沢東に騙されたのは仕方がない、そこまでは「無知の涙」として天は許すだろう。
でも女房子供にまで愛想つかされ、毛沢東もせなんだった自画自賛のテーマパークまで造っている誇大妄想狂、自己肥大、ほとんどビョーキの習近平に騙される――これはいくら寛容な天でもお許しにはなるまい。インモラルである。
大清帝国は少数民族の満洲族が建国した。支那の人々は4000年の興亡の中で「当てにならない国家には依存しない、我が身は我が身で守る」という処世訓が身についている。今は「上に政策あれば下に対策あり」、実にしたたか。中共が崩壊しようが、自分たちの暮らし、価値観、多分「綺麗なべべ着て、旨いものを食って、面白おかしく暮らす」が最低限保証され、混乱を収めてくれるのなら、統治者はどんな人物、民族でも構わないのだろう。「誰が支配者になろうと数年数十年で支那流の価値観に変身させられる」という自信とノウハウがあるからに違いない。
中共による海外ハイレベル人材招致計画「千人計画」。好待遇に引かれて移住する理系技術者は多いようだ。理系脳は心も目も澄んでいそうで、文系脳と違って人間の恐ろしさ、怪しさ、汚さへの警戒心が足りないのではないか。世事に疎い印象がある。
自分の技能が高く売れるのなら、買ってくれる人の期待に応える・・・・非常に合理的な判断であり、カネを見てヒトを問わない。文系はヒトを見てカネを問わない、兄弟仁義の世界。
♪親の血をひく兄弟よりも かたいちぎりの義兄弟 こんな小さな盃だけど 男いのちをかけて飲む
作詞した星野哲郎は遠洋漁業の船乗り出身。板子一枚下は地獄、そこは戦場、命懸けの世界だ。星野を導いた石本美由起は海軍出身の作詞家、一流に育てたのは音大出の作曲家、船村徹。文系は人間を研究する。文系が天下国家を見て方向性を打ち出せば理系は上手く実行してくれるようだ。
中共のトップが知的にすこぶる怪しい習近平のままなら中共は世界の大きな不安要因になる。引退=急性期閉鎖病棟に保護入院(強制的な隔離)させて、新たな象徴的国家主席を据えるという手もあるだろう。習近平を上回る国民的人気者・・・小生は習の彭麗媛夫人しか思いつかない。
明治の国家モデルはドイツ帝国だ。優れたビスマルク宰相と人気抜群のヴィルヘルム1世国王のコラボによるドイツ帝国の建国は明治の指導者大久保利通らを大いに鼓舞した。狡猾なビスマルクがヴィルヘルム1世を担いだから上手くいったのである。バイデン翁を担いだ怪しい米民主党は失敗するだろうが・・・
WIKIによると軍籍の歌手である人気者の彭麗媛の父親は文革時に「反革命」と批判されていた。彼女の曲の一つ「在希望的田野上」(希望の野原で)は、文革でイデオロギー一色になっていた歌が、トウ小兵の改革開放で庶民の楽しみに戻りつつあった時代(1981年~)に大ヒットした。文革による荒廃から繁栄に向かうことへの人々の強い期待が、歌詞と重なり合った。
(ネットで視聴したら50年前の1931/昭和6年12月の藤山一郎の大ヒット曲「丘を越えて」に似ている。明るい明日を信じている、という感じ。「丘を越えて」の作詞は島田芳文、作曲は古賀政男で「明治大学マンドリン倶楽部の合奏曲として作曲したもの。桜の名所として知られた川崎市多摩区の多摩川河川敷と多摩丘陵の自然風景に着想を得た」(WIKI)。なんと、小生のシマだ! この年9月18日は 柳条湖事件/満洲事変勃発)
文革再来を目指す習近平、文革を悪夢とする彭麗媛。彭麗媛主席のもとで実務に当たるのは李克強首相、あるいは汪洋・党中央政治局常務委員(序列は7人中4位)あたりか。汪洋は李克強の共青団派とも江沢民派とも近しいようで、経済運営に長けているとか。
そう言えば清朝末期、独裁者・西太后は宮中クーデターで光緒帝を幽閉・追放、ついには清朝を崩壊させてしまったが、西太后の愚かさと残忍さ、狂気は習近平と似ている。上手く習近平排除ができれば世界も中共もずいぶん穏やかになるのではないか。彭麗媛同志、加油!
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
メルマガID 0001690154「必殺クロスカウンター」