雀庵の「常在戦場/49 満洲へのモンゴル人の想い」
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/334(2021/7/10/土】お盆の施餓鬼法要で使う塔婆を申し込んでからチャリ散歩、汗だくで帰ったら室温36度、今夏初めてクーラーを使った。
我が街は1960頃まで平屋ばかり、64年頃から2階建てが増え、やがて3階建てが普通になり、今や6階建て、10階建て・・・20階建てのマンションがあちこちに増殖した。風通しが悪いから夏場は年々暑くなっているようだ。息苦しい感じで、時々引っ越したいなあと思うけれど、静かで温暖で自然がいっぱいあり、そこそこ便利なところなんてありゃしない。
スーパーも病院も区役所もすぐそばにあり、緑にも恵まれている。しかも新宿、渋谷、横浜30分、新橋、銀座50分・・・「生き苦しい」と言っても今さら田舎暮らしなんてできない、訪ねてくるのは猿、鹿、熊・・・寂しいだろうなあ。物心ついた時からこの街で暮らしてきたのだから「されどわが故郷、わが祖国」、故国を後にせざるを得ない人から見ればとても幸せなことだ。
ヘディン著「シルクロード」の冒頭は1933年の東トルキスタン共和国独立運動の模様描いている。少数民族にとって日本は漢族支配からの解放軍として期待されている面もあったようだ。
<クリスマスイブはサンフランシスコの沖合! 1933年の元旦はホノルル! それから太平洋に出たが、これがその名に背く荒れようで、船は嵐と波に揉まれる羽目となった。
1月19日、天津に上陸し、北京へ直行した。海の荒れようもさることながら、北京も平穏な町とは言えそうもなかった。在外公館地区の前では日本兵が、既にこの由緒ある神聖な古都の支配者だと言わんばかりに、機関銃を手にして演習をしていた。
日本軍は3月4日には有名な寺院の町、熱河もその手中に帰した。次の目標は北京と北部中国5省だろうというのが大方の見方であった。
蜂起の火の手が新疆全域に上り、中国支配に歯向かう反乱は燎原の火の如く広がっていた。新疆省政府主席、金樹仁は南京(蔣介石・国民政府)に宛てて「東トルキスタンが叛旗を翻した。本官は甘粛の東干人(ドゥンガン、イスラム教徒)の勢力家に馬仲英討伐の兵を出すことを要請した」と電報を打った。
馬仲英は「大馬」の異名を持ち、その頃は手勢を率いて粛州にいた。南京政府から返ってきた返事は「貴官は反乱を鎮圧し支配下の者を制圧する代わりに内乱を扇動している」という𠮟責であった。金樹仁は(内乱が迫り)シベリアを経て南京に逃亡したものの、刑を受けて獄に繋がれた。
その頃、北京では「大馬」は新疆の制圧に成功するだろうというのが一般の見方であった。ウルムチが陥落したという噂さえ流れていた>
外国軍、軍閥、反乱軍、山賊が跋扈し、南京政府も統治が行き届かないという、まるで戦国・戦乱時代。ヘディンが支那大陸に上陸した1933年は日本軍が中国軍を制圧していた時期のようである。「世界史の窓」から。
<1931年、日本の関東軍が柳条湖事件を契機に中国軍との戦闘に突入、満州を占領した。翌年、満州国を建国。十五年戦争の始まりとなり、1937年には全面的な日中戦争に突入した。
1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道が爆破された。日本の関東軍は、それを中国国民軍に属する張学良軍の犯行であると断定し、鉄道防衛の目的と称して反撃し、軍事行動を拡大した。この柳条湖事件から開始された、宣戦布告なしの日中両軍の軍事衝突を「満州事変」といった。
この年には6月に中村大尉事件(関東軍の中村震太郎大尉が満州を調査旅行中、現地人に殺害された)や7月に万宝山事件(長春郊外で朝鮮人入植者と中国人が水利権を巡って争い衝突、日本軍が介入した)など緊迫した状況が続いていた。
9月18日に始まった関東軍の攻撃に対し中国国民党の東北軍(張学良指揮)はほとんど抵抗せず、関東軍は一気に満州全域を占領した。これは蔣介石が、当時は抗日よりも、共産党との内戦に力を入れていたためであった、云々>
破竹の勢いの日本軍を支那の民はどう思っていたか。支那人は伝統的に兵士を強盗、ゴロツキと軽蔑、かつ恐れていたが、古来から軍、兵士は民から食糧などを調達する際にカネを払わずに強奪したからだ。台湾征討や日清戦争以来、律儀にカネを払い、乱暴狼藉をしない、規律ある日本軍は、ゴロツキ蔣介石軍や山賊のような赤匪=共産党軍より遥かに「マシ」だったろう。
特に支那の圧政に苦しめられた少数民族は満州国の「五族協和」(日・韓・満・蒙・漢)の建国理念に期待した面もあるようだ。モンゴル出身の楊海英著「中国人の少数民族根絶計画」から。
<アメリカの人類学者オーウェン・ラティモアが「満洲における蒙古民族」の中で「日本とモンゴルの民族主義者は相思相愛だった」と指摘しています。日本は満蒙地域に足場を作ってロシアの南進を食い止めたい、モンゴルもロシアと中国の浸食を排除したいという利害が一致していた。
満洲国は日本とモンゴル人、満洲人の合作と言っても過言ではありません。日本人とその他の民族の間に確執がなかったわけではありませんが、少なくともモンゴル人にとっては現在の中国による過酷な支配に比較して相対的に不満は少なかった、ある程度の満足を得られたと言えます。
一つにはモンゴル人の伝統的な遊牧生活が維持できた。日本は(統治にあたって)専門家による調査を実施し、「モンゴル人の生活様式を尊重する」と決め、モンゴル人が遊牧生活を送る草原には中国人が入植しないよう法制化し、すみわけを徹底させました。既に入植していた中国人農民が、草原としてしか利用に適さない瘦せ地を開墾して沙漠化を招き、モンゴル人とトラブルを起こす事例が多かったからです。
また、モンゴル人が自治を認められた満洲国北西部の興安四省ではモンゴル人によって編成された興安軍がありました。独自の軍隊を持っていれば自分たちの権益を守ることができます。これらの政策が導入されたことで、興安地域は准国家体制を整えていたのです。つまりモンゴル人の民族自決への欲求が、ある程度満たされていたわけです。(つづく)>
欧米や支那の植民地主義と日本のそれは根本的に違う。欧米や支那のやり方は先住民族を圧迫して収奪するという「強盗収奪植民地主義」、日本式は先住民族とともにその地を豊かにしようという「共生発展植民地主義」で、月とすっぽんほどの違いがある。強制労働収容所と職業訓練学校・・・全然違う。
日本が敗戦で満洲から引き上げると、蒋介石は満洲を視察し、そこに世界最先端の工業国家を見て「俺たちは一体何をしていたのだろう」とガックリしたという(「張家三代の興亡」)。収奪されて荒廃したどころか、豊かな豊穣楽土が広がっていたのだ。
戦後に蒋介石が日本に「以徳報怨」(徳を以て怨みに報ゆ)と言ったのには、反日は間違いであり、日中の共通の敵は毛沢東・共産主義であったこと、日本とは仲良くやっていきたいという、まあ打算的ながらも反省があったのかもしれない。
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
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【Anne G. of Red Gables/334(2021/7/10/土】お盆の施餓鬼法要で使う塔婆を申し込んでからチャリ散歩、汗だくで帰ったら室温36度、今夏初めてクーラーを使った。
我が街は1960頃まで平屋ばかり、64年頃から2階建てが増え、やがて3階建てが普通になり、今や6階建て、10階建て・・・20階建てのマンションがあちこちに増殖した。風通しが悪いから夏場は年々暑くなっているようだ。息苦しい感じで、時々引っ越したいなあと思うけれど、静かで温暖で自然がいっぱいあり、そこそこ便利なところなんてありゃしない。
スーパーも病院も区役所もすぐそばにあり、緑にも恵まれている。しかも新宿、渋谷、横浜30分、新橋、銀座50分・・・「生き苦しい」と言っても今さら田舎暮らしなんてできない、訪ねてくるのは猿、鹿、熊・・・寂しいだろうなあ。物心ついた時からこの街で暮らしてきたのだから「されどわが故郷、わが祖国」、故国を後にせざるを得ない人から見ればとても幸せなことだ。
ヘディン著「シルクロード」の冒頭は1933年の東トルキスタン共和国独立運動の模様描いている。少数民族にとって日本は漢族支配からの解放軍として期待されている面もあったようだ。
<クリスマスイブはサンフランシスコの沖合! 1933年の元旦はホノルル! それから太平洋に出たが、これがその名に背く荒れようで、船は嵐と波に揉まれる羽目となった。
1月19日、天津に上陸し、北京へ直行した。海の荒れようもさることながら、北京も平穏な町とは言えそうもなかった。在外公館地区の前では日本兵が、既にこの由緒ある神聖な古都の支配者だと言わんばかりに、機関銃を手にして演習をしていた。
日本軍は3月4日には有名な寺院の町、熱河もその手中に帰した。次の目標は北京と北部中国5省だろうというのが大方の見方であった。
蜂起の火の手が新疆全域に上り、中国支配に歯向かう反乱は燎原の火の如く広がっていた。新疆省政府主席、金樹仁は南京(蔣介石・国民政府)に宛てて「東トルキスタンが叛旗を翻した。本官は甘粛の東干人(ドゥンガン、イスラム教徒)の勢力家に馬仲英討伐の兵を出すことを要請した」と電報を打った。
馬仲英は「大馬」の異名を持ち、その頃は手勢を率いて粛州にいた。南京政府から返ってきた返事は「貴官は反乱を鎮圧し支配下の者を制圧する代わりに内乱を扇動している」という𠮟責であった。金樹仁は(内乱が迫り)シベリアを経て南京に逃亡したものの、刑を受けて獄に繋がれた。
その頃、北京では「大馬」は新疆の制圧に成功するだろうというのが一般の見方であった。ウルムチが陥落したという噂さえ流れていた>
外国軍、軍閥、反乱軍、山賊が跋扈し、南京政府も統治が行き届かないという、まるで戦国・戦乱時代。ヘディンが支那大陸に上陸した1933年は日本軍が中国軍を制圧していた時期のようである。「世界史の窓」から。
<1931年、日本の関東軍が柳条湖事件を契機に中国軍との戦闘に突入、満州を占領した。翌年、満州国を建国。十五年戦争の始まりとなり、1937年には全面的な日中戦争に突入した。
1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道が爆破された。日本の関東軍は、それを中国国民軍に属する張学良軍の犯行であると断定し、鉄道防衛の目的と称して反撃し、軍事行動を拡大した。この柳条湖事件から開始された、宣戦布告なしの日中両軍の軍事衝突を「満州事変」といった。
この年には6月に中村大尉事件(関東軍の中村震太郎大尉が満州を調査旅行中、現地人に殺害された)や7月に万宝山事件(長春郊外で朝鮮人入植者と中国人が水利権を巡って争い衝突、日本軍が介入した)など緊迫した状況が続いていた。
9月18日に始まった関東軍の攻撃に対し中国国民党の東北軍(張学良指揮)はほとんど抵抗せず、関東軍は一気に満州全域を占領した。これは蔣介石が、当時は抗日よりも、共産党との内戦に力を入れていたためであった、云々>
破竹の勢いの日本軍を支那の民はどう思っていたか。支那人は伝統的に兵士を強盗、ゴロツキと軽蔑、かつ恐れていたが、古来から軍、兵士は民から食糧などを調達する際にカネを払わずに強奪したからだ。台湾征討や日清戦争以来、律儀にカネを払い、乱暴狼藉をしない、規律ある日本軍は、ゴロツキ蔣介石軍や山賊のような赤匪=共産党軍より遥かに「マシ」だったろう。
特に支那の圧政に苦しめられた少数民族は満州国の「五族協和」(日・韓・満・蒙・漢)の建国理念に期待した面もあるようだ。モンゴル出身の楊海英著「中国人の少数民族根絶計画」から。
<アメリカの人類学者オーウェン・ラティモアが「満洲における蒙古民族」の中で「日本とモンゴルの民族主義者は相思相愛だった」と指摘しています。日本は満蒙地域に足場を作ってロシアの南進を食い止めたい、モンゴルもロシアと中国の浸食を排除したいという利害が一致していた。
満洲国は日本とモンゴル人、満洲人の合作と言っても過言ではありません。日本人とその他の民族の間に確執がなかったわけではありませんが、少なくともモンゴル人にとっては現在の中国による過酷な支配に比較して相対的に不満は少なかった、ある程度の満足を得られたと言えます。
一つにはモンゴル人の伝統的な遊牧生活が維持できた。日本は(統治にあたって)専門家による調査を実施し、「モンゴル人の生活様式を尊重する」と決め、モンゴル人が遊牧生活を送る草原には中国人が入植しないよう法制化し、すみわけを徹底させました。既に入植していた中国人農民が、草原としてしか利用に適さない瘦せ地を開墾して沙漠化を招き、モンゴル人とトラブルを起こす事例が多かったからです。
また、モンゴル人が自治を認められた満洲国北西部の興安四省ではモンゴル人によって編成された興安軍がありました。独自の軍隊を持っていれば自分たちの権益を守ることができます。これらの政策が導入されたことで、興安地域は准国家体制を整えていたのです。つまりモンゴル人の民族自決への欲求が、ある程度満たされていたわけです。(つづく)>
欧米や支那の植民地主義と日本のそれは根本的に違う。欧米や支那のやり方は先住民族を圧迫して収奪するという「強盗収奪植民地主義」、日本式は先住民族とともにその地を豊かにしようという「共生発展植民地主義」で、月とすっぽんほどの違いがある。強制労働収容所と職業訓練学校・・・全然違う。
日本が敗戦で満洲から引き上げると、蒋介石は満洲を視察し、そこに世界最先端の工業国家を見て「俺たちは一体何をしていたのだろう」とガックリしたという(「張家三代の興亡」)。収奪されて荒廃したどころか、豊かな豊穣楽土が広がっていたのだ。
戦後に蒋介石が日本に「以徳報怨」(徳を以て怨みに報ゆ)と言ったのには、反日は間違いであり、日中の共通の敵は毛沢東・共産主義であったこと、日本とは仲良くやっていきたいという、まあ打算的ながらも反省があったのかもしれない。
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
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