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雀庵の「常在戦場/59 日本沈没の嫌な予感」

2021-07-28 16:46:01 | 日記
雀庵の「常在戦場/59 日本沈没の嫌な予感」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/344(2021/7/28/水】「なんやねん、カネ、カネ、カネ・・・カネの亡者になったんか!?」
ちゃうがな、キン、キン、キン。キンメダルや。
「あっ? ああ、キンメダイか、金目鯛の煮付け、好きやで。わしはメンタマのところは苦手やが・・・晩飯は金目鯛でいこっ!」


「戦争は血を流す外交、外交は血を流さない戦争」と南洲翁や毛沢東は言った。「戦時にあっては敵、平時にあっては友。過去はさっぱり忘れて仲良くしようぜ、ノーサイド!」とヤンキーは言う。「嫌だね」と小生はそっとつぶやく。「スポーツは血を流さない戦争、戦争は血を流すスポーツ、五輪は世界大戦だ!」とも言えそうな・・・


ホイジンガ著「ホモ・ルーデンス」、カイヨワ著「遊びと人間」。♪探したけれど見つからないのに・・・探すのをやめた時見つかることもよくある話で・・・井上陽水は哲学的だなあ。で、小児科医・小坂和輝氏のブログ「遊びとは何か?」が要領良くまとめているので引用する。


<◆ホイジンガ「遊びとは、定められた時間、空間の範囲内で行われる自発的な行為や活動である。それは自発的に受け入れた規則に従っている。規則はいったん受け入れられた以上は絶対的拘束力をもっている。遊びの目的は行為そのもののなかにある。それは緊張と歓びの感情を伴い、またこれは『日常生活』とは『別のもの』をという意識に裏づけられている」


◆カイヨワ「遊びには以下の6点の特徴がある。
1)自由な活動;すなわち、遊戯者が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。
2)隔離された活動;あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。
3)未確定の活動;ゲーム展開が決定されていたり、先に結果がわかっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由が必ず遊戯者側に残されていなくてはならない。


4)非生産的活動;財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。
5)規則のある活動;約束事に従う活動。この約束事は通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。
6)虚構の活動;日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること」


カイヨワは、遊びの構造や質から4種類の遊びに分類し「遊戯性から競技性が強まる」順を、こう列挙している。1:アゴン(競争)、2:アレア(運)、3:ミミクリ(模擬)、4:イリンクス(めまい)>


スポーツは戦争・戦闘と違って殺し合いにならないのがいいが、スポーツという概念やルールができるまでは戦闘、決闘は人気の「興行、見世物」になった歴史がある。WIKIから。


<剣闘士は、古代ローマにおいて見世物として闘技会で戦った剣士。共和政ローマやローマ帝国の多くの都市には円形闘技場が存在しており、そこで剣闘士同士、あるいは剣闘士と猛獣などとの戦いが繰り広げられた。闘技会に批判的なキリスト教の影響によって衰退し、404年に西ローマ皇帝ホノリウスの命令で闘技場が閉鎖されたが、その後も各地で続けられていたようであり、681年に公式に禁止されて消滅した>


闘技場の観客は大興奮して「殺せ!」「とどめを刺せ!」と叫び、倒れた剣士が絶命し、勝者が誇らしげに剣を高々とかざすと大絶頂、エクスタシー状態になったとか。プロボクシングはその名残を今に伝えているよう。1970/8/12の牛若丸原田と清水精(くわし)の対決は文字通りの死闘で、19歳の小生は「これぞ男の死に方、吶喊小僧でいくべし」と大感動した。戦いは男の血を沸かせる・・・


「人権」といった概念がない頃は「残虐な公開処刑」は王様の戦勝祝賀イベントであり、民衆の大娯楽だった。モンテーニュはこう書いている。


「死刑以上のものは純然たる残酷である。(王の復讐心や見せしめのためになされる残虐な処刑はいろいろあるが)見る目に最も忌まわしい刑が必ずしも受刑者が最も苦しむ刑ではない。(残虐な処刑で知られている)マホメットがエピルスの諸侯たちに加えたという刑罰の方がずっと惨いものだと思う。彼は意地悪くも少しずつ小刻みに彼らの皮膚を剥(む)かせたのである。彼らの命は、かくて、この苦悶の中に15日も続いたという」


現在は一応(表向き)は戦時でも捕虜を虐待したり、後遺症が甚大な生物化学兵器は使ってはいけないとはなっているが、スポーツと違って審判が監視しているわけではないから怪しいものである。人間の本性とか野生は変わっていないのかもしれない。


小生は今週、中共武漢製バイオ兵器攻撃に耐え得る肉体改造のため予防接種を受けるので、朝一で書類に取り組んだ。が、好事魔多し、「クーポンを貼りなさい」とあるが、そのクーポンがない、書類の入っていた封筒を見てもない、頭に来たのでスーパーの「30円割引クーポン」を添付することにした。人格の劣化・・・


公務員には優秀な人がいるのだろうが、民の視線で公文書をチェックするプロの編集者がいないとミスが増えたり、やたらと(苦情に対応するための法律文書のような)分かりにくい文書になる。行政の劣化・・・


スポーツの記録や技は向上するが、政治家の質は年々軽薄短小になっている気がする。日本のみならず長期スパンで思考する重厚長大の政治家(や実業家)は少なくなっているのではないか。選挙に落選しない(株主から叩かれない)ために徒に大衆迎合志向で「哲学」がない。知性の劣化・・・


政治家は本来は国家のリーダーである。有象無象の国民をその気にさせて一歩でも二歩でも良き国家、良き世界を創っていくのが天命だろう。


第2次大戦が終わっても、唯一の戦勝国である米国以外は戦場になったから、いずこの国でも為政者は国家国土の復興に追われた。


日本が植民地解放に火をつけたため、宗主国はドル箱の植民地を手放さざるを得なかったから、戦後復興はまるで敗戦国のように大変だった。在米オランダの外交官は毎日、生ゴミを海洋投棄する運搬船が港から出て行くのを眺めながら、「この残飯があれば我が国はひもじい思いをしなくて済むのだが・・・」と嘆いたという。


1945年の終戦から間もなく冷戦が始まり、政治リーダーは国内復興と並行して再軍備にも迫られた。一息つけるようになったのは前回の東京五輪の1964年頃ではなかったか。1990年にはソ連崩壊、それ以後は低成長時代になったが、2017年前後からの中共による経済的かつ軍事的な脅威が露骨になり、今はいつ熱戦になってもおかしくない。


第2次世界大戦は1939年9月、準備万端整えたナチス・ドイツのポーランド侵攻で始まった。翌年にはフランスの対ドイツ防衛線「マジノ線」は一気に突破されてパリが陥落した。緒戦は開戦時期を選べる方が有利で最初は連戦連勝になる。が、長引くと戦線が拡大して戦力が薄くなるとか、包囲網により備蓄物資が底をつき始めるから、一気呵成に敵を屈服させないと不利になるようだ。


中共は短期決戦で敵を降伏させる戦略ではないか。圧倒的な数の通常ミサイルによる「飽和攻撃」で一都市を破壊する。それでも屈服しなければ核兵器でもう一都市を壊滅する・・・例えば千葉市、さいたま市、川崎市が消滅し、「次は京都府と神戸市だ」と恫喝されたら、抑止力も報復手段もない日本は屈服するしかない。日本の惨状を目の当たりにした米国は「次はシアトルかポートランドだ」と中共に脅されたら、「名誉ある孤立」を選び、米軍はさっさと母国に撤収するだろう。


日本がなす術もなく敗戦、占領されたら、アジア諸国は不戦敗を選ぶしかない。半年か1年で核兵器を持たない“非武装”のアジア諸国はすべて中共の属国になるだろう。


この見立ては小生にとっては悪夢だが、勝者に迎合するコラボレーショニスト(売国奴)、即ち朝日、毎日、東京(中日)、共同、立民、ナンミョウなどは「80年も待ち望んできた解放軍が来た、日本の、そしてアジアの夜明けだ! 中共万歳、習近平主席万歳!」と大喜び。


長生きしてもどうもあまりいいことはなさそうな・・・雑文をまとめた遺稿集のタイトルは「“立つんだ、ジョー!”と言われても」になりそうな・・・ナンカナーの気分だ。あちらのジョーは怪しいし・・・持病の鬱が始まったか?
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
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