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雀庵の「大戦序章/17)勝つために戦争のイロハを学ぶ」

2022-03-27 09:54:33 | 日記
雀庵の「大戦序章/17)勝つために戦争のイロハを学ぶ」
“シーチン”修一 2.0


【Anne G. of Red Gables/450 2022/3/27/日】若い時と言っても40歳辺りの頃だが、28歳ほどの“友達以上、恋人未満”の女友達、あだ名は「フェロモン」から誘われて代々木のプール、正式には「国立代々木競技場 室内水泳場インドア50プール」に行ったことがある。


もちろんスケベ心があったのだが、彼女の水着姿を見てびっくりした。すごいガタイ、肩から二の腕が逆三角形なのだ。「そうだ、フェロモンは水泳選手だったのだ」と思い出した。もちろんスケベ心は萎えてしまった。


一往復半、150mだけで小生はダウンしたが、何往復もして上がって来たフェロモン曰く「ああ、気持ち良かった、久し振りのスイマーズ・ハイだわ」。帰りに原宿で飲んだが、小生は慣れない水泳で消耗し、かつリビドーも失せてしまったのでジョッキ一杯しか飲めなかった。「うーん、女は細雪、神戸弁に限るなあ」なんて思ったものだ。


その後、フェロモンは結婚したが、旦那は社会人ラグビーの選手だった。「まったく天の配剤、夜は格闘技だな」と男どもは悔しがっていた。フェロモンの新居は白金で、「あーん、私はシロガネーゼになっちゃいました」なんて喜んでいた。


「運」というものがあるのかどうか分からないが、「運が良い人、悪い人」はいる。大体、子供は親を選べない。人間とか世の中は本人の意志や努力ではどうにもならない面はある。理不尽だが、「置かれた場所で精いっぱい生きる」しかない。宗教は癒し、救いだろう。


古人曰く「天災は忘れた頃にやってくる」、天災か人災かはともかく、戦争は災難の最たるものだ。しかし「歴史、時代は戦争が創る」と言ってもいい。弱肉強食、勝者がいい思いをし、敗者はそれに阿るか、再起を期すか、消えるか。♪死んだはずだよソ連さん、生きていたとはお釈迦さまでも知らぬ仏のソ連さん、プーチン・ロシアはどこへ行く。


プーチンは「このままだとウクライナは西側陣営になってしまう、そうなればロシアは緩衝地帯を失い、西側の圧迫を直接受けることになる、国防の危機だ、それは絶対許さない」とウクライナに侵攻したのだろう。西側陣営との直接接触が嫌なら、自国の領土に立入禁止区域を造ればいい。世界最大の国土を持っているのだから自国内に国境フェンスを造り、幅10キロの地雷ベルトにでもすれば防げるだろう。ベルリンの壁のようなロシア・ウクライナの壁。実際、不法移民対策で米国も欧州も国境フェンスを造っている。自国内に造るのなら国際社会から文句を言われる筋合いはない。


結局、プーチンは戦争したいのだ。勝って箔をつけたい、世界を睥睨、君臨するプーチン帝国の絶対君主、唯一神になりたい・・・まるでヒトラー・ナチスの狂気そっくり。我らは如何にせん。世界は「プーチン・ロシアを封じ込めるべし」と覚悟を決めたようである。


小生はこのところ「戦略論」に大いに関心を寄せている。野中郁次郎編著「戦略論の名著 孫子、マキアヴェリから現代まで」を読み始めた影響だ。宣伝文に曰く「戦略とは何か。勝ち抜き生き残るために、いかなる戦略をとるべきなのか――。古今東西の戦略思想家たちの叡智が結集された戦略論の中から、『失敗の本質』で知られる編著者が現代人必読の12冊を厳選。孫子、マキアヴェリ、クラウゼヴィッツの三大古典から20世紀の石原莞爾、リデルハート、クレフェルト、そして21世紀の最新理論まで網羅し、第一線の研究者が詳細に解説する決定版」。


「現代人必読の決定版!」、これを読めば必勝!とはならないが、難しくて小生のオツムではなかなか理解できないので、ネットで勉強しながら咀嚼している。前回は孫子、今回はクラウゼヴィッツに挑戦してみる。


「日本クラウゼヴィッツ学会」というのがあり、クラウゼヴィッツの著作「戦争論」などを中心に「戦争学」を研究しているようだ。WIKIによると「戦争論」が日本に初めて伝えられた時期については諸説あり、幕末の頃に江戸城の御蔵書のなかに含まれていたという説、蘭語訳されたものを西周が持ち帰ったという説、長崎の出島を通じて入手した説などがあるようだ。


<しかし「戦争論」が戦争哲学を学ぶ書であると軍人達の間で理解されるようになったのは、森林太郎(森鴎外)によってである。森が留学中に仲間と輪読していたことからもあわせてみても「戦争論」の紹介者としての森の地位は揺るがない。また軍内で戦争理論の徹底を図り軍人勅諭の作成等一定の成果をあげた田村怡与造も見逃せない。


その後、多くの翻訳が出されており、馬込健之助(淡徳三郎)、篠田英雄、清水多吉、日本クラウゼヴィッツ学会訳などが出版されたが、現在、邦訳で入手可能なものでは、清水多吉訳、日本クラウゼヴィッツ学会訳版が、最も原本に忠実なものとなっている>


日本クラウゼヴィッツ学会は小生が「地政学」の初心者向けイロハを学んだ奥山真司先生(地政学者、戦略学者)が副会長代理を務めている。時々読んでいるルトワックの「戦争にチャンスを与えよ」は奥山先生の訳だ。産経が月1回、ルトワックの論稿を掲載しているが、日本にルトワックを広めるに奥山先生は大いに貢献した。これからも期待したい論客だ。


前書きが長くなった。「戦争論」もインテリでないと分かりにくいので、鈴木博毅氏(ビジネス戦略コンサルタント・MPS Consulting代表)の「3分でわかるクラウゼヴィッツの『戦争論』 相手の強みを真似て無力化する『逆転優位戦略』」ダイヤモンドオンライン2014.9.4から引用する。


<【占領下で虎視眈々と練られた軍事改革】ナポレオン・ボナパルト(仏皇帝)は1812年に60万の軍勢でロシア遠征を行い、壊滅的な敗北を喫します。フランスに占領されていたプロイセン(現ドイツの一部)は、好機と考え打倒ナポレオンを掲げ、宣戦布告。しかし、あえなく撃退されたため、各国を誘い第6次対仏大同盟を結成します。


オーストリア帝国軍、ロシア帝国軍などがフランスへの攻撃に参加、プロイセン軍はナポレオン指揮下のフランス軍を撃退、祖国を取り戻すことに成功します。翌1814年に同盟軍はフランス領内に侵攻、3月にプロイセン軍がパリへ入城し、皇帝ナポレオンは退位してエルバ島に流刑となります。


“ナポレオンの戦争”は、オーストリア帝国やイギリスとの確執、ロシア大遠征が歴史上知られていますが、直接的な退位の引き金はプロイセン軍の侵攻でした(プロイセン王国は現在のドイツ北部に相当)。


プロイセン王国は1701年から1918年に存在した国家です。兵隊王と呼ばれたヴィルヘルム一世以降、欧州の名門軍事国として栄えますが、1806年にナポレオン率いるフランス軍に敗れ、国土の半分を失います。


存亡の危機を迎えたプロイセン王国は、フランス人の支配によって愛国心が強く芽生え、占領下で秘かに軍制改革に励みます。祖国復活を目指して必死に研究を重ねたプロイセン軍人の一人が、のちに名著『戦争論』を書いたクラウゼヴィッツだったのです。       


【4人の捕虜士官が仕掛けた逆襲劇】意外かもしれませんが、対ナポレオン戦争の最終勝利に大きく寄与したのは、『戦争論』の著者クラウゼヴィッツよりも、その師であるシャルンホルストなどの上官たちでした。


1806年にフランスに敗戦、ブリュッヘル、シャルンホルスト、グナイゼナウ、クラウゼヴィッツという4人のプロイセン軍人が9ヵ月ほどフランス軍の捕虜になっています。4人は、のちに人質交換で解放されますが、プロイセン王国の再建に燃え、フランス軍とナポレオンの強さの秘密を解明し、乗り越えることを狙います。彼らは一体、どんな対策を進めたのでしょうか。


【フランス軍の強さの秘密を解明せよ!】クラウゼヴィッツは「王族による戦争は、傭兵を使う半ば八百長試合だったが、ナポレオンはフランスのために命をかける兵士を育て、敵を殲滅するまで戦う戦争に変えた」と語りました。


国民徴兵制度による膨大な兵数と、フランスの自由を守るため、自ら勇敢に戦うフランス国民軍、大部隊を効果的に戦闘に参加させる軍団制度とナポレオンの軍事的天才。欧州大陸最強のフランス軍に勝つためには、相手の強みを無力化する、あるいは凌駕しなければなりません。


しかしプロイセン王国は、フランスを除く他の国と同様に傭兵が主力であり、身分制度の壁で平民は将校になれず、肩書で出世が決まり、国王の軍隊ゆえに、フランスのように市民革命を起こすこともできません。そのため、次のような対策が実行されました。


【プロイセンの対フランス作戦】(1)義務兵役制の採用(国民軍創設のため)、(2)師団制を取り入れた、(3)優れた参謀将校を育成する教育機関の充実、(4)門戸を広げ、平民からも優れた人物を将校に登用、(5)政治行政改革・教育改革、(6)社会制度改革(農奴解放)、(7)祖国愛の醸成(ナショナリズムの鼓舞)


プロイセン軍の改革は、フランス軍の強みと極めて似ています。彼らはナポレオンの強さの秘密を正確に分析して、組織として徹底導入したのです。ちなみに、(5)(6)(7)は軍制ではなく社会制度の改革です。フランス兵と同じように、プロイセン人の被占領状態を打ち破るべく、祖国愛を醸成するためだったのでしょう。


【規模を拡大したプロイセンが逆転できた二つの戦略】王国ながら社会制度の改革を進めたプロイセンでは、愛国者の国民軍を創設する準備が整い、師団制度の導入で勇猛果敢に戦う大軍というナポレオンのフランス軍と同じ条件を手に入れます(一方のフランスは相次ぐ戦争で、国民全体が疲弊していた)。


士官教育制度を充実させ、平民からも優れた人材を広く集めて登用し、軍中央の作戦指揮と、現地師団の連携が迅速になりました。フランス軍の強さがナポレオンの軍事的天才にあったならば、プロイセンは同じことを、軍全体で実行できる組織に仕上げたのです。彼らは、ナポレオンの優れた機動力を封じるため、次の二つの戦略を徹底します。


(1)各個撃破させない大軍による包囲布陣:戦場で的確な判断を下すナポレオンは、各国の軍隊が主戦場で合流する前に素早く行軍し、各個撃破によって多くの敵を、より少ない自軍で打ち破っています。1813年の会戦では、プロイセン軍は各個撃破されないように、北・東・南の三方面から同盟国と共に侵攻し、じりじりと包囲を狭めてナポレオン軍を閉じ込めました。フランス軍に一点集中の攻撃をさせず、大軍の優位性をそのまま活かす戦いを仕掛けたのです。


(2)側面攻撃を受けたら粘らず退却する:ナポレオンの得意な戦術である「側面攻撃」は、複数師団の中で一部が敵を足止めし、すぐに他のフランス師団が敵の側面か背後に回ることで、相手を挟撃する効果を最大限発揮するものでした。正面攻撃には強い軍隊でも側面攻撃には極めて弱く、側面攻撃を受けた状態で粘ると、壊滅することも多かったのです。


プロイセンの研究後、ナポレオンに側面攻撃を受けた場合は粘らず退却し、殲滅されずに兵力の温存が可能になりました。最後の戦場であるワーテルローでは、ナポレオンは肉体的な衰えから作戦指揮の迅速さを欠き、各個撃破のチャンスを逃し、側面攻撃した敵に逃げられた上、戦場の最終局面でプロイセン軍から逆に側面攻撃を受けて大敗しました。


フランス軍の組織的な強みと、ナポレオンの用兵エッセンスを分解し、敵の強みを取り上げながら、自軍が「より大きな規模で」実行できるようにしたのです。異なる戦略なら「スピード」があるほうが有利であり、同じ戦略なら「規模」が大きいほうが有利となる。プロイセンはフランス軍の速さを封じ込め、規模の戦いに持ち込んだのです。


【天才は理論を超越しない 解き明かされた勝利の秘密】世界中で読まれている名著『戦争論』は全8編、戦争の定義から始まり、「戦争の性質」「戦争の理論」「戦略編」「戦闘」「戦闘力」「防御」「攻撃」「作戦計画」の章に分かれています。


ナポレオンの出現で、傭兵による緩慢な戦闘から、敵を撃滅するまで必死で戦う戦場になり、国民軍によって国家の総力を動員する総力戦に変わったことなど、パラダイムの変化を指摘する部分も多いです。


ナポレオンという稀代の軍事的天才を打ち破り、フランス革命により生まれた新しい組織体制の強みを見事に模倣・先鋭・拡大したプロイセン軍の軍制改革。それらは探究心と、組織に対する深い理解がつくり出したものだったのです>


ゲルマン(ドイツ)民族は長らく「統一国家」を持たなかったが、プロイセンを核とした統一ドイツは“鉄血宰相”と呼ばれたビスマルクが対仏戦争に勝利し、1871年(明治3年)1月に「ドイツ帝国」を創った。クラウゼヴィッツの「戦争論」は1832年から夫人が彼の友人の協力を得ながら遺稿として出版したものだという。当然、ビスマルクや軍人は最先端の軍事学として学んでいただろう。


ビスマルクが首相を務めている1868年に日本では明治維新が成り、近代化を進める。岩倉具視、大久保利通らはヨーロッパの制度を吸収しようと岩倉使節団をヨーロッパに派遣した。1873年3月には統一して間もないドイツを訪れ、ビスマルクに歓迎された。この時、ドイツと同様の新興国家である日本に「西欧国家は強盗だ、世界は弱肉強食だ、油断するな、富国強兵に勤めるべし」とアドバイス、大久保らは大いに啓発されて「日本はドイツに学ぶべき」と傾斜したから、当然ながら「戦争論」などの存在を知っただろう。


森鴎外が陸軍省の派遣留学生としてドイツに滞在したのは1884~1888年の4年間だが、「舞姫」を書くためではなくドイツの軍事学、欧米先進国の軍事事情を学ぶためだった。明治初期以来の「富国強兵」において鴎外が持ち帰っただろう「戦争論」や「近代ドイツ陸軍の父」と呼ばれる参謀総長・元帥モルトケの戦略・戦術は日本陸軍に多大な影響を与えたと言える。(この稿つづく)
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