雀庵の「一番大切なものは何なのか」
“シーチン”修一 2.0
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/92(2020/4/5】「真面目な話は暗くなる」と言ったのは誰だっか、すっかり忘れてしまった。西洋の社交界が今でもあるのかどうかは知らないが、「政治と宗教の話はご法度」だという。ケンカになりやすい。「真面目な話はケンカになる」。
芸人は広く愛されなくてはならないのでファンクラブなどではやはり「政治と宗教の話はご法度」だろう。「あいつ、○○教/党の広告塔だぜ」なんて評判が立てば、「キモッ!」と言って人気が落ちそうだ。
同窓会などでも「政治と宗教の話はご法度」。人脈を活かして儲けようという話が多いのか。無粋だな。
西洋の小説を見ると、社交界の話題は「ゴシップ、噂話」が多いようだ。
「スワンさんの新しい恋人のことご存知? 高級娼婦だともっぱらの評判ですわ」
「じゃあ、あの有名なサロンは殿方を集めるための罠でしたの? スワンさんがつまずくなんて・・・信じられませんわ」
「ここだけの話ですけど、ワイルドさん、少年愛で起訴されたとか、ご存知?」
「あら、両刀使いなんですの? ドリアン・グレイそのもの、インモラルですわ、監獄に閉じ込めるべきですよ」
パパラッチが大活躍する週刊誌ネタのような話題が社交界から陋巷までを席巻する。ゴシップを探して金儲けする人、それを楽しむ人が、レディー・ダイアナを殺し、ハリー王子を苦しませ、女王のご宸襟を悩ませる・・・これが表現の自由か? こういうネタを楽しむ人を古人は「下司」と言った。
「キチ〇イになるも下司になるなかれ」だな。
大宅壮一曰く「一億総白痴化」、世界中がさらに「銭ゲバ化」をプラスしている。「清貧」「矜持」「謙譲」「慈愛」なんて言葉は死語みたい。
少なくとも人間は成長していない。自由民主人権法治はこの100年で多少普及したくらいで、それも未だに脆弱だ。大昔から正論や正義、良識よりも「その時の気分、感情」で歴史は大きく動き、やがて「疲労と飢え」「理性と知性」でソフトランディングするのだろう。歴史はその繰り返しかもしれない。
書庫からオスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像画」を見つけ出して開いたらメモが出てきた。
「非核3原則、武器輸出3原則・・・自縄自縛のSMプレイ」
上手いなあ、ずいぶん以前から小生はマトモ(世間的には異端)だったんだなあと、変な気分である。無知無恥ジャポネを覚醒させる鞭は・・・これは世界共通で「戦争などの危機」だ。今はチャイナコロリのような中共への不信、嫌悪感で、やがてそれが高じると国民が一気に団結して「奴は敵だ、敵を倒せ」、誰も逆らえない「時代の空気」になる。
ジョン・スタインベックが米国を見つめた時代は1930年代の世界恐慌、それに続く自然災害の時期だから、彼の性格もあって作品は「真面目な話は暗くなる」式ばっかり。その中で「人間は、人生は、生きてみる価値はあるんだなあ」と思わせるのが掌編「朝めし」だ。
定住地を持たない(持てない)農場で働く最下層の貧しい季節労働者の朝餉を描いている。早朝、「私」は散歩に出る。ブラウニングの「春の朝」(上田敏訳)のような早朝だろう。
時は春、日は朝(あした)、朝(あした)は七時、
片岡(かたおか)に露みちて、
揚雲雀(あげひばり)なのりいで、
蝸牛(かたつむり)枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。
そんな春が待ち遠しいが、まだまだ肌寒い朝の話だ。
<田舎道に沿って歩いて行くとテントが見えた。そばの古錆びたストーブの裂け目からオレンジ色の炎が噴き出ていた。若い女が見えた、まだ娘と言っていい若さだった。赤ん坊は寒さから母親の胴着の中に頭をうずめて乳を吸っていることが分かった。
私はすぐ近くまで来ていたので、ベーコンを炒める匂いや、パンを焼く匂いなど、この上もなく温かくて、この上もなく喜ばしい、あの懐かしい匂いが漂ってくるのを嗅ぐことができた。
テントの垂が開いて若者と老人が出てきた。二人とも新しいダンガリーのズボンをはき、新しいダンガリーの上着を着ていた。どちらもするどい顔つきをした男たちで、二人ともよく似ていた。
「おはよう」と老人が言った。愛想がよくもなく、悪くもなかった。「おはよう」と私は言った。「おはよう」と若者も言った。
若い女は大きな荷箱の上に錫のコップを置き、錫の皿やナイフやフォークを並べた。それから炒めたベーコンの皿や、褐色の分厚いパンや、肉汁を入れた鉢や、コーヒーポットを並べた。
男たちは深く息を吸いこんだ。若者は低い声で「こいつはたまらねえ!」と言った。
老人は私の方を向いた。「朝めしは済んだのかい?」
「いや」
「そうかい、そんなら一緒に座んなよ」
私たちは荷箱のそばに行って、地べたに座った。
「お前さんも綿つみかね?」と若者は私に尋ねた。
「いや」
「俺たちは12日間以上も働いたんだ」と若者は言った。
若い女がストーブのそばから言った。「それで二人とも服を新調したんだよ」
二人の男は自分たちの真新しいダンガリーの服を見下ろして、ちょっと微笑した。
私たちはめいめいの皿に取り分けて、パンにベーコンの肉汁をかけ、コーヒーに砂糖を入れた。老人は口いっぱいに頬張って、グシャグシャと噛んでは飲み込んだ。「こいつはうめえや」そして、また口いっぱいに頬張った。
若者が言った。「俺たちはこれで12日間もうまいものを食ってるんだ」
みんな素早くがつがつ食い、お代わりをして、またがつがつ食った。そのうちに腹がいっぱいになり、体が暖かくなった。熱く苦いコーヒーが喉を刺激した。
日の光が色づいてきた。二人の男は東に向いていたので、顔が夜明けの光に輝いていた。老人の目の中に、山と、その向こうから射してくる光のイメージが映っているのを見た。
やがて二人の男はカップの中のコーヒーかすを地面に投げ捨てて、一緒に立ち上がった。「さあ、もう行かなくちゃ」と老人が言った。
若者は、私の方を振り向いた。「綿つみをやる気ながあるんなら、仕事の世話をしてもいいぜ」
「いや、私は行かなきゃならないんだ。どうもご馳走さま」
老人は、とんでもないというように手を振った。「いいんだ。よく訪ねてくんなすった」
彼らは一緒に歩いて行った。空気は東の山の端から射す光に温められようとしていた。
それだけのことなのだ。もちろん私にも、なぜそれが楽しかったのか、理由は分かっている。だが、そこには、思い出すたびにあたたかい思いに襲われるある偉大な美の要素があった>
スタインベックは貧しい人々に寄り添い、それはどうしても体制批判になりやすい。「重い」話になるから、読み方によっては共産主義思想にかぶれているようで「何かなあ」という読後感になる。
そのために評価は分かれているのだが、小生が一番好きな上記の「朝めし」は皆が文句なしに「いいね!」なのだという。
清貧、質素倹約、仕事、「欲少なく足るを知る。足るを知りて分に安んずる」生き方。今のような「あれも買いたい、これも食いたい」という肥大化するばかりの物欲に牛耳られたような生き方では死ぬまで餓鬼道みたい、最後の言葉が「もっとマスクを」だったり。
チャイナコロリは人類に「今の生き方でいいんですか」と考える時間を与えてくれたとも言える。アーミッシュと我々はどちらがまともなのか、とか、省察するのもいいのではないか。
以上は、小生を可愛がってくれた大先輩、寛大慈悲菩薩のような「シバヤン」から10年ぶりにメールをいただき、眠っていた「寛容」が目覚めたことによる論考である。(2020/4/5)
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