雀庵の「常在戦場/55 GDP信仰からの転換を」
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/340(2021/7/21/水】猛暑が続き、何となく儚くなりそうな感じだが、まあ、それは天が決めること、今さらジタバタしてもどうにもならない。余生であれ前途洋々の若者であれ、大事なのは「いかに生きるべきか」で、これは多分、太古の昔から古今東西、人類にとって気になるテーマだったろう。
人間を含めた生物は「繁殖すべし」が初期設定だから「繁殖のためにとにかく家族・部族の食糧を確保しなければ」「それを邪魔する敵は追い出して縄張りを拡大しなければ」という時代には「いかに生きるべきか」は自明だった。
他の部族との戦争や同盟、貿易、交流、嫁・婿のやり取りなどで合従連衡は続くが、やがて日本では移動式狩猟採集に加えて定住式水稲耕作が普及し生産性が高まる。田畑の開墾、灌漑設備など大規模事業の必要もあり、複数の部族は村になり、さらに村と村が合体して、やがては大集団の「国」になっていった。
こうなると政治経済軍事宗教などで優秀な人材は指導階級、上位階級になっていく。専門家、エリートは概ね代々引き継がれ、権威ある名門になっていく。世界中、どこでも似たようなものだろう。しっかりしたコア、できる政治家・官僚、強い軍隊がなければ強国に縄張りを荒らされたり、併呑あるいは駆逐されてしまうのだから。
自主独立か、それとも同盟か、あるいは軍門に下るか・・・それが問題だ、なんて悩みながら、やがてソクラテス、ローマ皇帝アウレリウス、荘子、釈迦、モーセ、キリスト、ムハンマド、聖徳太子など「哲人」が生まれ、「国家運営はいかにあるべきか」さらに「人間はいかに生きるべきか」なんぞ考える、同時に悩むようになる。かくしてストレイ・シープ、迷える羊が増えていく・・・
もちろん迷わない人の方が圧倒的に多い。「のんきな、楽天的な、行き当たりばったりの、運任せの」Happy-Go-Luckyな人々。それは多分、健康ではあるが、夏彦翁曰く「健康は嫌なものである」。何となく分かるなあ。健康な精神・肉体は異端を排除する傾向があるからだろう。
小生の母方の家系は江戸時代は武家で、能力があるわけでも家柄がいいわけでもないから、ずーっと無役の下級武士だった。いわゆる「御家人株」を買って武士になったのかもしれない。下級武士は貧乏が当たり前だったが、これという家業がないのに遊び惚けていたから土地を切り売りしていたようだ。
明治の御一新で秩禄処分(武士への手切れ金)を受けた曽祖父は大きな料亭を創ったが、関東大震災の液状化被害で倒壊、祖父は丹沢山系で鹿狩りをしていた際に崖から落ちて背骨を損傷、寝たきりの晩年だった。その跡取りは相模川でアユ釣りをしていて溺死、その息子は小生の遊び相手だったが、とにかく遊びをせんとや生まれけん、定職がないままに遊びまくり、よせばいいのに子までなした末に進退極まって自殺した。絵に描いたような「士族の没落」。アリとキリギリスの教訓みたいな一族だった。
その血を引く我が母が幼い小生に「憂き世のバカが起きて働く」と訓導した際は、「お母ちゃん、ちょっとオカシイ」と思ったものである。今では父に大いに同情している、「親父は大変だったろうなあ」と。
「面白おかしく過ごす」というのは結構だが、結構が過ぎると余りいいことにはならないような感じがする。
やはり人間として基本の道は「繁殖する、一所懸命子育てをする、そのためにも働く(社会にそれなりに貢献する)、先憂後楽で行け!」、自分だけではなく次代のために多少なりとも土台になる、タスキを繋ぐ、というのが大事ではないか、と小生は思う。
「自分らしく生きたい」と家庭経営を疎かにしたり、育児や老親の世話を他者、行政に任せることは、やがて家族、家庭の絆、紐帯を弱め、行き過ぎた個人主義が国家・国民の一体感、団結心を弱めることになりはしまいか。散歩で、子供をしっかりケアしていないスマホ中毒の人々を見るにつけ、そんなことをこの頃は随分思うようになった。老人の繰り言か・・・
ここ2か月ばかり、就寝時に佐伯啓思先生の仏教研究「死と生」を読んでいる。菩提寺の戦略に負けたのか、小生は昨年から月1回の護摩法要などに出席しており、そのうち「日本仏教は中国経由ではなく釈迦原典に回帰すべきだ」とレポートを(よせばいいのに)提出しようという(邪悪な、濁った、愚かな)魂胆からあれこれ読んでいる一冊なのだが、その前書にはこうある。今の小生の日々の気持ちにしっくりして、何となく救われた。(以下要約)
<私は2017年に「経済成長主義への決別」を上梓しました。テーマは「脱成長主義のススメ」といったところで、「脱・成長主義」であり、「脱成長」「成長経済をやめよう」というわけではありません。「成長主義」に囚われるのはもうよそうということです。
この主張の背景には、今日の日本は(いや世界の先進国全体が)もはや「成長主義」を信奉するほどに経済成長できる時代ではなくなった、という認識があります。だから脱成長主義へと志向を変換するほかなかろう、ということなのです。そうして、それは決して虚しいことでもなければ、悲観的な事態でもない、と思うのです。
ところが次のような反応が返ってきます。「何という時代錯誤の話か、脱成長、ゼロ成長、定常化社会など、江戸時代じゃあるまいし、そんな悲観主義や敗北主義でどうする」「今や新しいテクノロジーのイノベーションの時代だ、AIや生命科学は世界を変えようとしている。おまけにアジア市場は急拡大しつつあり、グルーバルな市場を取り込めば日本はもっと成長できる。今はその絶好のチャンスなのだ」と。
それは間違いではないかもしれませんが、私はつい「待てよ」と考えてしまうのです。今日の日本の大問題は「人口減少社会化、高齢社会化ではなかったのか」と。これは紛れもない客観的かつ統計的な現実なのです。
年寄りばかりが増えてゆく日本社会で、イノベーションをどんどん推進し、グローバルに活躍できる人材を育てれば大きく成長できる・・・年寄りが幸せになるかはともかく、イノベーションとグローバリズムの掛け声で成長主義を唱えることで、何か大事なものが見失われてしまうのではないでしょうか。
高齢化社会とは「みんなで頑張れば幸せになれる」というものではありません。明治以来の「追いつけ、追い越せ」の成長主義や進歩主義などで日本は経済大国になり、先進国でも類を見ないほどに便利な国になった。何かに追いつくという時代は終わったはずでした。
にもかかわらず今やまた「みんなで頑張って」。中国、韓国、東南アジアが出てきた、ボーっとしていると追い越されてしまう、というわけで、「追いつき願望症」から「追いつかれ不安症」になり、今では「このままではグローバル競争に取り残される」という「取り残され恐怖症」というわけです。
人口減少、高齢化社会、成熟経済のど真ん中にあって、未だに成長主義に囚われていることが私には奇妙に見えるのです、云々>
経済成長すればモノは豊かになるだろうが、幸せになるのかどうか・・・先の大統領選で小生が見た米国(民主党支持者)は自由民主人権法治とは全く逆の「野蛮」「蛮族」「暴力」「虚偽」「無秩序」「混乱」「汚濁」だった。文明=秩序とすれば弱肉強食の未開ジャングル。カナダ人(LMモンゴメリ女史)が米国人を「ヤンキー(不良、ゴロツキ、チンピラ)」と蔑んでいた理由がよく分かった。
彼らの「ママの味」は1976年のバイセンテニアル(建国200年)あたりまでは「アップルパイ」ではなかったか。今では「ピザハット」などのジャンクフードにとって代われたろう。節操なく大量に食って太り、成人の8割がデブだという。2010年にハワイで見た米国人のオバサンは、小生が食べきれないほどの料理を2人前食っていた。
GDP世界一でも精神的にはちっとも幸せには見えない。小生は「欲少なく足るを知る、足るを知りて分に安んずる」をモットーにしているが、米国人はむしろGDPと比例して満足感レベルが上がり、「もっともっと食いたい」という飢餓感、欲望が強くなっているのではないか。
世界的に国民の平均所得が1万ドルを超えると「満足度」は停滞するそうだが、慣れると欲望も増えるからだろう。あれも欲しい、これも欲しい、新車に買い換えたい、もっと広い家に住みたい、楽をしたい・・・欲望の果てに先進国の“指導階級民族”は概ね少子高齢化に直面している。
繰り返すが「繁殖する、一所懸命子育てをする、そのためにも働く(社会にそれなりに貢献する)、タスキを繋げ、先憂後楽で行け!」というのが国家の衰退、凋落、亡国を防ぐ優先事項である。最先端技術を駆使してGDPを上げれば「もっともっと幸せになれる」という一神教的なGDP信仰が失敗だったことは米国を始め多くの先進国が気付き始めているのではないか。
今からでも遅くはない、家庭に復帰せよ、男は男らしく、女は女らしく、必死になって産めよ殖やせよ!
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
まぐまぐID 0001690154「必殺クロスカウンター」
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/340(2021/7/21/水】猛暑が続き、何となく儚くなりそうな感じだが、まあ、それは天が決めること、今さらジタバタしてもどうにもならない。余生であれ前途洋々の若者であれ、大事なのは「いかに生きるべきか」で、これは多分、太古の昔から古今東西、人類にとって気になるテーマだったろう。
人間を含めた生物は「繁殖すべし」が初期設定だから「繁殖のためにとにかく家族・部族の食糧を確保しなければ」「それを邪魔する敵は追い出して縄張りを拡大しなければ」という時代には「いかに生きるべきか」は自明だった。
他の部族との戦争や同盟、貿易、交流、嫁・婿のやり取りなどで合従連衡は続くが、やがて日本では移動式狩猟採集に加えて定住式水稲耕作が普及し生産性が高まる。田畑の開墾、灌漑設備など大規模事業の必要もあり、複数の部族は村になり、さらに村と村が合体して、やがては大集団の「国」になっていった。
こうなると政治経済軍事宗教などで優秀な人材は指導階級、上位階級になっていく。専門家、エリートは概ね代々引き継がれ、権威ある名門になっていく。世界中、どこでも似たようなものだろう。しっかりしたコア、できる政治家・官僚、強い軍隊がなければ強国に縄張りを荒らされたり、併呑あるいは駆逐されてしまうのだから。
自主独立か、それとも同盟か、あるいは軍門に下るか・・・それが問題だ、なんて悩みながら、やがてソクラテス、ローマ皇帝アウレリウス、荘子、釈迦、モーセ、キリスト、ムハンマド、聖徳太子など「哲人」が生まれ、「国家運営はいかにあるべきか」さらに「人間はいかに生きるべきか」なんぞ考える、同時に悩むようになる。かくしてストレイ・シープ、迷える羊が増えていく・・・
もちろん迷わない人の方が圧倒的に多い。「のんきな、楽天的な、行き当たりばったりの、運任せの」Happy-Go-Luckyな人々。それは多分、健康ではあるが、夏彦翁曰く「健康は嫌なものである」。何となく分かるなあ。健康な精神・肉体は異端を排除する傾向があるからだろう。
小生の母方の家系は江戸時代は武家で、能力があるわけでも家柄がいいわけでもないから、ずーっと無役の下級武士だった。いわゆる「御家人株」を買って武士になったのかもしれない。下級武士は貧乏が当たり前だったが、これという家業がないのに遊び惚けていたから土地を切り売りしていたようだ。
明治の御一新で秩禄処分(武士への手切れ金)を受けた曽祖父は大きな料亭を創ったが、関東大震災の液状化被害で倒壊、祖父は丹沢山系で鹿狩りをしていた際に崖から落ちて背骨を損傷、寝たきりの晩年だった。その跡取りは相模川でアユ釣りをしていて溺死、その息子は小生の遊び相手だったが、とにかく遊びをせんとや生まれけん、定職がないままに遊びまくり、よせばいいのに子までなした末に進退極まって自殺した。絵に描いたような「士族の没落」。アリとキリギリスの教訓みたいな一族だった。
その血を引く我が母が幼い小生に「憂き世のバカが起きて働く」と訓導した際は、「お母ちゃん、ちょっとオカシイ」と思ったものである。今では父に大いに同情している、「親父は大変だったろうなあ」と。
「面白おかしく過ごす」というのは結構だが、結構が過ぎると余りいいことにはならないような感じがする。
やはり人間として基本の道は「繁殖する、一所懸命子育てをする、そのためにも働く(社会にそれなりに貢献する)、先憂後楽で行け!」、自分だけではなく次代のために多少なりとも土台になる、タスキを繋ぐ、というのが大事ではないか、と小生は思う。
「自分らしく生きたい」と家庭経営を疎かにしたり、育児や老親の世話を他者、行政に任せることは、やがて家族、家庭の絆、紐帯を弱め、行き過ぎた個人主義が国家・国民の一体感、団結心を弱めることになりはしまいか。散歩で、子供をしっかりケアしていないスマホ中毒の人々を見るにつけ、そんなことをこの頃は随分思うようになった。老人の繰り言か・・・
ここ2か月ばかり、就寝時に佐伯啓思先生の仏教研究「死と生」を読んでいる。菩提寺の戦略に負けたのか、小生は昨年から月1回の護摩法要などに出席しており、そのうち「日本仏教は中国経由ではなく釈迦原典に回帰すべきだ」とレポートを(よせばいいのに)提出しようという(邪悪な、濁った、愚かな)魂胆からあれこれ読んでいる一冊なのだが、その前書にはこうある。今の小生の日々の気持ちにしっくりして、何となく救われた。(以下要約)
<私は2017年に「経済成長主義への決別」を上梓しました。テーマは「脱成長主義のススメ」といったところで、「脱・成長主義」であり、「脱成長」「成長経済をやめよう」というわけではありません。「成長主義」に囚われるのはもうよそうということです。
この主張の背景には、今日の日本は(いや世界の先進国全体が)もはや「成長主義」を信奉するほどに経済成長できる時代ではなくなった、という認識があります。だから脱成長主義へと志向を変換するほかなかろう、ということなのです。そうして、それは決して虚しいことでもなければ、悲観的な事態でもない、と思うのです。
ところが次のような反応が返ってきます。「何という時代錯誤の話か、脱成長、ゼロ成長、定常化社会など、江戸時代じゃあるまいし、そんな悲観主義や敗北主義でどうする」「今や新しいテクノロジーのイノベーションの時代だ、AIや生命科学は世界を変えようとしている。おまけにアジア市場は急拡大しつつあり、グルーバルな市場を取り込めば日本はもっと成長できる。今はその絶好のチャンスなのだ」と。
それは間違いではないかもしれませんが、私はつい「待てよ」と考えてしまうのです。今日の日本の大問題は「人口減少社会化、高齢社会化ではなかったのか」と。これは紛れもない客観的かつ統計的な現実なのです。
年寄りばかりが増えてゆく日本社会で、イノベーションをどんどん推進し、グローバルに活躍できる人材を育てれば大きく成長できる・・・年寄りが幸せになるかはともかく、イノベーションとグローバリズムの掛け声で成長主義を唱えることで、何か大事なものが見失われてしまうのではないでしょうか。
高齢化社会とは「みんなで頑張れば幸せになれる」というものではありません。明治以来の「追いつけ、追い越せ」の成長主義や進歩主義などで日本は経済大国になり、先進国でも類を見ないほどに便利な国になった。何かに追いつくという時代は終わったはずでした。
にもかかわらず今やまた「みんなで頑張って」。中国、韓国、東南アジアが出てきた、ボーっとしていると追い越されてしまう、というわけで、「追いつき願望症」から「追いつかれ不安症」になり、今では「このままではグローバル競争に取り残される」という「取り残され恐怖症」というわけです。
人口減少、高齢化社会、成熟経済のど真ん中にあって、未だに成長主義に囚われていることが私には奇妙に見えるのです、云々>
経済成長すればモノは豊かになるだろうが、幸せになるのかどうか・・・先の大統領選で小生が見た米国(民主党支持者)は自由民主人権法治とは全く逆の「野蛮」「蛮族」「暴力」「虚偽」「無秩序」「混乱」「汚濁」だった。文明=秩序とすれば弱肉強食の未開ジャングル。カナダ人(LMモンゴメリ女史)が米国人を「ヤンキー(不良、ゴロツキ、チンピラ)」と蔑んでいた理由がよく分かった。
彼らの「ママの味」は1976年のバイセンテニアル(建国200年)あたりまでは「アップルパイ」ではなかったか。今では「ピザハット」などのジャンクフードにとって代われたろう。節操なく大量に食って太り、成人の8割がデブだという。2010年にハワイで見た米国人のオバサンは、小生が食べきれないほどの料理を2人前食っていた。
GDP世界一でも精神的にはちっとも幸せには見えない。小生は「欲少なく足るを知る、足るを知りて分に安んずる」をモットーにしているが、米国人はむしろGDPと比例して満足感レベルが上がり、「もっともっと食いたい」という飢餓感、欲望が強くなっているのではないか。
世界的に国民の平均所得が1万ドルを超えると「満足度」は停滞するそうだが、慣れると欲望も増えるからだろう。あれも欲しい、これも欲しい、新車に買い換えたい、もっと広い家に住みたい、楽をしたい・・・欲望の果てに先進国の“指導階級民族”は概ね少子高齢化に直面している。
繰り返すが「繁殖する、一所懸命子育てをする、そのためにも働く(社会にそれなりに貢献する)、タスキを繋げ、先憂後楽で行け!」というのが国家の衰退、凋落、亡国を防ぐ優先事項である。最先端技術を駆使してGDPを上げれば「もっともっと幸せになれる」という一神教的なGDP信仰が失敗だったことは米国を始め多くの先進国が気付き始めているのではないか。
今からでも遅くはない、家庭に復帰せよ、男は男らしく、女は女らしく、必死になって産めよ殖やせよ!
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
まぐまぐID 0001690154「必殺クロスカウンター」