朝、仕事に行くとき、アパートの階段を降りると、
桜島の向かって左側のほうがちょこっとだけ、目にはいります。
近頃は、写真か絵のような噴煙がもくもくとあがっています。
灰の降る町になんか、絶対に住みたくないと思っていましたが、
慣れると、窓も開けるし、多少のざらつきは無視できるし、
あまり不自由ではありません。
まったく、住めば都です。
父が亡くなったのは、今から6年前のことです。
母も私も、そして、当の本人である父も、
おそらく100歳は生きるだろうと思っていただけに、
77歳で亡くなるなんて思ってもみないことでした。
膵臓がんで余命数ヶ月と聞いたときにも、
それまで毎月、7年前の大腸がんの定期検診に行きながら、
電話越しに、なんとなく、体の不調を訴えていたにもかかわらず、
毎月通った病院を変えもしなかった、父に怒りすら覚えたほどでした。
セカンドオピニオンを提案しましたが、
父が最優先にしたのは、母の近くにいることと、
毎日、母の顔を見ることでした。
元気なとき、自分の決めたことは決して譲ることのない人だったので、
父がそうしたいなら、それが良いのだろうし、
母もそれが良いということで、近くの大きな市立病院にかかることにしました。
母は、昼食前と夕食前の2回病院に行き、
父と話したり、話さなかったり、喧嘩ももしたりしていたようです。
私はちょうどその頃、種子島に住んでいたので、
余り、会うこともなく、季節は夏から秋になり、初冬を迎える頃になりました。
その頃は、抗がん剤治療も芳しくなく、
とにかく、自宅に戻りたいという父の要望を受けて、自宅で療養していました。
いつもは何も言わない母が、早朝ヒステリックにかけてくる電話のおかげで、
私は初冬の頃、船のキャンセル待ちをしながら、毎週のように実家に帰ることになりました。
母がヒステリックになるのは、思いもしなかった弱い父の姿を見たときで、
朝、トイレに立とうとしてふらついた、とか色々言っていたのですが、
今、全く思い出すことができません。
父とは母が買い物に行っているときに、色々なことを話しました。
私は元気なときの、冷徹なほどに冷静な父を知っているので、
今、自分の死を目の前にして、弱いことを言う父が受け入れられない部分があり、
そのことを尋ねたりもしました。
子どもとはいっても、いい年こいた娘が、
よくそんなこと聞いたな、と今は申し訳ない気持ちがします。
また、父は
「強がってるけど、泣き虫なので、とにかくお願いするよ。
ああ、ぼくが和さんを看取るつもりだったのになぁ。これには、まいった。」と
母のことを私に託していました。
たくさんしゃべると疲れるようで、
しかし、しゃべりたい気持ちもあるし、と複雑な感じで、
「また、あとでね」と言われて私は部屋を出ることでした。
毎週末、といっても亡くなる前の3週間の土日だけでした。
忘れたこともたくさんあるけれど、色々な話をし、
一緒にときを待てて良かったと、今も思っています。
急にこんなことを書いたのは、
知人が今、そうゆうときに立たされているので、私も思い出したからです。
なんの励ましの言葉も見つからないし、慰めの言葉も浮かびません。
ただ、私のほうが亡くした父のことを色々、思い出し、考える時間を持つことになりました。
桜島の向かって左側のほうがちょこっとだけ、目にはいります。
近頃は、写真か絵のような噴煙がもくもくとあがっています。
灰の降る町になんか、絶対に住みたくないと思っていましたが、
慣れると、窓も開けるし、多少のざらつきは無視できるし、
あまり不自由ではありません。
まったく、住めば都です。
父が亡くなったのは、今から6年前のことです。
母も私も、そして、当の本人である父も、
おそらく100歳は生きるだろうと思っていただけに、
77歳で亡くなるなんて思ってもみないことでした。
膵臓がんで余命数ヶ月と聞いたときにも、
それまで毎月、7年前の大腸がんの定期検診に行きながら、
電話越しに、なんとなく、体の不調を訴えていたにもかかわらず、
毎月通った病院を変えもしなかった、父に怒りすら覚えたほどでした。
セカンドオピニオンを提案しましたが、
父が最優先にしたのは、母の近くにいることと、
毎日、母の顔を見ることでした。
元気なとき、自分の決めたことは決して譲ることのない人だったので、
父がそうしたいなら、それが良いのだろうし、
母もそれが良いということで、近くの大きな市立病院にかかることにしました。
母は、昼食前と夕食前の2回病院に行き、
父と話したり、話さなかったり、喧嘩ももしたりしていたようです。
私はちょうどその頃、種子島に住んでいたので、
余り、会うこともなく、季節は夏から秋になり、初冬を迎える頃になりました。
その頃は、抗がん剤治療も芳しくなく、
とにかく、自宅に戻りたいという父の要望を受けて、自宅で療養していました。
いつもは何も言わない母が、早朝ヒステリックにかけてくる電話のおかげで、
私は初冬の頃、船のキャンセル待ちをしながら、毎週のように実家に帰ることになりました。
母がヒステリックになるのは、思いもしなかった弱い父の姿を見たときで、
朝、トイレに立とうとしてふらついた、とか色々言っていたのですが、
今、全く思い出すことができません。
父とは母が買い物に行っているときに、色々なことを話しました。
私は元気なときの、冷徹なほどに冷静な父を知っているので、
今、自分の死を目の前にして、弱いことを言う父が受け入れられない部分があり、
そのことを尋ねたりもしました。
子どもとはいっても、いい年こいた娘が、
よくそんなこと聞いたな、と今は申し訳ない気持ちがします。
また、父は
「強がってるけど、泣き虫なので、とにかくお願いするよ。
ああ、ぼくが和さんを看取るつもりだったのになぁ。これには、まいった。」と
母のことを私に託していました。
たくさんしゃべると疲れるようで、
しかし、しゃべりたい気持ちもあるし、と複雑な感じで、
「また、あとでね」と言われて私は部屋を出ることでした。
毎週末、といっても亡くなる前の3週間の土日だけでした。
忘れたこともたくさんあるけれど、色々な話をし、
一緒にときを待てて良かったと、今も思っています。
急にこんなことを書いたのは、
知人が今、そうゆうときに立たされているので、私も思い出したからです。
なんの励ましの言葉も見つからないし、慰めの言葉も浮かびません。
ただ、私のほうが亡くした父のことを色々、思い出し、考える時間を持つことになりました。