岩城順子さんの講演が1/31(水)に京田辺市において開催されますが、私は先約があり、参加できません。ということで、以下に、岩城さんの講演録を警察庁のHPから転載させていただきました。
岩城 順子(被害者遺族、京都府犯罪被害者支援コーディネーター、社会福祉士)
皆さん、こんにちは。ただいま御紹介いただきました岩城順子(よりこ)です。よろしくお願いいたします。本日は、国民のつどい大分大会にお招きいただきましてありがとうございます。また、私に話をする機会を設けてくださった関係者の皆様、この会場にお集まりの皆様にも感謝いたします。
私は現在、社会福祉士として京都府の犯罪被害者支援コーディネーターとして働いています。また、市役所の生活支援課で、生活保護の初回面接相談員もしています。経済的困難で相談に来られた方の話を詳しく聞いてみると、実は犯罪被害者だったという事例も何件かありました。何年も苦しんでこられたのだろうと想像してしまいます。行政の力を借りなくても自立して生活できていた人が、生活が立ちゆかなくなった要因の一つにも、犯罪被害があるのだと理解していただければと思います。本日は、犯罪被害者遺族としての体験と、京都府が行っている犯罪被害者サポートチームについても紹介させていただきたいと思います。
御存知のように、犯罪被害はごく普通に暮らしていた人に、ある日突然降り掛かり、なってしまいます。決して特別な存在ではありません。誰にもその可能性があるのです。そして、被害者になって初めて、被害者に対しての制度がほとんど何もないということに気付きます。そんな被害者たちが集まって、「被害者にせめて加害者並みの権利を」を合言葉に運動してきた結果、平成16年に犯罪被害者等基本法ができたと思っています。そして少しずつ制度ができ、理解が深まってきたことを大変うれしく思っています。
私どもの事件は、「傷害致死事件」です。事件で怪我を負い、その怪我が元で3年後に息子が亡くなりました。長男の道暁(みちあき)は、死産、流産の後4人目にやっと生まれたかけがえのない子どもでした。平成8年3月24日の夜の9時ごろ、宮崎の大学生だった20歳のとき、パチンコ屋の駐車場で、見知らぬ20歳の男に因縁をつけられ、いきなり殴られて意識を失いました。誰も見ていなかったので、加害者が話さない限り真実は分かりませんでした。
「男に頭部を殴られ、意識不明になったが生きている。」警察からはそのような連絡が入りましたが、最初はけんかだと思われていました。「けんか」という言葉には「お互いさま」というニュアンスがあります。被害者が亡くなった場合は、加害者のみの証言しかありません。平成8年頃は犯罪被害者という言葉が社会に浸透していなかったように感じています。だから、「そのような結果になったのは被害者も悪かったのではないの」と、誰もがそう思っていました。医者も、行政の窓口の職員も、近所の人も、当事者までもがそう思わされていました。
だから、自分が犯罪被害者だと気づくことさえ、随分後になって民事裁判を起こす頃でないと認識ができませんでした。後になって、一方的に暴力を加えられていた通り魔的犯行だと分かったのです。そのときは、人としての尊厳を踏みにじられたような、とても悔しい思いをしました。そのときまで真実を知らなかった自分、息子の自尊心を守れなかった自分を責めてしまいました。
外傷がほとんどなく、CTにも異常が見られませんでしたので、当直の医者は、すぐに全治2週間の診断書を警察に提出しました。でも意識が戻ると、球麻痺と不全麻痺がありました。球麻痺というのは、舌が麻痺してしまい、食べ物をうまく飲み込むことが困難になり、声は出ても発音ができない。それで話すことができなくなっていました。不全麻痺というのは、手足はある程度動くものの、その機能を十分に果たさないという状態です。手が震えて物を掴むのも困難でした。そして、殴られた時の記憶は消えていました。
その頃はまだ周知徹底されていませんでしたので、「第三者加害行為に健康保険は使えません。自分で自転車で転んだことにされたらどうですか。」と病院から言われました。警察の方が何度も足を運んでくださいましたが、事情聴取は中々進みませんでした。でも今になって考えてみると、宮崎の刑事さんが、何としても起訴しなければと熱心に通ってくださったお陰で救われたのではないかと思っています。
そのとき私は養護学校の講師をしていて、夫は単身赴任で滋賀県で働いていました。2人が隔週の交代で金曜日の最終の飛行機で宮崎に行き、日曜の最終で帰ってきて働くという生活になりました。長年障害児教育に携わっていて、障害というものを少しは理解しているつもりでしたが、実際自分の家族が中途障害を受けると、本当は理解していなかったことに気づきました。
何も悪い事をしていないのに隠したくなりました。人に本当のことが言えませんでした。健康な子どもを生んだから、すくすくと成長するものだと信じていました。それが人の暴力によって障害者になってしまい、受け入れられませんでした。被害の程度に関わりなく、大変な苦しみでした。治らなかったらどうしよう。道暁の将来はどうなるのだろう。なんでこんなことになったのだろう。同じことが何度も何度も頭に浮かんできて、夜もほとんど眠れなくなりました。一生懸命看病しましたが、一人になった時は泣いてばかりいました。今まで平和だった家族の幸せが一度に崩れ去って、家族の生活が一変してしまいました。そしてもう二度と同じ幸せは戻ってきませんでした。
事件後すぐには、様々な情報が欲しいと思いました。これからのことをどこに行って相談すればよいのかさえも分かりませんでした。事件後3か月経って、宮崎から京都へ転院するときも、受け入れの病院を必死になって自分で探しました。何度も仕事を休んで、フィルムを持って入院のお願いに回りました。やっと入院できた病院は管理が厳しく、ベッドでお菓子を食べたと言っては職場に電話が掛かってきて、すぐに来るように呼びつけられました。私が、「脳に強く作用する薬をあまり使わないで欲しい」と医者に言うと、「私の言うことが聞けないようなら出て行け」と言われました。「けんか」という言葉が勝手に紹介状に書かれていたからではないかなと思っています。
全治2週間と言われたにもかかわらず、状態が少しずつ悪くなっていきました。症状が固定しないので身体障害者手帳が中々受け取れませんでした。しかも車椅子ももらえていないのに、入院して3か月経ったからと退院を迫られてしまいました。そんなとき、私は学校で倒れてしまいました。息子は自分の看病で仕事を辞めてくれるなと反対しましたが、事件後5か月経ってから退職しました。
腕の力がなく普通の車椅子を動かせないので、電動車椅子を申請したいと思いました。その申請には、身体障害者相談員の方のハンコをもらい、民生委員の方のハンコをもらい、その上、家の周囲の写真も何枚も付けなくてはなりませんでした。やっと申請した後、身体障害者更生相談所のお医者さんは、かろうじて2メートル歩いた姿を見て、「なんや、歩けるやん」と電動車椅子は却下になりました。普通の車椅子を申請しても、出来上がるまでにまた何か月もかかりました。それから後付けの電動車椅子ユニットを自分で買いました。
手が震えて字が書けず、必要だったトーキングエイドも自費で買いました。トーキングエイドというのは、養護学校で言語障害児用に使われている携帯用会話補助装置で、音声ボタンを押すとしゃべってくれる日常の簡単な意思表示器です。意思を伝える道具は意識が覚めた時から必要でした。長い文章のときはワープロが必要で、ワープロも立替払いで買いました。
現在の制度では、身体障害者手帳がなければ一切の福祉措置を受けることができないようになっています。しかも障害の固定があって初めて医師の診断書が書かれて、身体障害者手帳を受け取ることができるのです。今すぐ必要なものが、必要なときにサポートされないのです。手帳が下りるまでは自分たちで買うしかありませんでした。
リハビリセンターの入所を申し込んでいましたが、半年待ちだと言われ自宅で介護していたときがありました。夫は週末しか帰ってこないときで、道暁は自分でトイレにも行けず、食事も全介助の状態なのに、私は風邪を引いて寝込んでしまいました。ヘルパーの派遣をして欲しいとお願いしたら、「中途障害者にはヘルパーの派遣はありません」と断られてしまいました。ヘルパーの制度はありましたが、そのときは高齢者だけしか使えませんでした。
自分の責任でこうなったのではないのに、どうして助けてくれないのか、死ぬしかないのだろうかと落ち込んだこともありました。17年ほど前はそんな制度もなかったのです。近所では人々の好奇な目にさらされました。心配そうに言葉を掛けてくださるのですが、好奇心が見え見えの態度に悩まされました。
道暁は事件の記憶もなく、しゃべることができないのに、とんでもない噂が広がりました。リハビリから帰ってくるところを待ち受けるようにこちらを伺っておられるのです。家の前に、まだ珍しかった訪問看護ステーションの車が止まれば、その車を見に来られていました。落ち込んでいたら、また話の種になってしまう。私は突っ張って生きるしかなくなりました。そして交通事故が原因だと嘘をつきました。そうせざるを得ない状況に追い込まれていってしまったのです。
そんな中、脳幹部の損傷は道暁の状態を少しずつ悪くしていきました。事件以来、加害者に対して恨み言も愚痴も泣き言も一切言わなかったのですが、「死にたい」とワープロに打ったことが一度ありました。「段々筋力が弱ってきている、自分の体は自分で分かる」とワープロに打ちました。
私は、外傷というものは少しずつ良くなるものと信じていました。だから、「21歳の誕生日まで待って。それでも駄目なら一緒に死んであげる」と答えました。誕生日を1週間ほど過ぎた頃、「いつ一緒に死んでくれるの」と打ちました。「ごめんね、お母さんはまだ生きたい」と答えると、道暁はじっと遠くを見つめるように考えていました。そして、それからはそのことについて一度も触れようとはしなくなりました。
私は、このままでは社会から取り残されると感じました。道暁は不自由ながらもパソコンが使えたので、メールのやり取りならできます。同世代の友達が必要だと思いました。それに身体障害者手帳などの申請で福祉課に行ったとき、窓口の若い職員に「私の弟も交通事故で死んだのですが、車椅子の生活になるなら死んで良かったと思うんですよ」と言われたとき、言い返せませんでした。養護学校で働いていたのに反論できない自分が情けなく、「きちんと理論的に説明できるようになりたい、悔しい、賢くなってやる」、そう思いました。
大学を辞めざるをえなかった道暁に、「大学は行きたいと思ったときにはいつでも行ける」と言い続けていたこともあって、私が大学に行って福祉のことを知ろう、友だちをいっぱい作って、道暁を理解してもらおうと決心しました。だから編入ではなく、18歳の受験生と一緒に試験を受けました。
大学の入学が決まってしばらくすると、発作を起こしてさらに容態が悪くなり、入院してしまいました。大学は諦めようかと思ったのですが、そのときの主治医の先生が、「長くなると思うから、お母さんの夢を叶えて下さい。私が責任を持って診ます」と仰ってくださいました。夫も、「お前のしたいようにしなさい」と言ってくれました。
ところが、「お子さんがあんなになってはるのに、能天気に大学なんかに行ってどういうつもり?」という人がいました。友人にさえ、「ずっと看病しなくていいの。後で後悔するんじゃないの?」と言われました。看護師さんには「もっと純粋に看病されたらどうですか。大学でいろいろ勉強してはるみたいやけど」と、一日中付き添って看病される他のお母さんと比較して非難されたこともありました。
けれどもそのときの心の中は、先の見えないトンネルに入ったような不安や、いつまで続くか分からない焦りを抱えていました。介護だけの生活をしている者が精神的に追い詰められたとき、虐待を犯したり、希望を失って死を選ぶのではないかなと感じました。実際、養護学校でもそのようなことがありました。私が大学を選んだのは、精神的なバランスを崩さないための選択でした。距離を取ることで自分にゆとりを持ち、明るい顔で介護ができたと思うのです。人の心がどれだけ傷ついているかということは外から見えませんし、人によっても違います。他人は見えたところでしか判断しないように思いました。
刑事裁判は、屈辱的なものでした。事件後10か月経って、宮崎から検事さんや事務官の方など3人が家に来られました。回復の見込みがない道暁の状態を見ておられるのに、略式起訴で刑事裁判は知らない間に終わっていました。判決は罰金30万円。加害者に問い合わせて初めて分かるという始末でした。
刑事記録を取り寄せてみると、ただ目が合っただけで、道暁の顔が気に入らなかったからキレた。そして何もしていない道暁の顔を力いっぱい殴った。というようなことが書かれていました。人が突然暴力を振るうと思っていない息子は、構えることもなく、首が捻じれて、脳幹部に損傷を受けたのです。加害者は病院にはほとんど来なかったのに、週5日はお見舞いに通っているなどと嘘の証言がありました。
道暁が生きていたからこそ、自分の罪を認めています。これがすぐに亡くなっていたら、どんな証言になっていたか分かりません。しかも診断書は全治2週間のままでした。あまりにも実態と離れた判決が下されています。当事者である私たちは、終わってからでないと事件の内容を知ることができなかったのです。私たちが裁判で異議を申し立てる場も与えられず判決が下される制度には、納得できませんでした。
私は猛然と腹が立ってきました。全くこちらに非が無かったのに、この扱いは何なのだと。道暁が亡くなった後、検事に電話を掛けています。「致死にいたっても、あの量刑で妥当だったと思われていますか」と質問しました。「お気の毒だと思いますが、どうしようもありません」との返答でした。大学を出たら働いて税金を納める人間の前途を塞いだ加害者に対して、どうしてもっと国は怒ってくれないのかと感じました。検事さんにとっては山のようにある事案の1つだったのでしょうが、私たちにはそれが全てでした。
事件後2年経って起こした民事裁判も、相手は仕事を辞め、賠償の支払いはできないというものでしたが、「争わない」という返事がけんかではなかったことを証明してくれました。父親は教育委員会に勤めていました。有名な会社に勤める母親もいましたが、「息子は20歳だから親に責任は無い」と言われました。自分たちに全く責任がないというのです。また腹が立ちました。たった4か月経っただけで、子育ての責任が無くなるのかと。ほとんど加害者には直接連絡はしたことがなかったのですが、どんどん弱って行く道暁の様子を見ていてたまりかねて、電話を掛けました。「もし道暁が亡くなったら、あなたの家の前で、できるだけむごたらしく死んでやる」。それが私にできる仕返しだと思いました。
2年半経った秋の頃から、容態はさらに悪化していきました。肺炎がひどくなり、自発呼吸に無理がでてきたため、人工呼吸器を付けました。40度から42度の高熱が続いて、血液検査の結果も思わしくなくなりました。荒い息と腫れ上がった顔を見ると、早く何とかしてくださいと叫びたくなるのを必死でこらえながら、見ているしかありませんでした。
私は道暁が好きだった女の子に電話を掛けて、会ってやって欲しいと連絡しました。次の日、道暁の手を握って呼びかけてくれると、道暁の目が彼女の方へ移動し、本当に長い時間目をそらさず見つめていました。そして呼吸が落ち着いていき、しばらくすると、体温も平熱に戻っていきました。機械に生かされているような状態が痛々しく、本人もそれを望んでいるのだろうか、本人のために良いことなのだろうかと悩んでいましたが、生きることと闘っているのだと知りました。
治ると思っていたのが治らない。できていたことができなくなっていき、少しずつ少しずつ、そのときどきの道暁を受け入れるよう教えられていきました。親にとって子どもは生きているだけで満足できる存在なのだと思えるようになっていきました。道暁の体一つ一つの細胞が生きようとする限り、身体に何本のチューブが付こうとも、医学の力を借りて最後の最後まで生かしきってやると思いました。若い細胞は生きようとする力に溢れていました。けれどもその一方で、人に平等に訪れる死をどのように受け入れるか、身を持って、時間をかけて私に教えてくれているようにも感じました。亡くなるまで大学と看病に精一杯がんばったつもりでした。
けれども、道暁は事件後3年、23歳の誕生日を目前に亡くなってしまいました。お葬式のときは涙も出ませんでした。まるで映画の撮影をしているような感じでした。いろいろな人にてきぱきとセットを組まれ、ちょこんと座っている私がいて、お別れに来てくださっている人に頭を下げている自分は分かるのですが、どこからか監督が出てきて「はい、カット!」と声が掛かるのではないかと思っていました。
全エネルギーを使い切った放心状態で抜け殻のようになっていたのです。何も考えられなくなって感覚が麻痺していました。何の支えもなくなった感じで、このままいなくなってしまいたいと考えていました。私は間違ったことをしたのだろうかと悩みました。外に出れば、みんな噂をしているのではないかと思いました。自分が楽しく生きては申し訳ない。そんな気になって自分を責めていました。
学校に通っている間だけはなんとか外出ができるのですが、休みになるとカーテンも開けず、お風呂にも入る気がしませんでした。勤めから帰ってくる夫のために夕食だけを用意するのが精一杯という生活でした。あんなにいろいろなものに腹を立て、見るもの聞くものに腹を立て、周りを焼き尽くすほどのエネルギーを人に向けていたのに、このまま消えてしまいたいと考えていました。そんなとき、クラスメイトが声を掛けてくれました。「よりちゃん、今度は僕らがよりちゃんの子どもやで」。その言葉でようやく生きる力が出てきたのです。
私たち家族は、事件の後、互いの心のつらさを言葉にして話し合ったことはありません。道暁には2歳年下の妹のリョウコがいます。事件はリョウコの大学入学式の1週間前に起こりました。私は春休みが終わるまで宮崎にいて、京都に帰ってきてふと気が付きました。入学式が終わってしまっている。私は何の用意もしてやることができず、その声掛けさえも忘れていたのです。申し訳ないと思いました。
リョウコは、「大丈夫、ジーパンでも平気、大学生ってそんなもんよ」と答えました。最近の若い子の感覚はそうなんだと素直に納得してしまいしたが、2年後、同じ大学の入学式に出席した私はそうではなかったことを知りました。新しい門出と新たな希望でみんな着飾っていました。毎日道暁の看病にかかりきりの状態で、ほとんど一人暮らしをさせているようなものでした。
「ごめんね、リョウコちゃんの面倒はお金でしか見てあげられない」と言うと、「大学の近くに下宿させて欲しい」と言い、19歳の時から家を出ることになりました。中学、高校時代には職場の学校行事が重なり、一度も見に行ってやることのできなかった文化祭で、友だちとバンドを組んで弾けている姿を、同じ学生として応援することができました。学部は違いましたが、教科の履修や就職情報など互いによく理解できました。
その後システムエンジニアとして働いているのですが、しばらく経ってからこんな話をしてくれました。入社面接のとき、「尊敬する人は誰ですか」と聞かれ、母だと答えたそうです。「自分の子どもを亡くしても泣いているばかりでなく、大学へ行き、さらにその経験を活かすために大学院で学んでいるからです」と答えてくれました。
私はそんな娘の心遣いや、黙って見守ってくれる夫に支えられてきたのだと思います。また、道暁が入院していたとき、病院のそばに住んでいた友人が、「家に帰って一人でご飯を食べるより、私の家で夕食を食べてから帰りなさい」と度々誘ってくれました。そんな友人にも助けられてきました。
私が誰に支えられ、元気を取り戻してきたかを考えたとき、確かに一部の近所の方の行動や言葉に傷つきました。でもそんな方ばかりではありませんでした。入院中の洗濯など、日常生活を援助してもらえたことも助かりました。事件前から知り合いだった親しい友人、大学に通って一緒に学んだ年の離れた同級生、同じような事件の被害者、事件後に出会って私を理解しようとしてくれた人達でした。分かってもらえた、理解してもらえた。こう感じさせてもらえた人に、一番救われたような気がします。
事件当初は、息子は元通りになるのだろうか、これからどうしたら良いのか、頭が混乱し、なんでこんなことになったのか、状況も将来の見通しも見えないまま、生活の変更だけを迫られていました。自ずと、とげとげしい態度や攻撃的な言葉を使っていたと思います。友人に「火炎放射器を背負っているみたい」と言われたことがありました。
福祉の窓口では、「制度がない」という言葉が壁になり、勿論犯罪被害者に対しての制度もそうですが、障害手帳が届くまでは障害福祉の制度も利用できません。何の援助もないと言われたときはショックでした。困って、助けて欲しいと相談しているのに、頭からぴしゃりと否定されるとこちらの立つ瀬も無いのです。けれども、何度も窓口に行く必要があります。
そんな中、じっくり話を聴いてくださる方が出てこられました。大変な状況を理解し、「何もできないけれど」と言いながらも、息子を心配してくださる気持ちが伝わってきました。医療器具を付けたままではリハビリセンターには戻れないと分かると、社会的入院ができるように病院の手配もしてくださいました。次につながる安心感は何ものにも代えがたいものでした。
まだ民間の支援団体が立ち上がったばかりで、組織自体が模索している状態の時期でしたので、公的な組織の援助はなく、身近な人たちが支えになりました。あちこちで頭を打ち、自分自身もがきながら、いろんなものから情報を得て、長い時間を掛けて手探りで這い上がってきたという感じです。親しくしていた人でも、事件によって、ものの考え方、価値観の違いがあらわになりました。だから、人とのつながりをもう一度構築し直さなければなりませんでした。
犯罪被害による突然の死は、人による犯罪行為が原因で暴力的な要素を持ち、暴力の対象として命を落とすということです。老死や病死と違って、何の予告もなしに突然愛する我が子や身内を失うことは、安らかな死を与えられなかったこととして決して認めることができないのです。なぜ死ななければならなかったのかという意味が納得できなければ、受け入れられないのです。遺族はこの問いを何回も何百回も繰り返しているのです。
いなくなったという事実は頭では理解できても、感情面で納得ができないのです。だから不信感を伴った怒りや、とげとげしい態度を取ってしまいます。「がんばりや」、「元気になりや」とよく言われます。けれどもこれ以上、誰に対して、何に対してがんばればよいのか分からなくなりました。それから、「思ったより元気やん」と言われたこともありました。「大変やったね、どう?」と話し掛けられても、返す言葉が無いのです。
こちらは何も話したくない時期に、なぜそうなったかを知りたい近所の人や知り合いに質問される苦痛。「それで、どうなった」とか、「加害者はどうした」とか、言いたくないことまで聞かれてしまうのが嫌で、人を避けてしまうようになったのです。本当に気の毒に思って声を掛けてくださっているのか、興味本位が先に立って聞いておられるのか、区別がつかないのです。
関わりを持たれていない方は、「気の毒に思うけれど、時間が経てば段々楽になるのではないか」と思われるようです。だから、最初は誰でも気の毒に思って心配りをしてくれますが、何年か経つと、「もう終わったことなのにいつまでそんなことを考えているの」という言葉に変わります。「つらいことは早く忘れた方がいい」そう仰る方もありますが、むしろ忘れたくないのです。こんな大事なことを、なかったことにしたくないのです。そう思っているのです。
こういう場所で傷ついた言葉の話をすると、二次被害を与えてはと委縮されてしまいます。それで、それなら何も言わない方が良いという発想になります。見ず知らずの方なら、それで良いかもしれませんが、関係者として出会う必要があるのなら知って欲しいのです。出会った方のにこやかな笑顔の挨拶で救われる人がいます。黙って寄り添ってくださる方がおられるだけで安心できます。無関心ではないからです。一人ぼっちではないと感じるのです。
言葉遣いが少々ぎこちなくても、気に掛けてくださっていれば気持ちは十分通じると思います。言葉の持つ力は大きいのですが、それ以上に気持ちが優先するのではないかと考えています。十分な配慮をすることは勿論必要ですが、接する時は身構えないでくださいねとお願いしたいです。なぜなら、人間関係で傷ついた心は人間関係でしか取り戻せないのも事実だからです。
次に、サポートチームの件についてです。京都府では平成18年に改定された条例の中の「犯罪被害者等の支援の充実」を運用するために、平成20年1月30日、「京都府犯罪被害者サポートチーム」が発足しました。国、府、市町村や警察等の公的機関や被害者支援を行う民間の機関や団体を含めた、総合的な支援のためのネットワークシステムです。
安心・安全まちづくり推進課に事務局が置かれています。警察の犯罪被害者支援室から1名、犯罪被害者支援コーディネーターが3名と、被害者相談専用電話が設置されています。コーディネーターは臨床心理士2名、社会福祉士1名の構成になっています。それぞれの専門性はありますが、私たちは常にチームとしての活動に心掛けています。
だから、当事者である被害者遺族の私がチームの中で安心して活動ができるのだと思っています。事務局で受けた相談内容に応じて「面接や助言、支援機関への付添いなど、専門知識を活かしてスムーズに橋渡しをすること」、「講演活動などを通じて、府民に広く被害者支援の重要性を訴える啓発活動を行うこと」、「各市町村の担当者研修の企画、実施を行うこと」などの役割を担っています。3年前から京都府警察と一緒に、中学生・高校生を対象とした「いのちを考える教室」の実施にも取り組んでいます。
私たちが一番最初に取り組んだのは「顔の見える関係作り」でした。私たちの方から市町村へ出向いて行き、担当者とお会いして直接お話をするとともに、市町村の空気を感じ取ることから始めました。活動を始めてみると、市町村の方の中には、犯罪被害者に対しての支援は今までどおり警察が中心になってやれば良いのではないかと思っている方がいらっしゃいました。
また、民間の被害者支援センターがあるのに、どうしてまた行政が取り組むのだと疑問を持たれる方もいました。また、度々「私は被害者に会ったことがありませんので」という声も耳にしました。市町村が被害者支援をするとなると、「仕事が増えるのではないか」、「財政難なのに」、「条例や人手が無いのに」、また、「被害者のことをよく知らないのに」など、様々な不安や憶測が先に立つかもしれません。けれども、事件はごく身近な所で毎日のように起こっています。
でも日常生活を送る上で、たくさんの困り事が出てきます。その問題を解決するには、やはり府や市町村が持っている制度を利用するしかないのです。でも被害者のための制度も窓口もない機関に、自分が被害者だと告げて相談に行くことは非常に勇気のいることです。母子や高齢者、障害を持つ人など、日常の生活に制度を必要とする人はたくさんおられますが、犯罪被害に遭ったがために生じる問題がたくさん出てきます。
当事者がどんな混乱状態にあっても、生活を送る上で確実に処理をしていかなければならない問題。経済的な事、子どもの世話、高齢者介護などの課題の上に、重なって出てくるのです。警察による事件直後の時期の支援は、あくまでも緊急的措置でしかないのを知っています。やはり生活に関する問題は息長く、府や県、市町村が関わるべきであると考えています。そして犯罪被害に特化した制度があれば、制度が無いと断ることはなく、助けることができるのです。実際、10年も前に起こった事件でも、遺族にとってそれはもう終わった話ではなく、今も継続しています。そしてそのことが生活に支障をきたし、日常生活を困難にさせている例をたくさん聞きます。
私たちがこの5年で学んだことは、被害者支援は被害者に関心を持つことから始まるということでした。逆にそれは、無関心こそが最も怖いのだということです。サポートチームとしての活動の意味と、被害者遺族の私がずっと望み言い続けていた、正しく理解して欲しいという思いが一致したのです。
なぜ正しく理解して欲しいかと言えば、被害者の思いは一律ではなく、「かわいそうな人、気の毒な人」で終わらせてほしくないという思いです。何が必要なのか、不自由に感じている部分は何か、一緒に考えて欲しい、知って欲しいという思いです。それが各自治体の窓口で機能すれば、被害者支援と被害者の自立につながっていくからです。
被害者支援の本質は、被害者が本来の力を取り戻すための支援であることだと思っています。被害者支援の窓口は、確かに新しい制度を運用するものですが、行政の担当者の方は、今まで色々な市民の困り事の相談に乗ってこられた経験が豊富にあります。その経験を被害者にも向けていただいて、相談に乗っていただけると有り難いと思っています。
京都府で一番最初に被害者に特化した条例ができたのは、平成21年4月1日施行の久御山町でした。人口1万6000人ほどの小さな町です。宇治市や城陽市などと一緒に活動されている宇治署管轄の保護司さんたちの声からでした。加害者の更生のためには、被害者の立場の人の生の声を聞きたい、現場の声が聞きたいと勉強会が開かれました。その中から、被害者には経済や教育など多岐にわたる問題が含まれていること、そしてそれは行政に担当窓口が無いと進まないことを公にしてくださったのです。現在では、26市町村のうち22市町村が犯罪被害に特化した条例を作っています。
被害者にとって、自分たちの住む町に被害者のための条例ができることは大変有り難いのですが、制度ができただけでは十分ではありません。様々な制度を必要とするため、いろいろな課のネットワークを何より必要とします。京都府でも、市町村の犯罪被害者担当窓口は、総務部や保健福祉部、人権環境部など多岐にわたっています。府庁内での連携もまた大切だと感じています。
一人ひとりが傍観者ではなく、関心を持ち、理解を深めることが安心で安全な街作りになると考えています。今後はできた条例がきちんと生かされるように、府と市町村の連携や、他の機関との連携がさらに必要だと思っています。また、それをベースとして、市町村間でのサービス格差や住民の不公平感をなくすことも大切だと考えています。今は身近に犯罪被害者の方がおられなくても、被害者の人の気持ちはこんなになるのだと理解していただけたらと思います。そして関心を持っていただくことが有り難いのです。
被害者や遺族が被害から回復するとき、司法や社会が壁になるのではなく、支える社会であって欲しいと願っています。これからもどうぞ、犯罪被害者の問題に関心を寄せていただきますよう、お願い申し上げます。貴重なお時間をいただき、本当にありがとうございました。