流浪の月
凪良 ゆう(著) 東京創元社(発行)
あなたと共にいることを、世界中の誰もが反対し、批判するはずだ。わたしを心配するからこそ、誰もがわたしの話に耳を傾けないだろう。それでも文、わたしはあなたのそばにいたい―。再会すべきではなかったかもしれない男女がもう一度出会ったとき、運命は周囲の人を巻き込みながら疾走を始める。新しい人間関係への旅立ちを描き、実力派作家が遺憾なく本領を発揮した、息をのむ傑作小説。(「BOOK」データベースより)
久しぶりに胸をぎゅっと締め付けられるような作品に出会いました。個人的に、ある物事に対する考え方というか評価は、それぞれが違っていて、全て同じ方向を向いて是非を決めつけるなんてできないと思っているので、この小説に書かれている「事実は真実とは違う」というテーマに強く反応してしまいます。
家内更紗の両親は世間的にはちょっと変わっていました。自分の気持ちに正直に生きるお母さんはいつも楽しそうです。そして二人を最高に愛してくれる優しいお父さんとの毎日が更紗は大好きで、ずっとこの幸せが続くのだと思っていたのですが、ある日突然彼女の世界は喪われてしまいます。お父さんが病気で亡くなると、お母さんはお父さんの代わりを求め、何人目かの恋人と出て行ったきり帰って来ませんでした。
9歳(小学四年生)になった更紗は伯母に引き取られます。厄介者と自覚する更紗は、家でも学校でも「普通の子」を演じますが、どんどん気持ちが追い詰められていきます。学校帰りに友達と遊ぶ公園には、いつも若い男の人がベンチに座って女の子たちを見ていました。「ロリコン」だから気を付けろと友達は言いますが、家に帰りたくない更紗は友達と別れたあとでまた公園に戻ってきて男の人と向かい合わせのベンチで暗くなるまで過ごしていました。
ある日、急に雨が降ってきましたが、どうしても帰りたくない思いでいっぱいになっていた更紗に、男の人が声をかけてきます。「帰りたくない」「うちにくる?」「いく」の会話の後で更紗は男性について行きました。
更紗が家に帰りたくない本当の理由は、この時点ではっきりと示されません。でも彼女が絶望の淵にいることは伝わってきます。
彼は、佐伯文という19歳の大学生で、育児書をバイブルとする母親に”正しく”育てられたので、その生活は教科書のように「正しい」ものでした。更紗の「夕食にアイスクリームが食べたい」とか「布団に寝転んで宅配ピザを食べながら『トゥルー・ロマンス』を観る」といった要求にも嫌な顔をしないで応えてくれました。目玉焼きにケチャップをかけたことのない文が、更紗に勧められて一口食べた時の描写だけでも彼の人柄が感じられます。
ちゃんとしていない自分を受け入れてくれる文との毎日は更紗にとって両親と暮らしていた楽しい日々が戻ってきたような安らかな気持ちにさせました。二か月の間、更紗は文の部屋で楽しく過ごしますが、パンダが見たいという願いを聞いて動物園に行ったその日に終わりを迎えます。
当然、更紗の失踪はニュースとなっていて、二人とも気付いていましたが、そこは10歳の子供ですから、外出して人目に触れることの危険なんて考えてもいません。でも文は何故?という疑問も生じます。そしてその理由は後半部で明かされるのです。
文が誘拐犯として逮捕された時、更紗は必死に文は悪くないと訴えますが、周囲は勝手に「物語」を作り出し、被害者と加害者というレッテルを二人は貼られてしまいます。ここで、文が伯母の家に戻りたくない理由が判明しますが、子供心にも隠しておきたい秘密だったのです。叔母の家に戻った夜、遂に更紗は行動に出ます。その結果児童養護施設に預けられることになるんですね。
15年後。24歳になった更紗は施設を出て働き、恋人の中瀬亮と同棲しています。家族に紹介したいと言われ動揺する更紗。
事件のことを知っていて、可哀そうだから守ってあげたいと思っている亮に、彼のことは好きだけど、「変質者に監禁された可哀相な女の子」という世間の認識通りの彼との結婚という未来図を描けずに困惑する更紗。そんな時、バイト仲間と入ったカフェ『calico』で更紗は文と再会します。
ずっと会いたかった文。でも彼は更紗に全く気付いていないように振舞っています。それ以来、更紗は亮に残業だと偽って『calico』に通うようになります。ある夜、女性を伴って閉店後のカフェを出てきた文を見て、更紗は思わず「わたしを覚えてる?」と声をかけます。しかし文は客としての当たり障りのない返事をします。そんな更紗の様子に疑いを持った亮が、カフェにやってきたり彼女のシフトを探ろうとしたり頻繁にメールを送ってくるようになります。バイト先で待ち伏せされて押し問答の最中に、亮の祖母が倒れたと連絡が入って、懇願されて一緒に彼の実家に行った更紗。すっかり結婚が決まったかのような反応に困惑する更紗に、彼女の腕の痣を見た彼の従妹の泉が、亮にはDV癖があり、前カノが怪我をして病院に担ぎ込まれた過去と、父親のDVが原因で両親が離婚していることを教えます。この時点で亮とは無理!と思ってしまいますが、更紗は逆なのね。
亮と生きて行こうと決めた更紗はカフェに行くことを止めます。でも文のことが気になりネット検索は続けます。すると「家内更紗ちゃん誘拐」の情報が更新されて『calico』の外観と文の写真が載せられていることに気付きます。思わず文のマンションの前に立った更紗は、あの夜、文と一緒にいた谷さんに見つかりストーカー扱いされて「今度見かけたら警察に通報する」と言われます。
職場の同僚の安西さんの8才の娘を預かることになった更紗は、亮と一緒に梨花ちゃんを預かります。(安西さんはシングルマザーで、更紗と同じく同僚たちから浮いた存在ですが、妙に気が合う唯一の「友達」です。)ところが、数日後、更新された例のサイトに載った写真に写っていた梨花ちゃんが履いていたサンダルを見た更紗が亮を問い詰めると、彼から激しい暴力を受けます。逃げ出した更紗の足は『calico』へ向かっていました。
店の前で佇んでいた更紗を文は中に入れてくれます。文は更紗のことをちゃんと気付いていました。亮と別れる決心をした更紗は、安西さんから教えてもらった「夜逃げ屋」を使って家を出ます。引っ越し先は何と文の隣の部屋 谷さんに見つからないよう外出の際には変装していた更紗ですが、文には引っ越し初日にバレていたようです。そりゃそうだ!!
当然、亮も気付いてマンションで待ち伏せされ、再び暴力を受け警察沙汰になります。DV男の常として、暴力を振るったあとは「二度としない」と謝り反省するのよね~~でもその約束はまた必ず破られる。病気ですから!!
梨花ちゃんと再び預かることになった更紗は、ホットプレートを借りたのをきっかけに、3人で食事をしたり、梨花ちゃんが熱を出した時には文が面倒を見てくれます。そんな時、マンションの入り口で谷さんと遭遇し、警察に連れて行かれます。しかし文が更紗のことを了承していると知ると、谷さんは誤解を認めて更紗に謝罪します。
約束の日にちが過ぎても安西さんは帰ってきません。正社員の話が出ていた更紗でしたが、ある日、本社の人から『いまだ終わらない家内更紗ちゃん誘拐事件』と題された週刊誌の記事を見せられます。そこには現在の文と更紗の様子が写真入りで載っていました。翌週には亮が話したとわかる続報が出て、更紗はバイトを辞めることになります。話し合うため亮に会った更紗でしたが、揉み合った際に彼が階段から落ちてしまいます。更紗に突き落とされたと亮が言ったため、更紗だけでなく文や梨花ちゃんも事情聴取されることになります。警察は文に梨花ちゃんの面倒を見させたことを責め、前と同じく文を庇う更紗の話を全く聞こうとしません。
「全国被害者支援ネットワーク」のパンフレットを手渡された更紗は「私にわいせつ行為をしていたのは文ではなく、私が預けられていた伯母の家の息子です。文はあの家から私を救い出してくれたたったひとりの人でした。」と言います。
文の過去を知った谷さんは、受け容れられないと彼から去っていきます。文人ずっと一緒にいたいと訴える更紗に、文は自分のことを語り始めます。
良妻賢母を絵にかいたような母に育てられ、優秀な兄を持つ文は、思春期になっても二次性徴のない自分の身体に悩むようになります。
”正しい”方法で”正しい”育児をする母に普通でないことを打ち明けることができず、大学生になって家から出ても、仲間たちについていけず一人で過ごす彼は、成熟した女性に恐怖を感じるようになり、自分はロリコンだと思い込もうとしますが、それもうまくいきませんでした。
目玉焼きにケチャップをかけ、お腹がいっぱいになると片付けもせずに寝転がり、夕食前にアイスを食べ、宅配ピザを食べながら残酷なシーンのある映画を楽しむ・・・恐ろしいくらいに自由な更紗の振る舞いが、文の心を解き放っていきます。
やがて訪れた運命の日。逮捕され、身体検査で予想していた通りの病名を告げられ医療少年院に送られた文は、やっと治療を受けますが手遅れだったようです。刑を終えると用意された自宅の離れで引き籠り状態で暮らしていましたが、母が倒れ兄家族の同居が決まると、幼い娘のいる兄嫁が嫌がったため、生前贈与されて家を追い出されます。
ある意味、自由になった文は、ネットで更紗の情報を見つけて、彼女の住む地でカフェ『calico=更紗の意』を開きます。(初めからカフェの名前に文の思いが込められていることにここでやっと気づいた)自分が彼女の人生を狂わせたと思う文は、ただ同じ場所で生きているだけで満足していたのでした。
彼の告白を聞いた文は、自分は文に恋をしていないしキスや抱き合うことも望まないけれど、彼と一緒にいたいのだとはっきり悟り、それを文に宣言します。
冒頭のファミレスでの会話は、文と更紗、梨花のものでした。事件の動画を見て騒いでいる高校生たちは世間一般の受け止め方の見本みたい。理解してもらえなくても真実は三人だけが知っている。このことのもどかしさと切なさと愛しさがこみあげてくる結びです。
ネット時代の今、過去はどこまでも二人を追いかけてきます。そこにいられなくなったら新しい土地に行くだけという、いっそ潔い二人の生き方は逃げにも見えますが、世間に真っ向から立ち向かい理解してもらうことの難しさを知り尽くしたものの強さとも受け取れました。
安西さんが年に一度梨花と会うことを許してくれるのは細かいことは気にしない性格だからと描かれますが、この物語に登場する「母」たちは、一人として「普通」ではありません。自分の理想に邁進しレールから外れることを許さない文の母、重い荷物は手放し顧みない更紗の母、恋人と過ごすために娘を何日も他人に預けて平気な梨花の母・・・三人の抱えてきた「孤独」故に、彼らは強く結びついたともいえるのかな?
19歳の文の選択は間違っていたけれど、文と出会わなかったら更紗は幸せだったかというとそれも違う。「被害者」と「加害者」として出会った「事実」と互いを必要とし合っている「真実」。「今の場所にいられなくなったら今度はどこに行きたい?」と聞く更紗に「どこにでもついていくよ」と答える文の姿が重なります。世間からどう思われようと、今の二人は穏やかで幸せな暮らしをしているのですから。