1971年
僕は9歳頃
テレビやラジオから
聞こえてくる歌謡曲なる
流行歌の
変化に気がついた年でもあった。
それまでの流行歌、
歌謡曲のイメージは大人の歌
演歌、浪曲、民謡に近い
しっとりとまた、歌の発声に
独特のものがあって
子供には馴染みがない
まだ敷居の高いものだった。
1970年に流行った
三波春夫さんの
【世界の国からこんにちは】も
どちらかといえば
演歌、浪曲ぽい
いわゆる
POPじゃなかった。
しかし
あけて1971年
流行歌の世界に新たなる
風が巻き起こった。
子供だった僕でも
このPOPな感じの歌は
今までと違う!
なんだか心の底に光がさして
涼しい風を届けてくれたような
一変に周りを明るく照らして
しまったような
そんな歌たちが
怒涛の如く
雪崩れ込んできたのだ
1971年
3月5日発売
尾崎紀世彦
【また逢う日まで】
作詞 阿久悠 作曲 筒美京平
5月10日発売
堺正章
【さらば恋人】
作詞 北山修 作曲 筒美京平
5月25日発売
平山みき
【真夏の出来事】
作詞 橋本淳 作曲 筒美京平
6月1日発売
南沙織
【17才】
作詞 有馬三恵子 作曲 筒美京平
とヒットチャートに筒美京平さんの
名が次々と躍り出た
この歌たちをラジオや、テレビから
耳にする機会が増えて
70年代が明けて素晴らしい時代の
予感を感じた
まだ詩の内容も理解できない
子供ながらも
曲調の変化に
悲しい内容の別れの歌でも
軽やかな雰囲気に
すり替えられ
洋楽っぽい曲調が
馴染みのなかった
敷居の高かった
歌謡曲が
ワクワク、楽しめる
歌に心ときめかせる
そんな時代が来たことを
子供ながら思ったのだ
1971年の衝撃は
流行歌の世界から
稀代の作曲家
筒美京平ワールドが席巻した
その筒美京平さんにして
ライバル視し、大変な作曲家の
登場に戦々恐々したのが
【吉田拓郎】さんだった
その吉田拓郎さんも
筒美京平さんは凄いとお互いが
お互いを、リスペクト、ライバル視
をどこかにしていた
そんな時代が始まりを告げたのも
先行して
歌謡曲の世界を守り導いていってた
筒美京平さん
そして
1971年は吉田拓郎さんが
エレックレコードから
発売されたアルバム
【人間なんて】に
大ヒット曲
[結婚しようよ]を収録していた
発売は翌年CBSソニーに移籍して
のシングルとなった
ヒットも1972年ではあるが
吉田拓郎という
筒美京平さんを揺るがす
存在が
産声をあげた瞬間が
1971年だった
その2年後には
森進一さんへ
【襟裳岬】を提供
そして3年後1974年にレコード大賞を受賞するという
歌謡界への
進出が始まり
75年以降
ニューミュージック側の
攻め込む形の第一人者として
存在を際立たせ
そして
守る側の筒美京平さんも
変わりなくさらに鉄壁の
職業作曲家としての地位と
作り出す作品のレベルに
ゆるぎなさを持っていた。
そんな両者を語るエピソードが
こちら
一足先に単身歌謡界に乗り込んで
内側から
壊しにかかった
松本隆さんの存在も大きかった
松本隆
吉田拓郎
というフォーク、
ニューミュージック、
ロックの名の付く
アーティストによる
歌謡界への進出は
新しい風どころか
地殻変動さえ起こして
しまった。
この二人が歌謡界に風穴を開けたと思う
曲で吉田拓郎さんが
詩の世界で松本隆さんが…
襟裳岬は当時拓郎さんの作品に寄り添ってた岡本おさみさんであったが
演歌の森進一さんに
当時フォークブームでの
頂点にいた吉田拓郎さんの
作品が提供された
その事自体
地殻変動が起きた
しかしながら
筒美京平さんも
ひと足先に
歌謡曲と呼ばれ戦後の
流行歌市場に
洋楽のテイストを入れた
ポピュラーミュージックという
スパイスをふんだんに香らせた
本格的な職業作曲家の最初の一人ではなかっただろうか
時代が進み
成熟を重ねる音楽市場も新たな
風が度ごとに吹き
さらにまた違う魅力をつけ合わせて
いった。
その分岐点
1971年の衝撃
あの怒涛のヒット曲ラッシュ
筒美京平躍進
と
吉田拓郎の産声
1971年の衝撃❗️